過去の投稿2006年5月14日

5月14日

☆  先週の朝の祈祷会を終えて、一人のご婦人が訪ねて来られました。この方は、一年あまり前に、数回、朝の祈祷会に出席してくださった方でした。突然、お尋ねくださったのは、今週、東京に転勤になられるからとのこと、つまり、手土産をもって、ご挨拶しにきてくださったのです。このことは、あるようになかなか、ないことです。とてもうれしく思いました。教会で励ましを受けて、そのときの苦しい状況を克服することがおできになったとのことです。東京において、あらたに教会に導かれるようにと祈ります。また、私どもの教会の集会、交わりが用いられたことはそれだけでもうれしいことではあります。多くの人が、教会に距離を感じています。憧れや好意を持っていてくださる方もまた少なくないのですが、親しい人に直接にさそってもらえないとやはり敷居が高いのです。私どもの務めは、出会う人に、教会の礼拝式、集会へとお誘いすることです。出会いの多い方は、それだけ、多くのチャンスを神に与えられています。そのチャンスを用いてください。また、そうでない方は、出会っている人、その人に心を込めて深く出会うことです。

★ 先日、講義のなかで、一人の学生から、神社に入学祈願をして、志望校に進学できたので、お礼参りをしたということを聞きました。もとより、神社に詣でることを推奨するわけではまったくありません!が、わたしは、心から、彼女を誉めました。なぜなら、多くの人がご利益を求めて神社に詣でますが、お礼に行くということはごくわずかであるからです。ルカによる福音書第17章12節以下の物語のなかで、思い皮膚病を患っていた10人の人たちが、主イエスによりすがって、癒しを求めました。主イエスさまは、彼ら全員の病を癒されたのです。ところが、主のみもとに感謝しに戻ったのは、外国人(サマリア人)一人だけでした。主イエスは、この人を心から喜ばれたのです。そして、この人に、体の癒しだけではなく、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」つまり、罪の赦し、永遠の救いのみ業をあらわしてくださったのです。キリスト者とは、この10分の一人ではないでしょうか。キリスト者とは、神の恵みに「打たれた」人間のことです。自分に施された驚くべき恵み、御子の命の代価を支払われてあがなわれた者として、自分を見るとき、心の底から、神を第一としたい!神に感謝したい!神に喜ばれる生き方がしたい、神にかなう歩みをつくりたいと「志」が与えられたのです。神さまを第一に生きてゆきたい!これが、キリスト者のいわば本音なのです。こんなにすばらしい、豊かで、恵みにあふれた人生はない。これが、キリスト者の生きる道です。

☆  先週の使徒パウロの勧めがそこでこそ、私どもの新しい存在を「規定」します。「神の道具」です。わたしどものあるがままの姿、このままの自分の全存在が、神のお働き、神の義の戦いの道具、武器となるのです。なっているのです。それまでは、神の働きに反抗する道具でしかなかったのにです。道具は、誰が使うかによって、何のために使うかによって、まったく違った結果が生じます。私どもは、今すでに神の道具とされているのです。畏れ多いことです。この道具である自分を、誰のために使いましょうか。何のために使いましょうか。使徒パウロは、「神に捧げなさい」と命じます。もったいぶることはできません。神にささげるのです。神がそのお働きのために使ってくださるからです。このことの意味を深く問いながら、そして喜びながら、教会の奉仕にいそしんでまいりましょう。

★  伝道月間。私どもの普段の礼拝式でも、言うまでもないことですが、新来者が来られることを祈り求めています。私自身、福音の真理が新来者にも響くように、届くようにと、祈りを集めて準備し、礼拝をささげます。礼拝こそ、最高の伝道の場、つまりキリストの御臨在が鮮やかに示される最高のときと場だからです。その意味で、礼拝をつくる会衆ひとり一人が伝道、キリストの証し人として、期待され、責任を担わせられています。「あぁ、ここにキリストが、神がおられる。わたしも自分の罪を告白して、赦しにあずかりたい・・・」そのような「礼拝体験」を求道者に、未信者に神が与えてくださるために、「道具」である私どもの礼拝の姿勢が問われています。よき礼拝者になれるように祈り求めましょう。賛美を歌う姿勢。信仰告白を唱える姿勢、それらが、証しとなります。「アーメン」と力を込めて唱和することも、基本です。

☆  本日、伝道新聞22500部が、新聞折り込で、各家庭に届けられました。午後は有志で、滝の水地域に配りに出かけます。主イエスは、今、ご自身の民を通して、福音を広く語ってくださり、主の選びの民でありながら、失われたままの羊を訪問してくださいます。この新聞が、主イエスのお働きの道具となりますように!