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「天の音色を奏でる教会」聖霊降臨祭主日礼拝式

「天の音色を奏でる教会」
2006年6月4日(聖霊降臨祭)
聖書朗読 使徒言行録 第2章1節~3節
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

テキスト ローマの信徒への手紙 第6章12節~16節
「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。
知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」

本日は、教会の暦による聖霊降臨を祝う主日であります。本日、特別のプログラム、集会を致しませんが、礼拝式において、そのことを深く意識しながら、この説教を聴いて、神を礼拝してまいりたいと思います。

先週は、礼拝式の説教も、オルガンコンサートでの小説教も、エフェソの信徒への手紙第2章をテキストにいたしました。「わたしたちは神に造られたもの」「わたしたちは神が前もって準備してくださった善い業のためにキリスト・イエスにおいて造られた作品である」と学びました。そしてただ今、改めて、先月の第一主日の説教テキストである、「五体を義のための道具として神に捧げなさい」という御言葉を読みました。皆さんのなかで、この御言葉は、先週の御言葉を深く響きあっていると思われる方も少なくないと思います。

先週のオルガンコンサートでは、小さな説教を致しました。パイプオルガンの例話を致しました。パイプオルガンと人間とはとても似ているというお話を致しました。パイプオルガンは、空気を吹きいれてやらない限りは、何の音も出しません。その意味では、空気が吹きいれられないときは、死んでいるようなものでしょう。しかし、いったん空気を入れてやれば、すばらしい音色を奏で始めるのです。それと同じように、私ども人間こそ、土のちりでつくられたのですが、鼻から神の息が吹き入れられたとき、生き物となった、つまり、神に顔を向ける関係、神を礼拝するとき、神の息、命を注がれ、神が私どもを演奏してくださり、おどろくようなすばらしい音色、生まれてきてよかった、神さまありがとうという賛美を奏でる。歌い始めることができると申しました。
オルガンは、もともと、神を礼拝するために、造られた楽器であるかと思います。しかし、息が吹き入れられない限り、死んだも同然なのです。そこに、私ども神に造られた人間との一つの類比が成り立ちます。神に向かい合って、神に命の息を吹き込まれない限り、人間は、本当の意味では、人間として生きれないように、もともと造られているのです。

さて、聖霊降臨祭に読まれる聖書のテキスト、使徒言行録第2章を読みましたが、ここに記されています、聖霊降臨の出来事は、神の救いの歴史の重大な転換点になりました。主イエス・キリストの受肉と十字架と復活。そして昇天と聖霊降臨。これらをすべてひっくるめて、歴史の転換点となるわけですが、しかし、聖霊降臨は、昔から新約の教会の誕生日といわれてまいりました。旧約の教会であるイスラエルの民を、神は、新しい神の民をご自身のためにお求めになられたのです。新約の教会の言わば、誕生の出来事が記されているのです。神の救いは、血筋によるのでも、一民族の救いを目指すものでもなく、全人類を救いものであることがここに、いよいよあきらかにされ、それが始まったのです。

あの日、使徒たちと弟子たちは、主イエスの命じられたとおり、約束された聖霊を待ち望んで、一つの場所に集まっていました。集まっていたとしか書いていませんが、そこで何をしていたのかといえば、わたしはほとんど間違いなく祈っていた。心を一つに合わせてお祈りしていたと思います。礼拝を捧げていたはずです。そこに、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえたのです。彼らが座っていた家中に響いたのです。その家は、礼拝堂ではなかったでしょう。しかし、その場所の上に、天の窓が開かれたのです。天からの音が響き渡ったのです。その音は、風の音です。この風は、神の風です。神の息です。命の息です。あの最初の人間の鼻に吹き込まれた同じ息です。この息が、もう一度、こんどは、アダム一人にではなく、キリストの弟子たちに注がれたのです。しかも、彼らは、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みの実りというその意味ではまったく新しい神の恵みを受けたのです。ついに、主イエス・キリストの成し遂げられた救いの御業が、この地上に目に見える形で実り始める、その最初の御業が聖霊降臨の出来事でした。

あのとき、聖霊を注がれた弟子たち、使徒たちは、何よりも、福音の説教を始めました。世界中の言葉で、キリストの救いの御業、キリストの福音を語り始めたのです。正確に申しますと、語らせられたのです。まさに、パイプオルガンのパイプの一つ一つが、言わば全パイプが、神の息、聖霊を受けて、一斉に鳴り始めたような情景、状況です。

私どもが今、いる、この場所は、礼拝堂であります。3年余り前は、私どもは、ビルの一室で礼拝を捧げていました。その一室もまた、神を礼拝する場所、聖なる場所でしたが、そのために特別に作られたものではありませんでした。しかし、今は違います。この場所は、礼拝のための空間、とても飾り気のない、簡素で、小さな空間ですが、ここで主の日のたび毎に、生ける神にお会いすることができる聖なる場所です。しかし、私どもにとりましては、集会のないときには、この礼拝堂は、言わばただの空間であると思います。

しかし、ローマ・カトリック教会や、何よりもギリシャ正教などの礼拝堂は、まったく違います。その礼拝堂に一歩踏み入れたら、そこはまるで別世界のような空間です。特に、東方の諸教会は、天国を視覚化するものが礼拝堂の空間であるという神学をもっているのだと思います。ですから、司祭の礼服は、数百万円するとも聞いたことがあります。金色の刺繍を施しているからです。それは、決して贅沢をしてみせるというのではありません。金色は、天国の色なのです。だから、天国を開く礼拝堂、司祭の式服はきらびやかです。

それに比べて、私どもの礼拝堂は、その対極にあります。掃除当番の方が心を込めて、きれいにしてくださるおかげで、私どもは、主の日のたび毎に気持ちよく、ここに座っていられます。しかし、それ以外には、たとえば高級な家具など何一つおいてありません。集会のないときに、ここに訪れても宗教的な雰囲気はあまり漂わないのではないかと思います。

しかし、どうでしょうか。ひとたび、主の日の朝、ここに私ども、神の民が集められ、礼拝式を捧げ初めれば、ここは、天国の門となるのです。天国が私どもの頭上に開かれ、ここが天へと通じる場所になります。いったいどうしてでしょうか。それは、今ここに、父なる神が、御子の霊を注いでおられるからです。御父と御子とから出る聖霊が、ここに注がれているからです。聖霊が注がれるとき、オルガンよりなにより、神の民が鳴り出すのです。それこそ、神のパイプオルガンとなるのです。教会が、神の傑作の楽器となります。しかも、神が演奏してくださるのです。私どもも自覚的に、神の作られた賛美を歌い始めることもできるのです。それが、賛美であり、それが、また説教でもあるのです。ここで語るのは、私一人ですが、しかし、皆さんは、信じて聴いている。理解して聴いている。そこに、共鳴が起こっています。共鳴が起こっているということは、皆さんより、一足早く説教者が聴き取った神の恵みの言葉を今、皆様も一緒に聞き取っておられるということを意味します。そしてそれこそが、聖霊の注ぎの事実なのです。

ここでは、天国の窓がぽっかりと開いている、開かれています。ですから、神は、ここで、「心を高くあげよ!」と招いてくださるのです。なぜなら、天上の父なる神、御子イエス・キリストのお姿を仰ぎ見ることができるのです。

あの聖霊降臨の日、弟子たちは、主イエスの命令、主イエスの約束の御言葉を聴きました。第1章5節であります。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」この主の約束をもしも、使徒たちが信じないで、従わないで、ないがしろにしていれば、彼らは、人類の新しい時代を切り開くことができなかったのではないでしょうか。彼らが、主の御言葉の約束、それは命令でもありますが、これを重んじ、信じ、従ったから新約の教会がここに誕生したのです。

世々の教会は、この新約の教会の創設の原点を決して忘れないのです。ですから今日、私どもの教会も、主の日、日曜日を重んじるのです。ここに集まることを決して、やめないのです。復活の主イエスは、私どもに今日、出会ってくださるからです。いうなれば、今日私どもがしていることは、聖霊降臨の御業の継続なのです。ですから、私どもは、主の日、日曜日を重んじます。私どもは信じています。今朝、この場所は、約束の時間であり、場所であるということです。ここに生けるイエス・キリストが聖霊によって臨在しておられるという約束です。その主イエスの御臨在が分かるのは、ここに聖霊が注がれているからです。

先週、わたしは、ある方のお話を伺っているとき、「四面楚歌」という中国の故事を聞きました。四方から攻められている。逃げ場がない、孤立しているという危機を言い表すことばです。人間の生活のなかで、私どもは、しばしば、そのような窮地に追い詰められる思いを抱くことがないわけではありません。使徒パウロ自身、コリントの信徒への手紙Ⅱ第4章でこう言いました。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」ここには、はっきりと、パウロが四方から苦しめられている現実があることが分かります。四面楚歌をしょっちゅう、経験しているわけです。しかし、行き詰まらない。失望しない。なぜなら、神が共におられるからです。それが、どこではっきりと分かるのでしょうか。それは、天が開かれる場所で分かります。目を水平にだけ向けるのではなく、心を高く上げれば、そこで、見える。天の父なる神が、私どもを見守っていてくださることが分かる。それが、礼拝式の醍醐味であります。

天が開かれるということは、聖霊が注がれるということです。今、私どもは、聖霊によって、歌を歌います。聖霊によって祈ります。聖霊によって説教します。聖霊によって説教を聴きます。聖霊によって聖餐の礼典を執行します。聖霊によって聖餐を礼典として受領できるのです。私どものなすすべての礼拝行為、礼拝の業は、天から、父と御子がおられる場所から注ぎ込まれる聖霊の御業によるものなのです。そして、他ならない聖霊の道具、神の武器、神の作品である私どもは、五体をもって、全存在をもって応答することができます。神は、そのような通りよい道具として、私どもを今用いていてくださるのです。

そして、その頂点が、今このときなのです。そうであれば、私どもにとって、もっとも大切な聖霊体験とは、ここで、神の民が、聖書の朗読とその説教を聴き、ここで聖餐を正しく祝うところに、一人ぼっちではなく、神の民全員で聖霊の豊かな体験に与っているということです。

これこそ、教会です。真の教会なのです。聖霊の臨在したもう礼拝式、教会こそが、私どもの教会形成の目標です。これこそ、日本キリスト改革派教会が、この日本に創立した目標、目的なのです。ここに神が人とともに住みたもう天国のモデルが、作られているのです。それが、主の日の礼拝式の姿なのです。

確かに、エルサレムにおける聖霊降臨の出来事は、歴史上のただ一度限りの出来事であります。しかし、聖霊が天から注がれる御業は、歴史上ただ一度限りでしょうか。とんでもありません。聖霊は、信じる者のうちに毎日注がれるのです。そしてその聖霊は、私どもキリスト者、信じる者の内側に宿ってくださいます。私どもと主イエス・キリストとを一つに結び合わせてくださるのです。その方法は、神の御言葉によります。また、祈りによります。そして洗礼、聖餐の礼典によります。聖霊は、信じる者たちにこの三つの方法をもって、私どもに注がれるのです。そして、その三つのすべてがある場所は、主の日の礼拝式、神の民の祈りの家においてなのです。だから、主の日には、各地の教会に今、聖霊が注がれています。その注ぎを受けている教会は、その力にあふれています。私どもの教会もまた、その一つの教会なのです。

そのあふれた教会は、ここで何をするのか。五体を神の道具として捧げるのです。私どもの教会は、礼拝式を「受け」に来るというような表現をしません。礼拝を「捧げ」に参ります。それは、いうなれば、自分を捧げに来ているのです。そのような志をもって、ここに来ることが、私ども神の民の基本姿勢なのです。礼拝式には、献金があります。献金の祈りは、特に、子ども達が捧げる六つある式文の祈りには、必ず一つの言葉が共通している内容があることにすでにどなたもお気づきのことと思います。「この献金と僕たち私たちをも用いてください。」つまり、献金は、自分じしんを神のもの、主イエス・キリストにあがなわれたもの、主イエス・キリストの命の代価を支払っていただいて神さまのものとしてくださったことを信じ、それゆえに、その贖われた自分であれば、自分を神に捧げるのは、当然のことですと、告白することなのです。献金によって礼拝しているわけです。献金も神が用いてくださるとき、自分たちの楽しみのために使うお金とはまったく違った働き、まさに神の栄光のために用いられます。それは、私ども自身にも当てはまります。私どもの全存在が、神のために用いられるのです。義の道具です。神の武器です。神が用いて下さるので、いかに粗末な道具でも、大丈夫なのです。
士師記第15章に、士師サムソンの物語が記されています。彼は、ペリシテ人をろばの顎骨で打ち倒しました。生きているろばではなく、死んだろばです。その顎骨が武器となる。これは、一つのたとえです。死んでいた人間であっても、もしも、神がそれをご自身の目的のために手にとって下さるなら、サムソンのろばの顎骨のように、驚くばかりの働きをなす事ができるということです。

最後に、もう一度、使徒パウロが、勧め、命じる神の御言葉を学びましょう。「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。~、わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。」パウロは、キリスト者は救われて、聖くされた、神の作品なのだから、決して、罪に仕えてはならないと断言しています。

私どもが今ここで、礼拝式に出席し、父と子と聖霊にていましたもう三一の神を礼拝するとき、わたしどもは、初めて本当の自分の姿が見えてまいります。自分の故郷は天にあるのだと。自分の国籍は、主イエス・キリストがいましたもう天の王座にあるのだと見えてくるのです。この事実を明らかに教えるのが、エフェソの信徒への手紙第2章6節の御言葉でした。「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」この聖書の御言葉こそ、私どもの今の姿をはっきりと映し出す鏡です。つまり、聖書の鏡を見れば、今、自分の姿が見える。しかもそれは、なんという美しい姿でしょうか。私どもはすでに、キリスト・イエスによって、キリスト・イエスと共に復活させられているのです。そればかりか、今、復活された主イエス・キリストは天に戻って、父なる神の右に着座しておられますが、なんということでしょう。そこには、私どもも一緒に、主イエスと一緒に座っているのです。それこそが、私どもの本当の姿なのだと聖書は言うのです。

「いや、おかしなことを言う。座っているのは、ここ、礼拝堂の椅子ではないか」誰でも最初は、そう思います。しかし、もしもそれを言い張るのなら、それは、こういうことを主張していることになります。「ここには、主イエス・キリストはおられない。なぜなら、主イエスは天に戻られたから。」確かに、その通りです。主の人間としての肉体は、確実に天にあり、天におられます。ここにはおられません。しかし、主は御自身の御霊、聖霊によって教会と共にいてくださるのです。それが最初の聖霊降臨の出来事でした。そして、それは、ただ2000年前の一度限りの出来事であるとするなら、私どもの説得力は減ってしまうかもしれません。しかし今朝、ここに聖霊は来ておられるのです。

そうであれば、私どもの体は、言うまでもなく、ここにありますが、私どもも、主イエス・キリストと一つに結ばれているのであれば、私どもの本体、私どもの本質は主イエスさまがおられる天にあるはずです。
天にある私。その姿は、見たこともありませんし、想像を絶することですから、正直に申しまして、よく分かりません。少なくとも、神の支配する天にふさわしい装い、美しい姿をしていることは確かであろうと思います。そうなると、地上にあっては、「五体不満足」という書物がありますが、たとい、体においても心においても、傷があり、損なわれていたとしても、すでに私どもは、天上では、神の美しさによって装われているに違いないのです。キリストを着せられているのです。それが、わたしであり、皆さんです。

このようなことから、礼拝のためには、普段着ではなく、よそ行きの服を着るという習慣を重んじる国や教会もあるかと思います。礼拝の装いは、天国の服装なのだということでしょう。イエスさまにお会いする服装だということでしょう。もうずいぶん、昔になりますが、教会の読書会で、一冊の絵本を読みました。「ハンナの新しい服」というユダヤ人の女の子のお話です。金曜日の夜から安息日、つまりサバスが始まります。お母さんは、サバスの礼拝に着てゆく為に新しく真っ白な洋服を作ってくれました。ハンナは、うれしくなってすぐに着て、夜にもかかわらず外に飛び出したのです。そこから物語りは始まります。ハンナは、通りがかったおじさんが、重い荷物を背負っているのを見ました。彼女は、おじさんの荷物を後ろから押してあげたのです。ところが、それによってせっかくの真新しい、真っ白な洋服は、黒く汚れてしまいます。この後のお話がとてもすばらしいのです。

絵本では、記されていませんが、わたしはかってに想像します。サバスの礼拝の日、神さまは、ハンナの汚れてしまった服を、どんなに喜ばれたかということです。私どものまとう服は、こうありたいと願う。いや、すでに申しましたが、私どもは、洗礼を受け、キリストを着せられました。それこそが、今や、本当の私の姿なのです。どんな服をまとっても、私どもは、この礼拝式のなかで、自分の存在が美しいことに気づくことが大切です。

恵みのもとに生きているキリスト者とは、天国の下に生きているということであります。自分は、天国の直下に生きている。そうすると、汚れた人間ではいられなくなります。つまり、罪を犯して歩むというようなことが、キリスト者の本音ではなくなるのです。礼拝する人間は、美しさ、清さにあこがれるのです。自分の本当の姿に近づきたくなるからです。それが、聖化の歩みです。

恵みの直下、真下にいる人間、それは、神の恵みの支配を受けている人間です。主イエス・キリストの死とお甦りによって、わたしのまったくあずかり知らないところで、ただ主イエス・キリストの孤独の戦い、十字架の苦難をただお一人で受けられた救いの御業のおかげで、私もみなさんも、天国に国籍を与えられ、天国に足を踏み入れている人間になってしまったのです。それが、私であり、皆さんなのです。ですから、使徒パウロは、私どもにこう呼びかけます。

「そのような人間として、今ここから生き始めようではないか。それは、決して罪の奴隷になる生き方ではないのだ。神に従順に従う、神に仕える奴隷なのだ。そして、それは、義に至る。自分自身が義に至る。要するに、天国に至る人間です。救われている人間です。主イエス・キリストがおられる場所に一緒にいる人間です。それが義に至る私どもの、いわば運命なのです。この運命以外に、キリスト者の将来はありません。だから、今から、そのように生きようではないか。神に対して生きているのだから、天国的に生きよう。」

私どもは、かつては、死に至る以外に選択の余地のない人間でした。しかし今は違います。私どもは、神に仕えています。そわそわしなくてもよい。今ここでそれをしているからです。礼拝を捧げています。すべてはここから始まります。私どもの奉仕、ディアコニア、伝道は、自分を神に捧げるこの礼拝から始まるのです。

祈祷
御子の御血によってあがない取ってくださった私どもの教会に、今このときも、御霊を豊かに注いでいてくださいます、父なる御神。私どもは今、肉の命ではなく、永遠の命を注がれています。この命こそ、私どもの真の命です。どうぞ、私どもの教会が、聖霊の注ぎを受け、豊かな音色を奏で、あなたの御名を崇め、共に礼拝を捧げる未信者の方が、あなたの臨在におそれおののき、共に、イエスは主であると歌い始めること、喜びの叫びをあげる群れとなりますように。私どもが、あなたの道具になりきれますように。そしてこの礼拝の姿勢のまま、この世へと遣わしてください。この世のために、奉仕する教会となりますように。アーメン。