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「恵みによって強められなさい」 1月29日会員総会主題説教

「恵みによって強められなさい」
2006年1月29日
テキスト  テモテの手紙Ⅱ 第2章1-7節

そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。
そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。
キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。
兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。
また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。
労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。
わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。

本日は、一年に一度の会員総会を開催する主の日であります。皆様と祈りを一つに集めてこの日を迎えました。本日は、ローマの信徒への手紙の講解説教を中断いたします。これは、ほとんど初めての試みかもしれませんが、今年は、一年の主題聖句を掲げました。それが、本日のテキストのテモテの手紙Ⅱ第2章1節~7節まであります。その御言葉を会員総会の前に、皆様と丁寧に学びたいと考えました。私どもは、昨年の総会におきまして、教会の設立をはっきりと目指して歩むのだと、お互いに確認しあいました。そして今年は、その第2年目を迎えます。また昨年は、日本キリスト改革派教会の「創立宣言」と「20周年宣言」に生きることを目指して歩むことを教会の目標に致しました。この歩みには、変更もブレもありません。名古屋岩の上伝道所がここに建てられているということ、それは、日本キリスト改革派教会創立の歴史的な使命を実現すること、そこに私どものはっきりした目的、目標があります。この終わりのない戦いのために、私どもはここで開拓伝道を継続し、昨年掲げたこの二つの目的を正しく展開し深めてまいる第二年目となるのがこの2006年です。

さてこの手紙を書き送った使徒パウロは今、ローマにおります。ローマの信徒への手紙を読みますと、使徒パウロは、「何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していた」と書いていますから、今、パウロは遂に念願かなって世界の中心のローマに来ることができているのです。喜ばしいことです。ただし、それは、福音伝道の結果、迫害を受け、囚われの身、囚人として連れて来られたのです。牢獄の中からパウロは、手紙を書いています。教会宛の手紙ではありません。一人のキリスト者に宛てて書き送られたものです。その一人が他ならないテモテです。テモテは、パウロの愛する子と呼ばれています。パウロにとって、テモテは、これまで一緒に伝道してきた、なくてならない同僚、同労者でもありました。

ところが、そのテモテは、パウロ先生が捕らわれの身になってしまっていることに対して動揺しているのです。はっきり申しますと、臆病風が吹き始めているのです。そこで、パウロは自分自身が危機的な状況に置かれていながら、このテモテに励ましの手紙を書いて真の慰めを届けようとしたのです。そのような極めて具体的な、個人的な手紙がこの手紙です。

「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。」この第2章1節の御言葉は、この手紙全体のなかで、鍵の言葉、要約の言葉となっています。強くなりなさい。強くあれ。そのように叱咤激励する、命令しているのです。父親のような大先輩の伝道者、キリスト者テモテを、奮い立たせたいパウロの切なる命令です。そして、それは、実に、パウロをして語らしめ、言わしめ、書かしめておられるのは、言うまでもなく、父なる神、主キリスト・イエスに他なりません。聖霊なる神が、パウロを通して、テモテに命じたもうのです。そして、それは、また言うまでもなく、ここにいるすべての者へ、この手紙、この説教を通して、聖霊なる神ご自身が、私どもに告げる命令に他なりません。

「強くなりなさい。」この命令を、テモテはどのように聴いたのでしょうか。彼は、臆病風に吹かれて、伝道することに対して、しばし、意気消沈してしまっているのです。頼るべきパウロがいなくなって、教会の責任、おそらく一つの教会の責任ではなく、その地方にある幾つもの小さな家の教会の責任を彼は一人で担っていたと思いますが、その重圧に押しつぶされそうになっていたのでしょう。私自身も、この単立、自給開拓伝道開始の当初、その全責任を担い、この群れを間違いなく、神の教会とし、天国へと確実に導くその責任、その課題に押しつぶされそうな思いになったこと、幾たびあったことかと思い起こさせられます。

しかし今、このテモテがおかれている状況は、どれほど厳しいものであったことか、それは、わたしなどが経験した比ではないと思うのです。自分の命もまさに狙われていることを認めざるを得ない状況のただ中で、しかしだからこそ教会員に命の御言葉を語り、彼らを励まし、伝道のさらなる進展、教会形成の充実のために、パウロなきこのときこそ、自分がパウロ先生の代わりを担わなければならないのです。教会員もまた、若きテモテ先生にいっしんに期待を寄せたのではないかと思います。ところが、まさにそこで、立ってはいるのですが、自分の足がぶるぶると震えるのです。震えが止まらないのです。おそらく青年テモテ、青年伝道者テモテのそれが、正直な主の御前の姿であったと思います。

このような状況の中にいる人を下手に励ましたら、気軽に発破をかけるようなことをすればかえって逆効果になるということ、これは我々の普段の生活のなかでも簡単に想像できることかと思います。それなら、いったい、パウロはどのように言葉をかけ、どのような言葉をかけることができるのでしょうか。

使徒パウロは青年伝道者テモテに対して、「強くなりなさい」と命じます。それは、伝道者として、伝道者だけでなく、なによりも一人のキリスト者として、弱くあってはならないのだということが前提になっていると思います。キリスト者は弱さのなかで、閉じこもっていてはならないということです。

ただし、そこでパウロのこの御言葉を思い出さざるをえません。コリントの信徒への手紙Ⅱ第12章です。「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私のうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」ここで、パウロ自身がキリスト者の「弱さ」を認めているのです。それは、第一には肉体の弱さでした。伝道者として、何よりも使徒として厳しい戦いを生きるためには、明らかにそれに不都合な状態、はっきり申しますと健康を損ねていたわけです。しかし、神がそれをよしとされ、その弱さを受け入れていて下さると、教えられたのでした。

その意味で、キリスト者が弱さをもっているということは、なんら、キリスト者として生きるためにハンディキャップにはならないという驚くべき理解、その事実が、ここで確定しているのです。ただし、キリスト者の弱さとは、決して、「自分は弱くて、何もできないのです。自分は弱くて、何の役にも立たないのです」というようなことではありえないということも確定しているのです。弱さを通して、神の強さ、神の恵みが十分に働き出るからです。つまり、私どもは、弱さのなかで、とぐろを巻いて、座り込み、閉じこもる必要などはなく、そうしてはならないのです。パウロが、強くあれと命じるのは、そこです。

パウロはここで「強くなりなさい」と命じます。しかし、パウロはここで、弱さのなかに内向きになりかかっているテモテに単に精神論を振りかざして、叱咤激励しているわけでは決してありません。それはしばしば逆効果をもたらすことは、先ほども申しました。何より、もともと、そのような精神論で神にお仕えしたり、伝道すること、伝道し続けることなどできるわけはないので。福音宣教、教会形成とは、神の御業なのです。ですから、人間の知恵、人間の能力や権力や財力などで担えるようなものでは、まったくないのです。

ここでパウロは、ただ「強くなりなさい」と命じ、勧めているわけではありません。それには前提があるのです。「あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって」ということです。キリスト・イエスの恵みによって強くなるのです。ことは、人間の力では、成り立たないのです。ただ、キリスト・イエスにおける恵みによる以外に強くなることはできないのです。「キリスト・イエスにおける恵み」とパウロが言うとき、それは、テモテには、いへ、テモテだけではなく、およそ新約聖書、パウロの手紙を読んだことのある人なら、誰でも分かるはずものなのです。「あの恵み」ということです。いわば、「ザ・恵み」です。

それはどのようなものなのかと申しますと、2節で、「多くの証人の面前でわたしから聞いたこと」です。この御言葉を、テモテが伝道者、説教者、牧師として就任、就職したとき聞いたことだと解釈する方も少なくありません。今日の総会でも、ひとりの伝道所委員のために誓約式を挙行いたします。昨年は、4名の伝度所委員の就任式を挙行し、日曜学校教師の就任式も挙行しました。もとより、伝道所委員は、長老でも執事でもありませんので、わたしが頭に手を按いて祈り、任職することはできません。しかし、私どもの教会が長老をたて執事を立てていわゆる教会設立を実現するときに、そこで彼女が執事職につかれるときには、わたしは頭に手をおいて、任職式を挙行することになります。つまり、ある人たちは、そのような式として解釈いたします。しかし、わたしは、今、ここでなされていることをイメージするべきではないかと思います。つまり、主の日の礼拝式です。ここでは、繰り返し、繰り返しキリスト・イエスの恵みが語られているのではないでしょうか。一言で申しますと、福音が語られているのです。多くの証人とは、キリスト者の仲間たち、教会員たちのことです。特別の任職式のことより、毎主日の礼拝における説教の内容です。ニカヤ信条を思い起こしていただいてもよいと思います。「主は我ら人類のため、また我らの救いのために天よりくだり、聖霊によりて処女マリヤより肉体を受けて人となり、我らのため ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って三日目によみがえり、天に昇り、御父の右に座したもう。」これが、キリスト・イエスの福音です。主イエスがしてくださったみ業、これが、恵みなのです。これが福音なのです。そして、それをパウロがさらにギュっとつかむ、要約しているのが第8節のみ言葉「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。」昔は、口語訳聖書で覚えましたが、「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」

イエス・キリストこのお方をいつも思い起こすこと。しかもそれは、毎日のことです。主の日だけではありません。毎日、いついかなるときでも、主イエス・キリストを忘れては生きないということです。そのためには、何時も主を見ていることが必要です。そのために、世々の教会は、たとえば、イコンと呼ばれるキリストの絵画を大切にしていました。現代は携帯と言えば、電話かもしれませんが、東方の教会の伝統では、家の中には、イコンが飾られています。しかし、旅に出るときもあります。そのときには、携帯用の手のひらにおさまるような小さなイコンを用いるのだそうです。あるいは、もっと身近なところでは、皆様もよく見かけることかと思いますが、たとえば、サッカーなどの試合で、ときどき、ああ、この人はキリスト者なのだと分かるときがあります。この人は、ローマ・カトリックの信徒なのだと分かるときがあります。ゴールを決めたところで、胸の辺りで小さく十字を切るからです。今でも、ローマ・カトリック教会ではそのように、しばしば、十字を切るしぐさ、それを重んじているのです。それは、主イエス・キリストをいつも思い起こすということが、そのスピリット、その志なのだと思われます。それなら、私ども改革教会の信徒はどうするのでしょうか。たとい、十字を切らずとも、たといイコンを携帯せずとも、主イエス・キリストのことをいつも忘れない、いつも見上げている、つまり祈りを捧げることです。祈りの心に生きることです。いつも神の御前で生きる自覚を深めることです。「コーラム・デオ」、神の御顔の面前で生きている、生かされている、これが、私どもの現実、事実なのです。私どもは、今この礼拝を捧げている姿が、そのまま、月曜日に、火曜日に、週日に持ち運ばれることを繰り返し、祈り求めるのです。そのために、今年、遂に聖書日課を始めています。これは、お互いに同じ聖書箇所を読むことができ、私どもの交わりをさらに豊かにするために始めております。また、これは、主イエス・キリストを毎日思い起こすための私どもの教会の伝統なのです。

私どもの礼拝堂は、お互いの顔が見えます。ですから、一人ひとりが礼拝式に集中していないと、お互いによく分かってしますわけです。おそらく、皆が説教卓に向かって座っているなら、横の人以外に、あるいは後ろに座っている人以外に、自分の気持ちがどこにあるのかを悟られことはないでしょう。しかし、ここではそれは難しいのです。確かに厳しい面もあります。しかし、この姿でこそ、証人とは、共に礼拝を捧げるキリスト者の仲間たちのことであることもよく分かってくるのではないでしょうか。仲間たちと常に聴いている福音の説教、そこで拝んでいる主イエス・キリストをいつも思うこと、心に刻み、耳に刻み、目に焼き付けること、そこに私どもの強さがあります。強さの源、秘訣があるのです。主イエス・キリストこそ、恵みの源、力の源泉です。この主イエス・キリストと深く交わることが礼拝であり、祈りです。

「強くなりなさい」という御言葉は、また、ローマの信徒への手紙の鍵の言葉である、第1章16節を思い起こさざるを得ません。「わたしは福音を恥としない。ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」なぜ、思い起こさせられるのかと申しますと、この「強くなれ」というもともとの言葉には、「ドュナミス」かつて説教でダイナマイトという言葉の語源となった言葉だと学びましたが、神の力という「ドュナミス」という言葉につながる言葉が用いられているからです。直訳のように訳せば、「力の中に入る」となるのでしょうか。これは、実にすばらしいイメージだと思います。神でありたもう主イエス・キリストというお方の中に、その御力の中に入るというイメージです。つまり、主イエス・キリストと一つに結ばれるということです。つまり、救われるということです。それをこそ、恵みと申します。このザ・恵み、この恵みこそが、私どもを強くするのです。

昨年の大晦日に、新聞のテレビのプログラムで、格闘技の宣伝を見ました。「史上最強の○○」という言葉が一人ひとりの選手につけられていました。一人ひとりが史上最強だというのです。楽しい表現です。しかしいかにもオーバーな表現です。しかし、「神の力は、歴史上もっとも大きな力である」とこう言うなら、これは、決してオーバーな表現などではありません。生きとし生けるものすべて、世界を創造し、それ以上に、罪によって破壊された世界と人間自身の罪を赦し、さらに新しく創造してくださる神の力にまさって、巨大な力など、宇宙に存在しません。実に、この史上最強の力が、パウロに、そしてテモテに、そして今私どもにも、提供されているのです。この恵みは、今わたしどもの目の前にあるのです。いや、私どもは今、この力の中にいるのです。このキリスト・イエスの恵みのなかで座っているのです。主イエス・キリストを信じる私どもは、主イエス・キリストとの交わり、父なる神と御子イエス・キリスト、聖霊における交わりを与えられているのです。

使徒パウロは、テモテに命じます。「強くなりなさい、強くなれ」確かに、これは命令しているのです。強くならなければならないのです。私どもは、自分の弱さのなかに閉じこもっていてはならないのです。福音を恥じてもならないのです。なぜなら、私どもはすでに強くされているからです。実は、この新共同訳聖書の翻訳もそうなのですが、多くの聖書は、「強くなれ」と能動形で翻訳しています。「強くなれ」です。あるいは、よくて「強くあれ」です。しかし、もともとの言葉は、受身の形なのです。「強くされよ」なのです。「強められなさい」ということです。自分で鍛えて強くなるというあり方ではなく、神に、その恵みの力によって強くされるのです。神ご自身のなかで、強くされているはずだし、強くなれるのです。

しかも、そこで、パウロは、テモテに、助言します。「あなたは、あなた自身が強くされることはどうしても大切であるが、しかし、それを一人で担うのではないのだ」ということです。「他の人々にも教えることのできる忠実な人たちに委ねなさい。」私どもの教会に当てはめれば、これは、長老たちのことを第一にイメージできるでしょう。パウロは、ほうぼうの地方で、長老たちを立てて行きました。パウロがその地を去った後には、彼らがパウロ先生に代わっていわば牧師としての務めを担って行ったわけです。私どもの教会には、長老がおりませんから、これは、伝道所委員をイメージすることもできるでしょう。しかし、それだけでは解決しません。牧師は、その固有の務めが軽んじられないために、御言葉に専念し、伝道に専心してまいります。それを成り立たせるために、長老や執事、伝道所委員が立てられます。しかし、それなら教会員は、そこでどうするのでしょうか。伝道所委員の奉仕に期待し、彼らのすることを見ているのでしょうか。私どもの教会では考えられないことです。教会員こそが、神の教会の奉仕の担い手なのです。皆で、与えられている務め、教会の奉仕の業を担うのです。今年度もまた、自分に、何ができるのか、自分は何をすべきかを今月は集中して祈りました。奉仕アンケートを皆さんが提出されました。皆前向きに、教会に生きておられます。それが、教会の本当の姿なのです。

私どもの教会は、なお、小さな伝道所です。しかし、あらゆる面でまだ小さく弱い教会であることを隠す必要はありません。ただし、私どもは比較すれば大変良い教会ではないか、成長して方ではないか、まあまあだとして、自己満足して、自分たちの殻に閉じこもるなら、私どもは与えられた神の務めをほっぽり出したことになります。惨めで、弱い教会となるしかないのです。

本来なら、3節から6節まで、一息に説きたいのですが、もはや、時間がありません。次回に譲りたいと思います。ただここで、どうしても触れておきたい御言葉があります。「自分を召集した者の気に入ろうとします。」私どもキリスト者とは、誰も自分で務めに着くものはおりません。さらに言えば、誰も、自分の決断で教会に来て、キリスト者になった、救われたわけではないはずです。呼び集めて下さったお方、招集者がおられるのです。主イエス・キリストです。父なる神です。その執行官であられる聖霊なる御神です。三一の神が、私どもを呼び出してくださいました。つまり教会員とは、キリスト者とは、牧師や他の誰かを喜ばせるため、彼らに気に入られるために、教会生活をしているのではありません。してはならないし、する必要はありません。そこで、当然のことですが、自分を喜ばせるために信仰生活をなすのでもないことに気づけるはずです。

私どもに関心があるのは、関心を持たなければならないのは、ただ、召集して下さったお方に気に入られるかどうかということです。私どもの奉仕、とくに、教会員の奉仕は、教会の中では、目だたない場合が多いのではないでしょうか。牧師は、目立ちますし、指導者として正しい意味で目立たなければなりません。しかし、教会員はその逆の場合が多いのではないでしょうか。それならどうして、奉仕への意欲と召しが成り立つのか、それは、神さまに喜ばれたい、救って下さった主イエス・キリストの恵みに答えたいということがあるからではないでしょうか。

最後に7節を読んで終わります。「わたしの言うことを良く考えて見なさい」とあります。さらに、「主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。」と念を押しています。私どもは、今年も、御言葉が理解できる一年になりたいと心から願っています。すでに、私どもは教会として、志を立てて、聖書日課を始めています。この一年、礼拝式、祈祷会、読書会、その他の様々な集会で御言葉を聴き学んでまいります。主なる神は、それらを理解できるようにして下さるとパウロは約束しています。わたしも真剣に御言葉を語る準備に勤しみます。そして、わたしだけではなく、皆様も真剣に聴くための準備に勤しんでいただきたいのです。
しかも、最後の最後に、誤解のないようにあえて申し添えます。「考えてみなさい」という御言葉についてです。これは、ただ単に考えるということだけを意味しているのではありません。主の前に、見苦しいことは、御言葉を聞いて、「ああ、分かった、ああ、良かった」と頭で考えるだけで、分かったつもりになってしまうことです。神の御言葉の真理は、実際に生きることです。分かるとは、生きることです。実際に、やってみて、強くされることです。そのようにして、少しづつ、少しづつわかってくる、理解できるようになるのです。「一挙に分かった」と思えるほど、めまぐるしい成長を遂げる方も起こされたらなおすばらしいと思います。しかし、やがて、その方も分かるのではないかと思います。「ああ、まだまだ、主の恵みの大きさ、福音の力の巨大さのほんのわずかを理解させていただいただけで、まだまだ先がある」ということです。だから、今年の一年、どれほど、教会生活を重ねられた先輩たちにも、新しい恵みの成長の一年であるのです。洗礼を受けてまだ10年経っていない者たちも多いわたしどもであります。そうであれば、なおさら、この一年は、私どもが大きく成長する、変えられてゆくことができる一年となるはずですし、なりたいと願います。そしてそのように考えてみることができるのも、御言葉を生きることができるのも、ただキリスト・イエスの恵みによってのみであることは、明らかであります。「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスの恵みのみによって強くされなさい。」

祈祷
私どもの教会をここにお建てください、今日まで育み続けて下さいました、教会の頭なる主イエス・キリストと、その父なる御神、私どもの一年の目標、主題とする聖句を学びました。どうぞ、教会を挙げてこの恵みの御言葉を味わい、これを理解し、これに励まされ生きることができますように。主イエス・キリストとの交わりだけが私どもの強さです。この恵みの中に深くとどまらせ、私どもを日ごとに強くして下さいますように。その強さをもって、あなたを愛し、隣人を愛して戦う力としてくださいますように。アーメン。