過去の投稿2006年5月22日

「真のレジャーを楽しもう!」06年5月21日

「真のレジャーを楽しもう!」
2006年5月21日 伝道礼拝式

聖書朗読 ヘブライ人の手紙第4章1節~11節
「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。
そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、
再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、/「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。
もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。」
 

 今朝、ここに、神に招かれたお一人おひとりの上に、神の恵みと祝福が豊かにありますように。さらにわたしは、お一人ひとりに、心からおめでとうと申し上げたいと思います。

わたしは、この教会の牧師をしています。牧師という人間は何のために生きているのか、ご存知でしょうか。それは、今日のこのときのために生きているのです。それが、わたしの務めであり、喜びなのです。この日にすべてをかけてよいと思っているからです。これほど、うれしく、光栄なことはないと思っているからです。何故そのように思うのでしょうか。それは、教会の礼拝式とは、人間がそのすべてをかけてよい場所、そのすべてを注ぐべき時間だからです。

ですから、わたしは皆様にもこう断言したいと思います。今日、ここに来てくださった方は、あなたの人生の意味、生まれてきた意味、人生の目標、それが、今ここですでに達成してしまっているのです。その意味で、中学生も高校生も、これから、どんなに偉い人間になろうか、焦る必要はないのです。青年も、壮年の方も、年を重ねた方も、まったく同じです。これまでの人生をやり直し、もう一度、挑戦しなくても、ここで神を礼拝することができれば、それで、人生の目標、意味は十分に、十二分に達成しているのです。神は、私どもにすでに勝利を与えてくださったのです。それが、教会の礼拝式の意味、その恵みのすばらしさなのです。皆さんは、今ここで、人生の勝利者になったのです。神に造られた人間にとって、神さまを礼拝することこそ、人間の究極の、最高のあり方、仕事だからです。それを、年若い者も、年を重ねた方も今、一緒になしている。一緒に味わっているのです。

 ですから、わたしは、今日、ここに来られたお一人おひとりに、心からこうお伝えしたいのです。おめでとうございます。あなたは、今ここで、人生の究極の勝利者、その目標に到達しておられるからです。
 
しかし、どうしておめでたいのか。いったいこの自分の何が、どこが、おめでたいのか。きょとんとなさるかもしれません。むしろ、「いや、いきなりそんなことを言われても、牧師さんは、わたしがどれほど心に悩みを抱え、心に苦しみ、悲しみを抱えて生きているのか、知らないからのんきなことを言っているのだ」と、そのようにお思いになられる方もおられるかも、しれません。確かに、教会にお見えになる場合、これまでの人生のなかでも、苦しみや悩みが募っている、どうしようかと不安に駆られている、そのような場合の方が多いと思います。けれども、そのことをもって、わたしから「おめでとうございます。」と言われるような立場にないとは言えないのです。

もしも、教会に来ていないのなら、確かに、言えません。しかし、今、紛れもない事実があります。皆さんは、神の御前にいるのです。天地を創造した神の御前におられるのです。いったいこれ以上に、すばらしい祝福があるでしょうか。ありません。今朝、皆様は、遂にこの祝福にあずかっておられるのです。今、皆様は、この神の安息の中にいるからです。人間に与えられている、約束されている安住の地それが、神の御前に生きること、礼拝することなのです。その意味では、礼拝式のこのとき、場所は、天国の始まりです。天国が地上に接しているときであり、場所なのです。

 今日の私どもの礼拝式に与えられている神の御言葉、聖書の御言葉は、ヘブライ人の手紙であります。この手紙は、もともと、一つの教会でなされた説教であろうと、聖書の研究者たちが教えてくれています。私どもと同じような日曜日の朝、ただ今、朗読した一節が、説教の一節であったわけであります。今日からすれば、かなり長い説教であります。1時間30分をゆうに越える説教であったのです。しかし、語る方も、聴く方も、実に真剣であったと思われます。そのような重大な内容の言葉が語られているのです。

 説教者は、ここで一所懸命、主の日の礼拝式がどれほど大切なものであるのかを訴えています。たとえば、「だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。」という言葉があります。安息、休み、平安が与えられている私たちは、これを決して粗末にしてはならない、この安息を受け止めそこなうことがあってはならないと、呼びかけているのです。逆に申しますと、この安息から、離れて行ってしまった人、離れそうな人がいたからです。そしてそれは、このヘブライ人の手紙の読者たちだけの危険性ではなくて、そのはるか1000年も昔の信仰の先輩たちもまた、実際に、この安息から飛び出て、安息のなかに入れなかった人が大勢いたからです。

エジプトで奴隷生活を強いられていた古の神の民は、偉大な指導者モーセによって、そこから脱出させていただきました。神は、このモーセによって、神の約束の地、国に導きいれようと救いの御業をなしてくださいました。ところが、そのとき、神の民は、神が導き入れようとなさったにも関わらず、神を信じることを途中でやめ、中途半端になり、不平不満をぶちまけました。神は、モーセの次の指導者としてヨシュアをたてられましたが、ヨシュアとともに約束の地に入れた人は、エジプトから出てきた人々ではなく、荒れ野で生まれた新しい世代であったのです。

  ちなみに、そのようなことがどこで書いてあるのかと申しますと、詩篇第95編です。ダビデの詩と考えられているので、ヘブライ人の手紙の著者は、ダビデによって、神がこう語られたと言いました。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」

  このあたりのことは、初めて聖書を読まれた方は、ちんぷんかんぷんで当然のことです。聖書の知識がないから、当然のことです。ヘブライ人の手紙は、旧約聖書に慣れ親しんでいるキリスト者に向けて語られているものだからです。しかし、神は、今、皆様にも、牧師を通して、語りかけていてくださるのです。まったく同じことを今、牧師を通して神は語られます。説教の言葉を聴いたなら、心をかたくなにしてはならないのです。

どうしてか。それは、先ほど紹介しました悪い見本があるからです。ユダヤの民は荒野で40年間、神さまに反抗し続け、その結果、神の怒りを受けて、「決して、彼らをわたしの安息に入らせない」と宣言されたのです。どうして、神さまの約束を目前にしながら、安息に入れなかったでしょうか。それは、彼らがモーセを通して聞いた神の御言葉を「信仰によって結び付けなかった」からです。神の御言葉が役に立たない。これほど、おそろしい不幸はありません。神の約束が益にならないのです。これほど惨めなことはありません。
 
だから、この著者は、真剣に訴えるのです。聴いた御言葉があなたに結びつくようにと。結びつくという言葉は、とても強い言葉です。混ざり合うというのです。神さまと人間とが、もう離れなくなってしまうのです。ある説教者は、ある金属とある金属とが化学反応によって一つの合金になってしまうようにと言いました。そのように神の言葉が聴く人に結びつく。それはどういう方法なのでしょうか。ヘブライ人の手紙は言います。「信仰によって」信仰によって結びつくのです。それ以外に神さまと私どもとの間に、化学反応は起こらないのです。しかし、信仰によって神の約束の御言葉を聴いて、結びついた人、化学反応を起こしていただいた人には、何が起こるかというと、たちまち、神の安息に入れるということなのです。

今朝、私どもは、神によって安息に入れていただいています。ところが、真に残念で、悲しいことに、それが分からない方もおられるのです。理由はただ一つ、神の御言葉を信仰によって聴き取らないからです。
礼拝式とは、神が、繰り返して、「おめでとう」「あなたは祝福されている」「わたしはあなたを愛している」との語りかけを聴き、神のそのご好意にあずかる場所です。けれども、もし、我々のほうで、「自分はちっともおめでたくない、少しも祝福されていない。神の愛を受けていないし、安息に入っていない」と、御言葉を信じないで、拒絶するなら、どうしても、この祝福が届かないのです。神さまの愛を拒否する人に、神は、無理やりに押し付けることはできませんから、「役立たない」ことも起こってしまわざるを得ないのです。

ヘブライ人の手紙の著者は必死に、真剣に、「よく聴きなさい。信じて聴きなさい」と命じるのです。「取り残されてしまうような人が出ないように気をつけなさい。」と勧めるのです。「信じたわたしたちは、この安息にあずかることができる」と宣言するのです。
そして今、信じた私どもはこの安息にここであずかっているのです。厳密に申しますと、あずかり始めているのです。天国において、完全にあずかることができますが、今は、その「前味」を、味わい、楽しんでいるのです。

 それなら、ここで言われている「神の安息」とはいかなるものなのでしょうか。そのためには、どうしても創世記の最初の物語を読んでいただきたいのです。神は、天と地を、生きとし生けるものを、秩序をたて、順序立てて創造して行かれました。つまり、わたしどもが生きている世界、宇宙とは、神が一挙に、たちまちにして、すべてを創造されたのではないと告げているのです。神は、第一日目に、光を創造し、世界を闇から救い出してくださいました。そして、第二日目、第三日目と命の神の創造のみ業が続き、その第六日目には、神にかたどって人間を創造されました。

しかもその記事のなかで、繰り返されている言葉があります。「神はこれを見て良しとされた。」つまり、すばらしいと宣言されたというのです。そのなかで、第六日目に創造された人間もまた、神がご覧になって、極めて良かったのです。そうして、この第六日目に、天地万物の創造は完成されました。

それなら、もうそれで、良いではないか。終わったのではないかと考えられるかもしれませんが、聖書は、告げます。第七の日には、神はご自分の創造の仕事を離れ、安息なさった。第七の日を神は祝福し、聖別されたと告げられています。
 
 これは、私どもに何を告げるのでしょうか。それは、我々、人類が今生きているこの歴史とは、神の歴史においては、第七日目であるということです。この第七日目は、すでに何千年、何万年過ぎているものなのかは分かりません。しかし、我々人類の歴史の全体は、この第七の日、つまり、神の安息の日の間における出来事なのです。

人間の歴史とは、神が安息しておられる歴史における歴史なのです。いわば、この世界、この歴史とは、神が祝福された時間なのですから、神の祝福に包み込まれているのです。
神は、天地創造の御業を終えて、そこから離れて、安息しておられます。しかしその後、何もしていないわけではありません。神がその後、どれほど、人間のために働き続けていてくださったのかは、旧約聖書そして新約聖書に明らかにされています。その神のお働きを、創世記第2章の言葉で言い表すなら、祝福し、聖別する仕事であります。

私どもが生きている世界とは、実は、神が祝福していてくださる安息の中に生きている世界なのです。これは、驚くべきメッセージではないでしょうか。なぜなら、私どもは21世紀の人間として、まったく明るい希望を持つことができないで、世界は、崩壊の危機の中で悲鳴をあげていること、きわめて深刻な状況に立ち至ってしまっていることを、少なくとも心ある者たちなら誰でも認めざるを得ないと思われるからです。我々は、少しもそのようなすばらしい祝福された歴史を見ていないと、自分ひとりの人生を振り返っても認めざるを得ないと思われるからです。

それなら、どうしてそのような深刻な、危機的状況に立ち至ってしまったのでしょうか。それは、第七日目の安息の世界にいた人間が、自分の意思で、自分の決断で、この安息の世界から飛び出してしまったからです。それが、創世記第3章に報告されている、アダムとエバの神の御言葉への反抗、善悪を知る知識の実を食べてしまった罪の行動なのです。人間は、神を礼拝するとき、人間として安息をもって、神の安息の中で、楽しく、愛と信頼と喜びに満ち溢れて生きていました。神の祝福に包まれ、生きていました。生きれていました。ところが、人間は、自分を神にしようと企てたのです。そのようにして、神の御言葉をないがしろにしました。御言葉を破り、捨て去ったのです。すると、人間は、自分を善悪の規準にして、自分を神にして、自分を絶対化して、自分を自己目的にしか生きれなくなって、安息することができなくなってしまったのです。楽園に憩えなくなったのです。つまり、私どもの生きにくさ、空しさ、苦しみ、混乱の原因は、この神の安息の外に飛び出てしまっているところにこそあるのです。

それなら、神は、飛び出た人間を仕方がない、自業自得と突き放してしまわれたのでしょうか。違います。神はその責任はまったくないのに、何とか、人間をご自身の安息のなかに、取り戻そうと願われたのです。願うだけではなく、それを実行されたのです。それが、神の御子を、人間とし、のみならず十字架につかせることによって、つまり、神が一方的に御自身の側で犠牲を支払って、その愛を示して、もう一度、私どもを安息のなかに入れる道を切り開いてくださったのです。

このキリストの十字架と復活によって地上に獲得され、作り出された安息の場所、神の安息の家、それが、キリストの教会であります。それが、この教会なのです。教会は、キリストにある神の家族の共同体です。教会は、天国そのものではありません。しかし、ここに神がおられ、キリストは、御子としてこの家を忠実に治めておられます。(第3章6節)人間は、この神の家で、神の安息の中に憩うまでは、決して、満足できない、安心できないのです。神のもとに安んじるまでは、平安を持つことができないのです。そこに、人間の現実があります。神に安息することができない人間は、神から離れて安息を得酔うとする人間は、自分を神にするしかないのです。そして、そうすればするほど、人間は渇きます。欲望を満たしても満たしても、足らない、満足できない。かといって、欲望をなくしてしまうこともできないで、無限の不安の中にさまよい歩かざるを得ないのです。

今朝の説教の題を、「真のレジャーを楽しもう」と致しました。今年のゴールデンウイークにレジャーのために、行楽地、テーマパークに出かけた日本人は、国内だけで、6459万人だそうです。海外に出かけた方を加えたら、6500万人以上になると思われます。確かに楽しいときを多くの方が持たれたことと思います。しかし、家に帰って、やっぱり家が一番だと思った方も少なくないと思います。外に出た方も、家の中で過ごされた方も、いずれにしろ、人間は、本当の安心できる居場所を求めています。それは、求めて、次から次へと捜し求めているのです。切りがないように思います。

しかも、日本人のレジャーや休日は、一週間の疲れを癒し、リフレッシュするためのものであるという意識が強いといわれます。つまり、レジャーは、仕事を効率よく進めるためにあるものという理解です。それは、明治政府から、国家政策でした。労働者を効率よく、生産に従事させるためです。職業生活を終え、退職すると、多くの男性は精神的に危機を迎えるといわれます。それは、おそらく小さなときから、中学生は、高校入学を。高校生は大学を。大学生は就職をと、今そこで生きているときを、ただ、次のステップのための時間としてだけ、生きてしまって、結局、何かかりもの、かりそめのようにしかその時代を過ごせないところに原因があるのではないでしょうか。つまり、本当の自分の居場所、居心地のよい場所を見出せない状態なのだと思います。

しかし、神は、私どもに、一時的なレジャーとか、次の目的のためのとか、何かの手段としてのレジャーではなく、まことのレジャーを与えてくださいます。真の、そして永遠の安息場所を与えてくださったのです。それが、地上にある神の教会です。この教会では、神を礼拝することができます。礼拝では、天国の喜びをわずかですが、味わうことができるのです。そして、ここでこそ、究極の人生の安息を手にすることができるのです。そのために、神は、今朝も、御言葉を語りかけてくださいました。今日、共に御言葉を聞きました。神は、私どもに「おめでとう」「あなたはわたしのもとにいる」「あなたはわたしの愛の中に生きている。わたしはあなたを祝福している」と聖書と説教の御言葉を通して語りかけてくださいました。そして、決定的な言葉をも聴きました。「わたしの言葉を信じなさい。信仰によって言葉を、自分の全存在に結び付けなさい」

ですから、私どもがなすべきことは、この祝福していていくださる神を信じることです。自分が、今、永遠の安息の中に招かれていることを、それほどまでに自分は神に祝福され、大切にされ、愛されて今日まで生きてきたのだと素直に信じ、受け入れること、信仰によって結びつけることです。そのとき、あなたは、今与えられているこのときを、それが、どれほど苦しみと悲しみにつぶされるようなときであったとしても、必ず、それに負けない生き方が与えられるのです。そればかりか、自分の人生を本当に楽しむことすらできるようになります。神と共に休めるからです。考えられないような圧倒的な平安のなかで、安心の中で眠ることができるのです。そればかりではありません。この地上の歴史がある限りは、神とともに神のために働くことすらできるのです。
今日、信じることです。今、信じることです。自分は、神に愛され、祝福されていると今、信じるのです。そのとき、私どもに安心して生きる確かな人生が始まるのです。私どもは今、神の安息の中にいるからです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに私どもの天の父よ。私どもを、あなたの安息の家、キリストの教会のなかに招いてくださいましたことを心から感謝申し上げます。ここで、あなたを礼拝するわたしどもにまさって幸せな人間はおりません。私どもは、今、あなたの御言葉の約束を聴き、これを信仰によって受け入れ、あなたの安息に憩い、そして天国の安息をも保証されています。年若い者も、そうでない者も、しかし、ここにすでに、人生の勝利者とされているのです。負けるか勝つのか分からないような人生を生きているのではなく、すでに、祝福されて今を生きているのです。心から感謝申し上げます。この余裕の中で、この遊びのなかでこそ、私どもの真剣な人生、その戦いを今日からまた始めることもできるのです。この揺ぎ無い人生、旅路をなお、導いてください。いつも、あなたの御声が聞こえるように、教会の交わりのうちに、歩ませてください。今日、初めて来られた方に、あなたの豊かな導きを心からお願いいたします。