「神に生きる」
2006年4月30日
テキスト ローマの信徒への手紙 第6章1節~11節 ④
「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも自分は罪に対しては死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
ただ今朗読した箇所を学んで礼拝を捧げて、本日で、四回目になります。予告では、次の箇所を学ぶことといたしておりましたが、どうも前に進むことができません。しかし、本日で、このテキストを読み終えることといたします。
本日の説教の題は、「神に対して生きる」と致しました。神に生きるとしてもかまいませんし、神に向かって生きるとしてもよかったかと思います。これは、第11節の御言葉から、そのまま引用したものです。
「生きる」ということ、生きるとは何か。人間が、人間らしく生きるとはどのようなあり方を意味するのか。これまで数え切れないほど多くの人が書いてまいりました。語ってまいりました。これからも、書かれ続けることでしょう。
人間が生きるということは、人類の経験ということではなく、いわば、ひとり一人の人生の経験に根ざしてこそ語りうるものであるからだと思います。そのひとり一人の人生経験、そこから生じた人生観は、それが、真実なものであり、その問題を尋ねようとした探求が深ければ深いほど、苦闘したものであればあるほど大切なものです。一人の人の経験は、他の人にとっても、興味深いし、貴重なものだと思います。
私どももまた、今朝、与えられた神の御言葉である聖書から、生きるとは何か、キリスト者が、人間が真に生きるとはどのような人生を生きることになるのかを聴こうと致しております。使徒パウロに明らかにされた、私どもの人生、生きるということの本質、本当の姿がここで明らかにされているのです。
そして、生を考えるとき、その裏側にある死の問題を避けて通るわけにはまいりません。
私どもの教会では、先月から、会員一人ひとりに、葬儀のための希望書、遺言を書いていただきました。何人もの方が丁寧に書いて提出してくださいました。書かれた方々は、おそらく自分自身の死、肉体の死を見つめなければならなかったかと思います。いったい、どのような思いで記されたのでしょうか。許されるならば、祈祷会などでひとり一人に分かちっていただくなら、すばらしいと思います。死について考えさせられることは、裏返せば、今の生、命を真剣に考えさせられること、どのように生きるべきかに直結します。
死の問題、これは、実は、普段の生活のなかでは、遠いことのように思えてしまうかもしれません。野並の交差点に、葬儀場が建てられています。そのビルの前は、毎日、バスの乗車待ちの方々が長い列をつくっています。そして毎日、どなたかの葬儀が営まれています。しかし、それを横目で見ながら、死について、ひとり一人が考えるというわけではないと思うのです。死は、自分の肉親との死別において初めてのように、その恐怖、その圧倒的な力を見せつけられるものかと思います。ところが、他人の死の知らせを聞いても、私どもは、死の現実味を覚えられないのです。
さてそれなら、ここでパウロが語っている死とは、いったい誰の死の話題なのでしょうか。使徒パウロは誰の死について記したのでしょうか。もとよりパウロ本人の死についてではありません。自分の肉親の死についてでもありません。それなら、私どもは、切実にその人の死を考えることも、ましては、自分の命、自分がどう生きるべきかを考えることから遠ざかってしまうということになるかもしれません。
今、ここで使徒パウロは、一人の人間の死に集中します。どうして、この一人の人の死を取り上げるのでしょうか。それは、この方の死をよく考えること、この一人の人間の死の姿を直視すること、この一人の人の死の事実を信じることが、実は、人間の死の問題の究極の克服になるからなのです。そうであれば、さまざまな宗教者、哲学者たちはもとより、すべての人間は、使徒パウロに導かれ、聖書に導かれて、この一人の人の死だけをしっかり見ればそれで十分なのです。
「生ける屍」という言葉があります。生きていながら死んだも同然な人間という意味でしょう。それは、どのような人間をさすのでしょうか。考えて見ますと、人間だけが、生ける屍になりうると思います。動物には、あてはまらないのです。人間が、生き生きとして生きている状態、それは、希望を持つということに基づくのではないでしょうか。希望に向かって進んでいるとき、それは、どきどきするような充実感を伴うのではないかと思います。命の方へ向かって前進するときに、屍は命に満ち溢れ、命が躍動し始めるのではないでしょうか。
それなら、命の方へ進むとはどこに向かうことなのでしょうか。希望に向かうとは、具体的にどの方向に歩みを向けて進むことなのでしょうか。それは、命の創造者なる神に向かうということです。
人間だけが、この神を知ることが許されています。人間だけが、この創造者なる神と関わりを持つことが許されています。いへ、人間は、この神との絆を結んでいただいたとき、初めて、生きるものとなる、それが、創世記第二章で最初に明らかにされている人間の根本的な姿でありました。だからこそ、先ほども申しましたが、人間だけが「生ける屍」になりうるわけです。この言葉は、実に、罪人である人間の姿を表現する言葉であると思います。命から、永遠の命の躍動から、切り離されている悲惨な姿です。
その意味で、救われた人間とは、誰のことかと申しますと、この神とのかかわりを与えられている、神との命の交わり、つながりを与えられている人間のことです。神に生きるとは、神のほうへ、神に向き合って生きることです。また同時に、この永遠の命は、神の賜物ですから、神から生きる、神により頼んで生きるという方向性でもあります。
創世記第二章で、人間は、その鼻に神が命の息を吹き入れられて生きた人間となったと記しています。そのイメージは、神に顔を向けるということです。神に背中を向けている人間は、息をふきいれていただくことはできません。そしてそれは、まさに今ここで起こっている出来事そのものを指し示しています。つまり、礼拝です。神を礼拝する。神に礼拝を捧げることが、神の向くことです。神に対して生きることそのものです。つまり、聖書の人間のイメージ、人間像とは、礼拝する人間以外のなにものでもありません。礼拝式によって、神の命、聖霊なる神を私どもは受けるのです。その意味では、礼拝をやめたら人間をやめることを意味するといっても過言ではありません。生きている人間でなくなってしまう。生ける屍に戻ってしまうのです。
逆に申しますと、救われた人間、命に生きている人間、神に対して生きている人間は、礼拝したくて仕方がない人間になるということです。それが救われた人間、赦された罪人の特徴なのです。礼拝から遠ざかるなら、それだけ、死の臭いが私どもをしみついてしまうのです。
しかしそれなら、どうすれば死せる屍たる人間は、神に生きることができるようになるのでしょうか。そこでパウロは、洗礼のことをここで取り上げて、一生懸命語り続けました。「生きるということは、洗礼を受けることだ。洗礼を受けたということは、神に生きるということなのだ。だから、洗礼を受けた人間は、皆誰でも、神に生きている人間なのだ。」そう言うのです。
繰り返しますが、命なるお方は神のみです。聖書の神は、命なる神。創造者なる神なのです。生かす神です。すべての生きとし生けるもの、被造物の命は、ただこの命の源なるお方からの賜物でしかないのです。誰一人として、命を創造することのできる存在はこのお方の他におられません。そして、聖書は言うのです。主イエス・キリストは、命なる神の、その独り子なのです。御子なる神です。ところが、その御子が神のまま、人間となられたのです。人間となられたのは、実に、死ぬためであったのです。御子なる神が、死なれたのです。ありえないことが、しかし歴史上、起こったのです。
御子イエス・キリストは命の神であり人間です。ですから、御子イエス・キリストは、地上において徹底して、まさに徹底して父なる神に生きられた人間です。一から十まで、最初から最後まで、完全に、まったく神へと向かって生きられました。神の御前に完全な人生。完全な生き方。完全な服従のご生涯でした。その意味で、歴史上、神に生きた人のなかで、その頂点に立つ。その最先端にいるのです。その後に続く者たちから比べられないほどの差がついて神に生きられました。
そして実に、その御子イエス・キリストが死なれたのです。完全に死なれたのです。それは、何のためなのでしょうか。古い人間、あの罪を犯した人間のトップバッターのアダムにつながる人間の死を死なれるためでした。この死は、未だ、誰も経験していない、罪の刑罰としての死なのです。第23節に記されている通り、「罪の支払う報酬」の死を死なれたのです。
ですから、このお方の死は、こういうことを意味するのです。わたしや皆さんが支払うべき死の報酬は、すでにキリストが支払ってしまわれたということです。しかも、誰に支払ったというのでしょうか。神に対してです。ただ神のみに向かってであります。人間が犯す罪とは、たが神に対して犯しているのです。それが、聖書が言う罪なのです。ですから、この罪を犯した人間は、ただ神にのみ罪を赦していただく以外にありません。サタンに罪を犯す人間はおりません。サタンに裁かれる人間はおりません。神のみが私どもを裁かれるのです。ところが、神は御自身の御子の十字架の死において、これを私どもが、わたしと皆さんが支払うべき死の報酬として受け入れられたのです。もはや、この支払いを二重に支払うことはできませんし、その必要はまったくなくなっているのです。命なる御子が死なれたからです。しかも、この御子は、死んで終わってしまったのではありません。父なる神は、このお方を死人の中から甦らせられたのです。徹底して神に向かって生きられた御子イエス・キリストは、今もなお、徹底して、生き生きと神に対して生きておられるのです。
そしてここでもパウロが言いたいことは、このことです。私たちは皆、この主イエス・キリストに結ばれる洗礼を受けているではないか。キリスト者とは、このキリストと結ばれた人間のことではないかと言うのです。生ける屍となってしまった人間は、ただ、キリストが私どもの死を死んでくださったことによって、キリストの死と重ねあわされます。私どもの死ぬ、死んでしまったということです。
それなら、もともとが生ける屍に過ぎない罪人である人間が、しかもイエス・キリストとともに死んでしまった人間が、どうやったら、神に対して生きることができるというのでしょうか。それは、ただ一つ、神の御子イエス・キリストが神に対して生きておられるからなのです。
パウロは、11節で、結論のように、キリスト者に命じるのです。「キリストは死なれたではないか、あなたの罪のために、ただ一度死なれたではないか、しかもこのキリストは、今生きておられる。それは、神に対して生きておられるということではないか。」「洗礼を受けたあなたは、イエス・キリストと結ばれている。結合している。一緒に成長しているのだ」先週は、一体になるとは、共に成長することと学びました。キリストと、キリストのご生涯と私どもの人生、生涯は、信仰により、洗礼によって、ぴたりと重なってしまっているのです。重ね合わせられたのです。キリストの生涯はわたしの生涯となってしまうのです。上から重ねあわされてしまうのです。ですから、パウロは結論として、「このように」と言って、あなたも、あなたがたも、キリストにおいて起こったみ業は、あなたにも同じように当てはまるのですよ。当てはめられる。重ねあわされる。だから、あなたも、自分の罪に対して死んでいるのです。キリストと同じように神に対して生きているのです。と言うのです。それ以外のキリスト者はいないということです。
しかしここでもまたすぐに、私どもの心の内側から、先週も申しました同じことが、同じ思いが湧き上がってくるかもしれません。先週の歩みを振り返ってみると、確かに教会を出たときには、主と共に新しい一週間を過ごし、主のために志を高くして生きよう、奉仕しよう。祈ろうと決心しながら、家に帰って普段の生活が始まり、月曜日になって学校に行き、職場に行くと、またやってしまった。また、言葉と思いと行いとによって、どこが、罪に死んでいるのか、どこが、神に対して生きているのかという現実の自分の、まさに自分で自分に腹が立つほど、弱い信仰者の自分がいる。こんな自分では、未信者の物笑いではないか。誠実な人から見れば、わたしの生活など、決して神に生きている人間どころか、信じて生きている人間であることすら、おこがましいのではないか、自分に悲しくなるほどです。
しかし、パウロは、そのような私どもに向かって、命じます。11節で、「考えなさい」と命じます。これは、「計算しなさい」と訳してもよいのです。キリストが罪に死んで神へと復活されたということを計算してみると、答えはどう出るのでしょうか。正解は何でしょうか。それは、「あなたも罪に死に、神へと復活している」これが計算の答えです。その答えがきちんと出るまでは、計算があっていないのです。この計算は、難しい方程式ではありません。信仰の計算なのです。神の御言葉に従った計算方法なのです。この計算のシステムは、神秘です。この神秘は、しかし神がなしてくださるものです。しかも、歴史上なされたものなのです。私どもに求められていることは、この神の計算を信仰によって受け入れるだけなのです。これが私どもの計算です。こう計算した人、考えた人、神の御言葉を受け入れた人は洗礼を受けます。そして洗礼によって、神がその御言葉によって明らかに約束したとおりしてくださるのです。この神の計算にたてつける人間はおりません。神の計算を「間違っている」と言える人間はいません。この神の計算は、人間には、恵みとしてしか理解できません。それもそのはずです。私どもは、何の苦しみも味わわないで、一滴の血も流さないで、そのかわり、御子の御血がすべて流されたことによって、私どもの支払いは終わった、免除されたというのですから。これほどありがたい計算、おまけのおまけのような計算方法は、この世界では考えられないものです。しかし、この計算方法以外で、いったい、私どもに命の道、救いの道があるでしょうか。ありません。だから、この神の計算を、私どももそのように計算するのです。考えるのです。認めるのです。
そうであれば、主と共に死んだ人間に、どれほど、罪が、サタンが、言いがかりをつけてきても、もはや、手遅れです。死んだ人間は、罪も悪魔も生き返らせられません。罪とサタンが攻撃し、勧誘し、仲間に引き入れられるのは、生きている間だけです。古い人間、アダムいらいの人間だけです。罪は、その肉体的な命を攻撃します。誘惑します。そして、そそのかします。お前は、神に生きていない。もともと、お前には無理だ。お前は、俺たちの仲間ではないか。俺たちと共に、生きることが、人間の勝利なのだ。成功なのだ。
しかし、私どもキリスト者は死んだのです。もしも「これから、明日から、死にます」と言うキリスト者がいれば、それは、間違っています。洗礼を受けたことは、すでに葬られたということだからです。洗礼を受けたか受けないか、これは、現実、出来事、事実にもとづくことです。はっきりしています。それと同じように、死んだのか生きているのか、これもはっきりしています。パウロは、洗礼を受けた人は、「私たちが皆」と言って、例外を認めないのです。認めさせないのです。誰でも死んだ事実なのです。それを信仰によって、知ること、考えることを使徒パウロは求めているのです。
それなら、死んでいる人間が、なお現実に罪を犯しているのは何故でしょうか。それは、肉体を持っているからです。ですから、パウロは肉体を打ちたたいてでも服従する。罪と戦うべきだと一方で言うのです。(コリントの信徒への手紙一9章20節)これは、矛盾したことではありません。私どもの現実の経験そのものです。しかし、そこでこそ、計算が必要なのです。考えることが求められているのです。罪と戦っている人間、キリスト者の常識があります。大前提があります。それは、自分がすでに、罪に死んでいる人間だということなのです。キリストと共に死んだ人間であって、支払いは終わっているということです。サタンは、全力を挙げて、キリスト者を騙します。未信者の方々にこの真理、福音を悟らせまいとします。しかし、私どもは、計算しなければならない。神の約束の御言葉、福音の宣言を信じなければならない。
ところが、そこでも屁理屈を言う人間が登場します。「それなら、今我々は生きた肉体をもって、肉体で罪を犯しているけれども、そrへあ、仕方がないことだ、神は赦してくださる。つまり、我々は、心や魂において罪を犯さなければ、肉体が何をしようが仕方のないことだ。」実際に使徒パウロは、このような異端者との戦いをコリント教会で重ねました。しかし、主イエス・キリストは肉体をもってお甦りになられたのです。ですから、これは来週の学ぶ箇所ですが、私どものこの肉体もまた、断じて罪に売り渡し、協力させてはならないのです。
今、私どもは、生きています。神に新しい命、永遠の命、神の命で生かされています。今、私どもはここにおります。礼拝する場所です。これこそ、新しい人間の証拠なのです。神の計算式によって、私どもは間違いなく神の子。キリスト者であるという正しい答えが出されています。もし、少しでも、自分にとってこの神の言葉が大切、この礼拝式が自分にとって必要であるとお考えになられている方は、まさに、神の計算によれば、神の子へと導かれている方に他ならないのです。そうであれば、洗礼を受けることを志願したらよいのです。
先週、ある方が、自分は、十戒を唱えながら、自分の生きるべき法、のりは、十戒にある、ここにあると仰いました。その通りです。礼拝式で神に見え、礼拝すること、これが、神に生きる新しい命、キリスト者の特徴なのです。この生きているという言葉は、永遠に生きるというニュアンスがあるのです。これこそ、本物の命です。人間に、私どもに約束されている、まことの命は、80年、90年で終わらないのです。キリスト者はすでに永遠の命によって生きているのです。
最後に、何故、神に対して生きるという新しい私どもの生きるというあり方へと導かれたのか、その源の力はどこにあるのかを考えて終わりたいと思います。生ける屍を生かすのは、神です。つまり、神が私どもに御自身の永遠の命を与えることを求めていてくださる、願ってくださる、欲してくださるのです。この神の願いが、ここにいる私どもに届いた、成就したのです。これが、神の熱心です。神の熱意です。それを恵みと呼ぶのです。あるいは、神の熱愛と呼んでもよいのです。私どもを永遠に生かすために、ご自身の独り子主イエス・キリストを与えてくださった神の激しい愛が、今、ここにおられる一人ひとりに注がれています。つまり、私どもはそのように神に向かわれているのです。神ご自身が、このわたしへとその命をたえず燃焼しておられるということなのです。この神の命が、地上の教会を生み出したのです。この礼拝式で、神は豊かにご自身の命を信じて御言葉を聴いている私どもに注がれています。この命を受け、これに生きることが、私どもの生きることです。それが神に向かって生きることなのです。私どもは、今週も「主よ、憐れんでください」と祈りつつ生きる以外にありません。しかし、それこそが、神に向かって生きている証拠でもあります。神に対して生きている、生かされている今週の歩みを、大切に、感謝しながら、大胆に神のために生きてまいること、これが私どもの日々新しい志です。
祈祷
私どもを御子キリスト・イエスと結び合わせてくださる洗礼を施してくださいました父なる御神、洗礼を受けるにたる信仰を与えてくださいました聖霊なる御神、どうぞ、私どもに信仰を富ましめてください。御言葉を信じる信仰です。御言葉どおりに計算する素直な信仰を豊かにしてください。そして、いよいよ、罪に死んでいる自分、それだけに、罪を犯さないように戦う人間にしてください。また、同時に、そこで、具体的に負けてしまってなお、主よ、憐れんでくださいと、勝利の確信をもって素直に、赦しを叫び求める者としてください。そして、キリストとともに、あなたに今生きている、この命を、新しい一週の歩みの中で、なお、躍動させてください。また、この命を分かち与えるべき人に出会わせ、分かち合わせてください。