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「愛に生きる信仰」

「愛に生きる信仰」
2006年4月2日
ヨハネによる福音書 第21章15節~19節

 本日は、開拓伝道第12周年を記念する礼拝式として捧げています。その中で、新たに日曜学校教師として立てられた兄弟姉妹の任職識を執り行うことができましたことは、大きな感謝であります。その中の一人の姉妹は、今から12年前に、開拓伝道の最初に洗礼入会者でした。大きな感慨を抱かされます。加えて本日は、聖餐を祝う第一主日でもあります。この記念すべきときに、聖餐を祝うことこそ、もっともふさわしいことと思います。ここに、この名古屋市緑区の町に神の教会があること、主イエス・キリストを頭とする教会、キリストの体なる教会がここに存在することは何とすばらしいことでしょうか。しかも、他ならない私どもが、この教会の一枝とされていることは、私どもの大いなる喜びであり、光栄であります。

お読みいたしましたヨハネによる福音書の第21章の箇所は、復活された主イエスと使徒ペトロとの対話の物語であります。このとき、主イエスはガリラヤの湖のほとりにおられます。十字架についてお甦りになられた主イエスはすでに何度か、復活のお体を弟子たちに現されました。ペトロも、主イエスの復活の現われに出会いました。そこで確かに、ペトロは、主イエスの十字架を目の前にして、恐ろしくなって、三度も、イエスさまと自分とは何の関わりもないと言い張るようにして、主イエスを裏切ってしまいました。しかし、その主イエス御自身が復活のお姿をお見せになられ、彼をもう一度信仰へと立ち直らせていただきました。それは、間違いのないことであります。それならペトロは、今、どこにいて、何をしているというのでしょうか。彼は今、ガリラヤの湖で漁をしているのです。それはいったい何を意味するのでしょうか。

ガリラヤ湖、それは、ペトロにとって故郷を意味します。そして何よりも主イエスに初めてお会いした場所であります。彼は、あの日のこと、3年前のあの日のことを決して忘れていません。あの日、いつものように、ガリラヤ湖で網を打っていたのです。彼の仕事は漁師でした。来る日も来る日も、彼は、弟のアンデレとともに、魚をすなどっていたのです。しかしそんなある日のこと、見も知らない一人の男性から、声をかけられました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」彼らは、直ちに網を捨てて従いました。それから夢のような日々を過ごしたのだと思います。呼び出してくださった主イエスを知れば知るほど、感動の毎日であったと思います。心から尊敬し、心から愛し、心から信頼することのできる人間を、このイエスさまのなかに見出したのです。

そればかりかやがて、自分が考えていた以上のお方であることも分かってきたのです。マタイによる福音書第16章に記されています。主イエスは、最も重要な問い、質問を弟子たちに向かって、御自らお尋ねになられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」そのとき、ペトロはいの一番にこのように答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です。」これこそは、主イエスに対する教会の最初の信仰告白です。ごく短い主イエスに対する信仰の告白でありますが、正しく、すばらしい信仰告白でした。それゆえ、主イエス・キリストは、このようにお答えになられました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」

すこし横道にそれますが、すでにお気づきくださったかと思いますが、私どもの教会の「岩の上」という名称は、まさにこの主イエスの御言葉に根ざしたものであります。
さて、このような祝福されたシモン、ペトロは、しかし、この後、直ちに主イエスの厳しい叱責を受けます。そして何よりも、ペトロ自身にとって決定的に信仰の挫折、破綻を生じることが、この後に起こってしまうのです。それは、主イエスが同じように、「わたしは長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて、殺される。そして三日目に復活することになっている」とご自身の将来を予告なさったときでした。「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

さらに、十字架の直前に主イエスは弟子たちにこう予告されました。「あなたがたは、わたしにつまづく、わたしから離れて行く」と仰せになられたからです。それは、主イエスが、十字架におつきになられる前の日のことでした。そのとき、そこでも、ペトロが他の弟子たちを差し置いて、はっきりとこのように誓って見せました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」これは、ペトロの天晴れな心意気でしょう。ペトロ自身のなみなみならない決意でしょう。ここにペトロ自身の決心、確信があったのでしょう。その意味では、我々から見ますと、もしかすると、あの、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と信仰を告白したときより、もっと、我々の心に響き、我々の心に訴える言葉なのではないでしょうか。つまり、かっこよい感じがするのではないでしょうか。

しかし、彼は、この後、ただちに自分のこの言葉を見事に裏切るのです。まさに舌の根の乾かないうちに、主イエスがローマの兵隊に捕らえられ、何の抵抗もなく、つかまってしまったのを目撃したとき、ペトロはそこから逃げ出したのです。つまずいたのです。「あの男、あのイエスの弟子でしょう」と最高法院の中庭で、女中に問いただされたとき、はっきりこう言ったのです。「何のことを言っているのか、わたしには分からない。」さらに、決定的にこうまで言い切ったのです。「そんな人は知らない。」このように主イエスに予言されたように、三度も主イエスを知らないと、イエスさまとの関わりをきっぱりと切ってしまった。切って捨ててしまったのです。彼は、そこで、まさに、信仰が破綻しました。もうついて行けなくなったのです。まさか、まったく想像もしていなかった、裏切り者になって、自分の言葉を裏切り、嘘をつき、主イエスを裏切ったのです。

どうしてつまずいたのでしょうか。一つは、彼が主イエスを誤解していたからです。そしてもう一つは、その意味で、彼が、わたしは決してつまずきませんと誓った言葉は、自分自身を頼りにしたものであったからです。主イエスから与えられたものではなかったのです。自分に頼むところがあったからです。他の弟子はつまずいても、自分なら、大丈夫。これまでだって、他の弟子たちに負けないように、懸命に主イエスに従ってきた。これからだって、困難なことがあっても、けっしてひるまず、従い続けることができると、彼は、自分のこれまでの歩みと自分の力を頼りにして、自分自身を誇って見せたのです。

しかし、十字架に死んで三日目にお甦りになられた主イエスはそのような彼に現れてくださったのです。そして、彼の信仰を取り戻してくださったのです。ヨハネによる福音書第13章の冒頭にこうあります。「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」まさにこの上ない愛、全力の愛、極みまでの愛、完全の愛で愛されたお方であればこそ、この裏切り者、つまずいたシモンをお捨てにはならなかったのです。

こうして彼は、確かに信仰者となりました。しかし、彼は自分のなかで、もうこれ以上は、主イエスの弟子であること、弟子であり続けることはできないと考えたのです。それがゆえに、今、ペトロは、ガリラヤの湖で三年ぶりの漁を始めたのです。おそらく、彼は、漁師に戻って、そこで、主イエスに対する信仰を貫こうと考えたのだと思います。しかし、もはやあの見事に失敗し、裏切った自分などは、主イエスの弟子として復帰することなどありえない、赦されない、おこがましいと考えたのだと思います。

しかし、それもなお、ペトロの自分勝手な考えなのです。自分で自分をもうだめだ。自分は少なくとも、主に従ってゆく、信じてゆく、しかし、かつてのように、主イエスとともに働く、主のもっとも近くで主の仕えて行くことなど許されないと決めて掛かったのです。そして何より、彼は、自分のしでかしたことによって、誰よりも、自分が傷ついてしまっているのです。

主イエスは、そのような彼を放っておかれません。ガリラヤの湖で、一晩中、漁をしても雑魚一匹釣り上げられないでいた朝、主イエスが、彼に近づき、船の右側に網を打ちなさいとお命じになられたのです。そして、言われるままにしてみると、153匹の大きな魚で網は一杯になりました。主が命じられた通りにすれば、そこでも、主の祝福にあずかれることを、教えられたのです。

そして、主は、このペトロになお個人的に御言葉を語りかけられます。それは、ペトロの傷を徹底して癒し、ペトロを完全に立ち上がらせ、ペトロを主イエスが信じ、主イエスが約束したとおりのペトロにさせるためでした。主イエスは、そして神は、ご自身の約束、契約に徹底して真実なのです。それが、神の愛です。神は、このペトロを癒し、立ち上がらせるために、ここでも御自ら質問したまいます。「ヨハネの子、シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」

シモンのまわりには、今、他に6人の弟子たちがいました。この6人の弟子たちがいる真ん中で、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われたのです。私どもは、誤解してはなりません。信仰は、誰かと比較して、優劣を競うべきものではありません。その意味では、主イエスへの信仰は、きわめて個人的なものです。他の人よりは自分の信仰はどのレベルにあるのか、など、考える必要などないのです。ただ、主イエスだけを見ていればよいのです。ところが、主は、ここで、ペトロに言わせるのです。言わせたいのです。それは、ただひとつ、ペトロを立ち上がらせるためです。弟子として、使徒として、働かせるためなのです。ペトロはどれほど、嬉しかったことでしょうか。「わたしを愛しているか」こう問うてくださるのは、主イエスが、ペトロを愛しているからできるのです。

しかも、神の愛は、徹底しています。神は、唯一の神です。しかし、人間は大勢おります。もしかすると、そこで、我々は、神の愛は、何億分の一、何十億分の一として、わたしに注がれ、与えられるのかと、神の愛をまるで人間の愛のように見くびるのです。しかし、神は、ご自身のまったき愛をシモン一人、わたし一人に注いでくださいます。そうであれば、あえて人間的に申しますと、主イエスは、他の誰よりもわたしを愛してくださるということではないでしょうか。誰と比べても、わたしに対する愛が勝るのです。どうしてでしょうか。主イエスの完全な愛がわたしに注がれているからです。主イエスの愛は、他の誰かを愛する分だけ、このわたしには少なく及ぶというものではないからです。つまり、まさにそのような他の人より多く愛されているという言い方は、人間的な言い方なのです。人間の愛になぞらえて主イエスの愛を表現したことになるのです。しかし、神の愛は、完全な愛であって、その愛をもってこのたった一人のこのわたしを愛してくださるのです。使徒ペトロは、この愛で今、愛されているのです。主イエスは、それほどまでに、わたしを、そしてあなたをその全力で愛していて下さるお方なのです。

今やペトロは、自分の愛を言い表すことが今できるのです。これこそ、ペトロにとって最高の喜びであったでしょう。彼は三度、主イエスを否定しました。愛さないと言ったのです。マタイによる福音書は「呪いの言葉さへ口にしながら、そんな人は知らない」と、まさにイエスさまを切って捨てたのです。その彼に、今、主イエスが愛を問うてくださるのです。愛を告白することへと招いてくださるのです。しかも皆の前で言えるのです。どれほど嬉しかったことでしょうか。まさに、彼の傷を癒す行為となるのです。こうすれば、弟子たちの仲間のなかに真実に戻ってゆくこともできるようになるはずです。

彼は告白します。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」この言葉は、最初に読みますと、なんだかとても頼りないもののように感じます。十字架につけられる前に告白した、「あなたのためなら、命も捨てます。決して、つまずきません。」このような愛の告白の方が、人々の心を打つと思います。「わたしの愛はあなたが知っている」なんだか、まったく頼りない気がするのです。「だらしないなぁ、もっとはっきり、男らしく、正々堂々、イエスさま、わたしは、この人たち以上にこんどこそ誓います。あなたを愛しています。誰にも負けません。」しかし、ペトロが今、はっきり悟っています。自分の愛、自分を頼りにした信仰、信心などまったく意味がないことをです。むしろ、そのようなものこそ、自分の致命的な過ち、根本的な失敗、まさに罪であったことをであります。自分に頼ることはやめている、もう、自分の信仰を自分で支えたり、判断したりしない。ただ、主イエスだけを見つめていよう。ただ、主イエスだけにより頼む以外にない。だから、この主イエスへの愛もまた、主イエス御自身が、神がわたしに注いで下さったもの、与えて下さったもの」このような信仰の正しい理解に至っているのです。それは、あの主イエスの御言葉をもう一度思い起こさせられるようなことであります。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」主イエスを愛する愛、それもまた、シモン自身のものではなく、父なる神が与えて下さったものなのです。

主イエスを愛することは、信仰ということです。信頼するということです。この信頼は、主イエスへの愛に根ざします。そして、この主イエスへの愛は、主イエス御自身のシモンへの愛、わたしへの愛にこそ根ざしているのです。主を愛することができる人は、主に愛されているからできるのです。主に愛されて、私どもは主イエスを愛し始めるのです。

ペトロはこう思ったと思います。「わたしは、こんなに愛されてしまっている、先生であり主であるイエスさまを裏切って、もはや、決して弟子などと呼ばれる値打ちもない、ただ、キリスト者の端っこに置かれているだけでも、ありがたい」ところが、今、主イエスは、説得したもうのです。「シモン、わたしは、あなたを愛している。そして、あなたのわたしへの愛をもわたしにはよく分かっている。あなたの裏切りはもう過去のことである。わたしはあなたを赦し、受け入れているのだ。わたしは、あなたを人間をとる漁師にすると約束したはずだ。」

わたしは、このときのペトロと主イエスとの関係を、あの有名な放蕩息子のたとえ話の中に見る思いが致します。主イエスが押してくださった放蕩して、一文無しになってしまった弟息子は、ついに我に帰りました。彼は、父の家に帰ることを決意して、「雇い人の一人にして下さい」とお願いしようと考えました。そして、父親に会ったとき、言ったのです。「もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい」ところが、父親は、すぐさま最上の洋服と最高の食事をもって歓迎いたしました。

今、主イエスは、徹底して彼の愛を受け入れ、彼を約束どおり、人間をすなどる漁師に完成したもうのです。そして、壊れてしまった主への愛、挫折した主への愛を、完成してくださるのです。ペトロはおそらく、主イエスのこのご訪問、このガリラヤ湖畔での訪問を受けなかったら、自分が裏切ったからこそ傷になってしまったその傷は、やがて化膿し始めて自分を苦しめたと思います。そればかりか、隣人をも損なってしまうような傷になったかもしれません。しかし主イエスは、その傷を癒したもうのです。そればかりか、その癒された傷口こそ、やがてそこから数え切れない多くの人々を励まし、立たせ、教えることのできる不思議な傷に癒し、変えられてしまうのです。新しい人間に作り変えられるのです。それが、今、ここで主がなさった愛の問いかけなのです。

「わたしを愛しているか」ペトロは、今、正しく答えます。「あなたがご存知です。」私どももまた、このように答えて良いのです。ところが、ここで、主イエスは、「わたしを愛しているか」と、三度重ねてお尋ねになられました。ペトロは、三度目に、問われたとき、悲しくなったのです。この悲しみは何でしょうか。「もしも、ああ、イエスさまには、わたしの愛を十分には、理解してもらえていない、信用していただけないのか」という悲しみなのでしょうか。そうではありません。もしそうなら、ペトロは、挫折と失望を深めるだけです。どうして、主の弟子として力強くいきぬくことなどできるでしょうか。

ここでの彼の悲しみとは、自分の罪を悲しむ悲しみなのです。自分の罪があの三度ののろいの言葉が今、まさに、どれほどの罪であったのか、今更ながらに知らされるのです。キリスト者は、神の愛を知れば知るほど、自分のなかにこの悲しみを消し去ることは、できないでしょう。しかし、この悲しみは、わたしを失望させないのです。ペトロを落胆させないのです。この悲しみを慰められているからです。いや、慰められているから知る悲しみだからです。

そして、主イエスは、この愛を問いたまい、この愛を告白させて下さって、同時に三度、同じ命令を仰せになられます。「わたしの小羊を飼いなさい」この命令をペトロはどれほど嬉しく聴いたことでしょうか。主イエスの命令、どんなに嬉しい命令でしょうか。命じられているということは、すなわち信頼されているということです。信用されているのです。

そして、主は、ご自身への愛に生きる方向性をはっきりとお示しになられます。主を愛する人間は、必ず、主イエスの羊、つまり教会、キリスト者への愛へと方向付けられるのです。主イエスは、その説教のなかで、何度も、「あなたがたに新しい掟を与える、互いに愛し合いなさい。隣人を愛しなさい。」とお命じになられました。これは、明らかに、古い戒めです。十戒の心です。しかし、今、この古い戒めが新しい響きを立てたのです。神の御子が人となられて、私どもを友と呼んでくださり、人が友のために命を捨てるこれ以上の愛はないと仰せになって、そして、まさに主イエスは、友であるわたしのため、教会のために命をお捨てになられたのです。その命がけの愛をもって、私どもを愛してくださいました。その愛が、私どもへのご自身への愛をも問うてくださり、愛を受け入れてくださるのです。

そして、この後、シモンペトロは、主イエス・キリストへの愛と彼の羊である教会への愛によって、殉教致します。歴史の事実としてまことに愛に生きる人間に変えられたのです。
私どもは今、この主イエスの羊たちの集い、主イエスの小羊の群れである教会にいます。ここで、私どもは主の羊とされ、まことの牧者、大牧者である主イエスの愛の牧草地のなかを生きています。そして、この主への愛に根ざして、わたしも、皆様を愛しているのです。この愛は、人間的な愛ではありません。人間的な絆で結ばれているのではありません。結ばれているこの絆は、神の絆であります。主イエスの絆なのです。ですから、教会を愛することは、主イエスを愛することと一つなのです。わたしは、この名古屋岩の上伝道所のために、なお、生きて行きたいと願います。この教会に仕えること、これ以外に、わたしが主イエスを愛する道はないからです。そしてそれは、皆さんも同じであると信じています。なぜ、私どもは熱心に主の日の礼拝式を捧げ、諸集会を重んじ、伝道奉仕に励むのか、主イエスを愛しているからです。世々の教会の歴史は、そして一つひとつの教会の歴史とは、このこの上なく主イエスに愛されている者たちが、この主の愛を受け入れ、この愛に生き続けた歴史であります。その先頭を走る使徒とされたのがペトロであります。

「ここに神の教会を、ここにキリストだけを主と告白する慰めの共同体を形成させてください。」この開拓以来の祈りとは、主イエスの愛が注がれて生まれた祈りです。主イエスに愛され、主イエスを愛している私どもの祈りです。そうであれば、この祈りは必ず成就する、成就し続けるはずです。本日、開拓伝道開始第12周年を迎え、いよいよ、私どもの教会形成は、深まってゆかなければなりません。惰性に流される暇はありません。使命があります。小羊を愛する使命に生きたいのです。日曜学校伝道、教会の執事的奉仕、なすべきこと、神から与えられている使命は山ほどあります。祈りと奉仕を束にして、しかしあせらず、導かれるところにしかし積極的に従ってまいりたいと願います。

ペトロは最後に、ここであらためて主イエスの御言葉を聴きました。あの最初の出会いのときとまったく同じ御言葉であります。「わたしに従いなさい。」どれほど、うれしい思いで、聴いたことでしょう。そして、あらたにここから出発したのです。私どもも、今朝、この主イエスの御言葉を聞いています。「わたしに従いなさい」わたしどもも、今朝、皆で、そして自分自身への主の招きとしても聴いています。「わたしに従いなさい」

祈祷
私どもの教会の歩みの先頭に立って歩んで下さいます主イエス・キリストよ、あなたが、ここにあなたの教会を建てると約束し、それを成就し続けて下さいます。しかも、他ならない私どもがあなたの教会のなくてならない枝、一部分とされているのです。あなたの一方的な愛、その選びを心から感謝申し上げます。どうぞ、教会に生きる者とされ、あなたの愛を証する使命を与えられたことを、よく悟らせて下さい。わたしに従いなさいとの厳かな、聖なるお招きを受けているのは、他の誰でもなく私どもであることを、この朝、新に感謝して受け入れます。それだけに、あなたの愛と力に満たして下さいますように。自分の力により頼まず、あなたに信頼して、それだけにあなたの力で、あなたから与えられた奉仕の務めを担うことができますように。新しい一年の歴史を、教会員全員の奉仕によって刻むことができますように。アーメン