「キリストの苦難と死による救い」
2006年4月9日
テキスト ローマの信徒への手紙 6章1節~11節①
「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。」
我々は、学校でさまざまなことを学びました。小学生、中学生と進んで、さらに高等学校に入学するようになりますと、だんだん教科が難しくなってまいります。苦手な科目の授業になると、憂鬱になるというようなことが起こるかもしれません。さらに、学びが順調に進んでまいりますと、学べば学ぶほど、自分はほとんど何も知らないのだという事実に気づかされてまいります。しかしもしかすると、そこで我々は、せめて、誰かに教えてもらわなくてもよい、おかしな表現ですが、言わば自分の専門領域を一つくらい持ちたいと考えるかもしれません。このことなら、誰かに教えてもらわずに、むしろ教えられる。そのような専門領域、専門を一つ持っている。それは、何でしょうか。もしかすると「自分自身のこと」と考えるかもしれません。しかし、果たして本当に、「自分のことくらいなら、誰かに教えてもらわなくてもよい」と言えるでしょうか。違います。まったく違います。我々人間は、自分のことがよく分からないのです。ですから、「自分探し」などという言葉をしばしば耳にするのです。
先週、金城学院大学の入学式に出席させていただきました。学長の柏木先生、-この方は、優れたキリスト者であり医師であられ、来年の私どもの伝道月間にお招きしたいと願っているのですが-柏木学長は、大学で、四つの出会いを深めて欲しいと式辞を述べられました。友との出会い、先生との出会い、学問との出会い、最後にキリスト教との出会いです。わたしは伺いながら、私であればそれに加えて、もう一つ、自分との出会いということも語りたいと思いました。しかし、この自分自身との出会いは、実は、この最後に上げられたキリスト教との出会いのなかで成し遂げられることなのです。その意味では、キリスト教との出会いこそ、自分を発見する道なのであります。
1998年にアメリカ長老教会は、子ども達のためのカテキズムを新しく編みました。「初めてのカテキズム」というものです。その問い一はこうです。「あなたは誰ですか。」答え「わたしは神の子です。」あなたは誰ですか。自分自身が誰であるのか。これは、もしかすると、子どもでも分かる、答えられる答えのように思われるかもしれません。最も簡単な答えと思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。「わたしは誰なのか」「わたしという人間は何者か」これこそは、教えてもらわなければならない、決定的に重要なことなのです。そこで、キリスト教なのです。聖書なのです。神ご自身なのです。「自分とは、誰か。」「あなたは誰ですか」これは、子どもたちの課題、問いで済ますことはできるでしょうか。あるいは、未だ神を、主イエス・キリストを知らない未信者の方の課題として済ませるのでしょうか。いずれも違います。
この第6章全体の主題は、キリスト者の聖化の歩みについてです。これまでの3章の21節からの主題は、キリスト者に与えられた義、義認の恵み、救いについてでした。ここからは、聖化の恵みを学ぶのです。その意味では、ここでの議論は、洗礼を受ける前のこと、信じる前のことではなく、信じた後の議論ということになります。わたしどもは、これまで、繰り返して、ただ信じることによってのみ、ただ神の恵みによってのみ私どもは義とされ、生かされているという、福音の真理を学び続けたわけであります。信じるだけで救われるということは、とてもやさしい。しかし、私どもはここを読み始めて、ここからは、「ムツカシイ」という思いを持つのではないでしょうか。記されている内容が難しいということもあるかもしれませんが、それに勝って、ここに記されているように信仰に生きることが果たして自分にできるだろうか、とても無理ではないか、それが、ムツカシイという思いの根本ではないかと思うのです。使徒パウロは、「罪のなかにとどまるべきだろうか」「どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」と激しい口調で語ります。しかし、実際の私どもの生活、先週一週間の歩みを振り返ってみるだけですぐに胸が痛み出してくるのではないでしょうか。このように反発する思いがわくかもしれません。「ここで記されているようには自分は生きていない。いや、生きれない。ここに記されたことは、使徒パウロのような特別に選ばれた信仰者、キリスト者の姿である。そして確かに、キリスト者の目指すべき理想の姿である。しかし、職業をもって生活を営む信徒には、ハードルが高すぎる、現実には、不可能である。」
しかし言い訳をすれば、少なくとも自分は、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきであろうか」などと、主張しない。自分もパウロのように心から、「決してそうではない。」と言える。「わたしたちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。」などとは、考えないと思います。これが、多くのキリスト者の心の中の声ではないかと思うのです。
実はこの議論は、すでに第3章でも行っていた議論です。それならなぜ、パウロは、このような議論を始めるのでしょうか。ここで、繰り返すのでしょうか。しかもここでは、未信者に対する議論ではなく、キリスト者としての信仰生活がすでに始まっているところでこの議論を持ち出すのはなぜなのでしょうか。確かに、わたしの経験から申しましても、このようなあからさまな間違いや誤解を主張するキリスト者とお会いしたことはありません。
しかし、私どもの心のなかには、ここでパウロが明らかにしてみせた思いが巣くっていることを否定できないと思うのです。「自分は、罪に負けて生きている、自分は実際には罪のなかにとどまっているのではないか、完全には抜け出ていない。結局、結論から言えば、罪の中になお生きている、それが、自分の正直な姿ではないか」こう思って生きているわけです。そして、「だからこそ、主よ、憐れんでくださいと、毎週、罪の告白、懺悔をしているのだ」とこのように考えながら生きているキリスト者、会員は例外ではないように思うのです。
しかし、使徒パウロはまさにそのようなキリスト者を正面から見据えて、このように吼えるのです。「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」罪の中にとどまることはできない、ありえないと断言したのです。これは、はっきりした言葉です。解釈によって、自分に引き寄せて、分かりやすくしてしまえる言葉ではないと思います。しかしここで大切な言葉は、直後の第3節であると思います。「それともあなたがたは知らないのですか。」「それともあなたがたは知らないのですか。」ここにこの箇所を理解する鍵があります。知ること。6節にも、9節にも「知っている」という言葉が出てまいります。
日本人の精神構造の中で、一つの根本的な問題があるかと思います。大きな課題です。それは、「本音と建前」という考え方です。この言葉は、大変通訳者を困らせるものだそうです。そのようなニュアンスの言葉がないからでしょう。ところが、日本の社会には、一つの事柄には、表と裏がある。一般には表を見せているが、ごくごく近しい人、気心が知れてくる者どうしなら、本音を見せる。もしも教会員が、自分は洗礼を受けた、教会生活も慣れている。ずいぶん奉仕の生活も根付いている。けれども、信仰の本音のところでもっと、教会員と打ち解けたい、そのような本音がいえる教会でありたいなどと、もしもどなたかが、言い出したなら、これは、そのキリスト者にとって、大変深刻な信仰の状況に立ち至っているといわなければならないと思います。万一、それが、複数になり、グループになって、自分たちのこのグループでなら、信仰の本音で話ができるだなどといい始めたら、これは、教会形成の深刻な危機になります。「教会生活、信仰生活、恵みを受けて生かされているけれども、ここで使徒パウロが言うように、あるいは牧師が言うように、現実の信仰生活では、右か左か、罪の生活か義の生活か、きれいに分かれることなどありえない。」
確かにそのとおりです。私どもが地上に生きるということは、まさに、未完成を生きているのですから、それは、当然のことなのです。しかし、そこで、決して、決して間違ってはならないのです。知らないでいてはならないのです。絶対キリスト者は知らなければならないのです。
今、絶対キリスト者が知らなければならないことと申しました。それは何でしょうか。私どもの教会は、洗礼をお受けになる場合、洗礼入会を志願される方と丁寧に学びます。子どもカテキズムを学び終えるのです。その意味では、降誕祭に洗礼を受けられた姉妹とは、今も毎週、学び続けているわけであります。それは、キリスト者としてこれだけは知らなければならないということを教えたいからです。そのようにして、よきキリスト者、教会員、キリストの弟子、キリストの兵士になっていただきたいからです。また、消極的に申しますと、この知識がなければ、キリスト者として生きることが苦しくなる場合が、しばしばあるからです。
11節には、「神に対して生きているのだと考えなさい」とあります。「認めなさい。」「思いなさい」と訳す聖書もあります。直訳すれば、「計算する」ということになるのです。評価する。判定するのです。
ここで、最初の問いに戻りたいと思います。つまり、いったい私どもは誰なのか、という問いがここでの鍵となるのです。あなたは誰か。「わたしは神の子です。」これが、聖書の答えなのです。聖書の教えなのです。
先週も、ルカによる福音書の第15章の放蕩息子のたとえ話をいたしました。ここでも同じようにこのたとえ話を思い出していただきたいのです。放蕩息子は、父親の家を飛び出して、やりたい放題、し放題で、遊びまくりました。大金を失ってしまったのです。そこで大飢饉になって、豚の食べるイナゴ豆ですら、食べたかったのに、食べさせてくれる人がいなかったのです。そこで、彼は、我に返りました。「自分は、息子と呼ばれる資格はない。」これが、この青年の自己理解です。自己像です。自分は、「もはや、息子ではない。しかし父の家には大勢の雇い人がいる。自分も雇い人の一人になら、なれるのではないか」彼はこのように自分を計算しました。自分を評価します。自分を知ったのです。考えた、認めたのです。そして、父親の家に帰ってゆきます。ところが、父親は、遠くから駆け寄って、彼を抱きしめます。息子は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」ここまで、言うと、父親は、最上の洋服、手に指輪、足に履物、そして、肥えた子牛を振舞い始めるのです。つまり、父親にとって、罪を認め、家に帰ってきた放蕩息子は、死んでいたのに生き返った者、正真正銘の自分の子なのです。
父親は、彼を息子と認めています。考えています。思っています。それなら、息子はどうすればよいのでしょうか。断り続けるべきなのでしょうか。絶対に、そんなことは赦されません。「わたしは、もはや子として呼ばれる資格はありません。そんな風に甘やかしてはお父さん、いけません。赦さないでください。わたしを愛して受け入れないでください。ただ、飢え死にしないで済めばそれで十分です。」このような言葉は、父親の圧倒的な愛を前に通用するはずはないのです。真剣に、息子と呼ばれる資格はないと考え、それは、当然なのです。しかももしも、当の父親が、父親自身が、わたしの息子と呼んでくれれば、それを拒むことはできるでしょうか。
使徒パウロがここで明らかにしようとすることは、この事実について、この現実を改めて、キリスト者が知ることが大切なのだということなのです。「あなたは誰ですか。神の子です。」それなら、私どもが神の子であることは、どこで確かめられるのでしょうか。使徒パウロはそこで直ちに、洗礼の礼典について語り始めます。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」洗礼を受けた、これが、私どもが神の子であることの客観的な証拠になっている、使徒パウロはそれを確信して告げるのです。洗礼を受けているということは、これ以上でもこれ以下でもない、その中間はないのです。右と左の真ん中、中間の状態などというのは、ないのです。洗礼を受けているか、いないか、はっきりしています。今、洗礼を受けている最中の人はここにはおられないのです。
そして、洗礼を受けたということは、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのだと言うのです。新共同訳聖書は、ここで洗礼にふりがなをつけています。これはバプテスト教会のキリスト者への配慮であると思いますが、このバプテスマという言葉が記されたことは、ここではとてもありがたいと思います。バプテスマとは、もともと浸すという意味なのです。洗礼を受けるとは、キリストに浸された、キリストづけにされた人ということです。キリストと一つにされることです。それが、「キリストに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」という意味です。さらにそれをパウロはこのように言い換えます。「たしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」キリストの死にあずかる、死にピタッと重なる、一つになるというのです。死んだ者は、葬られます。土に埋められるか、火葬されます。体が、亡くなるのです。
私どもキリスト者はすでに洗礼を受けているのです。それは、自分が神の子とされているということであります。主イエス・キリストと一つに結ばれることなのです。それは、自分で勝手にそのように考えているというわけでは、決してありません。聖書が、神の御言葉が告げる事実なのです。つまり、神がお告げ下さるのです。そうであれば、わたしどもが、あの放蕩息子のように、これを受け入れることができるし、しなければならないのです。「あなたは誰か。」私どもがこれに答える前に、すでに神がこのように呼びかけてくださるのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしが洗礼を施したではないか。それは、あなたを、わたしの独り子と一つにして、あなたをわたしの子ども、養子にすることであったのだ。しかし、よく考えなさい。あなたのために、わたしの独り子があなたの罪を償い、十字架で死に、葬られたのだ。」「あなたは私の子だ。」
だから、私どもはこう答えることができるのです。「わたしは神の子です」
今日から受難週が始まります。世界中で多くの教会がこのときをキリストの最後の一週間に思いをはせるときとして過ごします。私どもも、水・木・金と朝の特別の祈祷会を開きます。主がわたしを義とし、神に生きる人間、罪に支配されない人間、罪に死んだ人間、罪とはもはや無縁の人間にしてしまわれたのです。そのためには、主が苦しまれたこと、この事実を深く知ること、考えること、認識することが、とても大切なのです。それを教会は体験してきたからこそ、この受難週という呼び方が生まれ、さらには、復活祭前の6週間をレント受難節と呼んで、特別に過ごす教会も多いのです。
ただし、私はここで、最後に、はっきりと発音しなければならないと思うことがあります。表面上は、きわめて微妙な違いですが、しかし重大な違いを生み出すことになるものです。特に、キリストの御苦しみとその死に思いを深めるべき受難週のこのとき、「御子なる神はこれほどまでに苦しまれた、あなたはこの主のために何をすべきか」このように考えること、このように神が私どもに訴えておられるのでしょうか。これは、実に微妙な問題です。私どもキリスト者は、おそらく、ほとんどの方が、この御苦しみを思い、何とか、この主にお報いする生涯を送りたいと志すのではないでしょうか。御苦しみが、他ならないこのわたしの救いのため、このわたしがこのキリストを殺したのだということが分かれば、これからは、この主のために、生きてゆこうと願い始めるし、それが、当然ではないでしょうか。この受難週を真実に過ごせば、決して、「罪のなかにとどまる」とか、「罪を犯してよい」などという発想は出てこないはずです。
しかし、そこでこそ、誤解してはならないことがあります。それは、聖化の歩みが、私どもの応答、服従に根拠を持っていると、考える間違いです。義とされる恵み、救いの恵み、神の子とされる恵みは、まさにただ恵みのみ、信仰のみであるけれども、いよいよそこから始まるキリスト者の生活は、聖化の歩みからは、キリスト者である自分たちの力によって、信仰の決意によって成り立つのだと考える誤解です。私どもはもしかするとこのような誤解にもとづくからこそ、「自分は、まだまだ聖化の歩みにおいて駆け出しだ、いや、成長が見られない。自分などは、いつまでたっても罪に死に、義に生きる、神のために徹底的に従った歩みは無理だ。」ついには、
「仕方がない」という開き直りにも似た、信仰生活が始まるということもないわけではないのです。
ここでパウロが言っていることは、単純な事実であります。私どもは神の子であって、洗礼を受けた人間であって、それは、事実、キリストと一つに結ばれ、キリストの死と命に浸され、つけられ、一つとされている存在なのだということです。これは、事実であって、やがてそうなる目標でも、あるべき理想を示しているのでもないのです。「あなたがたは、死んでいる。この事実を知りなさい。この事実を認めなさい。考えなさい。そして、ここから歩き始めたらよいのだ」これがパウロの勧め、命令なのです。
なによりもこれは、パウロの言葉であって同時に神の宣言なのです。父なる神が洗礼を受けた私どもに、「あなたがたは、わたしの独り子の死と命に結ばれ、罪に死んで新しい命に生きている者だ、新しい人間なのだ」このように宣言して、抱きしめてくださっているのです。
加藤常昭先生が、このテキストからの説教において、大変興味深いご自分の例を語られました。
ある病を得て、とうとう入院なさることになった。主治医の先生に、入院を命じられたそうです。やれやれと思う一方、望みも生まれる。病院に入って、お医者さんの治療を受けたら必ず治るのだなと望みを抱く。主治医もそう信じて入りなさいと言ってくださる。そして一つの夢が生まれる。入るときには痛くて呻きながら入るけれども、出て行くときにはきれいさっぱり痛みから解放されて、やれやれこれで安心と思って出るのだろうと幻を持ちます。治療を重ねる。ずいぶん痛みは薄らいだのだけれども、まだ残っている。さてまだ一週間くらいいなければならないかなと思っているところへ、ひょっこり主治医が来られて「明日にでも退院しますか」びっくりする。一方では、ああ帰れるのかと思うとうれしいのだけれども、他方では不安です。痛みが残っているのに、退院とはどういうことかという思いがある。あとで、部長が来られて、大変丁寧に説明をしてくださった。われわれのなすべき治療は終わったと判断したのです。後は、ゆっくり自宅で静養してくだされば治ります。
そこで、やはり、神学者らしい加藤先生だと思わされますが、一人の神学者の終末論を説明する事柄を思い出したそうです。それは、有名なD-デイとⅤ-デイのたとえです。第二次対戦のとき、連合軍がノルマンディーに上陸したこと、この決定、決行日がディサイドデイで、これによって、連合軍の勝利は決定したのです。しかし、歴史上の戦闘終結は、なお数日を要しました。ビクトリーデイは、なお、ずれがあったのです。残兵との戦いが残ったのです。残兵といえども、安心していれば、気を抜けばやられてしまいますから、なお真剣に注意深くなければならないはずです。しかし、体勢は決してしまったのです。
これが、主イエスの十字架の勝利と再臨の勝利との間を生きる教会の現実です。そして、加藤先生はそこで、自分の病にたとえて言うのです。痛みは残っている。しかし、もう自分はこの病勝ったのだ。かつ道はちゃんとお医者さんが備えてくれたのだ、後は自分が注意深く、その勝利の道をこつこつ、こつこつ歩き続けるだけなのだ。そう考えて、確信をもって治療を完成するためになお戦うだけなのです。
加藤先生は、最後にこう言いました。「パウロがここで言っている主イエス・キリストの勝利は、そう言っては申し訳ありませんけれども、お医者さんの治療よりもっと確かなものであります。」まことにそのとおりであります。
私どもの信仰の旅路、それは、父なる神がここでパウロを通して宣言してくださった洗礼の事実を受け入れることに始まるのです。ここに立ち続ければよいのです。キリストは私どものための苦しみをことごとく味わい、最後には神の裁きとしての死、罪の支払う報酬としての死を事実死んでくださったのです。そのようにして、命を確かなものとされたのです。ビクトリー、勝利を私どもに与えてくださったのです。ただし、そこでなお注意深く生きなければなりません。敵がいるからです。残兵がいます。悪魔が存在します。だからこそ、教会生活を怠ってはならないのです。教会とともに生きることです。教会への奉仕が私どもを支えるのです。繰り返し御言葉を聴き、繰り返し聖餐の礼典を受けるのです。
祈祷
受難週のなかで、救い主の苦難と死を深く仰ぎ見ることができますように。そこで、自分自身が死んでいること、自分がすでに罪に死んでいるのだというあなたの宣言に耳を開き、心を開き、これを認めることができますように。自分の罪深さに涙しながら、しかし、同時に、罪に死んでいる人間としての幸いをも深く味わわせてください。そして、いよいよ、喜びと確信をもって、救いの恵みに感謝し、賛美し、あなたに従うことができますように。アーメン。