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「光の中で直視する-全的堕落の教理-」

「光の中で直視する-全的堕落の教理-」
2006年3月5日

テキスト ローマの信徒への手紙 5章12節~21節①

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

 本日から、ローマの信徒への手紙第5章12節以下に入ります。振り返って調べましたら、昨年の降誕祭に第5章1節から説教をしまして、1節~11節までを7回に分けて学んでまいりました。そこで、わたしは何度か、ここで記されていること、つまり、自分の罪を赦す為に神がその独り子を十字架に与えて下さったこと、神の愛が自分にも注がれていることが分かったら、それで充分ですから、洗礼入会を志願してほしいとも申しました。この箇所には、ほとんど聖書の教え、福音の中心が記されているからです。

さて、本日から始まる12節以下の御言葉もまた、実に、すばらしい恵みの言葉が連なっております。今回もまた、学び終えるのに、いったい何回、説教することになるのか正直分かりません。私自身は、この使徒パウロが興奮しながら、喜びにあふれて語る真理の言葉に興奮しております。しかし、それをきちんと言い表すことができるか、聖霊のお働きを祈り求める者であります。

先週の朝の祈祷会でひとりの姉妹が、自分は信仰のステップアップをしなければならないと考えているとお話しくださいました。ここに記されている御言葉が分かったら、いったいどれほどのステップアップが成し遂げられることになるだろうかと思います。洗礼を受けているキリスト者であれば、「なんとしても、この事実をすべての人に伝え、教えなければならない、この情報を遮断してはならない、この命の知らせ、この福音を自分に留めてはならない」と、このように突き動かされると確信いたします。

さて、12節の冒頭は、「このようなわけで」と始められます。最初からやはり面倒な議論になってしまうかもしれませんが、いかがでしょうか、「このようなわけで」という言葉のつながりが、実は、とても難しい、分かりづらいと思うのです。直前の11節で、パウロの圧倒的な叫びださざるを得ないような喜び、爆発するような誇らしい喜びを受けた直後に、「このようなわけで」と語り始めるのは、人間の悲惨さについてです。惨めさについてです。実はここで、パウロは、初めて死について語るのです。しかも、一般的な死、抽象的な死ではありません。自分自身の現実としての死について語るのです。それを直視しようとするのです。なぜ、このようなわけでとつながるのか不思議に思うのです。

わたしはこの箇所を読みながら、「がんの告知」のことを連想いたしました。がんの告知については、様々に議論が重ねられてまいりました。そして今日、基本的には、告知することへと傾いているのかと思います。しかし、なお、末期がんの患者には、自動的になすべきかどうかは、なお、大いに議論があると思います。それぞれの人生観、立場、さまざまな状況によって、考えられなければならないことではないかと思われます。やはりそこで、死の問題はタブーとされることが多いのかもしれません。皆さんは、もし自分が癌に冒され、しかも末期であったとして、その告知を望まれるでしょうか。これは、一度、真剣に考えることが必要でしょう。

私どもの教会は、今年の元旦の礼拝式で、一つの文書を、教会員に手渡しました。「葬儀に関する依頼、遺言書」のことであります。自分の葬儀を今から、きちんと準備するわけです。これは、若い方であっても、全員に4月の復活祭までには、提出して下さることを伝道所委員会では願っております。わたしは、元旦に、このような文書を手渡すことも、大変教会らしいこと、教会だからできること、愉快に思いました。そこに、私どもの福音の力、実力を見る思いすら抱きました。キリスト者である私どもは、自分の葬儀、つまり、死を見つめることができるのであります。

キリスト者とは、つまり、主イエス・キリストによって罪を赦された人間というのは、まったくすごい人間に変えられてしまうということを思わざるを得ません。実は、自分の死をしっかりと見つめる、見据えるということは、これは、通常、修行に修行を重ねた指導者の僧侶、お坊さん以外にできないようなことではないでしょうか。しかも、たいていの場合、そのようなお坊さんは、高齢者です。しかし、私どもキリスト者は、若者であっても、死を見つめることが出きる者とされているのです。主イエス・キリストを信じただけで、そしてそれが何を意味するのかを、たとえば、この12節以下を読んで、わきまえるだけで、それができるのです。何の修行もいりません。滝に打たれる必要もなければ、何十日間の断食行も要りません。ただ主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストと一つに結んでいただくだけで、死に勝利することができるのです。死を屈服させることができるのです。死の奴隷ではなく、支配者、つまり、王であり王女様になるのです。

「このようなわけで」と語り始めることは、なるほど、つながりが分かりにくいのですが、文の中身から申しますと、つながるのです。これほどの勝利、これほどの明るい光を浴びているから、主イエス・キリストによってまさに神を喜び誇れるからこそ、もはや、死の問題はタブーなどではなくなったのです。新年早々縁起でもないとか、元旦の気分を害するとかではなくなったのです。

キリストの光、命の光、この光を浴びているから、この光をあふれるほど注がれているから、そのことを私どもは信じ、なによりも体験しているからこそ、あらためて、罪の問題、そして自分の死の問題を覗き見ることができるというのです。いや、覗き見るなどという消極的なことではありません。直視することができるということなのです。

裏返して申しますと、このような勝利なしに、人間は、死を直視することは、できないのです。死を直視しようとするなら、むしろ死から自分の姿を見据えられます。見抜かれます。射すくめられます。その時には、まさに、死に屈服させられるだけです。死の前に降参し、何も抵抗できずに敗北する以外にないのです。ですから、我々人間は、自分の死を考えようとしないのです。死を真剣に見続けられないのです。
何故、誰しも死ななければならない死の問題を見つめることができないのでしょうか。そこにこそ、決定的な、私どもの救いにとって決定的な問題があります。聖書は、まさに、この決定的な、究極的な問題を、問題にするのです。はっきり申しますと、キリストの教会だけが、この究極の問題を見据え、それの解決を提示するのです。できるのです。

先日も、仏教の一つの宗派のお話を致しました。仏教には、「四苦八苦」と言葉で表されていますが人間には、八つの苦しみがあると言うのです。その中核は、四つの苦しみ、四苦です。「生・老・病・死」です。つまり死の問題に行き着きます。仏教もまた、この人間の究極の課題、問題と向き合うのです。そもそも、本物の宗教とは、この死の問題を扱うものです。人間の問題の究極的解決は、この死の問題の解決にきわまるのです。しかし、その仏教のなかには、使徒パウロがここで記した最重要な単語、キーワードがないのです。それは、「罪」であります。

仏教という宗教は、死を見つめる、大変真剣で、まじめな宗教という印象が、わたしには強くあります。しかしながら、罪の問題を見つめないのです。しかしそこで、何が生じているかと申しますと、それは、結局、本物の死を見つめることができないということです。それなら本物の死、それは何でしょうか。それは、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」「罪によって死が入り込んだ」これが、聖書の主張であります。死とは、罪がもたらしたものなのです。「一人の人によって罪が世に入り」とあります。この一人の人とはいったい誰のことを指すのかと申しますと、14節で明らかにされますが、それは、人類の始祖アダムその人のことです。アダムが神の御前に罪を犯したことによって、この世界の中に、罪が入ったというのです。入ったということは、もともとは、そこになかったものということです。罪は、神ご自身が創造された世界にはそもそもないものでした。もともとの天と地とが創造されたとき、この世界に罪はなかったのです。しかし、アダムが罪を犯すことによって、具体的に神に罪を犯すことによって、世界の中に罪が入り込んだのです。そして、罪が入り込んだことによって、同時に、何が起こったかと申しますと、そこでこそ、死が入り込んだのです。「入った」、「入り込んだ」と、いささか異なった表現で記されています。意味は同じですが、入り込んだという言葉のニュアンスは、どれほど抵抗してもそれをぶち破って入り込んでしまうということです。どれほど、壁を厚くして抵抗しても、貫通してしまうそれほどのどうしようもないほどの強大な力で、死の力は、こちら側に入り込んでしまうということです。

わたしは、聖書を学ぶ方、道を求める方とは、必ず、一緒に、創世記第3章を丁寧に読んでまいりました。アダムとエバが神に反抗した物語であります。このことに触れるとそれだけで、何回も説教しなくてはならないほどですから、ごく簡単に申します。アダムは、神に似せてつくられた神に向き合う人間です。神の最高傑作です。いわば、神の誇りであり、造られたものの中で神の喜びの冠なのです。自由に神を愛し、神に従い、神と交わることができる存在、それがアダム、人間でした。神は、このアダムを愛し、命の交わりを与えられました。アダムには、園のどの木からとって食べても良いという、有り余るほどの豊かな富を与えられていました。しかし、たった一つだけ、善悪を知る知識の実だけは食べてはならない、食べると必ず死ぬと威嚇されていました。このたったひとつだけの掟によって、神が神であり、人間が人間であることの線が示されていました。神が神であり、人間が人間であることこそ、人間の最高の幸せなのです。ところが、アダムは、エバに誘惑されて、食べたら必ず死ぬ木の実を食べてしまいました。

いったい何故、わたしが、必ず、この物語を読むのかと申しますと、それは、これ以上に、私自身の罪を、その罪の姿を明らかに暴きだす聖書の箇所は他にないのではないかと思えるからです。この物語は、単なる作り話、御伽噺などではないのです。歴史的な事実であるとわたしは素朴に受け止めているのですが、しかし、そのようなことなど枝葉であるとすら思えるほど重要なことは、むしろ、この物語のすごさは、読むその人自身の罪を暴きだす、その人がしている罪とは何かを教え示すことができるからです。しかし逆に、それが分からなければ、子どもだまし、単なるお話、神話になってしまうのです。

アダムが罪を犯したのは事実です。しかし、何よりも見逃してはならないことは、私自身が、アダムにおいて、アダムと一緒に神の御前に罪を犯しているという現実の姿です。私どもはもちろん、知識の実を食べたことはありません。しかし、まったく同じように、自分自身が善悪の規準、自分が価値判断の規準、自分を世界の中心、規準にしているのです。つまり、自分を神に仕立て上げているということであります。これこそは、私どもの罪の姿そのものなのです。

聖書を重んじるのも軽んじるのも、自分が規準です。神を信じるのも信じないのも、自分が規準です。自分が信じたいと思えば、価値があるのでしょうが、信じたくなければ、信じなくてもかまわないかのように考えるのです。この二つ、信じることと信じないこととまったく違うようですが、実は、同じです。どちらも、信じる信じないことを選ぶ規準は自分にあるのです。しかし、それこそが、罪です。神を神としてあがめず、重んじない。そのような神との関係がさかさまに成ってしまった結果、人間に世界に罪が入り、罪によって死が入り込んだのです。もはや、逃れようがない現実に転落したのです。

だから、わたしどもは、本物の死を見つめることができないのであります。偽物の死なら、見れます。しかしそれは、自分勝手な解釈の死でしかありません。死は、神に裁かれることです。神の怒りを受けることなのです。神に滅ぼされることを意味するのです。

パウロ先生は12節で、「すべての人が罪を犯したからです。」と言います。これは、恐るべき言葉であります。ただし日本人なら、すべての人が罪を犯したのであれば、皆で渡れば怖くないではないかなどと、平然としていられるのかもしれません。しかし、神の怒りの死を受けるのは、罪を犯したその人が固有に神に裁かれるのです。それが分かれば、「赤信号皆でわたれば怖くない」などとは言えなくなるはずで。神の裁きを考えれば、このようなのんきな主張は、通用しません。実に、パウロは、ここで、すべての人が罪を犯したと主張します。これは、実に、悲惨なニュースです。恐ろしい裁きのニュースです。ところが、こう事実を報告し、断罪しているパウロ自身の顔つきは、悲しみのなかにしかし明るい光を放っているのです。重々しい中にも、しかし明るく語っているのです。

わたしは、ときどき、ニュース番組をテレビで見るとき、たまらなくなることがあります。キャスターが笑顔で、悲惨なニュースを読み上げるときです。笑顔の次に映し出される光景は、悲劇なのです。冗談じゃないと、心の中で憤りがわくこともあります。

パウロは、ここで、いかなる災害、悲惨な出来事よりも、恐るべき悲惨な事実を告げているのです。これ以上に恐ろしいニュースはないのです。こうもうしてもかまいません。聖書のなかで、使徒パウロだけが、はっきりと伝えた恐るべきニュースなのです。それは、人間のなかで、誰一人も例外なしに、すべての人は罪人であるというニュースであります。これが、神からの知らせです。旧約聖書を読んでも、ここまでの徹底した表現はないのです。私どもの教会の言葉で申しますと、「完全な堕落」「人間は、神の前に完全な無能力者、完全に堕落してもはや、神に自力で立ち返ること、神を信じることも、神との交わりをなすことも100パーセント能力がないということです。ここでこそ、パウロが言ったのです。しかし、もとより、わたしはパウロ先生の顔を見たことはありませんが、この手紙を読みながら、それは、明るい顔つきで語ったに違いないと確信しているのです。それが、「このようなわけで」の意味なのです。 

今日は、扱いませんが、15節以下の言葉も控えているからです。「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人生きの恵みの賜物とは、多くの人に注がれるのです。」おそるべき人間の現実を、自分の死と滅びとを、それが自分の罪のせいであることを見つめることができるのは、ただ、一つの可能性によるのです。「わたしたちの主イエス・キリストによって、神をほこりとしています。」「信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるからです。

私どもは、自分が正真正銘の罪人であることを、認めることができました。今もそうです。正真正銘の罪人です。徹底的に罪人なのです。その事実を今や隠し立てする必要はありません。なぜなら、神の右にひとりの人イエス・キリストがおられるからです。このお方が、私どもの身代わりになって、罪の刑罰、報酬としての神の怒り、滅び、死を、十字架でうけてくださったからです。

もはや、自分を偽らなくて済むのです。わたしは、大胆に自分が罪人であることを認めることができるのです。神を信じ、救われながらなお反抗し、神を愛すること、隣人を愛することになお不十分なものでしかない現実を隠し立てる必要はないのです。私どもには、「主よ、憐れんで下さい」と叫ぶことのできるひとりの人、主イエス・キリストが与えられているからです。

先週も、一つの絵画のお話を致しました。暗い部屋に、いままさに死なんとする婦人の病床を描き出したものです。そこに小さな子一人が遺されている絵です。誰が見ても、悲しく、不幸な現実としてでしか理解できないように思うのです。ところが、その絵画は、不思議な暖かさに支配されているのです。不幸なニュースを笑顔で伝えるのは不謹慎ですが、この絵画は、不謹慎ではないのです。画家は、この厳しい現実を、しかし神がどのように見ておられるのか、その眼差しをもって、見ることができ、そのように描き出すことができたからだと思います。つまり、そこにひとりの人イエス・キリストが共におられるのだと言いたいのではないかと思うのでしょう。

しかしパウロは今、それに比べられないような恐るべき悲惨な絵をここで描いて見せたのです。この罪によって神に裁かれなければならなくなっている本物の死を死ななければならない、現実です。これが、わたしの現実であり、あなたの現実なのです。あなたは、たったひとつの罪でも、罪を犯したことによって神の怒りと裁きの死を死ななければならない人間なのです。あなただけが例外の善人、義人ではないのです。

しかし、私どもは今や、この厳しくもおそるべき事実に耐えられるのであります。それは、一人の人イエス・キリストを与えられているからです。このお方の命を、私どもが受けているからです。天国の命を受けているからです。だから、私どもは生きられます。主イエスは、「体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちないほうがましである。」と説教されたことがあります。これも実に、厳しい言葉であります。ところが、私どもは、目も抉り出さず、手も切って失われることもなく、それどころか、何の修行も、わずかの難行苦行もしていないのに、死に対する勝利者にイエスさまのおかげで、18節「命を得」、21節「永遠の命」を受けているのです。
私どもは、自分の罪と不信仰を、嘆いて生きています。しかし、今、その罪を直視しながらも、その向こうの主イエス・キリストを見るのです。そうすることで、わたしが義とされて命を得ていること、正しいものとされていること、赦されている神の子であることもまたはっきりと見えてくるのです。

私どもは今、それを信仰の目だけではなく、肉の目をもって、見ることのできる主イエス・キリストが定めて下さった聖餐の食卓を祝います。パンを見ましょう。杯を見ましょう。もとより、この目に映るのは、パンとぶどうジュースです。しかし、主イエスの約束を信じて見る人には、見えてくるのです。この聖餐にあずかることによって、わたしの罪は、罪の結果の死は、もはやその効力は消し去られた、主イエス・キリストによって消し去られたと信じることができるのです。そのように、見ることができるのです。

そうであれば、主イエス・キリストを喜び誇る行為のまさに最高のあり方は、この礼拝式で、聖餐を受領するときなのです。古の先輩たちは、聖餐を「不死の薬」と言ったことがあります。今日ではその表現は誤解を招きますから人気がありません。しかし、もしそれが、パウロがここで語った意味、わたしが語ったこの説教と同じ意味であれば、まさに、私どもは、今、不死の薬を飲むのです。

祈祷
「すべての人が罪を犯したからです」パウロが、この恐るべき事実を語ったとき、これ以上にない悲劇的な顔つきで語ったのではなく、悲しみの中にも不思議に輝く明るい光、笑顔を持ってさへ、語ったことであろうかと思います。私どもの主イエス・キリストの父なる御神、それは、パウロ自身の罪と死もまた、主イエス・キリストによって消し去られていることを知って、狂おしいほどの喜びと誇りがあたえられていたからであります。しかしながら、御神よ、それに比べて、私どもは、中途半端です。何よりも、自分が恐ろしい罪人であることを認めることにおいて中途半端です。主の救いの御業を凝視しないからです。どうぞ、今、しっかりと御子イエス・キリストを仰ぎ見させて下さい。そして私どもが絶望するしかない罪人であることを見せて下さい。しかし、それにはるかにまさってこの聖餐によって、主の勝利を見せてください。私どもの勝利をはっきりと見させてください。そして、私どももまた罪と死の支配者として、王として振る舞い、これ以上にない大胆さをもって生きることができますように。アーメン。