過去の投稿2006年5月28日

「これが人の生きる道」 2006年5月28日

「これが人の生きる道」
2006年5月28日 伝道礼拝式
聖書朗読 エフェソの信徒への手紙 第2章1節~10節

「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、
――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」

 本日は、先週に引き続きまして、伝道月間として伝道礼拝式として皆様と礼拝式を捧げております。ここには、すでに洗礼を受けられたキリスト者、教会員を始め、すでに長く共に礼拝を捧げていてくださる方、ごく最近、教会の礼拝式に出席し始めてくださった方、今日生まれて初めて、キリストの教会の礼拝式に出席してくださった方もおられます。今、ご一緒に、ここに共におられる神を礼拝することができましたことを、心からうれしく思います。改めて心から歓迎し、感謝いたします。

 そして、おひとりお一人に、心から「おめでとうございます。」と神の祝福を告げます。今日、私どもは、他のどこでもなく、真の神の御前におります。つまり、私どもの魂の本当の故郷、私どもの全存在のまことのふるさとに帰ってきたということです。そして、神は、そのような私どもを、すでに洗礼を受けた者はもとより、しかし、未だ洗礼を受けられていない方も、初めてここに来られた方も等しく、ご自身の限りない愛をもって、祝福を注いでくださいます。

 今朝、もしも、悩みや課題をお持ちで、その解決を求めて教会に来られた方がおられるなら、その方に申し上げたい。安心してください。必ず、根本的な解決が与えられます。その悩みや課題が、たちどころになくなり解決することはおそらくないと思います。しかし、神は、それらに負けない人間へとつくり変えてくださるからです。教会に来て、真の神を信じるまで、つまり神から離れて生きてきたこれまでの人生やあなた自身は、本当のあなたではなかったのです。しかし、もし今から、神を信じ、神とともに生きる生活へと一歩踏み出すなら、わたしが、「おめでとう」とご挨拶を告げる意味を、きっと分かっていただけるはずです。私どもは、本当に、祝福されて生かされている、私どもは、まことに神の愛に生かされているからです。

さて、今日、私どもに与えられた聖書の御言葉は、エフェソの信徒への手紙第2章1節から10節までです。この聖書の御言葉は、私どもの教会がすでに、2年近く礼拝式で学び続けております、ローマの信徒への手紙の内容を要約してみせてくれているような御言葉であると思います。神の福音、キリストの福音、聖書のメッセージを要約して見せているのです。その意味では、この箇所を丁寧に説いて行けば、私どもの救いの道の全体像を見事に明らかにすることができます。つまり、先ほど申しましたように、自分がどれほどすばらしい祝福にあずかっているのかを明らかに見せてくれる言葉なのです。さらに、言い換えますと、私どもに約束されている限りない神の祝福を、今ここで現実化するための言葉です。つまり、もし、皆さんが、この御言葉を今、信じれば、自分がどれほど幸せな人間であるかが、必ず分かります。実際に、幸せになってしまう、救われてしまう、そのような神のみ言葉が記されているのです。

たとえば、ある学生が入学試験を受けて、志望校に合格したとします。ところが、もしも何かの手違いで、合格した事実を知らせられないままであったとするなら、厳しいですが、その立場を持つことはできません。努力は、水の泡になります。その事実、情報を聞いて、信じて、手続きをしなければなりません。その手続きが済んで初めて、その学び舎の学生になることができるのです。

いったい、聖書を読むということは、どういうことなのでしょうか。それは、本物の自分、まことの自分の姿、自分はどのような人間なのか、今どういう立場に立っているのかということを読み取ること、教えてもらうことでもあります。そのことから、昔から、「聖書は、自分を映し出す鏡である」と言われてまいりました。確かに、人は、鏡がなければ、自分の顔や姿を自分で認識することはできません。自分の顔のことは、今なら、鏡があり、カメラも身近にありますから、物心のつかないうちから、自分の顔を認識させられるような環境にあります。これが、自分の顔と分かります。しかし、自分の声を生まれて初めて聞いたときには、「これが、自分の声なのか、何か、違っているのではないか」と多くの人が戸惑うようです。顔であっても、何年か前の自分の顔を見て、ずいぶん変わったなぁと、驚かされる場合もありましょう。

聖書という鏡は、姿かたちという外面のことではなく、人の心の内側、内面の、その素のままの姿を、読む者に見せてくれます。この鏡、この聖書を読む以外には、本当の自分の姿、素のままの自分自身を、人間は見ることはできません。

そして、自分の顔や声を初めて見て驚く以上の、まさに衝撃が与えられるかと思います。たとえば、女性は、鏡を見て、お化粧をいたします。自分をさらに美しくしたいということでしょう。今の自分から、変わることへの憧れを、強く持っているのではないかと思います。最初は、鏡は、素のままのその人の姿を最初に映します。だんだん化粧が始まると、どんどん、変って行きます。そこに写っている自分は、さきほどの素顔の自分ではないのです。

しかし、聖書は、私どもの内面の姿、素のままの姿を見せてくれるのです。その姿のなかでも、受け入れにくい姿、一番見たくない自分の姿とは、何でしょうか。それは、自分が死ぬべき人間であるという現実であります。
ところが今、エフェソの信徒への手紙第2章1節はまさに、鏡に映る人間の真の姿を、あざやかに切り取って、使徒パウロを通して神が見せてくださったものなのです。読者である私どもの、これこそが現実の姿なのです。パウロはこう記しました。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。悪霊に従って、過ちと罪を犯して歩んでいた。他の人と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」

多くの人々は、自分が死ぬという決して避けられない現実を、見るために、一つの方法を考え出しました。それは、死の現実の姿にお化粧を施すことです。どういうことかと申しますと、それは、この死の現実、意味を、自分の都合のよいように理解するという方法です。死と死後のことを、自分の都合のよいように考えてしまえば、死と上手に付き合うことはできるでしょう。しかし、もしも、死んでしまった後に、本物の、あるがままの素のままの死と死後を経験することになったら、もはやそのような小手先のことでは間に合いません。本物の死を前にしてしまったならば、化粧を施した死と死後の理解などは何の力にもなりません。吹っ飛んでしまいます。  
この手紙のなかで、使徒パウロによって明らかにされた人間の姿には、二つがあります。罪のために死んでしまっているという姿が一つ。神の怒りを受けることが定められているという姿がもう一つです。

「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」この死んでいる人間と神の怒りを受けるべき人間という二つの姿は、実は、同じ一つの姿の両面のことです。しかしいずれにしろ、まさに、受け入れにくい言葉であると思います。まさか、これが自分の現実であるわけがない。拒絶する心が沸き立つことでしょう。「自分は死にたいと思ったことはあるけれど、少なくとも今生きているから、ここにいるのではないか。わたしは、死んでやしない。」こう思うのが、普通で当然でしょう。
しかし、聖書は、断固、告げるのです。「あなたは死んでいる」と告げるのです。しかもそれは、ここでのパウロの言葉だけではありません。たとえば、主イエスの説教のなかでも語られました。また、主イエスがなさったもっとも有名なたとえ話の一つに放蕩息子のたとえ話がありますが、そこでも、同じ言葉が用いられています。
ある父親に二人の息子がおりまして、弟の方が、父の遺産を生きているときにもらってしまって、やったとばかりに父の家を飛び出してしまいます。彼は、遺産の全額を遊びつくしてしまいます。しかし、食べるものにも困ってしまった息子が、雇い人の一人にしてもらおうと思って、父の家に帰ってきたとき、父親はこう言いました。「死んでいたのに生き返った。」

先ほどのことで申しますと、息子は生きていたのです。生きているから、父の家に戻って来れたのです。放蕩三昧の生活をしてはいましたが、決して死んでいたわけではありません。それなら、ここで、主イエスが、「死んでいた」と表現なさったとき、そこには、どのような意味が込められているのでしょうか。そこで、主イエスが、父親の言葉として言わしめた、「死んでいた人間」というとき、それは、放蕩息子が、父の家、つまり神の家のことですが、神のみもとから離れてしまったという状態をさしていることが分かると思います。父親、つまり父なる神との義しい関係を失ってしまった子ども、人間のことを、死んでいた人間と理解されているのです。
そして今、使徒パウロは、放蕩息子に向かってではなく、ここに座っているわたしども読者に向かって、「あなたがたもかつては、死んでいたのでしたね。」と言っているのです。しかし、そこで、もしかするとこのような反発がなお湧くかもしれません。つまり、自分は、そんな放蕩息子のように、倫理的に間違って生きてなどいないという思いです。

先週、たまたま図書館で一冊の本が目に留まり、読んでしまいました。昔、やくざをしていた方が、両親の祈りがあったからでしょう、足を洗いました。そればかりか今、牧師をしているのです。本当に、すごい変化です。読みながら、ほんとうに現実のやくざの世界は、倫理的に間違い、許しがたい世界であることは、明らかなのです。そのような方が、やくざの世界からきっぱりと縁を切ったことは、なるほど、死んでいたような人間が生き返ったということでしょう。

しかし、聖書は、やくざの世界で生きていた人のことだけを、死んでいた人間、死んでいる人間と表現しているのではありません。繰り返しますが、エフェソの信徒への手紙の読者たち全員が、「以前は」「かつては」死んでいたのだと断定したのです。

使徒パウロは、死んでいた人間の生き方、生きるポリシーについても記して見せました。それは、「肉や心の欲するままに行動していた」というものです。使徒パウロは、やくざとか、放蕩息子のように生きていた人間だけを「肉の欲望の赴くままに生活し」ていたのだと言ったのでは決してありません。

多くの方、平均的な方は、自分のことを、「自分なりに、よい業も少しくらいはして来たのではないか、少なくとも、倫理的に道徳的に重大なむちゃくちゃな生き方をしているとは思えない。」そうお考えになっておられるのではないかと思います。

「マイ、ウェイ」というアメリカの有名な歌があります。日本でも、翻訳されてヒットしました。素敵なメロディーです。詞もまたすてきです。その詞の鍵となる言葉は、これです。「すべては心の決めたままに」すべては心に決めたままに、自分の思う道、自分の決めた道を生きてきたし、これからもまたこの道を生きるというのです。「マイ、ウェイ」という曲は重厚な曲ですが、パフィーという二人組みの女性が歌ってヒットした歌に、「これがわたしの生きる道」があります。こちらは、メロディーも歌詞もとても軽いのりです。しかし、要するに、自分の今の生活を「まぁいいか、いいことにしよう、自分で選んだのだから」という軽い雰囲気で伝えているわけです。

いずれにしろ、今日の一つの常識的な生き方は、「人の迷惑にならなければ」という留保をつけながら、自分の好きなように、思いのままに生きてゆく、それが一番というものではないでしょうか。つまり、使徒パウロが言うような「肉や心の欲するままに」、「自分の決めた道、自分がやりたいこと、したいことをそのまま進む」これこそ、今、多くの人々が考え、願い求めている理想であると思われます。そのように実際に生きれるのなら、流行りの言葉で言えば、人生の勝ち組ということになるのかもしれません。

ところがしかし、聖書は、そのような我々の常識を疑います。疑うどころか、その常識は、いわば、非常識であると批判しているのです。いったい、どちらが常識なのでしょうか。聖書は、断言します。「神さまから離れて、生きることは、死んでいる、死んでいるというのは、確かに、肉体的には、精神的には、生きている。しかし、本当の自分自身を生きてはいない」そう神は、言われます。「あなたがたは、わたしから離れていれば、わたしの家から飛び出ているのであれば、死んでいるのだ。わたしの命から離れているなら、死んでいる。わたしを信じないで生きているなら、自分の罪と過ちのなかで、支払うべき報酬としてのわたしの怒り、永遠の滅び、永遠の死を刈り取らなければならない。」

ここに、神を信じない人間のおそるべき現実が映し出されています。先ほどの元やくざの方がどうして、このままではまずいと思ったのか、そのきっかけは、友人のやくざが歩道を走って逃げたのですが、逃げ遅れて殺されたからなのです。ご自分は、車道に飛び出して、運よく逃げおおせたというのです。先週、ひとつの普段なら見過ごすニュースに目が留まりました。札幌で、やくざが車にはねられて亡くなられたというニュースです。それは、まさにその本で読んだ出来事と同じでした。追っ手に狙われて、素足のままで、上半身裸で、車道に飛び出して、はねられてしまったそうです。やくざの場合は、「人に迷惑をかけない限り」という条件をはずしてしまって、自分の決めた道、自分のしたいように生きたのでしょう。しかしそこには、本当の人間の生き方はなかったのです。

なぜ、このような極端な話をご紹介するかと申しますと、この問題は、たとい「人に迷惑をかけない限り」という条件をクリアできたとしても、結局、「自分のために、自分を喜ばせるために、自分の決めた道を生きる」ということは、神の御前には死んでいる、そればかりか、神の怒りを受けるばかりであると、聖書が言っているからなのです。そのような例は、やくざの例に比べて、有り余るほど、いちいち紹介する必要もないほど、わたしどもの目の前にあるのではないでしょうか。

確かに、神を信じないということは、信じるか信じないか二つの内の一つの選択肢ではあります。しかし、「肉や心の欲するまま」に生きている人間は、決して、信じることはしません。この信じないという一つの選択肢を生まれながらに選び取っているのです。この可能性しかない、それこそが、生れながらの人間の姿なのです。そして、この選択の結果は、霊的な意味での死であり、その死というのは、最後には、つまり肉体が死ぬときには、神の怒り、神の過ちと罪の責任を取らされて、神の怒り、神の審判を受けることが定まっているというのです。これが、聖書によって、映し出されてしまった我々人間の現実、素の顔かたち、心の姿であり、我々の過去と現在の姿であり、かつ、将来の姿でもあるのです。

さて、もしもそれだけなら、聖書を読むことには、救いがありません。そのような姿を映し出されるだけなら、いったい誰が喜んで聖書を読めるでしょうか。どうして、それを福音、喜ばしいニュースなどと呼べるでしょうか。そうです。聖書という鏡は、もう一つの私どもの姿をもはっきりと、くっきりと映し出してみせてくれるのです。それは、まさに美しく、見事にお化粧ができた女性のようです。いへ、比較になりません。化粧なら、取れてしまいます。しかし、神が、聖書によって見せてくれる私どものもう一つの、新しくされた本当の姿は、化粧のように取れないのです。洗い流せないのです。まったく、あたらしい人間として映し出された姿、それが、神の作品、神が善き業のために創造してくださったものなのです。

しかもその新しい人間、神の作品は、これまでのような「肉や心の欲するままに生きよう」とはできなくなってしまうのです。それが、逆に、苦しくなってくるからです。楽しくなくなってくるからです。それなら、何が楽しくなってくるのでしょうか。それは、いくつもあります。そしてそれに共通することがあります。それは、神を愛し、神に喜ばれるような生き方をしたいと願っているということです。それが、その人の、言わば、本音になるのです。そこに、神の御業、神の創造の御業、救いの御業があるのです。

使徒パウロは、そのような本音に生きる道の秘密をも、はっきりと記しました。それは、人間が神や人の前で、お化粧上手になったからでは、まったくないのです。人間が、まったく新しく作られるからなのです。神が、私どものこの死の生活から、なんとしてでも祝福の立場に私どもを取り戻そうと願われたからです。神ご自身が、神に逆らう罪のために死んでいた、神を無視していた罪のために怒りをうけるべき人間に成り下がっていた私どもを、救おう、赦そうと願われたからです。そのために、神は、すでに、ご自分の方でその手続き、その壮大な御業をなしとげて下さいました。

使徒パウロは、その神の御業を大きな声で、喜びと感謝を込めて告げるのです。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」
死んでいた人間、神から自分で離れてしまった人間、自分勝手に生きながら、神の怒りを受けるべき者として、罪を犯し続けていた人間を、神は、怒りをもって断罪したまわなかったのです。そこに、パウロが、「憐れみ豊かな神」というしかないほどの神の行為、なされたお働きがあるからです。この上ない愛です。この上ない愛とは、偉大な愛、大きな愛、激しい愛とも訳すことができます。愛には、行動が伴わなければ、何の力もありません。愛は、名詞ではなく、動詞、行動です。神は、この上ない愛をもって、歴史的事実として、私どもを愛してくださったのです。

それこそは、主イエス・キリストの十字架においてあらわされた神の愛に他なりません。生まれながら神の怒りを受けるべき人間、それほど、徹底して、神を信じないで、神に反抗し、神を無視して、自分の生きたいように、やりたいようにやって恥としなかった私どもの過ちと私どもの全存在とが受けるべき神の怒りを、神は、なんと、ご自身の独り子イエスさまの上に、下されてしまったのです。

十字架の愛は、ロマンチックな愛ではありません。恐ろしいまでの愛です。神は、わたしの、そしてあなたの罪を償わせるために、私どもの罪の身代わりにとして罪のない聖い神のひとり子であられるイエスさまを、十字架の上で罰してしまわれたのです。神の罪に対する怒りを、当事者である私どもにではなく、御子の上にあらわされたのです。それが、あの十字架の上での死のお姿なのです。罪のない神の御子が苦しみぬかれ、人類の誰も経験したことのない、神の怒りを受けて、永遠に滅ぼされる苦しみを味わわれ、私どもの身代わりになって、死を死んでくださったのです。

しかも、死んで終わってしまったのではありません。父なる神は、その御子を死人の中からお甦りにならせて、私どもも、同じ復活の命にあずかるように定めてくださったのです。こうして、私どもは、自分自身は一滴も血を流すことなしに、神の恵みの御業、この上ない愛の御業によって、神に造られたのです。

使徒パウロは、善き業のために、造られたと言いました。善き業、いくつもあるでしょう。しかし最高に善い業とは、今、ここでみなさんとしている業のことであります。この神に礼拝を捧げることです。キリスト者にとって、今、ここで、その神を礼拝することが、まさに私どもの心の欲することの第一のことになってしまっているのです。これは、私どもの喜びそのものなのです。私どもの感謝そのものなのです。一番したいことになってしまっているのです。しかも、神は、そのような私どもの礼拝式を、あなたがたは、今、もっとも善い業をしているのだよと、喜んでくださる。これほどまでに、嬉しくも、もったいないことがあるかと思います。

どうぞ、私どもは、今、人間として、もっともすばらしい時を味わっているということを信じたい。今、ここで礼拝を捧げること以上に、善き業はないことを信じたい。自分がどれほど、祝福されている人間であるかを信じたい。神は、この私どもをこの上ない愛をもって今、愛してくださっていることを信じたい。それが、真の礼拝なのです。それが、人間の生きる道なのです。

祈祷
わたしどもは、命の神、あなたから離れて死んでいました。しかし、そのときには、自分が死んでいることに気づきませんでした。しかし、今、あなたの御子のお姿を見ることによって、またあなたの御言葉によって、自分がどれほどあなたに愛されているかを知らされました。そして、まさにそのあなたを無視し、あなたから離れて生きてきたことこそ、罪の中に死んでいたことであることを知りました。どうぞ、今、あなたの御前にいる私どもを、罪と死、滅びと怒りとから救い出し、あなたとともに生きる、命の歩み、祝福された人間らしい道へと取り戻してください。ここで礼拝する喜び、あなたを父なる神とお呼びする喜びにあずからせてください。