過去の投稿2006年6月20日

6月18日

★  本日は、浜松伝道所の金起泰先生(韓国のイエス教長老会(高神派)の宣教師)との講壇交換です。  先週の委員会報告に記載しましたが、今回の企画は、代理宣教教師の奉仕が決定するはるか前のことです。しかし、これまでの浜松伝道所とのかかわりから考えても、主の不思議な導きが確かにあることを思わざるを得ません。浜松の群れのために、少しでもお役に立てればと思います。
 現在、浜松伝道所は、これまでの歴史のなかで、もっとも安定し、そればかりか、成長の胎動を見せていると思えます。長い無牧の後、神は、最善の説教者、牧会者を与えてくださいました。金先生は、まさに、今の日本キリスト改革派教会や中部中会に与えられた、もっとも大きな賜物の一つであると思います。先生との交わりによって、キリスト者は、霊的に養われ、励まされると信じます。それが「聖霊の器」の特徴なのです。それが、キリスト者の霊性です。牧師との交わりによってそれがなされる・・・(ですから、皆様にも、私との交わり(牧会)を受けることが大切なのですと呼びかけているのですが)のです。逆に、それができない牧師であれば、致命傷です。  
 金起泰先生は、宣教師ですから、言葉のハンディや、日本についての知識には日本人牧師よりハンディがあるのは当然です。しかし、聖霊の器として神は、御言葉を語る先生とともに働かれ、浜松の群れは、それによって大きな励ましを受け、伝道する教会へと、新しくされているのです。私自身も、先生との交わりによって、知らないうちに(?)、日本キリスト改革派教会の欠点に染まってしまいつつある自分を発見させられます。神から新しく同志を与えられたとの思いでいます。

☆  今回も、「大会役員修養会」に出席しました。毎回、覚えさせられることは、「修養」「霊的修練」の集いにはなりえていないという正直な思いです。定期大会の議題、60周年以降の大会の課題を検討することが 中心に、どうしてもなってしまう・・・。これは、現在の大会の機構からすると、どうしても避けられないかもしれません。
 しかし、その上でやはり、もっと本質的な議論、学びの場を設けてもよいと思えてなりません。我々の課題。それは、何よりも伝道の課題であると考えますが、しかし、その前提にあるのは、実は、教会役員の霊性の問題にあるとわたしは見ています。創立宣言の言葉で申しますと「善き生活」の課題です。しかも、霊性の低さの問題は、お祈りの習慣の弱さ、伝道への熱情の欠落というキリスト者の内面や協会奉仕に直結するのは当然であります。しかし、そればかりではありません。実は、同時に社会的な、政治的な危機を認識することもできなくなるのです。
 憲法委員会第三分科会が、「礼拝指針改正」のために精力的に働いておられます。現行の「礼拝指針」の中に、「断食の日」についての項目があります。懇談会で、一人の長老が、「自分は、この意味が分からないし、教えてもらったことはない。そうであれば、削除してよいのではないか」と発言されました。するとすかさず、複数の牧師たちが、かつて靖国神社の国家護持法案が国会に提出されようとしたとき(靖国闘争」、日本キリスト改革派教会として、断食を各教会に呼びかけ、実行したことがあったとの証言を紹介されました。そして、今まさに、そのような状況に立ち至ろうとしているのではないかとの指摘がなされました。 このような複数の発言を聴いて、わたしはほっと胸をなでおろしました。今国会が閉会し、教育基本法の改正案は、継続審議となりました。しかし、もしも、教育基本法が政府案のように、「宗教心の涵養」のあいまいな表現と美名のもとに、かつての国家神道(日本の戦争、罪、悪の根源)への回帰がもくろまれています。憲法と一体化して運用なされるこの教育基本法の改正は、現憲法の理念の「改正」をほとんど決定してしまうことを実質的には意味しています。そうなれば、戦後の平和国家構築を目指した歴史は覆され、一方で並行的になされてきた旧日本への回帰の企ての方は、勝利するわけです。それは、日本キリスト改革派教会の創立の志は、決定的に敗北することを意味します。もしも、そのような事態が進行していながら、霊的な惰眠をむさぼっているなら、惨めです。「霊性」とは、単に、内面的な事柄の問題では決してありません。外的、世界や日本との関わりにおいて試されるのです。これからも、聖書日課、祈祷会を大切にしてまいりましょう。

★  先週は、日曜学校の子ども達が、消防署、老人施設そして教会の近隣に、押し花のしおりと教会案内を携えて配りました。「花の日」の記念のプログラムでした。子ども達が、伝道と証しの奉仕に招かれ、用いられることを感謝します。このために、ご奉仕くださった方々、心から感謝いたします。