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「新しい生き方へ」

「古い生き方か、新しい生き方か」
2006年7月2日
テキスト ローマの信徒への手紙 第7章1節~6節①
「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。
従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。
ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」

 今、私どもは転入会式を挙行いたしました。新しい現住陪餐会員を迎え入れるということは、単に、会員が一人増えたということを意味するのではありません。それは、私どもの教会が新しくなったということです。変化したということです。成長したということです。確かに、こうしていつものように説教を聴いて礼拝を捧げています。しかし、今朝、私どもは神の御前で、これまでの神の家族としてではなく、新しい神の家族として見られているのです。家族はこれまでの家族と同じでありながら、しかし、異なるのです。
 
それはまた、転入された姉妹個人にも起こった著しい変化でもあります。姉妹は、今、はっきりとこの教会の交わりの中に迎え入れられ、地上にあっては、ほかのどの教会でもなく、この教会に仕え、この教会の形成のために奉仕に召され、この教会と通して神に仕え、ご自分の信仰の使命を果たして行かれるのです。私ども新しい名古屋岩の上教会にとっても、ご本人にとってもそのような新しい出来事が、今、この誓約によって起こったのです。そして、それをはっきりと自覚させていただくことができるのは、説教の後ただちに、祝う聖餐の礼典においてであろうと思います。新しくなった私どもの教会が、その最初に祝う聖餐の礼典です。私どもは、今朝、はっきりと新しい名古屋岩の上教会として、神の御前に立っているのです。

そのように新しくされた私どもの教会に今朝、与えられているのは、ローマの信徒への手紙第7章1節から6節までです。計画では、二回に渡って学びたいと考えています。今朝は、特に、新しくされた私どもの教会とのかかわりの中で、特に、6節の御言葉に注目しながら、学びたいのです。その意味では、話の順序からすれば、逆から、後ろから学ぶようになります。「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」

ここに「新しい生き方」という言葉が記されています。今朝、改めてこの新しい人生、新しい生き方とは何か。それは、可能なのか。どうしたらそのような生き方ができるのか、そのことをご一緒に考えたいと思います。
この「新しさ」、「新しい」ということは、既に、第6章3節でも学びました。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

コンピューターの時代に生きている我々は、「リセット」という言葉を身近に見るようになっています。リセットとは、やり直しということです。元の状態に戻すということです。機械のトラブルに襲われて、その解決がつかなくなったときには、最後には、リセットしてしまう。そうして初期設定、最初の状態に強制的に戻してしまうわけです。そして、コンピューターであれば、それは、可能なのです。

それなら、我々人間にとって、そのようなリセットは、可能でしょうか。やり直して、新しい人生を始めることは可能でしょうか。端的に申しまして、それは、無理です。不可能です。

毎週毎週、新聞やテレビで、痛ましい犯罪が報道されています。先週も、一人の高校一年生になる少年が自分の家に放火して、母親と弟、妹の命を奪ってしまいました。彼は、「すべてをなくしたかった」「白紙にしたかった」と供述したそうです。まさに、放火して燃やしてしまうということは、典型的に、白紙に戻す行為のように思えます。家もその中にあるすべての品物、思い出に結びつく一切の目に見えるものを焼いてしまうと、消え去ります。しかし、それで、人生をリセットすることは、当然のことですが、できません。

けれども、この少年の犯した罪は、極端な例です。しかし、多くの人は、彼の心のうちの願い「すべてをなくしたかった」「白紙にしたかった」というその気持ちについては十分に共感できる部分があるのではないでしょうか。
誰でも、自分をとりまく家庭環境、学校、職場が息苦しくてしかたなくなってしまうのであれば、そこから逃げ出したいと思うでしょう。逃げ出すことができないのであれば、残された可能性は、その場所そのものをなくしてしまうということ。そのように考えることも、ありえるのではないでしょうか。

もう数年前から、「熟年離婚」ということがさかんに言われるようになりました。団塊の世代といわれる方々が退職するとき、新たにこの熟年離婚の問題が深刻化するかもしれません。一説によれば、妻の半数は、夫が死んでくれればよいのにと、一度は、考えたことがあるというのです。これには、衝撃を受けました。確かに、結婚生活を解消することは、伴侶の死によって決定的になります。ですから、いっそ、夫が死んでくれれば、自由になる。この息苦しさから解き放たれる、新しい人生を始められる。そう思うのは、分からないわけではありません。人間関係で本当に悩んでしまって、最後には、相手が死んでくれれば解決するという恐ろしいことを考えたことがある方は、少なくないと思います。あるいは、反対に、自分が死ぬという選択もあります。そして、自殺の問題も、日本の深刻な社会問題です。このことに対して、教会が問われていると考えるのは、わたし一人ではないと思います。教会の責任と使命を思います。

これは、来週学びたいのですが、この7章の1節2節は、まさに、その問題が一つの例話として語られています。「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。」

ここでは、この世の生活における婚姻法、法律になぞらえて、キリスト者の新しい存在を描き出そうとしています。簡単に言えば、キリスト者とは、律法と罪と離婚できたのだということです。どうして離婚できたのかというと、相手が死んでしまったからだというのです。だから、もうよりを戻すにも相手がいなくなってしまったので、完全に離婚が成立し、自由になった、新しい男性と結婚することは何の問題もないということになるわけです。

結婚生活で苦しんでいる女性は多いでしょう。また、男性もそうだと思います。しかし、現実には、たとい伴侶が死んで再婚したとしても、それで本当に、人生をやり直すことができるのかと申しますと、それは、難しい。いや、できないのではないでしょうか。まったく新しい人生をはじめることは、すでに何年かの人生、何十年かの歴史を生きている人間であれば、もはや、不可能です。

もしも、可能性があるとすれば、それこそもう一度、人間を一から、ゼロからやり直すこと、つまり、新しく生まれなおす以外にありません。しかし、当然、そのようなことはできません。
ヨハネによる福音書第3章には、有名な対話が記されています。著名な律法学者であり、ユダヤの最高法院の議員であってニコデモという老人と主イエスさまとの対話です。「人は、新たに生まれなければ神の国を見ることができない。」と主イエスは言われました。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」ニコデモでなくとも、人間は、新しく生まれることは、できないと考えるのが常識であると思います。言葉を換えますと、人間は、「やり直しがきかない」のです。もとに戻れないのです。違う選択をしておけば、こんな自分にならなかった、と嘆いてみても、時間を巻き戻して、やり直すことはできません。だからこそ、人は、前を向いて、少しでもよりよい選択をしよう、これまでの体験から学びとって間違わない選択をしようとする以外には現実には対処方法がないわけです。

しかし、聖書はまったく驚くべきことを私どもに告げます。主イエス・キリストは、まことに驚くべきことを告げてくださり、約束してくださいました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」ここで主イエスが語られた救いの言葉、福音の言葉と、ローマの信徒への手紙のこのテキストにおける使徒パウロの言葉とは、同じ真理を語っているのです。聖書の真の著者は、神ご自身ですから、主イエスのメッセージと使徒パウロのメッセージとは、深いところで一つに重なっているのは当然ではあります。

「“霊”に従う新しい生き方」ここでも新しい生き方、人生の可能性は、聖霊によるのだといわれています。主イエスさまご自身もまた、「水と霊によって生まれる」と仰せになられました。これもまた、聖霊のことです。さらにまた、主は聖霊だけではなく、「水」とも仰いました。そうであればそれは、パウロが6章で、「わたしたちは洗礼によって」「新しい命に生きるため」といったことと一つに重なります。つまり、聖霊によって新しくされるということは、具体的には、洗礼の水、洗礼を受けることによって与えられる、もたらされる神の御業、神の奇跡だということです。

しかし、いったい全体、ただの水、まさに私どもの教会は、ただの水道水を、わたしが志願者の頭に少しだけかけるだけ、それが洗礼式です。そのような目に見える行為、とても人間的な行い一つでいったい何が起こるというのでしょうか。いったい、それだけで、人間が新しい存在になるなどということはありえるのでしょうか。
事実から言えば、ありうるのです。いや、あるのです。あったからここに教会があるわけです。本日、転入された姉妹は、幼児洗礼を施された方でした。幼いときです。自分ではもちろん記憶にないことです。しかし、その洗礼によって、新しい存在のしるしが与えられたのです。ただし、その後、その幼子は、自分の口で信仰を言い表しました。教会の前で信仰を告白し、告白式を挙行して、聖餐の礼典にあずかるようになったのです。つまり、洗礼は、ただ牧師が水を注ぐことだけに神秘的な力が込められているわけではありません。信仰に根ざして、この洗礼の礼典はその効力を明らかにするのです。

しかし幼児洗礼は、見事に洗礼の恵みを私どもに明らかにします。わたしは、20歳のときに洗礼を受けました。遅かったのです。自分では遅すぎたと思うのです。もっと早く受けていればと思うことしばしばでした。しかし、20歳になる前の自分は、わたしにとってすでに昔の自分です。死んでしまった自分です。洗礼を受けたときからの自分こそ、本当の自分なのです。しかも、今、いよいよ教えられる真理は、その神なき、信仰なき20年間もまた、わたしは、神の愛の中に生かされていた、ただそれに気づかずにいただけだと分かっているのです。そうなれば、生まれたときから、神さまの愛の中に、わたしは生かされてきた人間であると今では悟っています。それをローマの信徒への手紙の第5章で教えられました。「聖霊によって神の愛が注がれている。わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。敵であったときでさえ、御子の死によって和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」神は、洗礼を受ける前、つまり神の敵であって、神を無視し、神に逆らっていた私を、既に神の愛のなかにおいていてくださったのです。そうなれば、私は自分の罪の中に死んでいた人間ですが、しかし、洗礼を受けたからには、もう自分のかつての罪を数える必要はなくなったのです。自分がかつて犯してしまった罪を毎日、思いおこす必要はないのです。洗礼によって新しく生まれ、生き始めた私にとって、洗礼の前の自分の罪の実りは、刈り取られてしまっているからです。刈り取られてすっかり、きっぱりと処分されました。

それは、どうしてなのでしょうか。どうやってそのようなありえないこと、不可能なことが起こったのでしょうか。パウロは4節で言うのです。「兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて律法に対して死んだものになっています。」パウロは、ここで、ローマの信徒たちに心を込めて、愛情を込めて、特別に「兄弟たち」と呼びかけるのです。どうしてそう呼びかけているのか、無意識での呼びかけではありません。ここで、特別にこう呼びたいし、呼ぶべきであると考えてのことなのです。どうして、兄弟なのでしょうか。どうして、まだ会ったことのキリスト者を、兄弟と呼ぶのでしょうか。それは、パウロとローマのキリスト者とは、お互いに「キリストの体に結ばれて」いるからです。パウロは、信仰によって、洗礼によってキリストの体に結ばれています。ローマのキリスト者もまた信仰によって、洗礼によってキリストの体に結ばれています。そのようにしてお互いがキリストの体において結び合わされ、一つになって、主イエスを長男とする神の家族になっているのです。ですから、未だ会ったことのないキリスト者であっても、パウロは心から兄弟と呼びかけざるを得ないのです。そして、そこにキリストの教会があるのです。

このキリストの体と一つに結ばれるために主イエス・キリストがお定めになられたのが、洗礼の礼典なのであります。さらに、パウロも彼らもおのおの洗礼を受けているだけではなく、場所は離れていても、キリストの体にあずかる聖餐の礼典をも受けています。聖餐は、洗礼によってキリストの体と結ばれた私どもがその恵みの絆をいよいよ深め、いよいよ新しくするために繰り返し受けることのできる恵みの手段です。
このような恵みの手段、聖餐を、私どももまた今朝、説教の後、ただちに祝います。それは、お互いを兄弟と呼ぶことのできる根拠を新たに見ることです。まだあったことのないキリスト者たちですら、パウロにならって兄弟たちと呼ぶこともできるのです。ここにいる私どもが、お互いを兄弟姉妹とみなすことは当然過ぎることでありましょう。

さて、キリストの体に結ばれたら、どうして、新しくなれるのか。そのことをしっかりと弁えたいと思います。そこで大切なのは、ここで言われている「キリストの体に結ばれて」とは、どのようなみ体、何を意味しているのかを厳密に弁えるということです。それは、十字架で死なれた主キリストのみ体です。十字架でキリストが私の罪を償うため、わたしの過去を本当に過去にし、つまり、私どもの罪を永遠に跡形もなく消し去るために、主イエスさまは十字架でまことに死んでくださいました。私どもは、この動かしがたい歴史的事実、この決定的出来事であるキリストの十字架の死の体と一つとされることによって、自分に死ぬことができるのです。死んだものとなってしまったのです。今既に、死んでいるのです。

それだけではありません。この十字架のキリストのみ体は、同時に、死者の中から復活されたみ体でもあるのです。私どもは洗礼によってこの復活の主イエスさまと一つになっているのです。一つに結ばれるという霊的な現実、事実は、自分の決断や修行、何かの手続きを経てそうなったわけではありません。神がそのようになさるとの約束に基づく、神の御業によってそうなるのです。今、私ども洗礼を受けている人間は、罪とは離婚が成立しています。律法とは縁が切れています。律法の要求する罪の支払う死とは、無縁です。離縁しているのです。今や、新しい夫キリストとの結婚が成立したわけです。このお方と結ばれて、私どもの存在は、まったく新しくなっているのです。まったく新しい人間として、神の前に生きているのです。

ここで大切なことは、新しい人間とは、言葉の正しい意味で、まったく新しい人間であるということです。そこにはいっさいの中途半端さは持ち込めません。新しい人間は、キリストの十字架と一つとされ、洗礼によって一つとされ、古い自分に死んだ人間なのです。死につつあるのではないのです。既に、あの洗礼入会の恵みによって、一瞬にして決着がついたのです。キリストは、事実死なれたのです。命ある者の死とは、黒白、はっきりしています。生きているか死んでいるか、すぐに分かります。それほどまでに、明らかのように、私どもの古い生き方は、古い自分は死んでしまったのです。過去は過ぎ去って、私どもは死者の中から復活させられたキリストのものとされているのです。夫なるキリストが、私どもに求愛してくださり、私どもの夫なってくださったのです。もはや、私どもは、このお方のものとされているのです。これは、決して中途半端な理解のままに過ごしてはならないのです。

結婚の比喩をもって使徒パウロは、私どもキリスト者の姿を明らかに示しました。なお、わたしも結婚生活の比ゆで、キリスト者の姿をなぞらえてみたいと思います。結婚生活も、努力が必要でしょう。よい関係をお互いに育てることが必要でしょう。洗礼によって結ばれたキリストとの関係が、いよいよ、親しい、よい関係になるために、私どもは、まさにそこで霊に従う新しさを求めるのです。「霊の新しさに生きる」という翻訳があります。霊の新しさに生きるとは、私どものほうでは、いつも御霊を受けるということが求められます。それは、具体的には、祈りです。祈りを通して、聖霊が注がれます。聖霊こそ、新しさそのものです。新しさとは命そのものなのです。命はいつも新鮮、いきいきとしています。祈りは、この霊の新しさに生きる人間の呼吸です。
祈る人間は、新しい生き方を始めている人です。そして、その祈りにおいて、父なる神は、私どもにもっともよいもの、すなわち、神ご自身、ご自身の霊そのものをお与えくださるのです。どうぞ、洗礼を受けているキリスト者はもとより、お受けになっておられない方も、この霊を求めて欲しいのです。祈り求めて、この聖霊の贈り物を豊かに受けて欲しいのです。

そのときには、学校で職場で家庭で、どんなに難しいしがらみを抱えて、もはやこれまでと、押しつぶされそうにあえいでいる人でも、生きることができます。どんなに、消し去ることのできない、やり直しのできない、関係にあると悩んでいても、それに負けない強さとしなやかさが与えられます。相手を殺すか、自分が死ぬかそれ以外にないなどと、悪魔に騙されなくなるのです。主イエス・キリストを信じて、洗礼を受けること、それだけで大丈夫なのです。それだけで、本当に人間は新しく生まれることができるのです。神が、キリストの体によって、そうしてくださるからです。

聖霊の新しさで生きる人は、自分を新しく見る目も開かれます。自分が決して孤独ではないこと。決して、自分は敗北しないこと。決して自分の人生は罪の実りを刈り取って滅びるのではないこと。それが分かるのです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。希望は私たちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」第5章5節です。私どもは誰がなんといおうと、神に愛されていると自分を見ることができるのです。そこに、キリスト者の新しさがあります。新しい生き方とは、そのような強さを秘めたものとなって現れるのです。

今、主イエス・キリストは、聖餐の食卓を用意してくださいました。私どもは、ただ、この主が準備された恵みを受けるだけで新しさがなお更新されます。まだ、洗礼をお受けになっておられない方が、一日も早く、この恵みにあずかれますように。アーメン。

祈祷
罪のために死んでいた私ども、古い生き方のなかで、永遠の滅びへと日々、歩んでいた私どもを、新しい生き方で仕える者としてくださいました、主イエス・キリストの父なる御神。今、キリストの死と結ばれ、罪と律法に死んで、律法の呪いから解放されました。今、キリストに結ばれ、新しい人生を、永遠の命に向かって歩むことができています。この新しさのなかに、留まり、深め、さらにこの新しさをもってあなたの恵みを証する者としてください。ここに招かれた全員が、この新しい生き方であなたに仕える喜びを深く味あわせてください。アーメン。