過去の投稿2006年4月26日

「使徒信条・我は信ずとは」 06年2月12日

「使徒信条・我は信ずとは」
賛美歌 前310・後 380

ローマの信徒への手紙第1章16節-17節  2006年2月12日

  おはようございます。
主イエス・キリストがお甦りになられたこの朝、あなたの上に、わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、豊かにありますように。

  使徒信条を学ぶシリーズの第二回目、いよいよ、本文の最初の言葉、「我は~信ず」という言葉を学んでまいります。ただ今、朗読していただきました、聖書の御言葉に、「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」とありました。これは、大変重要な聖句であります。救いとは、信じること、これにすべてが掛かっていると言うのです。逆に言えば、信じるだけで救われるということです。

 しかし、そこで問われることは二つの事柄であろうかと思います。一つは、何を信じるのか。という信仰の対象の問題です。もう一つは、信仰とは、そもそも何かという信仰の本質の問題です。

 先ず、何を信じるのかということです。教会は、洗礼を受けたいと願い出る人に、教会が信じている聖書の信仰を教えなければなりません。教会が信じている聖書の信仰箇条をまとめあげたものが、使徒信条です。つまり、洗礼を受けるためには、使徒信条を学んでいただければ十分ですし、使徒信条を読めば教会が何を信じているのか、キリスト者は何を信じるべきなのかが分かるのです。

 次に、「信仰とは、何か」ということですが、その前に、そもそも「誰が信じるのか」を、考えてみたいと思います。それは、他の誰でもなくこの「わたし」が信じるということであります。「我、信ず」ということです。わたしが信じなければ、わたしの救いは成り立ちません。
 ところが聖書を読んでみますと、「私が信じる」という箇所より、むしろ、「私たちは信じる」「わたしたちの神」「わたしたちの信仰」と、「わたしたち」という複数形での表現が圧倒的に多いことに気づかされるのです。使徒信条で明らかにされているこの信仰を伝えてくれたのは、先輩たちつまり、教会です。信仰告白とは、いわば教会の信仰を承認すること、アーメンと言うことなのです。たといどれほど強く神を、イエスを信じていても、もしもそれが、自分勝手、自己流のものであれば、それは真の信仰とは呼べません。使徒信条で告白されている教会の信仰から離れては、信仰も救いもないのです。つまり、「我は、信ず」ということは、「我らは、信ず」という教会の仲間たちの信仰に結ばれて、なしているものなのです。

 もう一つの問題は、どの程度まで信じるのか、どのくらい信仰が深くなれば、洗礼を受けられるのかということです。牧師として、ときどき、このような訴えをお聞きすることがあります。「わたしは自分が本当に信じているのか、自分の信仰心に自信が持てません。信じている気持ちになることもあれば、神さまが遠くに感じることもあるのです。こんな自分では洗礼を受けるには早いし、ふさわしくないと思います。」
 
 わたしはすぐに、申します。「信仰とは、あなたの感情や信仰心ではありません。信仰とは、神が与えてくださるものです。そもそも、罪人である人間には、真の生ける神を信じる能力などはないのです。」それなら、なぜ、このわたしは信じているのでしょうか。それは、神が信仰を与えてくださったからです。信仰は神の贈り物です。
 ですから、信仰とは、徹底的に、外に向かうのです。与えてくださった神を見つめることです。私どもは実に些細なことで、信仰が動揺するものです。けれども、神は動揺されません。ですから信仰は私どもの勝利となり、私どもを揺るぎなくするのです。どうぞ、あなたも、あなたに信仰のともし火をつけてくださった神に目を注ぎ続けてください。そのときには、ともし火が燃え上がります。しかも、その火は、教会の仲間たちから手渡された火でもあります。我は信ずということは、我らは信じるという教会の交わりのなかで成り立つのです。今日は日曜日です。どうぞ、教会の礼拝式にお越しください。