過去の投稿2006年6月25日

6月25日

★   先週は、浜松伝道所の金起泰先生の説教奉仕をいただきました。その後は、「ビビンバ」をいただきながら、先生を囲んで、良き交わりが与えられたとのことを伺いました。出席された方々には、忘れがたい印象を与えられたと思います。おそらく全員が、これまでの信仰生活、教会生活をあらためて考え直させられるようなときではなかったかと想像しています。韓国のキリスト者と日本のキリスト者とを比較し、何よりも、韓国の高神派と日本キリスト改革派教会とを比較するとき、さまざまな点で、わたしどもの弱さを覚えさせられます。そのとき、肝心なことは、国柄などのせいで片付けてしまわないことであると信じます。少なくとも、高神派は、私どもと正式な宣教協力関係を持つ、ウエストミンスター信仰基準を憲法にする私どもと同質の信仰に立つ教会です。聖書を読むこと。祈ること。伝道すること。奉仕すること。これは、韓国のキリスト者、日本人キリスト者の別はありません。金起泰先生から個人的にも、日本キリスト改革派教会のとりわけ牧師への厳しいご指摘を受けています。そしてそれは、わたしも、他人事ではなく、自分の課題として認めています。先週も、記しました。霊性の問題です。これは、すべての営みの基礎になるのです。

★   東京教会の前牧師、矢内昭二引退教師から教会宛に、講演集「改革派教会の霊的戦い」を頂いています。この先生は、日本キリスト改革派教会の第二世代にあたり、長くリーダーシップをとられた先生です。 書名を見て、はるか神学生時代に、「霊的戦いの神学的出発」をすると神学校の機関紙に書いたことを思いおこさせられました。私どもが戦う相手は、「空中の権を持つ君」悪魔との戦いです。私が卒業した神学校は、その意識を持っていたように思います。しかし、その戦いに勝利するためには、どうしても「神学」が伴わなければならないと、神学校一年時、目覚めさせられたのです。その帰結が、今日の日本キリスト改革派教会の教師としての自分の存在なのです。しかし、そこで間違ってはならないのです。神学的な戦いの目標は、霊的戦いの勝利に他ならないのです。それは、現実的な勝利です。キリスト教の霊性、教会の霊性は、人間の内面の問題だけではなく、対、職業。対、国家。対、地球環境。対、世界の諸問題・・・。広く「外へ」と教会の視野を広げさせます。これこそが改革派教会の霊性なのです。私どもの霊性の涵養、霊性の深化が、日本に教会が立つか倒れるかの基礎になる、これは決して言い過ぎではありません。

☆   金起泰先生の言葉は、おそらくストレートであったと思います。名古屋岩の上伝道所では、受け止められると信じますが、「柔らか」ではない教会であれば、心を閉ざしたり、反発したりすることも、起こりえると思うのです。しかし、「物分りがよい」牧師が、神の御前によい牧師ではないでしょう。先生の指導によって、 もしも個人的な課題が問われたのであれば、それを祈りの課題にして、進むことが大切です。

★  実は、わたしも、先週、お昼の交わりのときに、浜松伝道所の会員から、「先生は、人間的な慰めはまったく語られませんでしたね。でも、御言葉の慰めで・・・・」何度も、「人間的な慰めではなく」と仰るので、「それは、悪口ですか?」と笑いました。無牧の期間、わずかなりとも説教奉仕をさせていただいた私への誉め言葉と受け止めています。(少しは、優しい言葉もかけて上げればよかったし、そうしたつもりですが!?)

☆  「霊的戦いの神学的出発」私どもの教会は、これまでもこの方向で戦ってまいりました。しかし、「神学的戦いの霊的出発」といってもよいでしょう。かつて一人の恩師から「『空を打たない拳闘』をしないといけないよ」と何度も言われました。ピントがずれないようにということです。それは、霊性の涵養にかかっているのです。私どもの教会の大目標、20周年宣言を生きる教会!として、宣言の言葉をあらためてかみ締めましょう。「思うに、神の国の進展は、人間のわざにあらず、聖霊が人をとおしてなしたもうみわざであるゆえ、わが教会がその尊い使命を御心にかなって行うために根本的に必要なのは、熱心にして絶え間ない祈祷である。わが教会は、神学と伝道とを祈祷の生活において統一することによってのみ、聖霊の力あふれる教会として立ちうる。」

★  名古屋岩の上伝道所の開拓伝道の一つの明確な戦いは、「敬虔主義」との戦いでした。敬虔主義とは「悪口」の言葉です。キリスト者は、聖書に命じられているとおり、敬虔の修練を目指します。しかし、敬虔主義は、キリスト教を「宗教化」してしまい、御言葉への服従、キリストの主権への服従より、どれだけ自分の心が感動し、涙を流し、いわゆる恵まれたかを追及することです。結局、キリストではなく、キリストによって自分がどのように幸福になっているか、気持ちよくなっているかを問うのです。私どもは、これからも敬虔主義に抗います。しかし、まことの敬虔の修行の道を、ときに後退しながらも、前進を目指してまいりましょう。