過去の投稿2006年2月12日

2月12日

★  朝夕と、盛んな祈祷会が続いています。先週の午前は、おそらくこれまででもっとも多くの仲間たちと守ることができました。夜の祈祷会に出席しておられる○○姉や○○教会会員の○○姉も出席されたからです。15名の方々とともに、「学ぶ教会」について学びました。私どもの教会は開拓伝道から、一所懸命励んだことは、要するに、この「学びの家」の形成でした。「神の民の祈りの家を築こう」という教会形成の目標とし、掲げ続けている表題は、開拓初期の頃は、「学びの家を築こう」、御言葉と教理を「学ぶ」ところが教会なのですと 口をすっぱくして(?)訴え続けました。(教会は、自分たちの宗教的楽しみ、喜びを追及する場という前提で、おられる方には、どれほど違和感をもたれ、それだけに、開拓伝道においてこの方向を定めた牧師の苦闘は、おそらく牧師でしかわからないほど、厳しいものでした。)洗礼入会志願者とは、今も変わりませんが、当時も必ず、一対一の学びを数十回継続しました。そして教会としての学びの集会としては、「読書会」がありました。この読書会こそ、岩の上を岩の上たらしめた集会の要であったかと思います。(言うまでもありませんが、主日礼拝式と朝夕の祈祷会が生命そのものであります)

☆  私どもの「学びの家」に豊かに聖霊が注がれています。だからこそ、御言葉の真理がよく分かります。 楽しい学び、命の学びです。これまでどこの学校でも経験したことのない真理を知る喜び、慰め、しかも、 この一つの真理に生かされている仲間たちがいる学びの家です。新しく洗礼をお受けになられた方が、  年齢的にはわたしの大先輩にあたる方が、意欲的に聖書を読み始め、学びを楽しんでおられるのです。 それを、わたしも皆様も目撃することが許されています。何より、自分自身が同じ聖霊なる神に養われるのです。なんという特権、祝福、喜びでしょうか。この祈祷会に出席する喜びを多くの人々に伝えたいと思います。神の御言葉を共に学び味わう喜び、そしてこの交わり!これこそ、学びの家の醍醐味、幸いです。

★  いよいよ、この「教会(加藤常昭先生)」の学びも終わりが近くなりました。次回は、いよいよ「ウエストミンスター信仰告白」を学びます。朝のときにも申しました。旧約聖書に躓(つまづ)いてしまうことは、聖書の教えの全体、教理の理解によって、克服することができるのです。ある教派のクリスチャンは、「教理(神学)など、信仰を冷(さ)ますものでしかない。」などと、全くの的外れなことを申します。しかし、教理の正しい学びこそ、信仰を覚(さ)ますものなのです。ただし、私どもが常に警戒、反省しなければならないのは、実際に教理の学びによって、 私どもの信仰の「生活」「実践」が生き生きと力強いものとなっているかどうかということです。そうならないのであれば、その教理の「学び方」か「教理そのもの」に誤りがあるのではないかということです。何度でも繰り返しましょう。教理は「体得」されるものなのです。ですから私どもの学びに卒業はありません。教会の交わりのなかでは、誰もが主イエスに学ぶ「学生」です。確かに、わたしは「教師」ですが、皆さんに先立って学んでいる者です。教師は、「教祖」にはなりえません。しかし同時に、「我を見よ」との使徒的姿勢から逃げることはできません。

☆  加藤先生といえば、先週も、名古屋の「説教クリニック」の集会でご指導を仰ぐことができました。いったい現代の日本で、「説教クリニック」を指導することのできる説教者と何よりもそれに教派を越えて大勢集まるような「説教の師匠」がいるでしょうか。(その意味では、明らかに加藤先生は、牧師たちの言わば、「師匠」です。しかもこの師匠自身が、誰よりも、ご自分のあくなき成長を追及し続けておられるのです。)まさに超教派の牧師が25名集われました。これほどの教派を越えた牧師の研修のときは、極めて珍しいと思います。クリニック。実際の説教を皆で聴聞して批評するのです。私自身の何よりの関心は、加藤先生の批評、評価でした。それは、ここで書くことは差し控えます。一方で、やはり、はっきりと自分の課題を悟らされました。それは、自分でも気づいているからこそ、納得できたものです。他の折には、加藤先生に、反論、異論を語ることもないわけではありませんが、こと、自分の今回の説教に関しては、反論などするべくもありません。すでに、18年の説教者としての歩みを重ねましたが、今回、主のために「枯れる」ことを目指す・・・。皆様には、理解しにくい表現で恐縮ですが、そのような一つの点も考えさせられました。自分自身の成長のために、なお、謙虚に、何よりも「客観的」に自分を見つめる修練を深めてまいりたいと願います。「牧師は、教会員に説教のために真剣に祈ってもらわなければならない。しかし、そのような教会を形成することもまた牧師の説教による・・・」「その通り!」と心に叫びました。そして、その意味では、わたしは、なんと幸いな牧師なのだろうと、主に感謝し、皆様に心から感謝いたしました!これからも!