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「罪に仕えるか、神に仕えるか」6月11日

「罪に仕えるか、神に仕えるか」
2006年6月11日

テキスト ローマの信徒への手紙 第6章14節~18節
「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。
知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつて罪の奴隷でしたが、今は、伝えられた教えの規範を受け入れ、心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」

使徒パウロが、この手紙を書いたのは、いつ、どこにおいてであるのか。そのことがはっきりと分かりますと、この手紙の読み方にも影響を及ぼすことになると思います。多くの聖書の学者は、このように言います。パウロは、世界伝道旅行を三回行いましたが、その三回目であると言うのです。そして、どこで書いているのかと言えば、コリントの町、教会であると言うのです。もし、この説が正しいのであれば、おそらくコリントの信徒への手紙を読んだことのある方であると、「なるほど」と合点が行くのではないでしょうか。コリントの教会は、まさに福音の真理が捻じ曲げられて、教会のなかに、争いが起こり、教会の中に倫理的、道徳的にも大変な問題が起こっていました。「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」と指摘されるほどのものでした。

そのことが分かりますと、この6章の議論について、なるほどと頷ける部分が多くなるかと思うのです。実際に、「罪が増し加わったところに神の恵みはさらに増し加わるというのなら、罪の中にとどまっていてもかまわないではないか」と、開き直る教会員が現れていたのです。

このように、神の恵み、キリストの福音を聞いてさへも、ただ自分勝手な生き方を貫く口実にしてしまおうとする教会員が現れたのです。一言で言えば、屁理屈です。もしかすると、私どもの中では、「そんなことを現代の私どもの教会では起こりえない。ありえない。」と考えられるかもしれません。しかし、これは、2000年前の例外的な発言ではないのです。今も、うっかりすると、このような類の発言が、公然とではなかったとしても、なされる場合があります。教会は絶えず、このような発言と戦い続けるのです。

今ここでパウロは、そのような時代を超えて繰り返される、言わば屁理屈の発言、福音への反論に潜んでいる根本の問題を抉り出すのです。一言で申しますと、どこまでも自分の信仰生活を正当化し、自分を神の前に明け渡して、変えられようとしない者の存在です。つまり、人間は、結局、罪人であるわけで、罪の中に留まり、罪を犯しても、かまわない、神さまもまた大きな心で許してくださるに違いない、などという心の内にある開き直りの態度のことです。

しかし、パウロは、ただ単に、その誤りを指摘するだけではなく、むしろ、神の恵みがどれほど大きなものであるのか、その勝利を証ししようとするのです。

そこで、使徒パウロは、ここで「奴隷」についての例をあげて、議論を試みます。奴隷、パウロが生きていた当時、奴隷は、文明社会を支えるために、なくてはならない労働力として、大変身近な存在でした。奴隷市場は、都市に行けば必ずあったわけです。ローマのような大都市であれば、奴隷の方が、自由人より多かったのではないかと思われます。その意味では、この奴隷のたとえは、読者には、極めて身近な話であり、身につまされるような現実感のある話であったと思います。

今、パウロは、人間の本質を、神の御言葉によって、見抜いた者として、断言します。人間は、「あれかこれか」、二つのうちのどちらかでしかないというのです。罪に仕えて、罪の奴隷になるか、神に仕えて、神の奴隷になるか。死に至るのか、義に、つまり、救いと命に至るのか、二つのうちのどちらかに立つ以外にないと言うのです。

しかし、そのようなことを初めて聞かされ人は、簡単には、受け入れません。「自分は、神を信じていないけれども、何もそれだからといって、罪に仕えてなどいない。なんて聖書は乱暴なことを言うのだ。わたしは、自分らしく生きようと心がけている、少なくとも、自分は、自分の人生の責任を取って生きようと考えている。つまり、自分の人生の主人公は、言うまでもなく、自分自身だ。」そう考えている方はとても多いと思います。つまり、神の奴隷ではないし、いわんや罪の奴隷などではない。

しかし、パウロは、それを承知の上で、断定して言うのです。神に服従しない人間、神を主としていない人間、神の奴隷でない人間は、すべて罪の奴隷であるというのです。「あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。」

先週、村上ファンドの事件が報道されました。巨額の利益を得た背後に、法律違反があったということです。ご自分を証券世界の「プロ中のプロ」と自認したのです。そして、多くの人が、それを認めていたのだと思います。しかし、結局、そうではなかったことになってしまいました。ここでの、プロフェッショナルということは、自分自身の行為を、法律の枠内で、自由自在に制御できる人という意味ではないでしょうか。しかし、それができなかったということなのです。お金に支配されないで、お金を支配する。おそらく、村上氏は、そのように自分自身を認識していたのではないかと思います。しかし、実際は、できなかった。お金に支配されたということなのではないでしょうか。自分こそは、「奴隷」から、もっとも遠い人間である。そのような自負を、勝利者としての自負を持ちながら、しかし、結局、この事件もまた、この2000年前のパウロの言葉の実例の一つになっただけではないでしょうか。

そもそも、アダムがそうでした。自分が、神の僕、奴隷として生きることを止めて、いわば卒業して、自分の主人になる。自分の決めた道を、自分で進む。しかし、そのようにして、やってしまったことは、結局、食べたら必ず死ぬという、神の律法を犯しました。いったい、そこで何が起こったでしょうか。結局、彼は、蛇の奴隷になってしまったということではないでしょうか。蛇に、罪に、悪魔にそそのかされ、誘惑され、屈服し、律法の支配の中に封じ込められてしまったのです。それが、罪の奴隷なのです。自分の主人は、自分だけといいながら、結局それこそが、罪の奴隷の姿になってしまう、それが、聖書と新聞によって証しされている人間の悲惨なのです。

人間は、あれかこれか、神に仕えるか、罪に仕えるか、神の奴隷か、罪の奴隷か、「どちらかなのです。」神に造られた人間は、神に仕える以外には、命に向かって、つまり、人間らしく生きる可能性は、ゼロなのです。「自分だけは例外、あの人は、失敗したけれど、自分こそはプロ中のプロだから、しくじらない。」確かに、法律違反をしないで、稼ぐことなら、できるのかもしれません。しかし、神の奴隷にならずに、神の前に律法を犯さないで生きられる人間は、主イエスの他には、未だかつて一人もいなかったし、これからも可能性はないのです。

しかしパウロは、ここでの議論の中で、突然のように、賛美と感謝の声をあげます。「しかし、神に感謝します。」と叫びます。「罪に仕えて死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかでしかないのだと、この厳しい現実を告げた瞬間に、わっと、感謝がほとばしりでたのです。

なぜなら、今、あなたがたは、義に至る道を進んでいる。救いに至る道を歩んでいる。神に従って、救われているではないか。神の奴隷にしていただいているではないか。永遠の命に至る旅を開始しているではないか。パウロは、嬉しくてならないのです。もちろん、この感謝の現実は、パウロ自身のことでもあるのです。パウロ自身も、かつては、罪の奴隷とされていたのです。律法の支配下に屈服させられ、頭を押さえつけられて身動きできずに、神に逆らっていたのです。しかし、今は、違うのです。どうしてそうなったのか、ここでは、詳しく書きません。もう、改めて言う必要もない福音の真理なのでしょう。しかし、わたしは、この説教では、やはり、繰り返したい。

律法という主人、罪という主人に忠実に仕えていたとき、我々には、命の喜びはありませんでした。今、与えられている救いの喜び、神との交わり、神の愛、神の守り、神の命を経験したことがなかったのです。この罪に従うせつな的な、一時的な喜び、楽しさしか知りませんでした。それこそが、人間の生きている醍醐味だと、考えていました。しかし、それは、長く続かない。むしろ、望むものを手に入れられなくて苦しみ、手に入れた物を失ってしまう悲しみ、悔しがり、そのように生きる世界しか知らなかったのです。しかし、今、この神の義、救われたとき、初めて知ったのです。今まで、自分が生きていた世界は、なんと、恐ろしい、暗黒であったかと知ったのです。気づいたのです。

どうして気づけたのか。それは、自分の悟りではありません。それは、自分でハッと気づいたのではないのです。「伝えられた教えの規範を受け入れた」からです。これは、鍵の言葉です。外からの言葉を聴き、受け入れたからなのです。私どもの教会は、16世紀、教会改革の指導をしたカルバンの伝統に立つ教会でありまして、改革教会と申します。日本においては、戦後創立し、その名称を日本キリスト改革派教会と申します。この教会は、徹底して教会を聖書の御言葉によって新しくする、神の御言葉によって改革することを目指しました。教会を改革するということは、教会の生命である礼拝を改革するということでした。今捧げている、この礼拝式を、正しい礼拝式として神に捧げるため、そのように整えるために、御言葉に基づいて改革したのです。

「伝えられた教え」のことを、私どもは、「教理」と申します。改革教会は、徹底して教理を学ぶことによって、あるべき教会になるのだと確信している教会です。堕落してしまった教会、これでも教会なのかという、現実の姿を見ながら、これに甘んぜずに、あるべき教会の姿、聖書にかなった教会の姿を取り戻すべく戦うなかで、ますます確信を深めていったのです。「伝えられた教えの規範、規準を受けれいること」これこそ、その筋道であると確信したのです。ところが、そこでも、教会の中からは、このような声がしばしば沸きあがったのです。「教会とは、教理を学ぶようなことより、実践が大切である。」「伝えられた教えを学ぶより、今ここで、自分の心は、こんなに大きく動いている、体験をしている、こんなに信仰が生き生きと燃えている、この実感こそが大切である。」「難しく、面倒な学びをすると、せっかくの心が燃えるような感動が、しぼんでしまう。」このような声を、わたしはかつてどれほど聞かされたことでしょうか。

しかし、パウロは、はっきりといいます。「あなた方が、神の奴隷になれたのは、決定的なことが起こったからなのだ。その第一は、伝えられた教えの規範を受け入れたからだ。」その通りです。その教えの規範を、具体的に私どもで言えば、何よりも、それはニカヤ信条です。さらに、厳密に申しますと、今、祈祷会で学び始めているウエストミンスター信仰告白や、ウエストミンスター教理問答のような信仰告白のことです。もし、私どもの教会が生き生きとしているのであれば、それは、この世々の先輩たちが、これこそ、聖書の信仰の要約であると伝えてきた、信仰の教え、教理を私どもが受け入れ続けている、学び続けているからなのです。これこそ、命の知識。私どもをして神の奴隷へと転換させるために、なくてならなかった救いの知識なのです。

想像してください。もしも、17節で、いきなり、「神に感謝します。」とパウロが感激の声を上げても、もしも、私どもが、これまでのパウロの議論を読んで、理解していなければ、わけが分からないと思います。もしも、教理の知識がなければ、分からないと思います。教理とは、言わば、これまでのパウロの議論を、組織的に整理して記したものなのです。

信仰によって義とされる。主イエス・キリストの真実によって義とされる。主イエス・キリストの真実の御業、十字架と復活とその意味を知らなければ、私どもは、救われませんでした。だからこそ、教理の学びが、私どもの救いにとってゆるがせにできないことなのです。

昨年の降誕祭に洗礼を受けられたかたも、いよいよ、個人的な学びも終わろうとしています。やはり結局、1年近く、「子どもカテキズム」を学んだことになります。どうしても「しかし、神に感謝します。」というこの感激をいつも新しくしていただきたいからです。自分が、どれほど、感謝しなければならないように祝福されている人間であるのかを知る、それが、聖書を読むこと。教理を学ぶことです。その意味で、このような学びでなければ、逆に言えば、真理の学びにふさわしくない、と思います。

繰り返しますが、何故、いきなり「しかし、神に感謝します」と歌い始めたのか。それをやはり明らかに語りたいのです。つまり、私どもがどのようにして、罪の奴隷から、神の奴隷になることができたのかということです。それは、御子イエス・キリストのあがないの代価が支払われたからです。主イエス・キリストの十字架の身代わりの死があったからです。そのようにして、買い戻されたのです。もう二度と、罪の奴隷になることがないために、有り余るほどの身代金が支払われました。

拘置所から保釈されるために、人によっては、何億円も払います。ただし、何億円か払ったからといって、あとで、裁判が待っています。その裁判まで、お金で買い取ることはできません。しかし、主イエス・キリストが私どものためになしてくださったことは、保釈金の支払いどころではなかったのです。その裁判自体に完全に勝利してくださる。罪の奴隷であって、罪の言うままに仕えて生きてきた私どもに下されるべき判決は、死以外のなにものでもないのです。罪の支払う報酬、給料は死です。しかし、神は、ご自身の法廷で、ご自身が裁判長であるので、不正をなすことなどできません。ありえません。しかし、その義なる神が、私どもを赦すために、神は、ご自身の独り子を、人間とならせ、この罪なき人間イエスさまを、私どもの罪の支払う報酬としての死を身代わりに支払わせてしまわれたのです。そのお命を絶ってしまわれたのです。神の正義はまったく傷つくことなしに、私どもを救ってくださったのです。もとより、そこで神だけが、おそるべき犠牲を支払われたのであります。

この御子イエス・キリストの贖いの力は、私どもの主人であった罪と戦って、これを打ち倒してしまわれるのです。主なるキリストは、われわれのかつての主なる罪より力が圧倒的に強いのです。罪の支配に頭を抑えつけられてしまって身動きできず、ただ、罪の欲望のままに従い、しかもそれこそが、自分らしい生き方、人間らしい生き方であるとすら考えて、うそぶいて生きてきた、惨めな人間を、解き放つのです。奪い返すのです。

だから、使徒パウロは、さけばざるを得ないのです。「神に感謝します。」そうであれば、ひとり、パウロだけの感謝の叫びではないはずです。神は、ここにいる私どもをも、恵みの支配の下に、神のご支配のもとに奪還してくださったからです。私どもは、すでにニカヤ信条で、このイエス・キリストを主と告白しているのです。信仰告白した者として、恵みの言葉、説教を聴いているのです。私どもは、すでに、罪ら解放されました。

もともと、罪に仕えたぶんだけの給料を、たんまりともらうべき私どもは、今、何も働いていないのに、今度は、神のお働きのおかげで、報酬を受けるのです。いへ、これは、ただしくは報酬とは呼べません。ただで、無代価で、命、救い、自由を与えられたのです。パウロは、これを恵みと言うのです。私どもは、血の一滴をも流していないのに、神が成し遂げてくださったおかげで、祝福されたのです。これが、私どもの姿なのです。

ただ、私は、やはり、ここで、パウロが一言、補足していることに触れておかなければならないと思います。使徒は、伝えられた教えの規範を「受け入れ」で終わっていません。その後にこう続きます。「それに心から従うようになり」受け入れることと、心から従うことと別個のことではないということです。

説教を聞いて理解する。これは、基本です。聖書を読んで理解する、これも基本です。しかし、理解することと従うこととを分けることは、聖書的ではないのです。神の恵みの手続き、福音の教えを理解することは、心から従うことなしには、貫かれないのです。単純な事実です。奴隷は、従うのです。従わない奴隷は、存在しないのです。屁理屈をこねるのは、それが目に見えない神のまえだけでしか通用しません。しかし、神は、御言葉において、伝えられた教えの規準において明らかに御心をお示しくださるのです。「そこを何とか」とか、「例外もあるでしょう」とか、神の御前に通用しないのです。「恵みが増すように、罪の中に留まろう」とか、「恵みの下にいるから、罪を犯してよい」とか、頭のなかでは、神をもてあそべるかもしれません。しかし、信仰は、頭のなかのことではありません。生きることです。五体のことなのです。全存在をもって、従うことです。

たとえば、「礼拝を受けに来る」という言い方は、私どもの教会では聞きません。どうしてこのような言葉が、あるのか、とても不思議なのですが、一つは、キリスト教主義学校の影響があるのかもしれません。学校では、礼拝を受けるという言い方がぴったりくるのかもしれません。しかし、本物の教会では、礼拝を捧げに行く。キリスト者にとっては、そのようにしか表現できないのです。神の恵みを受けに行くということは、もちろんその通りです。ここでしか、受けられない恵みがあるのです。それを今、私どもは、受けている。しかし、この受けるということも、心から従うという態度決定なしには、十分には、実現しないと思うのです。

私どもは、神の奴隷にしていただきました。神が身代金を支払って、買い戻してくださいました。そうであれば、二度と、罪の奴隷になってはいけません。いへ、何よりも、後で、第8章で使徒パウロは叫びますが、そもそも、主なる神からいかなる力であっても、私どもを奪い返せるものはないのです。今朝、そのことを心新たに信じましょう。私どもは今、恵みの下にいるのです。どうして、神の支配下にある私どもを、どのような敵が、そこから盗み取れるというのでしょうか。

わたしどもは、今朝、他のどこでもなく、この神の恵みの直下に座っているのです。ですから、もはや、心配要りません。そわそわすることはない。認めてよいのです。わたしは、神に従順に仕える奴隷であると認めるべきです。

もはや、このように言う必要はありません。「いへ、わたしには、まだ、罪が残っています。まだ、罪に誘われます。しかも、実際に罪に負けることもないわけではありません。これまでの罪の結果であるさまざまな災いも、山積みです。ですからまだ、自分は、恵みの下にいないはずです。」いへ、違います。ここはどこでしょうか。ここは、神の家です。主イエス・キリストが聖霊によって臨在していてくださる家です。ここに、主イエス・キリストがおられます。ここは、天とつながっている家です。私どもが、今朝、「これまでは、罪の奴隷であったけれども、これからは、神の奴隷になりたい」「主イエス・キリストが恵みとして支払ってくださる命を受けたい」と願い求め、キリストの十字架とご復活を信じるなら、ただ、そのおかげで、今、命に連れて行かれます。そして、義に至ります。神の命を受けます。救われるのです。天国の民に今、なるのです。その招きを信じ、共に、神に感謝しますと、祈りましょう。

祈祷
かつては、罪に仕える奴隷として、死んだものとなっていました。そして、永遠の死へと一歩一歩歩みを進めておりました。そのような私どもを、あなたの恵みに支配のもとに買い戻してくださいました、主イエス・キリストの父なる御神。今、先輩たちから伝えられた教えの規範を受け入れ、御言葉に心から従う信仰と志をあたえられております。心から感謝申し上げます。どうぞ、この恵みの下に立ち続け、いよいよ、救いのほうへ、神のほうへ、命の方へと歩み続ける者としてください。そして、一人で、この道を歩むのではなく、多くの仲間たちと共に、歩む私どもの教会としてください。そのために、私どもを今、義のための道具としてあなたに捧げます。どうぞ、私どもを用いてください。幼い仲間も、青年、そして年を重ねている仲間であっても、あなたの栄光のために用いてください。アーメン。