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「揺るぎなき救い」

「揺るぎなき救い」
2006年2月19日

テキスト ローマの信徒への手紙 5章9節~11節①

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、  キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」

先週、古本屋さんで、偶然に浄土真宗の開祖親鸞の弟子の唯円が記した「歎異抄」を見つけて買い求めました。はるか高校生の時代に、岩波文庫で読んだ記憶があります。久しぶりに、その現代語訳を読みました。これは、弟子の唯円が、親鸞の死後、先生が語った教えと異なる教えを語る者たちが数多く出てきた現実を嘆き、あらためて親鸞の教えとはこのようなものであったと書き記した経典であります。今回、実は、初めて知ったのですが、題名の「歎異抄」とは、異なる教えを嘆く書という意味であることを知りました。

実は、しばしば、このようなことが言われることがあります。パウロの教え、あるいは宗教改革者ルターの教えと親鸞の教えはとても似ているというものです。私ども福音主義教会、特にルター派教会は、信仰によってのみ義とされるという教理を教会の中心教理としています。私ども改革派教会は、そのようにこの教理だけを中心にしてはおりませんが、信仰によってのみ罪人は義とされる、救われるということこそ、福音の中心、ここで使徒パウロが何度も語っている教えであると理解しております。

なるほど、仏教者親鸞は、自分のような普通の人間、つまり、厳しい難行苦行に耐えられず、難しい仏教の経典を学び極め、悟ることのできない普通の人間にとって、「信心」のみによって阿弥陀仏の救いにあずかることができる、浄土に往生することができるのであって、それ以外にはないのだと言いました。よく読んでみると、南無阿弥陀仏と念仏を唱えることで救われるのだとも、彼は、言っていないのです。念仏を唱えることができなかったとしても阿弥陀仏を信じていればそれで浄土に行ける、往生できると言うわけです。それは、親鸞が徹底して自分はよい行いはできない、悪人でしかないと考えているのです。一方で、苦行して悟りを開くことのできる人の存在を否定はしません。しかし、少なくとも自分のような人間には決してそのような仏の道、悟りの道を歩むことはできないのだと認めているのです。

しかも今回、あらためて驚かされたことは、そのような普通の人間、いへ、悪人は、念仏を唱えるという最高によい業であっても、それでもって罪が帳消しになるとも考えていない、教えていないのです。念仏を唱えたら救われるとも言わないのです。わたしは、あらためて、親鸞がどれほど、自分の存在を悪人として考えているのか、その徹底した人間理解、自己省察に心を打たれました。尊敬の念を持ちました。念仏を唱えること以上に、阿弥陀仏の慈悲を信じる心にのみ救いの根拠があるというのです。極楽に往生できるのだというのです。本当に信仰、信じるということに徹底した日本人、宗教者の姿に心打たれました。

しかし、同時に思いました。今や、私どもは聖書を読んで、この親鸞どころではない深さにおいて人間の真実の姿、その現実のあり様を覗き込んでいる、それを知っている、知らされているのだということです。
使徒パウロは、先週から続いて読んでおりますテキストのなかで、私どものことを、このように言い表しています。「キリストはわたしたちがまだ弱かったころ」つまり、「弱い人間」です。その次に、「不信心な者のために死んで下さった」弱い人間とはつまり「不信心な者」、神を信じない、従わない人間ということです。そして三番目に「わたしたちがまだ罪人であったとき」つまり、「罪人」です。

使徒パウロは、自分のことを、ただ単に、正しいことができない人間、善いことができない弱い人間、不信心な人間として嘆いているのではありません。彼は、それを越えて、自分自身を「罪人」と捕らえたのです。ここで聖書が言い表す罪人とは、人間の道徳的な問題、倫理的な次元をはるかに超えた事柄を指し示しているのです。パウロは、ここまで、罪についてきわめて詳細な議論を重ねてまいりました。第2章から第3章まで、一貫してこの罪の問題を議論したのです。ですから、この罪とは何かは、もはや、説明する必要がないはずです。しかし、使徒パウロは、ここであたらしいイメージで、罪とは何か、罪人とは何かを言い表します。それが、「敵」という言葉であります。これが、本日のテキストで、使徒パウロが言い表した人間の本当の姿なのです。

ただし、「神の敵」、それがどれほどおそろしいことであるのか、これもまた、聖書を読まなければ、知らなければ分かりません。そしてここでわたしが聖書を読むということは、聖書によって生きておられる神に出会い、神の御前で、教えていただくということです。天地の創造者であり、そればかりか、この天地を支配しておられる今生きておられる主権者に対して、わたしは、そして皆さんは、刃を向けました。弓を引っ張ったのです。現代風に申しますと、機関銃を乱射したのです。神に歯向かったのです。それゆえに、このテキストは、明らかに神の愛が主題なのですが、しかしパウロは、ここでやはり、どうしてもこう書かずにはおれなかったのです。それが、「神の怒り」という言葉です。神の敵である人間は、神の怒りを受けるべき人間なのです。これが、使徒パウロが覗き見た人間の深淵です。自分の本当の姿でした。

パウロは、ここで、感動と感謝とを込めて「聖霊によって神の愛が注がれている」、「神はわたしたちに対する愛を示されました」と語っています。しかしそれと同時に、神の怒りをも見過ごすわけには行かないのです。語らざるを得ないのです。わたしは、先ほども申しましたが、歎異抄を深い感動を覚えつつ読みました。しかしながら、なるほどここには、この「神の怒り」に相当するイメージがないことにすぐ気づきました。このすさまじいまでの恐ろしさ、この深刻さがないのは、結局、親鸞が生ける神を知らないからであると、思わざるを得ませんでした。結局、親鸞が心を込めて語った、阿弥陀仏という救い主は、空想上の存在でしかありません。歴史上の存在者ではないのです。この地上を歩かれた仏、もしくは救済者、救い主ではないのです。そうであれば、このお方の御前での罪ということは、あるいは仏の怒りという事柄は出てこないのではないでしょうか。そこに、聖書を読むものが覗き込まされる人間の闇の深さ、底知れない恐ろしさに達しないと思います。

それは、たとえば、あのダビデが、部下の妻を横取りし、それを隠すためにその部下を激戦の最前線に送り殺したことに対して、預言者ナタンにそれを指摘されたとき、ダビデは神に向かってこのように申しました。「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯しました」これは、信仰のない方から見れば、とんでもない、言い草でありましょう。「ダビデよ、お前が謝る相手は間違っている。しかも、ただ神に罪を犯したのではなくて、人を殺し、他人の妻を自分のものとする、そのことが罪であって、謝罪すべきは、バト・シェバ、妻にではないか」これは、まさによく分かる批判であります。しかし、それは、神を信じていない方だから、そう言われるのです。ダビデは、「わたしは主に罪を犯した」とこのように言い表したとき、それは、自分のしでかした罪を軽くしたことではなく、むしろその正反対です。自分の罪は、神に裁かれなくてはならない、神への反抗であり、神のへの挑戦であったと言ったのです。人間の裁き、刑罰どころではすまないのです。たとい、バト・シェバに許されたとしても、その賠償を完全にし終えたとしても問題は神の裁きが残るのです。神との関係、これが罪です。そしてダビデは、自分の犯した犯罪を単なる犯罪にしたのではなく、罪と認め、悔い改めたのです。

親鸞は、この罪の次元をなお知らなかったのではないかと、わたしは考えます。ここに、生ける神を知らない、生ける神との出会いの現実がない人間の限界を思いました。そうなれば、信心によってのみ、救われるということは言いますが、どこから救われるのか、罪からの救いではない、罪人であるという神の敵であるという存在からの救いにはならないのです。しかし、私どもキリスト者とは、今、この聖書によって、この礼拝式の只中で、生ける神の面前にまかり出ているのです。ただし、厳密に申しますと、ここに座っていれば自動的に、神の御前に出ているということにはなりません。ここで神の言葉を信じて聴いているとき自分がどこにいるのかがわかってくるのです。主の日の礼拝堂に座っているということは、他のどこでもない、神の御前で座っているのです。ここでは、よいお話を聞きに来ているのではありません。生活のため、知恵になるお話、宗教的なありがたいお話を聞いているのでもありません。神の声を聞いているのです。神の御言葉を聴いているのです。

さて、パウロは、自分のことを神の敵であると認めることができました。どうしてそのような恐るべき認識を持てたのでしょうか。キリスト者が聖書を紐解いたことのない方に向かって、「あなたは神の敵ですよ」などと言ったら、おそらく大変なことになるでしょう。大変な剣幕で怒られるでしょう。わたしがそれほどまでに何か悪いことをしたとでもいうのか、わたしを神の敵であるなどと言うのは、名誉毀損であると訴えられるかもしれません。しかし、私どもは、ここでパウロが、わたしたちが敵であったときと言うとき、まさに、その通りであると認めることができるのです。まさにわたしが神の敵であったと理解できるのです。いったいどうしてなのでしょうか。

それは、主イエス・キリストを知ったからであります。考えて見ますと、神の敵と言われることにもっとも過敏に反応した人はパウロその人であったかと思います。神の敵などと誰かに後ろ指を指されることくらい、最大の侮辱、軽蔑、非難の言葉はなかったと思います。彼は、自分を神の味方、協力者として確信しているからこそ、キリスト者の存在を許せなかったのです。彼らを、神に公然と敵対して働く者として憎んだのです。教会を激しく憎悪したのです。

私どもが、パウロの手紙を読むときに、いつも忘れてはならないし、忘れることができないことは、使徒パウロが、かつてどのような人物であったかということです。新約聖書のなかに、使徒言行録という書物があります。いわば、最初期の教会の歴史書です。その使徒言行録を読んで、やはり一つの驚きは、そのなかに、使徒パウロがどのようにして復活の主イエスにお会いしたのかということが三度も記されていることです。パウロ自身の証として、三回、克明に自分の体験を語った記事を著者のルカは、載せたのです。そのようなことは、普通の歴史書であれば、決して考えられないと思います。どれほど偉い先生であっても、一人の先生が主イエスとどのようにお会いしたのか、一度、丁寧に書きとめればそれで済むはずです。三度も書き記すとは、異常なことではないでしょうか。しかし、事実、使徒言行録には、三度記されているのです。それだけで、この出来事がどれほど大切であるかを雄弁に物語っていると思います。  

使徒言行録では、パウロがかつて教会を、キリスト者たちを男女を問わず捕らえ、しばり、エルサレムの法廷に連れ出して、神の御名によって死刑に処すことに励んでいたことが繰り返し語られます。それほどまでに、自分は神に熱心であって、神の掟を守ることにおいて誰にも負けない自負を抱いていたわけです。何よりも、キリスト者たちが聖書の神を冒涜し、十字架につけられたユダヤ人を救い主、神であるといい広める行為こそ、神に敵対する行為、最大の罪と考えていたのだと思います。

ところが、彼は、そのような考えを持ち、それを実行した自分こそが、神の最大の敵であったと知ったのです。キリスト者が神の敵であるのではなく、むしろ、自分こそが、神の敵であると分かったのです。そのときのパウロの気持ちは、想像を絶するものであったかと思います。もはや、生きておれないと思うほどではなかったか。彼は、目が見えなくなりました。それほどの経験であったのだと思います。あまりのショックに心だけではなく、体が壊れたのです。しかし、彼は、主イエスとの出会いのなかで、驚くべきことを知りました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う。」これが、復活の主イエスの御言葉でした。この主イエスの御言葉の響きのなかに、彼は何を感じ取ったのでしょうか。わたしはこう考えます。それは、キリスト教会最初の殉教者となった、ステファノのことです。そして使徒言行録は、このステファノへの暴行、石を投げつけて殺したことに賛成していたのが、他ならないパウロその人であるとはっきりと書いているのです。

聖書には、記されておりませんが、しかしわたしは、ほとんど事実であろうと信じているのですが、ステファノは、エルサレムの町のなかで、公然とすばらしい説教をしました。ユダヤ人たちと議論をして、主イエスを証しました。そして、遂に、妻子長や律法学者に扇動された人々は、彼の説教に対して激しく怒りました。悔い改めを求める説教だったからです。しかし、ステファノは、同胞のユダヤ人が救われるためには、悔い改めを勧め、彼らを神の御前にぬかずかせることが必要と信じたからです。ところが、彼の説教は、その意味では失敗でした。悔い改めさせることはできなかったのです。むしろ、彼らの激しい憎悪を掻き立てるだけでした。そして、遂に人々は彼に石を投げつけたのです。最後に彼は大声で叫びます。わたしがほとんど信じていることは、このステファノの大声を、パウロはじかに聞いたであろうということです。

「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」これが、石を投げつけられているとき、叫んだ言葉です。パウロは、この言葉がもしかすると耳にこびりついていたのではないかと思うのです。そして、皆様のなかで、この御言葉を読めばすぐに、ルカによる福音書に記されている主イエス・キリストの十字架上の言葉を思い起こされる方もおられるように思います。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
自分を殺す人間、自分の敵のために、ステファノは神の赦しを祈り求めているのです。何とか、彼らが悔い改めるようにしてくださいという叫びです。自分の説教は実らなかった。それは、一方で、説教者としては、本当に神さまに申し訳ないことです。わたしも、つくづく思います。自分の説教がもっと実るように、悔い改めて主イエスを信じる人が起こるようにと祈ります。しかし、実際、すべての人が礼拝に来て、主イエスを信じるわけではありません。むしろ、来なくなる、むしろ、反発する。憤りを持つこともないわけではありません。それも一方で、正しい説教の証拠であるとも、正直に考えています。しかし、正しい説教で、憤りをもたれることを避けて通れませんが、しかし、憤らせるために、ステファノも説教者も説教しているわけではないはずです。ですから、神よ、どうぞ、悔い改めを与えて下さいと祈る、祈らざるを得ません。しかし、わたしは、このときのステファノは、殺されるのです。なんだ、そんなくだらない話は聞きたくない、自分には関係ない、あるいは、教会に行かなくても自分は自分なりに聖書を読んで信じてやって行く、そのようなことで、教会に来なくなるのであれば、彼らのために祈ることは難しいわけではないと思うのです。しかし、もしも、自分の説教を聞いて、反発し、憎まれて、石を投げつけるのであれば、これは、赦しがたいと、わたしは思います。その意味で、このステファノの事実は、私自身の存在を深く問い続けます。

しかし、神の御子主イエス・キリストは、ご自分のなかに、負い目はありません。完全に正しい御子が、完全なる説教をなされ、奇跡をなされ、しかし、人々は最後にあっという間にまさに手のひらを返したのです。主イエスを捨てたのです。裏切ったのです。イエスさまばんざいと叫んだ、そのわずか数日の後、イエスを殺せと彼らに叫ばれたのです。まことにおそるべきことです。

まさに裏切りでしょう。弟子たちも裏切りました。一人、主イエスを売り飛ばしたユダだけの問題ではありません。弟子が敵になったのです。いへ、もともと、神の敵であった彼らのその本性、本当の姿が現れ出たというべきでしょう。しかし、主イエスはまさにその敵のために、十字架へと進み行かれたのです。主イエスは、まさかそんなことが起こるわけないというように、そこで受けとめてはおられません。この恐るべき人間の罪の姿に主イエスはたじろいでおられません。もともと、この裏切りも、人間がどれほどのおそろしい暗闇をもって罪のなかに死んでいるのか、主イエスはご存知なのです。そして、まさに、この罪人すなわち神の敵のために、命を捨てるご決意をもって、この地上に来ておられるのです。父なる御神は、そのようなご決意をもって、御子イエス・キリストをこの罪人たちの世界に送られ、この世を救おうとなさったのです。そこに、神の愛があります。これが神の愛、敵を赦すのです。人間には、考えられないことです。しかし、そのことを事実、神が地上に成し遂げられました。愛を示して下さいました。

罪人、そして敵である人間に対する神の怒りは、御子イエス・キリストの十字架において貫徹されました。神の御子が、私どもが受けるべき父なる神の怒りを十字架でお受けくださり、私どもと父なる神との間に平和を樹立してくださったのです。それが、和解です。この短い文章には、和解ということばが踊っています。躍り上がるように、飛び跳ねるように和解という文字が目立ちます。喜びの文字です。神と私どもとの間に、しかし、神ご自身が一方的に和解を成し遂げて下さったのです。私どもは何もしていません。まったく何もしていません。和解の必要性すら弁えていませんでした。ただ、敵としては向かい続けただけです。ところが、その敵である罪人のために、父なる神と御子イエス・キリストがご自身の聖霊によってすべてを成し遂げて下さったのです。繰り返しますが、私どもはそのために、何もできませんし、何もしませんでした。

パウロは言うのです。「罪人であり、神の敵であったときに、神は私どもを愛し、神の怒りから救い出してくださったのであれば、今や、実に今や、主イエスを信じて神の和解、正しい関係を作っていただいているのだから、御子の命、復活された主イエスによって救われることは、揺ぎ無いことである」これこそ、ここでパウロが語ったこと、救いの喜び、救いの確信なのです。ここでのパウロの文章は、整っているとは思えません。乱れていると思います。しかし、同じことを繰り返してでも、強調したいのです。「なおさらです。」「なおさらです。」と繰り返します。私どもの救いは、どんなことがあっても揺ぎ無いものなのだと確信させ、そしてこの救いの喜びを読者に響かせたいのです。「あなたも、この主イエス・キリストの十字架と復活のみ業によって、救われている。あたなも、この救いの確かさにあずかっている。だから、一緒に喜ぼうではないか。一緒に神を誇ろうではないか」と招いているのです。

さて終わりに、このように書き送ったパウロは、今や、自分自身の姿をどのように見たのでしょうか。それが、問題です。今は、罪人ではないのでしょうか。神の敵ではないのでしょうか。丁寧に申しますと、この事実と現実は、なお、継続しているのです。主イエスを信じて一瞬にすべての罪の性格、罪の力、罪のカスがまったく自分からなくなってしまったわけではありません。むしろ、そのところから、罪との本当の格闘が始まるのです。自分の罪の姿、敵である姿は、まさに、救われた後に分かるのです。

それなら、主イエスを信じて救われるとは、かえって苦しいことなのでしょうか。そうではありません。どうしてでしょうか。それは、罪人であって神の敵でしかない私自身の姿を、しかし、肝心の神がどのように見ていてくださるのかを知っているからであります。神の側では、すでにきちんと、完全に和解を実現しておられることを知っている、信じているからです。神の側で御自身の怒りはすでに御子にそのすべてが炸裂して、もはや、私どもに対する神の激しい怒りはまったく残っていないことを知っているのです。実に、神は、私どもを神の子、神の味方、神の友として見られているのです。今や、天と地の創造者なる生ける神のまなざしは、私どもに暖かく注がれているのです。

確かに私どもは正真正銘の罪人です。敵です。しかし、その罪人を赦す神の御顔が私どもに向けていてくださるのです。そうなると、自分自身の悲惨、罪の悲惨を見つめる目もまた違ってまいります。自分の存在を受け容れるのです。
私どもの救いはいかなることがあっても揺るぎがありません。私どもの救いほど確実で、徹底しているものはありません。そしてこの救いの確信があるからこそ、私どもは神の栄光にあずかる希望を誇りとできるのです。確実だからです。さらに、そればかりでなく、苦難をも誇りとすることさへできるのです。私どもの救いは、苦難によっても壊れることはないものだからです。私ども自身が苦難によってどれほど動揺させられようとも、この救いの事実、主イエス・キリストにおける神の愛のみ業は揺るがないからです。実に、私どもの救いこそ、この世界でもっとも確実なものなのであります。

祈祷
罪人でありあなたの敵である私どものために、あなたの御子を贖いの代価として十字架にほふられたことによって、私どもはあなたの御前になお罪を犯し、敵にすら成り下がることもあるにもかかわらず、私どもにあなたの和解、あなたの平和を一方的にお与えくださいました。この計り知れない恵みの確かさ、救いの確かさを心から感謝申し上げます。自分のなかに、なお、自分を不憫に思ったり、自分を明るく受け容れられなかったりすることがあります。どうぞ、そのような間違った見方から守って下さい。私どもをあなたが見ていてくださるように、自分の置かれた状況がどれほど、恵みの光、愛の光に包まれたものであるのかを悟らせ、そのように見させてください。そして、心からあなたを誇りとし、そのようにさせていただいた自分を誇りとして生きることができますように。アーメン。