「聖なる、自由なる生活」
テキスト ローマの信徒への手紙 第6章15節~23節
「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。
知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつて罪の奴隷でしたが、今は、伝えられた教えの規範を受け入れ、心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。
あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
先週は、浜松伝道所で礼拝を捧げましたので、二週間ぶりに、愛する教会員の皆様とともにここにこうしていることができますこと、それは、どれほど大きな喜びでしょうか。一人ひとりがその信仰の歩みを守られ、この日を目指して、一週間の信仰の戦いを続けました。そして、今朝、私どもはここに皆で集まっている。心から感謝いたします。わたしどもは、今、ここにいる。つまり、今や遂に、神の恵みの下にいるということです。神の愛のご支配のもと、その究極のあり方である礼拝式にあずかっています。今、朗読したパウロの言葉で言いますと、「今は罪から解放されて神の奴隷となり」今や、罪から解放され、神の奴隷として、私どもの主なる神が与えてくださる祝福の頂点である礼拝の場に招かれているのです。すでに決定的なことが私どもに起こっています。そうであれば、この朝もまた、私どもに与えられている祝福の重さを、神の御言葉とその説教とによって、新たにかみ締めたいと思います。そのようにして、父と子と聖霊にていましたもう全能の神に、心から礼拝を捧げてまいりましょう。
使徒パウロ自身、19節で、こう言います。「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです」ここで、分かりやすくという言葉を「人間的に言う」と翻訳した聖書があります。むしろ人間的に説明するという方がもともとの言葉の意味に近いと思われます。人間の生活を題材にして、説明を試みようというわけです。そこで取り上げたのが、「奴隷」という人間のあり方でした。当時のローマの社会では、奴隷は、自由人より大勢いたといわれています。彼らの経済的繁栄、文明生活を支えていたのは、この奴隷たちの労働があったからなのです。実に、ローマの信徒への手紙の読者であるキリスト者の中にも、奴隷がいたわけです。
17節「あなたがたは、かつて罪の奴隷でしたが、今は、伝えられた教えの規範を受け入れ、心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」22節「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。」使徒パウロは、罪の奴隷か義の奴隷か、罪の奴隷か、神の奴隷か。人間は、二つのうちどちらかでしかない。キリスト者とは、神の奴隷にさせていただいたのだと言うわけです。そしてこの神の奴隷であるということがどれほどすばらしい恵みであるかを、読者と確認しあい、17節にあるように、「神に感謝します」と共に賛美を歌いたいのです。実際、心からここで歌っているのです。
すでに、かなり古い話になってしまいますが、尾崎豊という歌手がおりました。1965年に生まれ、27歳の若さで亡くなりました。若者の心を代弁する詩を紡ぎ、歌にしました。当時、10代の若者たちからの圧倒的な支持を集めました。今なお、その歌は親しまれています。彼の作品のなかで、本人がおそらく高校生であった頃作詞した詩に「卒業」という詩があります。この御言葉を説くとき、それこそ、わたしもパウロに真似て、人間的な言い方をしてみたいのです。その後半部分をご紹介します。
「 行儀よくまじめなんてくそくらえと思った。夜の校舎 窓ガラス壊してまわった。
逆らい続けあがき続けた はやく自由になりたかった。
信じられぬ大人との争いの中で 許しあい いったい何 解りあえただろう
うんざりしながら それでもすごした。
一つだけ解っていたこと この支配からの卒業
卒業していったい何解るというのか 思い出のほかに 何が残るというのか
人は誰も 縛られたかよわき小羊ならば 先生あなたはか弱き大人の代弁者なのか
俺たちの怒り どこに向かうべきなのか これからは何が俺を縛り続けるだろう あと何度自分自身卒業すれば 本当の自分にたどり着けるだろう
仕組まれた自由に誰も気づかずに あがいた日々も終わる
この支配からの卒業 闘いからの卒業 (完)」
きれいなメロディーに乗って歌われるとき、独特の説得力を持ちます。「夜の校舎 窓ガラス壊して回った」という、過激な詩が我々の心に留まります。おそらく多くの若者が、この過激な詩に共感を持ったのだと思います。圧倒的に多くの高校生は、心にちらとそのような怒りをもったとしても、実際に窓ガラスを壊してまわりません。けれども、それができたらスカッとするかもしれないとも想像するのではないかと思います。
ちなみに、犯罪というのは、そんなことをしてはいけないと、多くの場合分かっていながら、しかし、それを踏み越える。しかも踏み越えたとき、何か、自分がこれまでの囚われから、自由になった、解放されたという感覚を持つものなのではないでしょうか。だからこそ、犯罪を犯すことは後を絶たないのだと思います。しかし、犯罪の本性は、そのようにして自分の思い通りやれたという自由な意識をわずか与えながら、実際は、犯罪の虜、奴隷にしてしまうところにあるように思います。
さてしかし、尾崎という詩人のすぐれたところは、ただ単に、窓ガラスを壊してまわれば、自由になれるなどとは考えていないことです。確かに彼は目の前にある、高校という秩序、おそらく詩の中での、「行儀よくまじめ」というのは、偏差値至上の、受験勉強、受験戦争に勝ち抜くための進学校であった高校生活への反抗であったのかと思われます。その偏差値を上げて、難関の大学に入学すれば「成功」という、詩人が言う「仕組まれた自由」から、本当の自由を目指して「逆らい続け、あがき続けた」のだと思います。思春期の、高校生のときのこのような葛藤、苦しみは、わたしも痛いほどよく分かります。
しかしこの詩人の非凡さは、わたしの考えでは、この詩に現れていると思うのです。「人は誰も 縛られたかよわき小羊ならば 先生あなたはか弱き大人の代弁者なのか 俺たちの怒り どこに向かうべきなのか これからは何が俺を縛り続けるだろう あと何度自分自身卒業すれば 本当の自分にたどり着けるだろう」
ただ先生に反抗してみせたら、解決するなどということはありえないと、彼には分かり切っています。我慢して卒業しさへすれば、それで自分が自由になれるなどとは、考えていません。「あと何度自分自身卒業すれば 本当の自分にたどり着けるだろう」 高校を卒業したところで、その後も、何かが自分を、俺を縛り続けるだろうと、見ているのです。 詩人は、本当の自分に憧れ、目指しているのです。卒業とは、つまり、本当の自分、本当の自由にたどりつくことにあるのです。そうであれば、この歌は、多感な高校生の心の叫びに留まらず、もっと普遍的な、すべての人間の心の叫び、憧れを歌ったものと思います。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙は、尾崎豊にも、語りかけます。あなたが求める自由は、ここにある。こうすれば本当の卒業が与えられ、本当の自分にたどり着けるという、宣言です。
尾崎豊が高校生のときは、おそらく今よりもっと厳しい受験戦争の時代、ピークの時代であったのかもしれません。しかも、彼の通っていた高校は、進学校でしたから、まさに受験の奴隷のような圧迫感を、少なくない生徒がもっていたかもしれません。
ただし、使徒パウロが生きていた時代の奴隷は、それとは比較にならないほど過酷であったと思います。ここでの奴隷とは、正真正銘、すべての自由を、主人に取り上げられるという状態にあったからです。
それなら、パウロは、キリスト者や教会に、キリスト者である奴隷たちに、速やかに、奴隷から解放されるように教会をあげて奴隷解放運動を起こしたのかというと、実はそうではありませんでした。そのことについての深い議論をする暇はありませんし、それが、礼拝説教の課題をこえるように思います。しかし、パウロが見ている次元は、根本的な次元でした。それは、肉体の拘束を取り払われれば、本当に自由な人間になれるのかといえば、そうではないからです。今の主人に、誰かが、お金を支払って買い戻されたら、今度は、買い戻した人の奴隷になるしかないのです。あるいは、こういうことを考えてもよいでしょう。ものすごく気前のよい主人に出会って、お金を支払ってくれた後で「もうわたしの奴隷にならなくてもよい。」と言われる。その人は、遂に自由人になれるのでしょうか。肉体的には確かにそうでしょう。しかし、パウロが見つめているような、神の御前での真の自由になることはできないのです。こんどは、自分の奴隷になるからです。自分の奴隷とは、結局罪の奴隷なのです。何度卒業しても、結局、本当には卒業できません。尾崎の詩で言えば、「本当の自分にたどりつく」以外に、奴隷状態からの卒業は、できないのです。
わたしどもは、主の日の礼拝式のたびごとに、十戒を唱えます。私は、司式者として、何度でも、十戒を朗読するに先立って、「私どもを自由にする掟、神からの愛の言葉を唱えましょう、神に感謝しましょう。賛美しましょう」というような前置きを申し上げます。
私ども改革教会は、礼拝式の中で十戒を唱える伝統を持っています。これは、何も特別のことではありません。しかし、十戒を唱えるときに、必ず、その前文をもあわせて読みます。これは、明らかに私どもの教会の伝統であります。十戒を理解するうえで、鍵となるからです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から救い出した神である。」この神の自己紹介から十戒の一つひとつを読みます。この救いの神、主なる神から、与えられた愛の言葉として、掟を理解するのです。
古の神の民は、エジプトで奴隷の生活をおよそ400年間、強いられていました。しかし、神はご自身の預言者としてモーセを立てて、脱出させられました。しかし、脱出すること即、救いとはなりませんでした。エジプトは、私どもにとっては、罪の象徴です。神の恵みの支配ではなく、罪、不信仰、不従順の象徴です。そのエジプトから単に脱出させられ、解放されてめでたしめでたしではなかったのです。荒野での40年の生活のなかで、神は、ご自身の民に、信仰を求められました。信仰を問われました。そして、神の御前に信じて従う民を、約束の地カナンに入れてくださいました。その荒野において、神は、十戒を与えてくださいました。十戒において、エジプトから解放された民がいつまでも、その解放、その自由、そのいわば「卒業」を保つための場所を与えられたのです。ただ単にカナンの地に入れば、自由になれるわけではないのです。つまり、地上の特定の場所が、最重要な問題ではないのです。むしろ、どんな場所でも、それが、生きるに困難な場所であったとしても、十戒、神の掟の中で生きることができれば、神の民は、自由を手にする、自由人として生きることができるのです。神の御言葉に従うとき、そこは、どんなに生きるのにつらい場所、過酷な場所であっても、神がともにおられる場所になるのです。地上にあって、天国がそこで始まるのです。その自由を、天国を奪われて、もとの奴隷に戻らせないために神は、十戒を与えてくださったのです。この十戒こそ、人間が自由に生きる拠点、土俵なのです。
つまり、「卒業する」とは、この十戒の中に入ることです。神の恵みの支配の中へと入ることです。ただ、今、つらい場所にいる、今、悲しい現実の中にいる、今、不幸の真ん中であえいでいる。確かに、病気をしたり、仕事上でうまくいかなかったり、人間関係で思うようにならなくて苦しい目にあったとしても、しかし、十戒が与えられ、神の恵みの支配の中におかれているのなら、私どもは本当の自分自身にすでにたどり着いているのです。自由な生活。これこそ、信仰生活です。人間のまことの生活なのです。この自由はただ、神とともに生きる以外にないのです。神の御言葉とともに生きる場所以外に、自由はありません。
尾崎豊は、最後にこう歌いました。「仕組まれた自由に誰も気づかずに あがいた日々も終わる この支配からの卒業 闘いからの卒業」 罪の奴隷とは、いわば、彼のことばを借りれば、「仕組まれた自由」のことです。
今でも、世界はこの仕組まれた自由の中に閉じ込められているのではないでしょうか。それなら、この仕組まれた自由とは、何か。それが、世界標準、グローバルスタンダードと言われますが、それは、経済の問題。お金の問題です。お金があれば自由になれるという教えではないでしょうか。その自由競争、その市場原理のなかで、自由を競争しているのではないでしょうか。しかし、その自由の勝利者を、パウロはこう見ている。「そのころ、どんな実りがありましたか、あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。」痛烈な皮肉。批判です。神から見られたら、恥ずかしいのです。神の御前に立てない実りです。神の実りではなく、罪の実りです。神を捨て、神から離れて、そのような恐るべき自由を手にした人間は、ますます、その「自由」を追求するために、一生懸命、働くのです。罪のために、罪に向かって、自由の身になるため、自由の身でい続けるために、真実に、真剣に、全力投球するのです。しかし、そこから受ける報酬は、なんという惨めな、悲しい、恐ろしい給与、現実でしょうか。その働きの報酬は、死に他ならないのです。
神は、昔モーセをお選びになり、ご自身の民を、自由へと、ご自身の恵みの支配のなかへと招き入れられました。パウロは今、読者たちに訴えます。我々は、今や、神の御子イエス・キリストによって、その十字架の死という代価を支払われて、買い戻されたではないか。神の子とされたではないか。我々は、何も一生懸命働かなかった、真実に全力投球して罪と戦ったわけではなかった、いや、反対に、一生懸命、死、滅びという結論を目指して、必死に競ってきたではないか。しかし、神は、まことの自由を、永遠の命を、私どもの働きによってではなく、努力によってではなく与えてくださった。給与としてではなく、報酬としてではなく、賜物として、プレゼントとして、永遠の命を与えてくださった。我々の行き着く先は、永遠の命しかない。そこで、本当の自分にたどり着くことができる、永遠の命にたどりつくことだけが、確定している。それが、パウロがここで感謝している内容なのです。
先回の説教で、使徒パウロは、17節で、「しかし、神に感謝します」と大声で歌ったのだといいました。私は、23節でも同じことが起こったのではないかと思います。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」圧倒的な勝利の賛美です。しかも、パウロは、「今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。」と断言しています。
実は、使徒パウロは、読者がどれほどの実を結んでいるのか、余り知らなかったはずです。まだ、彼らと会ったことがないからです。それなら、これは、お世辞なのでしょうか。違います。そんな見え透いたお世辞など通用するはずもありませんし、パウロが言うわけありません。これは、パウロの確信です。すでに自分が経験していることだからです。同じように、主イエス・キリストを信じているのであれば、ローマの信徒たちも同じであると断言できるのです。
なぜでしょうか。それは、このような聖なる生活は、ローマのキリスト者の資質にかかっているのではなく、ただ彼らが、神の決断によって選ばれ、この自由の中へと入れられた人間だからです。神の自由によって選ばれ、信じている人間は、実際に罪から解放され、ご自身の実りを結ぶ以外にないように定められていると確信しているからです。ここに、この聖なる生活の決定力があります。ワールドカップでは、日本のチームの決定力の不足が話題になりました。しかし、ここでは、神がゴールを目指して蹴っておられるのです。そうであれば、ゴールポストに突き刺さるのは確実です。洗礼を受けて、キリストと結ばれた人間は、ゴールめがけて蹴られて、空中を飛んでいるような状態にたとえることができるでしょう。
しかも、ここで戦っておられるのは、ただお一人です。それは、神です。神が私どもを自由にするために、戦われる。否、戦われたのです。父なる神は御子イエスによって、私どもを買い戻してくださいました。十字架で、尊い代価の御血を流されました。しかも、この戦いは、すでに終わった、勝利で終わったのです。だから、私どもは完全に自由にされ、確定したのです。
神の奴隷は、「聖なる生活の実を結んでいます。」と宣言されています。サッカーボールのたとえは、不十分です。地上において、実を結ぶことが私どもの特権なのです。永遠の命は、今、ここで始まっているからです。まことの自由は、今ここで、始まり、味わわれ、楽しまれるべきだからです。
この自由は、人と競争して獲得できるものではありません。いわんや、人を蹴落として、獲得できるものではないのです。この自由は、人と比べて多くなったり少なくなったりしません。主イエス・キリストが働いてくださったおかげで、このお方からの賜物として与えられるものです。この自由は、目減りしません。この自由は、一人で楽しむものではないのです。
その意味で、この自由の特権には、使命が帯びています。一つの大きな使命は、こういうことです。私どもの周りに、尾崎豊がおります。たくさんいます。わたしも、かつては、その一人でした。自由を求めて、しかし、卒業できなかった。卒業の仕方がわからなかったからです。卒業できるともしらなかったからです。自分を卒業する。自分の人生の主人を、どこまでも自分でなければならないという先入観で、結局、がんじがらめにされていたのです。自己中心と自分を守り、大きくし、自分の自由の領域を少しでも拡大しようと、生きたからです。しかし、そのようなわたしにも、主なるイエスさまが出会ってくださいました。主イエス・キリストが教えてくださいました。しかも、主イエスが他の知恵深い宗教家や哲学者とまったく違うのでした。このお方は、教えてくださると同時に、そこから脱出させてくださったからです。何の修行も努力もすることなく、求められずに、犠牲を払わずに、このお方が、私どもを救い出し、ご自身の自由の中で生きるようにしてくださったのです。ただ、この主の御業を信じるだけで、神は、私を自由にしてくださったのです。それを伝える、これが私どもの務めです。
コリントの信徒への手紙Ⅱ第3章17節に、「主の霊のおられるところに自由があります。」主イエス・キリストを信じ、その結果、聖霊を注がれ、聖霊のご支配のうちに、キリストの霊とともに、聖霊とともに生きるなら、必ず、自由の生活、聖なる生活が与えられるのです。今や、私どもは、この自由の中に置かれています。そうであれば、断じて、かつての死に行き着く場所に戻ってはなりません。むしろ、この自由の場所に生きることによって、人々とともに自由を喜ぶのです。競争するのではない。一人でも多くの人にこの自由へと招くのです。
その自由の拠点。それこそは、十戒を唱え、十戒に生きる神の民の集いである教会です。教会によって、人々は自由を知るからです。主イエス・キリストにお会いし、そこで現実に自由な生活、聖なる生活、神と共に生きる生活を訓練されるからです。どうぞ、さらに、教会生活を深めてまいりましょう。来週は、転入会式を挙行します。私どもの教会は、一人の姉妹を新たに神の家族として迎え入れることによって新しくなります。教会生活に、主体的に関わることができるのです。どうぞ、キリスト者は、いよいよ、この自由の拠点であるキリストの支配、恵みの支配の教会に全存在をもって生活しましょう。
祈祷
罪の奴隷から、神の奴隷へと買い戻してくださいました主イエス・キリストよ、今、あなたのおかげで、私どもは、神の子の自由の中に生かされています。聖なる生活、自由なる生活を送っています。永遠の命を約束され、しかも、今ここですでに、その命を味わいながら、礼拝を楽しみ、喜びながら生かされています。どうぞ、この自由を深く味あわせてください。それと同時に、偽りの自由の下で、罪の支配の中で生きている多くの人々のために、私どもの教会の交わりをいよいよ恵みによる交わりとし、ここで真の自由を味わい、自由なる、聖なる生活へと訓練される、自由の拠点として整えてください。アーメン。