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「光の中で罪を知る」

「光の中で罪を知る」
2006年7月23日
テキスト ローマの信徒「光の中で罪を知る」
2006年7月23日
テキスト ローマの信徒への手紙 第7章7節~11節

「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」 

本日から、第7章7節以下を学んで礼拝式を捧げてまいります。この箇所をある学者は、ローマの信徒への手紙の一つの頂点をなすものであると仰いました。そしてその先生は同時に、頂点というのは、高みに上ることを意味するとすれば、これは、いわば、マイナスの頂点と言ってよいであろうと仰いました。マイナスの頂点、おもしろい言葉ですが、この箇所を読めばこの表現になるほどと頷くことができます。しかも単に、ローマの信徒への手紙の頂点だけではなく、旧約聖書からさかのぼって人間の、人類の死と罪の現実のなまなましい姿が、そのどん底のおぞましさ、惨めさ、悲惨さが徹底して語られていると思います。

さて、第7節はこのように始まります。「律法は罪であろうか。決してそうではない。」ここでもまた、「決してそうではない」という強い否定の言葉で始まりました。否!ノー!違う!という否定の言葉です。既に私どもは何度もこのパウロの語り口を聞いてまいりました。第3章に集中して出てまいりました。第6章の1節、15節もそうでした。第7章でも、この後すぐ13節でも、出てまいります。いったいこの言い方は、パウロの一種の癖なのでしょうか。もしもそうであれば、これはいただけません。極端なことを言って、読者の目を覚ますようなことであれば、それは、読者に見破られます。一種の言い回し、強調してみせるためのレトリックであると受け止められてしまいます。福音の真理が軽々しくなります。

このパウロの語り口、それは、福音を罪深い人間、罪人に語るということの内容そのものから出てくるものなのです。福音はただ恵みの世界です。100パーセント、神からの一方的な働きかけの世界です。この驚くべき神の福音がしかし、罪人の人間に聞き取られるとき、そこでもまさに人間の罪によって、ただちに、とんでもない誤解、勘違いを引き起こすのです。それは、福音の真理の責任ではまったくありません。しばしばそれは、語る側の人間の問題、説教者の責任が問われます。ただしかし、聖書の著者、パウロ自身がここで、とても困難を経験しているのです。分かってもらえないという困難です。福音の真理は、まことに単純にもかかわらず、しかしまことに分かってもらえない、信じてもらえないものです。いへ、分かってもらえないどころか、伝えた意味を、とんでもない誤解、曲解を施されてしまうことがしばしば起こるのです。パウロは、直前の6節で、「わたしたちは自分を縛っていた律法に対して死んだものとなり、律法から解放されています。」と言いました。そうなりますと、あわて者は「ああそれなら、律法そのものがやはり悪いものではないか。人間に罪をもたらすような律法なら、悪そのものなのではないか。もはや律法などキリスト者には不必要である」などととんでもない勘違いをするのです。パウロはそのような人を想定して、ここで言うのです。そしてはっきりと決してそうではないと打ち消しているのです。

わたしは、福音をこのように誤解するところにこそ、すでに人間の罪深さの証拠が明らかになっているとすら言いえると思うほどです。人間は、徹底的に罪深く、自己中心です。聞かされている神の福音にたいしても自分勝手な理解に急ごうとするのです。誤解するのです。私どもは、実に神さまのことが分かりにくくなってしまっていると思います。人間の罪が深まれば深まるほど、福音の真理を説明するとき、ややこしくなるのです。

牧会通信にも記しましたが、生まれて初めてキャンプに参加した男の子たちが、帰りの車で、おぼえたての賛美歌を何度も歌っていたそうです。もとより、小さな子どもも罪人であることには変わりがありません。しかし、罪によってややこしくなっていない分だけ、神さまに素直に心が開けることは、紛れもない事実であると思います。

ここでは子どもの問題ではなく、大人の問題が語られていると思えます。しかもこの大人とは、異邦人のような真の神を知らない大人のことではありません。神の言葉、律法を与えられているユダヤ人、神の民イスラエルに語られているわけです。彼らは、異邦人のような罪人とは違います。異邦人は、そもそも、神の言葉を知らされていませんでした。自分の良心が、神の律法であるわけです。しかし、ここで議論されていることは、ユダヤ人の問題です。神の言葉そのものである律法を知っている人たちです。宗教的な視点から異邦人と比べるなら、まさに子どもと大人と言えるような差がある人たちです。

さてしかし、そこでわたしどもキリスト者は安心していては断じてなりません。つまり、これは、ユダヤ人の問題だと、つまり他人事と考えてはならないのです。そうではなく、まさに自分たちのキリスト者の問題がここで集中的に記されていると読むことができるはずです。なぜなら、私どももまた、律法を知っている人間だからです。律法を与えられている民に他ならないからです。今朝も私どもは十戒を唱えました。私どもは、十戒を唱えて歩む民としてここでこの御言葉を読み、ここからの説教を聴いているからです。

使徒パウロは、7節で「むさぼるな」という律法の一つの命令を取り上げました。これは、まさに十戒の第10戒、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」の掟に他なりません。パウロは、なぜ、数ある律法のなかでも、「むさぼるな」という掟を引用したのでしょうか。それは偶然ではないと思います。このむさぼりの罪こそは、罪の中の罪であると考えていたからに違いありません。これは、十戒の最後の十番目の掟なのです。子どもカテキズムをあらためて思い起こしていただきたいと思います。

問62 第十戒で神さまが願っておられることは、何ですか。
答 神さまは、私たちに必要なものを与えてくださいます。しかし、人は、少しでも多くのものを自分のものにしようと欲しがります。むさぼりの心こそ、偶像礼拝です。それを考え、実行してはいけない、ということです。
むしろ、神さまは、私たちの心を人の幸せを願うように造り変えてくださいました。ですから、私たちは神さまから与えられたものに満足し、感謝し、人に与えることを喜びとするのです。

十戒の前半は神と人間との関係について、後半は人間と人間との関係についての掟です。神と人間との正しい関係、あるべき関係は、礼拝の関係です。ですから、偶像礼拝を禁じるわけです。そして後半は人間と人間との関係、あるべき関係は、そこでも実は、偶像礼拝が問題になるのです。むさぼりの心とは、少しでも多くのものを自分のものにしようと欲しがる、隣人のものを欲しがる、心です。自分を富ませるために、どこまでも欲しがる、自分がそれを手にいれなくても別に死なないけれど、隣人には命にかかわるほど必要なものまで、奪い取ってしまう行為。それが私どものむさぼりの心なのです。それを、子どもカテキズムは、偶像礼拝と断言しました。人間関係でも結局、罪とは、偶像礼拝なのだというのです。そうなりますと、偶像礼拝とは何かと言えば、自分中心、自己中心、自分を第一にし、絶対化し、自分の欲望を神とすること、その欲望を満たすために生きることなのです。そのような人間であるかぎり、人間同士の間に争いはなくならないわけです。

少し横道にそれますが、国どうしの間でもまさにむさぼりが問題なのです。国益という言葉が、政治の世界では頻繁に用いられます。国会議員、政治家にとっては、国益こそは善であり、追求するべき価値そのものなのでしょう。しかし、十戒を読んでいるなら、国益を最優先して、それ以外を顧みないなら、それが行き着く先は、どれほど悲惨なことになるのか、歴史のおびただしい証言にしっかりと耳を傾けなければならないでしょう。
自分の利益をどこまでも追求するとき、それは、結局、神をないがしろにしている、偶像礼拝を行っているのです。しかし問題はまさにそこです。いったいこのむさぼりの罪を知らない人間はいるのでしょうか。そしてキリスト者こそは、この罪を誰よりも自分のこととして知っているのではないでしょうか。なぜなら、私どもは今朝も、「隣人の家をむさぼってはならない」と十戒を唱えたからです。

創世記の第3章で、アダムとエバは、神からただ一つだけの戒めを受けました。「園の中央の木の実を食べてはならない。食べると必ず死ぬ。」後は、すべて人間の自由です。たった一つの戒めの中に、神が神であること、つまり創造者であって主権者であられることが明らかにされます。同時に、人間が人間であること、つまり、造られたものであって、人間は世界はもとより自分自身の主権者でもないこと、人間はこの神に従属し、神に従うとき、人間でありえることが明らかにされたのです。そして人間の本分は、神を神とすることであり、人間が人間であることで満足すべきであったのです。人間が神になる必要はまったくありませんし、なってはならないし、なれないのです。人間は、神を喜び、神と共に楽しむことができたはずなのです。そればかりか愛する伴侶、愛する隣人も与えられ、まさに楽園のなかで与えられた人生を楽しむことができたのです。上げ膳据え膳の状態。光と命、愛と喜びに輝いていた世界であったはずです。

しかし、たった一つの掟が与えられたとき、罪は、「掟によって機会を得」人間の中にある罪に火をつけたのです。「寝た子を起こす」という言葉があります。たとえば、ユダヤ人は旧約聖書の「雅歌」は、成人になってから読ませると言います。思春期の子、10代の若い者には、ここで語られている恋愛の歌は、まだ早いということなのでしょう。

また、ユダヤ人は幼いときから十戒を学び、旧約聖書に親しみます。しかし、律法の責任をとらされるのは、幼少期からではなく、ユダヤ人の成人を祝うときであるとされます。もとより幼い子は罪を知らないということではありません。小さな子は、まことに自分勝手です。もしも親がきちんとしつけをしないまま、放っておけばどうなるかと言うと、大変なことになってしまうのではないでしょうか。かわいい子のわがままは、かわいいから我慢ができます。しかし、それでもわがままが過ぎれば、親も我慢できなくなり、叱ります。しばしば、しつけではなく、我慢ができなくなって感情をぶつけてしまうということになりがちです。しかし、それでも、子どもは、それによって自分の自己主張を際限なく続けるのは良くないのだと体で感じることになるでしょう。幼い子どもは、しかし、限度なく自分の欲望に生きるということもまた少ないと思います。お腹一杯に食べられれば満足するでしょう。

しかし、大人になるとそうはいきません。大人は、「むさぼるな」と命じられると、ますます、それが気になってしまう。少年時代、「冷蔵庫にあるものは絶対に食べてはいけない」などと、言われると、かえって、どれほどおいしいものであるのか、ますます食べたくなりました。

第9節は、実は、解釈が非常に難しい箇所です。「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。」ユダヤ人であれば、これをそのまま理解するわけにはまいりません。ありえないことだからです。律法を知らない人、かかわりのない人は異邦人です。ユダヤ人ではありません。しかし先ほど紹介したとおり、ユダヤ人でもまだ幼子の時には、律法の責任、裁きを受けることは免除されていました。そうであれば、これは、パウロの幼少期の頃を意味するという解釈が成り立ちます。

しかし、もう一つの解釈も可能であると思います。そしてこの解釈こそ、ここでのパウロのメッセージを正しく深く受け止めることができる解釈であると考えます。かつてパウロは、ファリサイ派の人間でした。自分は律法を守ることにかけては何の落ち度もないと、うぬぼれることができた人間でした。その意味で、自分が罪人であるなどと悩んだ経験はないのです。むしろ、律法を誰よりも守っている人間という自負に生きていた、そのために、律法をないがしろにしていると見ていたキリスト者を憎み、迫害し、律法違反者としての責任を取らせ、彼らを殺したのでした。

それならそのようなパウロが、「かつては律法とかかわりなく生きていました」ということは、どういうことなのでしょうか。それは、本当に律法に生きるということを知らなかった、律法の本当の心、律法のもっとも大切な精神を弁えないで生きていたということなのではないでしょうか。つまり、パウロは、キリスト者になって初めて、本当の罪の悩み、その悲惨さ、惨めさを知ったということです。主イエス・キリストを知らないときには、本当には、罪を知らなかったのです。また、罪を知らないということは同時に、律法の本当の深み、律法の本質を知らないで生きてきたということです。主イエスを知って始めて、主イエスに救われて初めて、本当の律法とは、かかわりなしに生きてきたと思わされたのではないでしょうか。

パウロは、「むさぼるな」という掟が十戒の中のもっとも大切な戒めであることをきちんと弁えていたはずです。ユダヤ人、しかもファリサイ派の一員として、十戒の第十番目の戒めを、実際に適用するために、こと細かく規定された律法の条項、たとえば10分の一献金などは当然のこと、貧しい人への施しなどは、規定されている以上になしたはずです。その意味で、「むさぼるな」という掟を読んでも、いささかの良心の呵責を覚えていないのです。

しかし、そのようなパウロが、主イエスの福音を知ったとき、初めて分かったのです。気づかされてしまったのです。自分がそれを、喜んでしているのではない。それが掟であるから、その掟が、自分の正しさを証明し、自分の神に救われている、選ばれている立場をますます明らかに示すから、していたことに気づくのです。結局、律法を守っているのは、本当に律法を愛し、重んじていたからではない。律法の精神である、神を神とするためではなく、むしろ、自分がどれほど神に祝福され、認められ、義とされているかを誇るための動機から守っていたのです。しかし、それこそ、むさぼりなのです。偶像礼拝です。結局、そこで何を一生懸命励んでいるかといえば、それは自分を重んじているということでしかなかたのです。結局、自分が第一、自分が中心、自分が神になっていたのです。

律法の本当の心、それは、神を愛し、隣人を愛することです。しかし、それができていないことをいよいよ、深く知らされたのです。自分が考えているほどの罪深さなどではなく、考えられないほどの罪深さ、徹底的に罪に泥まみれになって、死んでいる人間であること、罪人であることを、実は、主イエス・キリストの救いに与ってこそ、知ったのです。

そして同時に、律法の正体も知ったのです。律法を守ることによってエリート意識を募らせることなど、まったくの誤解、まったくの偽りであることが初めて分かったのです。だから、そのような律法によって神の御前に生きられるという律法主義から、決別することができたのです。そしてそのような律法主義、主イエスさまがその命をかけて戦われたのは、実に、ユダヤ人のこの間違った律法主義であったことも知るのです。

パウロはキリスト者になったとき、自分の罪の邪悪さに本当に気づいたのです。律法が、実は、自分自身を断罪するものであることを知ったのです。もともと命をもたらす律法、聖なる律法、霊的な律法が、むしろ死に導くものとして働くことを悟ったのです。そしてこのことは、キリスト者である私ども自身の経験にも他ならないのではないでしょうか。

求道者や洗礼志願者との学びをなすとき、わたしは一生懸命、福音を語ります。信じてもらうために語ります。そして福音は、罪の赦しですから、何よりも大切なことは、自分の罪がどれほど邪悪なものであり、恐るべきものであるかを、自分の罪が、主イエス・キリストを殺したこと、キリスト殺しこそ罪であるということを、聖霊が心の目を開いていくださって、認めさせ、悔い改めさせ、主イエスの救いを心の底から求めさせ、それ以外に生きることができないと信仰を深めていただくように祈ります。その意味で、洗礼を受ける前に、深い罪の認識なしに、キリストの十字架の恵みもまた分からないことを強く思っています。

しかし、同時に思います。洗礼志願者の方が、本当に、自分の罪深さが分かるのは、洗礼を受ける前ではなく、実は、主イエスの十字架の恵み、救いにあずかった後のほうが、ますます分かるようになるということです。主イエスを知れば知るほど、これまでの自分の罪深さがいよいよ分かってくるのです。まるで、洗礼を受ける前より、自分が罪深い人間になってしまったようにすら思えるほどです。それは論より証拠でキリスト者たちが経験させられていることであるはずです。

そのようにして、律法を守ること、生きることによって自分の信仰の生活の正しさを誇るあり方がまったく不可能であること、一言で申しますと、律法主義者として生きれなくなるということです。第6節の言葉をそのまま用いるなら、「文字に従う古い生き方」をやめる以外になくなるのです。「霊に従う新しい生き方」で仕える人生が始まるのです。

聖霊なる神が、キリスト者に、そのような理解を悟らせ、教えてくださいます。聖霊なる神が、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みを理解させ、信じさせてくださいます。そして、言葉の正しい意味で純粋に神を愛し、純粋に隣人を愛することのまったくできない、そのような死んでしまっている自分が、一方的に主イエスの十字架の贖いの御業のおかげで、赦され、愛され、生かされ、神の子とされ、神に対して永遠の実りを結ぶ人間とされていることを知らされたのです。

「むさぼるな」という掟は、どこまでも聖なるものです。神のもの、正しいもの、善いものなのです。しかし人間の内にある罪が、この掟によって、パウロをあらゆる種類のむさぼりにとらわれていることを暴露するのです。律法は、そのままでは、私どもを生かさないのです。

それなら、改めて問います。私どもは、何故、今なお、旧約聖書の律法の書、十戒を重んじているのでしょうか。何故、毎週、唱えるのでしょうか。それは、主イエス・キリストの恵みから受け止めなおすことができるからです。主イエス・キリストは、私どもに求められている神の掟のすべてを完全に生き抜かれました。このお方が私どものために、私どもの罪を償うために、十字架についてくださったのです。そして、罪を滅ぼし、お甦りになられたのです。私どもは、この主イエス・キリストの御業にあずかって、罪赦されているのです。赦されている人間として、律法を与えられているのです。だから、私どもは喜んで、律法を重んじ、神を愛するために、律法を守るのです。そこでは、律法を守ることと神を愛することとは一つになります。

律法主義者は、行いで愛し、心では愛さない人のことです。反対に、もしもキリスト者が、心で愛して、行いでは愛さないということになれば、律法主義者と同じことになるでしょう。
今朝、私どもは牧会祈祷のプログラムの中で、いつものように、主イエス・キリストの救いにあずかったものとして、罪の告白と悔い改めの祈りを捧げました。私どもは、知っているのです。自分がどれほど深い罪人であるか。今なお、律法を完全には生き抜けていない、まさに罪人でしかない人間であるかを知っているのです。しかし、同時に、それ以上に知っているのです。こんなわたしが、他ならない主イエス・キリストの流された御血に与っていること。このお方によって救っていただいていること。だから、正直になれる。だから、悔い改められる。だから、罪を告白できる。だから、自分のしぶとい罪にめげず、キリストの復活の事実、福音の力にまかせることができることを知っている。信じているのです。私どもは正真正銘の罪人です。しかし、主イエス・キリストはこの罪を処分し、私どもを神の前に生きる人間として新しくしてくださっているのです。どうぞ、この福音の恵みを大胆に、信じましょう。どれほど、現実的に罪を犯しても、主イエスにおいて差し出されたこの救いを信じる限り、私どもは徹底して赦され、生きることができるのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、洗礼を受けてからこそ知る私どもの罪の恐ろしさがあります。私どもがどれほど罪の力に弱い人間であるのかを知らされます。しかし、神に感謝します。そのような私どもが、救いの恵みにあずかり、あなたを、純粋に愛し、また隣人を愛し始めているのです。どうぞ、ただあなたが始めてくださったこの救いの御業を、あなたが完成してくださいますように。そして私どももまた、律法を純粋に行うもの、霊的な新しい生き方へとますます深めてくださいますように。アーメン。