「神の愛が注がれているから」
2006年1月22日
テキスト ローマの信徒への手紙 5章1節~5節④
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
今年の冬は、日本海側を中心に大雪が降り積もって、多くの死者も出ました。雨なら良いのでしょうが、雪、しかも大量の雪となるとそれは、住んでいる方々にとっては死活問題になることを、今年、あらためて教えられたように思います。しかし、雨が天から注ぐという言葉のイメージは、わたしには良いイメージが先立ちます。乾いた大地に雨が降り注ぐ、そしてそこに青々とした草原が広がってゆく。畑地に豊かな雨が降り注いで、豊かな実りを結ぶ。恵みの雨という言葉もあります。そのような雨が注がれることは、生きている者にとってまさに命の水でしょう。
私どもは、ローマの信徒への手紙第5章1節~5節までを学んで本日で、第4回目、最後になります。本日は、その第5節、「神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」この御言葉を中心に学びます。
来週は、いよいよ会員総会を開催いたします。本日、皆様に年報をお渡しいたします。この年報をこのように整えるために、一月余りを要しました。伝道所委員を中心にして、昨日は、4時間以上かけて、印刷、製本いたしました。その意味でも、来週の総会準備のため、この年報を会員の皆さんが熟読されることを、くどいほどですが、お願いいたします。伝道所委員会は、これは、最近にないことでありますが、今年の主題聖句として、テモテの手紙Ⅱ第2章1節~7節までを掲げることと致しました。これは、すでに、1月の朝と夕べの祈祷会で、皆様と丁寧に、学びました。伝道所委員たちも委員会前の礼拝でも委員として、ここから何を学ぶべきかについて確認しました。さらに、先週、韓国の大学生たちが24名、この教会を訪ねてくれました。その集会の折にも、ほんの短いひと時でしたが、あらためてこの御言葉を学んだわけです。すでに多くの皆様は、この御言葉に親しみを覚え始めていると思います。さらに、来週の説教は、このテキストから語ることに致しております。
韓国から日本の伝道を支援したい、日本の教会を見てみたいと、自分たちのアルバイトのお金と教会の皆さんの献金とによって彼らは日本に来ました。すばらしいことであると思います。日本の学生もまた、逆に、韓国に行く機会が与えられたらすばらしいと思いますが、そのような計画が中部中会にもあるようです。わたしは、そこで、テモテの手紙Ⅱ第2章3節の御言葉を、彼らに語りました。パウロがこのように若きテモテに呼びかけ、命じたのです。「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい」実は、この短い手紙のなかに、一度だけではなく、この呼びかけは実は三度も記されているのです。第1章8節「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んで下さい。」結びの言葉のなかでも第4章5節「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」パウロは、若き伝道者、同労者に、「苦しみ、苦難を忍耐しなさい」と繰り返し呼びかけ、命じ、励ましているのです。
なぜなら、パウロにとって、キリストにある者であれば、キリストにあって生きているものであれば、必ず、神との平和にもとづく栄光の希望、その祝福と共に必ず、苦難もくっついてくるものだと理解しているからです。
わたしは大学生の兄弟姉妹に、このパウロの呼びかけは、実は、パウロからの呼びかけだけではないと申しました。むしろ、主イエス・キリスト御自身から、パウロを通して、「わたしと共に苦しみを耐え忍びなさい。」と招かれているのだと申しました。だから、わたしはこの主イエスのお招きを感謝している、誇らしい思いで聴いている。あなたがたはどうですかと、挑戦いたしました。皆さんは、この主イエスからの招きを受けて、それを感謝しているかと尋ね、わたしはこれを光栄にしていると申しました。皆様は、いかがでしょうか。
主イエスは、私どもに、主のために、福音の宣教のために、奉仕してほしい、働いてほしい、それは、わたしの苦しみを共に担うことだと、仰せられるのです。恐れ多くも、このわたしが主から、呼び出されているのです。他の誰でもない、あなたにわたしの苦難を背負い、苦しみに耐えなさい、忍びなさいと招かれているのです。これは、実に、深い、求愛でなくてなんでしょうか。まさにプロポーズの言葉です。それは、確かに、「君を幸せにする」というプロポーズとは異質のものであります。しかし、実にしばしば、幸せにしないで、結婚の誓約を軽んじることが起こります。しかし、主イエスは、私どもに、「あなたに、わたしの苦しみを一緒に忍んでほしい」と求愛してくださるのです。それは、まるで、伝道者が妻になる人に求愛するようなものでしょう。パウロとテモテは、同労者ですが、しかし、この手紙を書き送ったパウロにとって、わが子と呼ぶにふさわしい間柄ですが、同時に、本当に信頼しあい、尊敬しあい、また愛し合っている関係があるからこそ、このような招きが可能だったのだと思います。そしてそれは、私どもと神との関係においてこそ、当てはまるものなのです。神こそが、キリスト者とされた私ども、神の子とされた私どもにこのように喜ばしい招きを与えていて下さるのです。そして、それを私どもは喜びとする。誇りとすることができるのは、私どもに決定的な祝福、平和と神の栄光にあずかる希望が与えられているからです。
先週は、それを雪だるまでたとえました。希望が転がって苦難をくっつけて、苦難は忍耐をくっつけて、忍耐は練達をくっつける。このようにしてまた希望をもたらす。一巡してひとまわり大きくなりましたが、もとに戻るその希望は、最初の希望より、もっとしたたかで、もっと強く、もっと深い希望を生み出しているはずです。キリスト者は、真実に信仰の年輪を重ねれば、必ず、若いときよりさらに優れた信仰の恵み、平和の立場のなかにしっかりと立つことができます。これは、明らか過ぎるほどの事実なのです。人間は、そうはまいりません。人格は、年を重ねれば自動的豊かなものとなるという保証は、まったくありません。むしろ、災いや苦しみを経験し、曲がってしまうことは少なくないと思います。それに比べて、どうでしょうか。キリスト者は違うのです。信仰によって、生きて行けば、必ず、雪だるまです。大きくなる。成長する。練達を生じるのです。先週は、練達とは幼子の純粋さに相当するものだと申しました。ますます、神を求め、神に注目し、神に期待を掛けてゆく人になるのです。実に、この霊的な事実を経験させていただくために、神は、私どもにこの一年も、地上に命を与え、生活を、信仰生活を育んでくださるのです。そのために、私どもも、主が与えて下さる訓練をしっかりと受けたいのです。
私どもは、神の子であります。肉の親であっても、真実な親であれば、ただ甘やかしてはおりません。このパウロの手紙を読みながら、どうしても思い起こさざるを得ないのは、ヘブライ人への手紙の第12章であります。5節以下を読みます。「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。
神の子とされた私どもで、もしも、自分は苦難を受けていない、主のために艱難を受けたことがないというのであれば、事は、深刻です。ヘブライ人の手紙の著者は、「もし誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたは、私生児であって、実子ではない」と言うのです。私どもにとっては、おそろしいことです。ですから、この著者は、鍛錬と考えて忍耐しなさい、呼びかけるのです。パウロは、ここで、神の栄光にあずかる希望を誇りとすると叫びました。ヘブライ人の手紙では、霊の父はわたしたちの益となるように、利益となるように、祝福となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるというのです。二人は、まったく同じメッセージを語っていると言ってもよいと思います。
パウロは、この苦難が忍耐を生むといいます。これは、本当のことではないでしょうか。忍耐している人は、苦難を受けている人です。味わっている人です。しかし、キリスト者は、その苦難のなかでなお、それを誇りとし、それを喜びとして生きることがなお可能なのだと言うのです。なぜなら、苦難は、霊の父からうける鍛錬であり、神の父としての愛から発出する、ほとばしり出るものだからです。
さて、この朝は、ついにこの箇所の最後になります。最後まで触れなかったのは、第5節です。実は、ローマの信徒への手紙、新共同訳聖書のなかでは、ここで始めて「聖霊」という言葉が出てまいります。満を持してパウロはここで用いたのだろうと思います。私どもの信じ告白する神は、父と子と聖霊にていましたもう一人の神、三位一体の神、三一の神です。これまで、父なる神そして、御子なる神主イエス・キリストについて集中的に学んだのです。しかし、それらの学びが本当に、分かるのは、身につくのは、信じられるのは、何故なのでしょうか。それが、聖霊なる神の現実的なお働き、力なのです。私どもにとって、父なる神、御子なる神主イエス・キリストは、天の上に座しておられるお方です。天の上におられるのですから、はるかに離れています。見ることも、触ることも、声を聴くこともできません。五感を研ぎ澄まそうが、あるいは第六感とか、霊感とか、何をどのように修行してみても、なにをどのように精神を高揚させ、あるいは、麻痺させたとしても、真の神に近づき、真の神を感じることなどできません。そのようなことができる神は、もともと、人間の作り出した偶像にしか過ぎません。それゆえに、まったく実体がなく、不確かで、いつも揺れ動いてばかりいます。
しかし創造者なる真の神は、私どもに、聖霊によって御自身の愛を注いで下さるのです。この聖霊の注ぎを受けて初めて、私どもは、神を信じることができるのです。自分自身が、信仰によってどれほどすばらしい立場に立たされているのかが、分かるのです。神の恵みの大きさが、ありがたさが身にしみて分かるのです。そしてそれは、同時に、初めて、自分の罪についても目が開かれて理解できるようになるのです。そのようにして霊の眼が開かれるとき、そこに神がどれほどの愛をもって、自分を神の子としてくださったのか、今もなお、この愛の中で自分が生かされているのかがよく分かるのです。この愛が分かるから、私どもは神の栄光に預かる希望を誇り、苦難を誇り、忍耐し、練達の恵みにあずかり、ますます希望に生きるように、祝福が雪だるまのように大きくなり、信仰に立って生きることができるようにされてゆくのです。
この聖霊の注ぎが、神の愛の注ぎに他なりません。そして、この愛が注がれるということは、感覚とか、気分とか、雰囲気のような不確かなものとはまったく無縁です。神の愛が聖霊によって注がれるのです。それは、聖霊なる神ご自身が私どもに分け与えられるということです。実に神が、私どもに宿られるのです。
私どもは、愛ということを、どのように考えているでしょうか。我々は、神の愛という事柄を、説明するとき、しばしば人間の愛になぞらえて説明することがあります。しばしば説教者もそのように致します。聖書自身も、そのような方法を用いているようにも思えます。たとえば、有名な主イエスの放蕩息子のたとえ話などは、父親の子どもへの愛を語りながら、父なる神の人間との関係、関わりについて、主イエスがお教えくださったのです。しかし、それは、常にたとえであって、そのものではないのです。神の愛を父の子への愛、母親の子への愛、夫婦の間の愛にたとえることは不可能ではありません。しかし、もしもそこで、神の愛を、そのような人間の愛よりもっと大きく、深く、広く、豊かなものという次元で考えるなら、まったくその愛の本質をわきまえないことになってしまうと思います。私どもも、誰かに愛を注ぐということを経験します。人間でも、動物でもかまいません。まさに、注ぐという表現です。傾注するのです。傾けるのです。先日、机の上においている100円ショップで買い求めた観葉植物をあやうく枯らしてしまうところでした。一週間、余裕がなかったのでしょう。水をやることを忘れていたのです。かれてしまった葉っぱを取り除いて、水とともに栄養アンプルを注ぎました。
植物に愛情を注いでも、動物に愛情を注いでも、人間に、心から愛する相手に愛を注いでも、私どもは、自分自身をそこに注ぐなどということはできません。自分自身を相手に与えてしまうことはできません。自分の命すら与えても惜しくない、なんとしても生きていてほしいと病の床にいるわが子に望んでも、本当に自分の命を与えることはかないません。ところが、本当におどろくべきことです。まさに「ところが」なのです。神は、それがおできになるし、それをなさったのです。
ヨハネの手紙Ⅰ第4章には、神の愛について集中した論述が出てまいります。その13節にこうあります。「神はわたしたちに、ご自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」この御言葉は何を伝えるのでしょうか。それは、神の愛が注がれるとは、他ならない神ご自身を、神が神を私どもに注ぎ込み、つまり分け与えるというあり方で、私どもの内にとどまってくださるというのです。それは、わたしたちが神のうちにとどまることを意味し、同時に、神がわたしたちのうちにとどまってくださるということでもあります。私どもの存在が、もはや、神と離れることはできない関係となっているということです。それが、与えられている平和のまことの意味ですし、事実なのです。だからこそ、この希望は失望に終わらないし、この希望は決して私どもを欺かないのです。この神の霊によって神の愛が注がれているという事態は、この宇宙のなかで、まさに奇跡。まさに揺るぎなき確かさをもって保障されるものなのです。使徒ヨハネは、この私どもの現実をこう表現しました。「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」まことに目もくらむような祝福のありがたさです。キリスト者とは、この世でイエスさまのように生きているというのです。イエスさまは、神の御子です。神の霊、聖霊とともに、聖霊を天から注がれて、神の愛に満たされ、あふれて生きられたお方です。神の子として、アバ父よと神をお呼びしながら、生活されたお方です。ヨハネは、キリスト者とは、イエスさまを生かした聖霊が自分たちにも同じように注がれているので、自分たちもイエスさまのように地上を生きれるのだ、生きているのだと主張するのです。これは一人使徒ヨハネの神秘的な経験を意味しているのではないのです。わたしたちのことなのです。
わたしはここに、キリスト者も「しぶとさ」があると思います。「しぶとい」というのは消極的なニュアンスから申しますと、強情ということでよくないのですが、ねばりづよいという意味です。相撲で、土俵際に押しやられ、立たされているとき、すぐに諦めてしまう力士もいます。しかしそこで、じつにねばる力士もいるのです。その窮地にあってもしぶとく逆転を狙うことを考えて粘っている力士は、ときに大きな感動を与えてくれます。キリスト者とは、まさに、しぶとい人間ではないでしょうか。それは、強情なのではありません。神の愛が注がれていることを、どんな苦しみの中でも疑えないからです。この愛は、父なる神がその独り子をお与えになるほど世を愛された、それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためであるという愛です。主イエスはわたしたちのために命を捨てて下さったのです。ここに愛があるのです。ここに神の愛が歴史的な事実としてあり、この愛は、今も、私どもに向かって継続する愛に他ならないのです。だから、私どもは、苦難を受けてへこたれないのです。へこたれないのは、そこに神の愛を疑うことができないからです。
もとより、神から与えられる苦難は、どんなにすばらしいものであるかは、多くの場合、分かりません。多くの人にとっては、当座は喜ばしいとは思えないものです。御言葉自身がそう申します。ヘブライ人の手紙第12章11節「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」ヘブライ人は、ここでまるでパウロの言葉をそっくりそのまま映し出したかのように、語っています。苦難、試練、圧迫は、受けている最中は、すぐには、喜べないのは、事実でしょう。悲しみに沈むことも現実には起こるのです。お互いによく知っている現実に他なりません。しかし、そこで、聖書を読む、説教を聴く、そして祈る、聖餐にあずかる、その時には、苦難を忍耐する力が神によって、聖霊によって与えられるのです。そして、それによって、鍛錬され、練達させらえるのです。磨き上げられ、不純物を取り除かれ、まっすぐに神を見上げ、神を求め、神に助けを求めるようになるのです。すると、練達は希望を生みだすのです。そのようにしていよいよ、神の祝福、平和と義、義という平和に満ちた結実を実らせていただけるのです。そして、パウロはそれは、聖霊によって注がれる神の愛のおかげなのだと言うのです。
カルバンは、ここでの神の愛の注ぎを、上等のソースと表現しました。これはとても楽しいイメージです。16世紀のソースは、どのようなものなのか、どのような料理を彼は楽しんだのか分かりませんが、それでも、我々も、トンカツとか揚げ物を頂くとき、既製品のソースを注ぎます。少し上等のソースをかければ、さらにおいしくなるというのは、よく分かります。また、ソースなしに食べるのは、それがとてもおいしいものなら、かまいませんが、しかし、それでも、ソースをつけないで食べるのは味気ないものです。カルバンは、艱難、苦難、悲しみに、聖霊によって注がれる神の愛によってそれが喜ばしきもの、愛すべきものとして味わわせられると言うのです。
最後に、このことを確認したいと思います。ここでパウロは、「わたし」ではなく、「わたしたち」と申します。それは、もとより、ここにいるキリスト者としてのわたしたちということを意味しているはずです。しかし、このわたしたちとは、今教会にいる私どものことだけに限定するものなのでしょうか。
主イエスは、マタイによる福音書の中で仰せになっておられます。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正し い者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」うっかりすると、私どもは、自分を善人の立場、ただしい者の立場に立ってこの御言葉を読んでしまいやすいのではないでしょうか。そのようにして、神の恵みのすばらしさにいよいよ鈍感になってしまうのです。私どもは、もともと、悪人であり、正しくない者のはずです。罪を犯し、悔い改めてはなお、罪を犯してしまうまことに弱い、罪人であります。何度決心しても、聖書の通読ができない。祈りと聖書に親しむ生活の崩れに悩むのです。教会に献身して生きるより、この世の楽しさ、この世の価値観にも気を取られて、中途半端なキリスト者、神の御前に見苦しい生き方をしてしまう者ではないでしょうか。そのような者にも関わらず、天には太陽を昇らせてくださり、私どもを照らし、生かして下さいます。天から雨を降り注いで潤し、生かして下さいます。そこに、神の罪人を愛するこの上ない愛があるのです。この愛を私どもにも注がれているのです。そうであれば、今なお、主イエスを知らないままに過ごしている大勢の日本人にも、神の愛は注がれているはずであります。それを伝えるのが、教会です。赦された罪人であるキリスト者なのです。
韓国の大学生たちが、一つの賛美を歌ってくれました。「君は愛されるために生まれた」という歌です。今、韓国の教会でよく歌われているようです。そればかりか、日本でも、日本人の歌手のCDが販売されています。「君は愛されるために生まれた」という題です。先週の韓国の大学生は、「君は愛されるために生まれた人」と歌っていました。これは、今の日本の青少年たちにどれほど必要なメッセージであるかと思います。彼らは、まさに、神の愛の注ぎを経験したのです。だから、日本の多くの人々がこの神の愛を知るようにと、そのために、何とか役に立ちたいとの思いをもって、日本に来たのです。聖霊にの注ぎを受けたとき、神の愛は、まるで堰を切った水のようにどっと注ぎだされ、押し寄せてまいります。これは、神の愛の確信が聖霊によってもたらされたということで終わらないのです。聖霊の注ぎは、神の愛の現実そのもの、神そのものなのです。だから、この愛によって望みも揺るぎないし、希望の担保、保証が与えられるのです。
君は愛されるために生まれた人、この歌は、しかし、神の愛の片方の面だけを歌っています。私どもは、この愛の注ぎを受けて、今や、神を愛し、隣人を愛する人になる、なっているのです。彼らもまた、自分が愛されるために生まれたのだと言って、愛されることにこだわっているのではないのです。そこから立ち上がって、愛する人へと解き放たれるのです。私どもも、同じです。神の愛が注がれているから、苦難を誇り、忍耐の限りを尽くし、練達された働き人、奉仕者になることを求めるのです。主イエスの苦しみを担う、十字架を担って歩き始めるのです。それが、できるのです。聖霊によって神の愛があふれるほど、罪人、悪人、正しくない私どもにも注がれているからです。
祈祷
悪人であり、正しくない私どもに、あなた御自身にほかならない聖霊を注いで、愛の交わりのうちに入れて下さる父なる御神、御子イエス・キリストよ、心から感謝申し上げます。苦難と試練にへこたれやすい私どもです。あなたを見上げないからです。あなたではなく、苦しみそのものを見つめているからです。どうぞ、私どもに天を、あなたを仰がせて下さい。そして、私どもがどれほど愛されている神の子であるのか、それを考えさせて下さい。見せて下さい。そして、立ち上がって、希望に生き、苦難を誇りとし、神と隣人を愛する者へと、次から次へと、苦難、忍耐、練達、希望とあなたの恵みと祝福のなかで成長させてください。アーメン