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「苦難を喜ぶ新しい人間」

「苦難を喜ぶ新しい人間」
2006年1月15日

テキスト ローマの信徒への手紙 5章1節~5節
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

昨年末から、伝道者委員会は、2005年度を振り返り、自分たちの歩みを点検し、評価し、そして新しい2006年度のビジョン、事業計画について議論を重ねております。先週の祈祷会では、皆様にも、委員会で話し合われた一定の教会の方針について、報告し、祈りを捧げました。本日もまた、委員会を開催し、会員総会に提出する資料を確定する予定であります。私どもは、今、新年度の教会の新しい歩みについて祈りを一つに集めております。
そのような中で、今朝の第3節と第4節を中心に、御言葉を学ぶことができますことにすでに、聖霊の豊かなお導きがあることを信じております。

第5章1節で、「神との間に平和を得ている。」とありました。もはや、これだけで、後は何もいらないといってもかまわないほどの福音の恵み、驚くべき喜びの知らせです。これを受け、これを獲得することができたら、後は何を獲得すべきなのか、ほとんど、何を獲得してみても、この神との間の平和に比べられることなどありえないほどのものです。さらに、2節で、「神の栄光にあずかる希望を与えられている、神の本質、神の性質にあずかり、御子主イエス・キリストに似た者とされるという約束を受け、喜びにあふれている」と申します。まことに、目もくらむような、祝福された立場に、キリストのおかげで導きいれられ、立っている、それがパウロ、いへ、キリスト者であれば一人の例外もない現実の姿なのです。

ところが今朝は、3節は、「そればかりでなく」と始まります。これは、畳み掛けてくる言葉です。「1節、2節だけでもすでにものすごいのに、しかし、もっとすごい恵みがあるのだ。この恵み、この驚きは留まるところを知らないほどのものなのだ」まるで福音の力、神の力に躍動し、勝利を叫び続ける喜びにあふれたパウロの思いがあふれています。「これで終わらない。まだまだあるぞ」と言うわけです。「幸せすぎて怖くなる」という言葉があります。いくつもいくつも幸せが続く、人生の幸せをすべて使い切ってしまって、あとは、不幸だけが一気に押し寄せるのではないかと言う不安の気持ちを表す言葉です。そうであれば、ここでパウロが示した福音の真理に基づけば、キリスト者こそ、幸せすぎる人間でありましょう。そうであれば、「幸せすぎて怖くなる」のでしょうか。いや、キリスト者には、この幸せのサイクルがまるで、「雪だるま」のように、転がせば転がるほど大きくなってゆくのだと言いたいのです。

さて、それなら、私どもには、さらに何が追いかけてくるのでしょうか。パウロは言います。それは、苦難であると。ある人には、肩透かしを食らわせられてしまったということになるかもしれません。「話が違うでしょう」ということです。平和、希望という明るい世界が、さらに大きくなって、今度は何が迫ってくるのかと期待すれば、艱難、苦難。だから、期待はずれになるのです。言うまでもなく、苦難とは、人間ができる限り避けて通りたいことがらだからです。つまり、「希望や平和を与えられた人、つまり、神に救われた人は、苦難、艱難から救いだされることではないか、それなのに、苦難がある、苦難が待ち受けているかのような書き方をされるなら、人を騙すようなことではないか」そのような戸惑い、反発が、ある人には、生じてしまうかもしれません。これは、よく分かることです。

確かに、キリスト教のなかでも、まるで聖書の教えをご利益宗教のように、神さまを信じたら、こんなにすばらしいことが待っている。もはや、苦しみや悩みから解放され、いつでもニコニコ喜べる。いつも、明るく過ごしてゆけるなどと、まったく聖書には根拠のないことを、語るところもあるようです。そのような教会では、悩んだり、苦しんだり、考え続けて行くことではなく、信じたら何でもうまく行く、信じたらすべて神様に委ねて、この世の問題だとか、この世の一時的なものに首を突っ込まずに、教会の生活を楽しんでいればよい、うまくゆかないのは、信仰が足らないからだ、と申します。しかし、パウロは、信じたら、苦難や艱難がなくなるなどとは、一言も言わないのです。苦難とは、圧迫。押しつぶすという意味です。体が押しつぶされたら、大変です。心が押しつぶされることも、大変です。我々は、毎日、プレッシャーを受けているわけですから、何とかして、プレッシャーから離れ、それを遠ざけるために、苦労したり、お金を使ったりします。

しかし、よく考えてみますと、これは肩透かしではないと思います。平和も希望も、ここで今生きている生身の自分の課題にどのように関わるのかが問われます。今、この場で経験している圧迫、苦難に対して、信仰によって与えられる平和、希望がどのような力を発揮するのか、そこに、実は、平和も希望も、それが本物か偽者かが暴露される、リトマス試験紙のような、ふるいにかけられる規準になるのではないでしょうか。

苦難を誇りとする、喜びとする。確かにこれは、異常なことです。信仰なしには、まさに理解できません。だからこそ、私どもは今朝、苦難を喜ぶ、この信仰の奥義、秘訣をきちんと自分のものとしたいと思います。いったいどうしたら、苦難を喜べるのでしょうか。

先ほど、怖くなるような祝福、幸せと申しました。その怖くなるような祝福が、ますます、確かなものとされる道、筋道があるというわけです。それが、苦難に他ならないのです。考えてみますと、使徒パウロほど、誇りというものに一種異様なまでに、こだわる使徒、キリスト者も少ないのかもしれません。実に、コリントの信徒への手紙Ⅱの第10章から12章まで、一貫して誇りの問題を取り上げて、キリストの福音を明らかにして見せています。そのなかでも、一読して忘れがたいのは、使徒パウロが受けた迫害です。少し長くなりますが、読んでみます。

「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」

 パウロはつまりここで、自分がどれほど、苦難を受けたのか、それを誇っているわけです。誇りとは、喜びという言葉とまったく同じ言葉だと先週も学びました。パウロは、そこで、泣き言を言ったのではなく、それを喜んだのです。

 私は、説教のなかで、ほとんど自分のことを語ってまいりませんでした。これは一方で正しいことですが、他方で、反省しつつあることでもあります。少々、忍耐して聞いていただければ幸いでございます。ご存知の通り、私は、開拓伝道に従事してまいりました。しかも、牧師になって、すべて開拓伝道なのです。最初の赴任地は、会堂もなにもありません。どうして、スーパーマーケットの二階を日曜日だけ借りて礼拝するというような、小さな集会、整った組織もない、団体もない小さな群れに、何故、赴任したのか。それは、ただそこに求道者が、救いを求めている人々がいること、牧師を求めているキリスト者がいるということ、それだけでした。若いといえば、その通りです。将来のことを見通して慎重にする人なら、わたしの決断は、まさに若気だと、笑われるかもしれません。その後、会堂建築をいたしました。

そして、数年後、その教会を辞して、この教会の単立、独立の開拓伝道に従事しました。3年目に入ろうとする春、洗礼入会式を目前にして、顔面麻痺をわずらいました。これは、まさに牧師としての職務の危機をすら意味する病です。一つには、声の問題がありました。「パピプペポ」と発音できないのです。ここにおられる方は、想像もできないかもしれませんが、パピプペポと濁音を発することができることは、それだけでも、実は、すばらしい神の恵みなのです。どなたかと一緒に食事をすることも大変、困難です。上手に、食事ができないのです。何よりも、初対面の方には、大きな躓きとなることは容易に想像できます。しかし、あの時期、入院しながらも、体は、悪くありませんから、日曜日と祈祷会は、抜け出して、説教し続けました。入院中も、説教準備はあるわけです。当時、説教を変わってくれる方はそばにはおりませんでした。実は、今でも、麻痺が完治したわけではありません。自分に折り合いをつけながら、過ごしているのです。いったい日本で、特に、自給開拓伝道するということは、命までも飲み込んでしまうような、大きな苦難を、避けて通ることはできないと思います。神が、もう一度、自給開拓伝道をしなさいと、召しだしてくださるとき、今でも、すぐに決断できるかどうか、自信はありません。

しかし、私自身、苦難を受けたことを誇りにするということが、少しは分かるようになったと思うのです。それは、聖書の世界に近づけたということを意味します。古から、言い伝えられてまいりましたことですが、説教者、牧師は、聖書の御言葉を、学問として、言語として理解するということではなくして、命の言葉として分かるためには、苦難が必要、試練が必要であるということです。

つまり、苦難が誇り、喜びとなるのは、神との平和、希望がいよいよ、現実化するからであります。逆に申しまして、それなしに受ける苦難が、正しい忍耐を生じることにはならないのです。苦難を受けても、もしもそれによって、聖書の世界が深く、広く開けることがなければ、それは、苦難を誇る、喜びとするということはできないと思います。しかし苦難が、神の栄光にあずかる希望に直結するとき、キリスト者の受ける苦難は、単なる圧迫ではなくなるのです。誇り、喜びとなるのです。

苦難が誇りとなり、忍耐を生じ、練達を生み出し、さらに希望を生むというすばらしい展開になるには、唯一つのことが問われます。そこで、キリストとどのように関わるのかという一点です。私たちの主イエス・キリストと自分自身とが、苦難によって深くつなげられる、だから、そこに私どもの誇りがあるのです。

あるキリスト者は、ご自分が肉体の強さを誇り、若さを誇っていたときに、体操の授業中に、からだのほとんどの機能を奪われました。しかし、その方は、実に、この苦しみを通して、主イエス・キリストにお会いすることができたのです。そして今では、多くの人々に、自分が唇で描き出した絵筆を通して、励ましを送り、神を讃える生涯に入れられたのです。星野富広さんです。多くの方が、群馬県に立てられた星野さんの美術館を訪ねられるそうです。苦難をキリストとの接続の絆、チャンネル、パイプとするとき、そこに勝利が与えられ、喜びがわくのです。主イエス・キリストに一つに結ばれて、神の平和を受け、神の栄光にあずかる喜びを誇ることが出きる者とされるのです。だからこそ、それをもたらした苦難が誇り、喜びとなるわけです。

そして、パウロは、このようにも断言しております。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」もしも教会や、説教者がこれを忘れてしまったり、ごまかしてしまったり、取り上げないのは、問題でありましょう。その意味で、もしも、キリスト者が、教会のために労苦することをどのようにしたら避けて通れるか、どのように労苦をしないですませられるかなどということに心捉えられるなら、その人は、救いの道を歩んでいるのかどうか、点検しなければならないほどであると思います。何をどのように御言葉を聞いても、おそらく、それは、ぴんとがずれ、理解できないはずです。逆に、そのような人に理解される説教であれば、説教そのものをまず、点検しなければならないはずです。

さらに、練達という言葉に注目したい。わたしは、この日本の中で、ますますこのような言葉が死後になってきてしまっているのではないかと、恐れの思いを持ちます。熟練という言葉もあります。一つのことに精通し、その一つのことに専心して、鍛え上げられるという意味です。もともとの聖書の言葉の意味するところは、試験されるということです。試されるということです。その人が本物かどうかを試すのです。試金石。金の細工物をつくるとき、純金といわるように、金の含有率がかぎりなく100パーセントに近いように、テストします。それが、練達の言葉のイメージです。つまり、それは、純粋さのテストなのです。熟練という言葉のイメージは、良いかと思いますが、しかし、老練という言葉のニュアンスは、また異なります。政治家に「老練な」と修飾語つけるならそれは、ほめられたイメージよりは、何か、汚い、あるいは、ずる賢いというようなイメージを持つのは、わたしだけでしょうか。しかし、ここで、忍耐は練達を生むということは、まったくその反対です。忍耐している人は、まるで幼子のようになって行くということです。この意味での幼子とは、純粋という意味です。幼子は、いつも、親を探します。親の目から離れたくないのです。抱っこしていても、親の気配を感じ取れなくなると、泣き出します。不安になります。いつでも、親を求めているのでしょう。そのような純粋さ、つまり、私どもで申しますと、いつも、父なる神、主イエス・キリストを気配を求めているということです。神が共にいて下さること、神の面前で生きること、そこに、自分の生きがいを、自分の存在を置いているのです。だから、この神に喜ばれることが、その人の生き方を決定します。それが、練達を生むということです。人生に練達して、どんな悲しみも、苦しみにも動揺せずに、超然としていられるということではないのです。無感動になるということではないのです。むしろ、こう言ってもよいでしょう。小さなことにも感動する。心を動かす、真に悲しみ、真に喜ぶことができる人です。

私どもは、この感動する心を失ってはならないでしょう。キリスト者として、恵みに感動する、小さな恵みに、そしてここでパウロが雄叫びを上げているような恵みの中の恵みに対して、神の平和を受けていることに対する、感動は、私どもの生活を規定するのです。この恵みへの感動が、苦難を誇りとさせ、忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出すのです。そして、この練達、純粋さによって、また元に戻るようにして、希望を確かなものとするのです。どんどん、どんどん、増幅する、恵みが尻すぼみになって行くのではなく、生き生きとする、命の活動になるのです。命は、常に、新しくなることです。生命は、人間も、死んだら硬直するのです。しかし、生きている間は、どんなに年齢を重ねていても、柔らかい。暖かいのです。このキリストの恵みは、まさに人間を生かす。新しくさせる。増幅させるのです。そこに、キリスト者の強さがあります。命があります。

先日、教会のある仲間が、「自分は、この箇所を何度も涙して読みました」と仰いました。おそらく、その方にとって、そのとき、苦難の出口が見えず、どんどん、事態が悪くなってしまう、聖書にあるように、苦難が忍耐を生み出し、練達を生み出すようになるという約束がなかなか、自分の確信にならないからではなかったか、とも思うのです。暗いトンネルのなかで、出口が見えない。これは、厳しいことです。皆様の家庭生活でも、社会生活でも、キリスト者でなければ、どんなに楽だろうと思う瞬間は、ないわけではありません。キリストを知らなかった昔のように、自分の感情の思うままに、爆発させて、すっきりしてしまいたい。そのような思いに捕らえられてしまう罪の心を知らないわけではないはずです。苦難が苦しいのは、自分が喜べない、自分を喜ばすことができないからです。しかし、もしも、苦難のただ中で、神を見ることができればどうなのでしょうか。神が、苦難の只中で、ともにいてくださり、私どもを忍耐強い者と鍛えてくださり、訓練してくださり、ご自身へと向かわせ、純粋にしてくださる、練達した者と整えて下さる御心を知るなら、私どももまた苦難を誇りとし、喜ぶことができるのではないでしょうか。神は、その方が流された涙を見ておられるということは決して疑うことはできません。

 キリストにある苦難を喜ぶ態度は、何も使徒パウロの専売特許ではありません。使徒言行録の最初の教会への迫害の記録が、第5章に記されております。聖霊の降臨によって、エルサレムに誕生した教会は、ただちにエルサレムで伝道を始めました。最初の教会は、伝道した教会です。伝道と教会とは、わけること、どちらが先なのかなどという議論は、無意味です。エルサレムの教会は、キリストの福音を証して産み落とされたわけです。その伝道した教会は、即座に、エルサレムの支配者、祭司、律法学者たち最高法院の圧迫を受けました。「あの名によって語ってはならない」と圧迫したのです。ところが、彼らは主イエスの御名を呼び続け、語り続けたのです。そして、最高法院は、彼らを捕らえて、鞭打ちの刑に処しました。ここで、いわば、暴力的な圧迫、迫害を受けたのです。しかし、彼らは、この迫害、この苦難に対してどのように受け止めたのでしょうか。使徒言行録は報告します。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」ここに、苦難を喜ぶ、誇りとする使徒たちの姿が鮮明にされています。
 
今週、韓国から大学生たちが25名、教会を訪ねてくれます。彼らが属する教会は、キリスト教長老会高神派です。この教会は、今年の中部中会信徒研修会のメインスピーカーとなる、朱基徹牧師の御子息の長老です。この朱長老は、高神派です。つまり、韓国の中でも、もっとも偶像礼拝と戦った教会をルーツに持つ教会なのです。そして、そこで決して忘れてならないことは、私どもの教会とは、旧日本基督教会の伝統を継承している教会です。つまり、この韓国教会を、迫害した大日本帝国の手先を意味します。それが、日本キリスト改革派教会の一つのルーツなのです。これが、日本の教会の計り知れない神への罪、韓国の特にキリスト者への犯罪なのです。しかし、何故、韓国のキリスト者たちが、あの迫害、神社参拝を強要され、それは、宗教ではないから、それをしなければ、日本のキリスト教が国家からむしろ迫害されることになる。だから、韓国のキリスト者たちを神社参拝させることによって、日本の教会は、国家から受けるべき苦難を回避したのです。どこに違いがあったのか。今、それに触れる暇はありません。しかし、私どもの教会が、今週、韓国の大学生を迎えるとき、そのことを無視して、あるいは、私どもが理解せず、あるいは忘れることは許されていません。
 
 わたしは昨年、今年の信徒研修会に先立って、大垣の教会で行われた、朱基徹先生のご子息の証を伺いました。それは、苦難を誇りとする使徒の信仰を生きているキリスト者、聖書に生きているキリスト者の姿でした。苦難は、忍耐を生みました。そして、純粋なキリスト者、神に喜ばれることを第一にするキリスト者、神の栄光を第一に求めるキリスト者として育てられました。そして、ますます、神の栄光にあずかる希望を身近にする殉教者となっていた、まさに、この御言葉の実例を見る思いであります。

 それなら、私どもは、いかがでしょうか。私どもにも、すでに苦難はありましょう。主イエスを信じれば、苦しみも悲しみもなくなります、などとは、私どもの教会は決して申しません。しかし、驚くべきことがあるのです。この苦難を誇りとする、決して、圧迫に押しつぶされない人間が誕生させられるのです。
 そのために、私どもは、今の恵みに立ち続けます。この神との平和、救いの恵みのなかにしっかりと立ち続けます。すでに、私どもは勝利者です。どうぞ、実生活でも、この勝利を体験してまいりましょう。時間が必要でしょう。忍耐が必要でしょう。涙を流しながら、聖書を読まなければならないときが、なおあるかもしれません。しかし、どれほどの圧迫、苦難があっても、その苦難のおかげて、主イエス・キリストと深く結び合わせられるなら、それこそ、私どもの光栄は、幸いはありません。逆に、どれほど、この世で、成功者と言われ、勝ち組ともてはやされ、お金も地位も、豊かになったとしても、それで、主イエス・キリストから離れてゆくなら、まさに、そのようなものが、何になるのでしょうか。

 大学生たちの中から、わたしはおそらく牧師や伝道者になる人が起こされると思います。私自身が、大学4年生の夏、つまり就職活動のとき、山形県の教会にキャラバン伝道に参加しました。それが、やがて牧師としての召命を問うことに繋がっていったのです。
 「わたしは主婦です、わたしは今何々です。だから、外国に出かけて、伝道を支援することはできません。」確かにその通りでしょう。しかし、このような集会に出席して、彼らと交わることもまた、小さな奉仕ではないでしょうか。そして、今の私どもができる支援とは、何かを考え、教会として取り組むことができれば、それは、すでに実にすばらしい教会のディアコニアになると思います。
 おそらく、そこでも私どもはとても小さな苦難を味あわせていただけると思います。そうすると、練達の道み開かれます。自分の生活を、主に喜ばれるように、整えるための道につながります。キリスト者らしい生活が自ずと整えられて行くのです。そこに、奉仕に生きるキリスト者の祝福の道があるのです。奉仕表を提出する今日です。新しい年度も、主とその教会のために、私どもが労苦する特権に生きるなら、私どもの練達の道も主が整えてくださいます。私どもは、今年、個人としてではなく、教会として、この苦難を誇りにする道を尋ねもとめたいのです。それが、今年度の、新しい、教会のビジョンなのです。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、私どもに、この御言葉を与えて下さいましたことを心から感謝申し上げます。苦難にへこたれない信仰の力、あなたの力を先輩たち、そして、わずかでありますが、事実、私どもも今ここで味わい始めております。どうぞ、この恵みの立場にしっかり立って、個人として、教会として、希望を誇り、苦難を誇り、負うべき十字架を大胆に担って歩ませて下さいませ。