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「悔い改める力、感謝する力」

「悔い改める力、感謝する力」
2006年8月6日
テキスト ローマの信徒への手紙 第7章7節~25節

「 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
 
 
 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」本日は、この御言葉をもあわせて読みました。実に、24節と25節の御言葉こそ、この7章のなかでの頂点です。すでに何度もこの7章全体が、「マイナスの頂点」であると申してまいりました。この24節は、その意味では、マイナスのなかのマイナス、人間の悲惨のなかの悲惨、そのどん底を覗き込んで、そこから発せられる嘆き声、叫びです。しかし、25節は、そのどん底を覗き見た者だからこそ、同時に発することができる喜びに溢れた感謝の叫びなのです。

 今、私どもは、ここにおります。神が共におられる礼拝式の場所におります。言うなれば人生の頂点です。ある人は結婚式を人生の頂点だと申します。なるほどと思います。しかし、まことの人生の頂点は、結婚式の日、一日だけであるなら、それは悲しいと思います。私どもには、人生の頂点は、一週間のたびごとに繰り返しやってまいります。ただ、説教者にとっては、その準備に苦しみますので、金曜日、土曜日は大変な思いをいたします。しかし、それでも、説教者にとっても、この礼拝式こそ、喜びの頂点なのです。神とそして神の民が御前に集い、主イエス・キリストの臨在を喜び、主イエス・キリストと一つにされることを心から感謝することができるからです。

 先週の個人学び会のなかで、子どもカテキズムの問3を学びました。「わたしたちがするべきことは何ですか」答え「信じるわたしたちは、主の日にキリストの教会に来て礼拝をささげ、毎日、神さまにお祈りします。」礼拝式が、自分にとって最大の喜びとなる、感謝となる。それこそが、神の民、キリスト者とされた者の一つのしかし、明確なしるしであります。

 さて、この神に面前し、神との交わりを楽しみ、天上の祝宴との交流を喜ぶのが地上の礼拝式の醍醐味です。しかし、ただただ、それだけしかしない、つまり、自分にとって面倒なこと、骨が折れること、自分たちの責任について考えなくてもよいなどということには決してなりません。私どもは、この天上の礼拝式の命の祭りに連なり、最高の命の祝い、祭りを楽しむからこそ、この地上の現実をも確かに見据えることができるのですし、見据えなければなりません。それが私どもに与えられた恵みであり、同時に課題でもあるのです。これは、ばらばらにしてしまうことはできないのです。

 8月を迎えました。戦後61年目の敗戦記念日を迎えます。靖国神社に小泉首相が参拝するかどうか。そのことが、日本の近い将来に決定的に大きな影響を及ぼします。そもそも靖国神社とは何でしょうか。それは、明治政府が、天皇のために戦死した人を英霊と称し、それを慰霊するための国家神道の宗教組織、国民を天皇のために戦争して、戦死することを名誉、栄誉なことと転換させてしまう宗教装置としてつくったものです。敗戦によって一宗教法人になったのが靖国神社でした。しかし、1964年、首相と衆参両院議長に国家護持を誓願しました。69年、政府自民党は、靖国神社を国営化する法案を国会に提出しました。以後5回に渡って国会に上程されましたが、いずれも廃案になりました。そのとき、わたしはまだ、キリスト者ではありませんでした。しかし、日本の教会のなかで、この靖国問題が浮上したことが、日本の教会自身が自分たちの戦争責任、歴史的な使命、教会と国家との関係を、もう一度考えさせる契機になりました。靖国闘争と言われる、教会の信仰的な戦いが開始されました。日本キリスト改革派教会も、多くの先輩方が、当時、靖国神社を国営化する法案反対のデモ行進に参加したと伺っております。あの当時は、キリスト者ばかりか、多くの国民がこの驚くべき時代錯誤の法案に反対したのです。ですから、5回上程され、5回とも廃案になったのです。キリスト教会の抗議の実りということもないわけではないでしょうが、一般の国民、野党からの抗議、反対が強かったのです。ところが、今は、どうでしょうか。靖国神社の国営化はできませんでしたが、それ以上のことを、政府与党、いへ、野党第一党も憲法を変えようとしています。小泉首相は、ご自分の靖国神社参拝を日本人が批判するのは「理解できませんね」言いました。これは、戦前の非国民という言葉の響き、臭いが濃厚です。日本人なら、誰だって理解できる、賛成できるはずだなどと、批判者がたくさんいるのに、そのようなことを言うことに、大変な憂いと憤りを禁じえません。

 このような中で、私ども日本キリスト改革派教会、中部中会は、憲法をとりわけ第9条の戦争放棄と第20条の信教の自由を、聖書の信仰と日本の歴史から見て、擁護することが、教会としての基本線となると先の臨時会で決議されました。すでに私ども名古屋岩の上伝道所は、伝道新聞でその立場を鮮明にし文書、「市民の皆様へ」を公にしました。ホームページにも掲載しております。
 
今年の8月を迎え、わたしは、いったいこの国は、どれほど、神の正義に反旗を振りかざし、対抗し続けるのであろうかと深刻に憂いを深めています。しかし、考えて見ますと、私どもが今、聖書通読で読んでおります、旧約聖書は、神の民とされたイスラエルが、どれほど神に反逆し、反抗し、反旗を振りかざした歴史であったかを思い知らされます。そうなれば、ことは日本の国だけの問題ではない。神の民であっても、同じなのです。いへ、見方を変えれば、異邦人の反逆より、神の民の神への反逆の方がその罪は重く、深いといってもよいのです。旧約聖書を読めば読むほど、いかに、神の民が神にふさわしくない民であるのかが分かるのです。あきれてものも言えないと、思います。まさに絶望的に悲惨な罪人、惨めな民です。しかし、同時に旧約聖書を読みながら思うことは、あきれるほど、いへ、本当に感動的に思わされることがあります。それは、神がその民を決してお見捨てになられなかったということです。神は、ご自身の民に絶望しておられないということです。

創世記におけるノアの時代、「主は、人の悪が地にはびこり、すべてその心に思い計ることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られ」ました。そこで、神は人を創造したことを後悔し、心を痛められたとあります。そして遂に、神がなされたことが洪水でした。しかし、ノアとその家族だけを救おうとされ、箱舟の建設をお命じになられたのです。ノアは、見事、神の言われたその通りに建造し、洪水から、神の裁きから救い出されたのです。そこで、神はこう仰せになられました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」神は虹をノアに見せて、この御言葉の約束のしるしとされたのでした。あるいは、モーセが神の山ホレブで神からじきじきに律法、十戒を与えられたとき、そのふもとでは、金の子牛を神として拝む、信じがたい偶像礼拝を繰り広げたのでした。

そこまで罪に染まってしまっているなら、もはや、何の弁解もさせずに、この小さなイスラエルの民を滅ぼしてしまわれても仕方がないと思います。むしろ、その方が、今後のためにもよいのではないかとすら思うほどです。ところが、神は諦めたまわないのです。

それが、人類の歴史を許され、人類の歴史を支配される神の御心なのです。それを私どもは、救いの歴史と申します。神の救いの歴史。救済史です。我々の生きているこの時代は、核兵器の時代です。大量殺戮兵器を全人類を何度でも殺せるほどの化学兵器を持っています。地球自身を破壊させるほどの核兵器を持っています。そうであれば、まさにこの歴史は終われる。破滅できる。それが我々が置かれた時代の姿です。しかし、そこでなお希望を持つとすれば、それは何を根拠にして可能となるのでしょうか。それは、ただ、神が人間を滅ぼしたまわないという神の御言葉の約束があるからです。神ご自身が人類を滅ぼさない。滅びではなく、救いへと導こうとされる。いへ、すでにされたのです。それこそが、御子イエス・キリストの受肉でした。十字架でした。復活でありました。この御子の贖い、御子の命の犠牲が支払われたからこそ、私どもは生きれるのです。救われることができるのです。望みがあるのです。

しかし、この望みは、厳しい望みです。それは、決して自分自身とか、人間の能力とか、政治力とか、人間に根拠はないのです。むしろ、人間は、この望み、言葉を換えれば、この神が与えてくださる救いの恵みによって、自分の罪を認め、罪を知らされ、罪を嘆くことができるのです。罪を嘆く、罪が支払う報酬が死に他ならないこと、神の永遠の刑罰である滅び、地獄の裁きであることを認めることができるし、認めさせられるのです。これは、救われているからこそ、覗き込めるのです。
 
今日、国会議員、政治家たちの右傾化、ナショナリズムを煽る発言が目立ちます。未だ、憲法改正をしていないのに、実際は、憲法などなきものにして、憲法違反を繰り返しています。憲法に違反しているとも考えていないのか、それを知りながら、憲法改正は時間の問題で、今まさに、その地ならしをするために、憲法を真正面から犯して、既成事実を積み重ねているのか、分かりません。しかし、現実には、ナショナリズムになびく知識人と多くの国民の支持を得、また、彼らは靖国参拝を繰り返します。それによって、あらたな国民の支持を掻き立てて、彼らが目指すべき、戦前の日本、大日本帝国神話に戻ろうとします。しかし、そのような偽りの歴史、空想で、新しい日本を再構築することはできません。歴史を無視し、そこから学ばない恐ろしい暴挙です。

日本は、もう一度、敗戦しなければ、自分たちの過ちを認められないのかもしれません。ドイツが第一次世界大戦によって負けました。しかし、その後、わずか30年もたたずに、ヒトラーが登場し、敗戦しました。そして彼らは徹底的に、自分たちの敗戦を認め、二度と同じ過ちを繰り返さないようにと国家を挙げて、新しいドイツになるために取り組みました。また、そこのドイツの核には、戦争反対し、抵抗したキリストの教会がありました。しかし残念ながら、日本は、違います。敗戦の事実。新しい日本の構築の出発を多くの国民はのぞみながら、しかし、戦前の権力者たちの多くはそのまま生き残りました。軍属、軍隊だけは解体されましたが、政治家、財界、何よりも天皇自身が生き残りました。それでも日本国憲法というしばりがかけられている限り、彼らは、自分の思うがままの戦前のあり方を堂々となすことはできませんでした。しかし、今、この憲法を変えてしまう直前まできました。

 いったい、どうして、日本は、かつての戦争の罪を認めることができないのでしょうか。敗戦国ドイツにはできて何故日本には、加害者としての責任を認め、被害者の人々と真実に、深く和解できないのでしょうか。わたしはそれも、究極的な理由は、私どもの神、聖書の神との関係にあると確信しています。
 自分の惨めさは、どうして分かるのでしょうか。律法によるとパウロは言います。神の律法です。神の律法の心はまた、福音の真理、主イエス・キリストの十字架と復活の真理、罪の赦しの福音によってのみ、知ることができます。認めることができるのです。それは、赦し、救いなしには分からないのです。

 日本人の戦争責任を認められない、神と隣人の前に罪を認め、悔い改められずに、英霊を祭るのは、心の問題。英霊を国が祭ることで、中国や韓国がどうこう言うほうがおかしい、日本人のなかでもそんなことを言う人間がいるなど理解できない。一国の総理大臣の発言です。靖国参拝に反対を唱えるのは、まるで、日本人ではない、かつての「非国民」という言葉を思い出させられます。実に乱暴で危険な発言です。しかし、それに対する批判の声が、この国の中から沸きあがってこない。これが、わたしどもにとって不気味です。
 
 使徒パウロは、自分の罪を認め、悲惨さを認めます。神の民の歴史は、おそるべき偶像礼拝を犯しながら、しかし、神にその罪を認め、悔い改めることができるのです。犯した罪の重さは、神の民ですから、神を知らない人々と比べて、重いはずです。しかし、彼らは、その罪を認めることができるのです。開き直って自己正当化をしないで済む。しかし、かつての戦争へと国民を駆り立て、また、駆り立てられて国民もまた、自分がそこで犯した罪を認めない、むしろ、しかたがなかった、それほど悪くはなかった。戦争勝利者が敗者を裁く裁判など、正当なものではない。東京裁判など、今からすれば、決して認められない、などと、歴史の事実そのものまでなかったことにしようとすらします。

 なぜなのでしょうか。それは怖いからです。自分のした罪と向き合えないのです。赦しがないからです。赦されることを知らないなら、人は、歴史の罪、自分の罪に向き直れません。
 だからこそ、私どもの日本の教会には大きな責任と使命があるのです。歴史に正直に向き合おう。そして日本と日本人が犯した罪も、主イエス・キリストの十字架によって赦しの道が開かれている。だから、主イエス・キリストの救いを受け入れよ。このような福音の宣教が前進しないことの私どもの責任を思います。また同時に、ここにこそ、日本人のかたくなさ、かっこうをつける弱さがあるのではないでしょうか。

 キリスト者は、むしろ大胆に、自分の弱さを生きる。自分が罪人であることを認めるのです。そして、そのような罪が赦された人間として、福音によって強くされた人間として生きる、そこにキリスト者の証しの使命があるはずです。

 先週、悩む力ということを紹介ました。悔い改める力ということを言ってもよいかもしれません。悩む力は、必ず解決があると信じるなら、悩みをごまかさないで見つめられるのです。悔い改める力とは、必ず、赦しがあると信じるところに与えられるのです。そして、その罪のどん底の中で、まさに、神からの赦しを受けて、感謝の叫びをあげられるのです。

 自分のことを死に定められた体であると認めること、罪が支払う報酬は死であり、神の怒りであり、神からの永遠の刑罰であることを認めることができるのは、赦しの光を浴びているからなのです。この赦しを知っているから、赦されているという絶対的な、まさに揺るぎない神の確かさに捕まえられてのみ、捉えられてのみ、わたしどもは、安心して嘆けるのです。認められるのです。隠し立てなどする必要はなくなるのです。「逆切れ」という言葉が最近よくきかれますが、そのような逆切れを起こす必要はないのです。自分を批判するのは、けしからん、中国、韓国、日本人、マスコミもおかしいなことを言う、などという必要なないのです。真心から追悼するなら、靖国神社以外のところで、私人として追悼すればよいだけです。

 私どもはなんと幸せな人間であるかと思います。しかし、この幸いによって、自分が偉くなってしまったかのような勘違い、思い違いをおこしてはなりません。自分が絶対的に正しい。間違っているのは異邦人、未信者であると、偶像礼拝を犯しているなど、高みから見下すことは私どもには許されていません。夏は、靖国神社だけではありません。先祖供養が行われ、盆踊りが行われ、キリスト者や日曜学校の子ども達には信仰の戦いの矢面に立たされることが少なくありません。しかし、私どもが偶像に礼拝しないですむようにしてくださったのは、ただ神の恵み、驚くべき恵みによってのみであったはずです。いへ、かつて、私どもも、わたしも、偶像礼拝を行って何の良心の痛みも感じませんでした。率先して行っていた方もおられるでしょう。

 しかし、私どもは、主イエス・キリストの赦しを知ったのです。罪を赦してくださる福音を知ったのです。そうであれば、私どもがどれほど中傷され、批判されても、私どもが逆切れしてよいはずはありません。ただ、決してそれをせず、しかし、祈り続ける。そして、福音の真理を証しし、伝えるのです。
 
 今、私どももは、礼拝式の頂点の一つである聖餐の礼典を祝います。この聖餐の礼典において私どもは自分がどれほどの罪人であるかを、いよいよ認めることができるのです。そして同時に、その罪人を、お見捨てにならずに、ご自身の御子の贖いの御業、主イエス・キリストが十字架の上で御血を流し、肉体を裂かれたことへの感謝がほとばしり出るのです。

 子どもカテキズムの第三部のタイトルは、「生活の道」です。その第三部は問い37から始まります。「神さまが人に求めておられることは何ですか。」答え「神さまが人に求めておられることは感謝することです。」
神が私どもに求めておられることは多くはない。唯一つであるということです。それは、一言で言えば、感謝なのです。そして、子どもカテキズムは直ちに、問い38で、「あなたはその感謝をどのようにしてあらわしますか」と尋ねます。答えはこうです。「神さまが聖書を通して明らかにしておられる御心に従うことです。」感謝は、服従なしには、あらわせないというわけです。そして直ちに、十戒の解説を始めるのです。それが、子どもカテキズムの論理です。私どもは十戒を守り生きることによって、わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝することができるのです。

 ギリシャ語では、恵みをカリスと申します。そして実は、7章24節の神に感謝しますという感謝もカリスというギリシャ語が用いられているのです。神に恵みあれとは申しませんから、神に感謝しますと翻訳するのです。そしてその通りです。しかし、聖書、パウロにとって、恵みと感謝とは、深く通じ合うのです。神の恵み、人間の感謝は、カリスという言葉で繋がるのです。自分が罪人であることが徹底して認められた人間は、神の恵みなのです。神の恵みなしに、決して、みせかけや演技ではなく、言葉のまことの意味で「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」とは叫べないのです。しかし、パウロは叫べる。それだから、同時に叫ばざるを得ないのです。主イエス・キリストの十字架と復活に感謝。この御業を通して父なる神に感謝。これが、ここでのパウロの心の激しい動きなのです。

 私どもも、今、同じように神に申し上げることができるし、したいのです。それが、礼拝を捧げることです。今、直ちに聖餐を祝います。私どもの礼拝式とは神への感謝そのものです。神が求めておられることは、感謝することです。その最高の表現は、何でしょうか。それは、この礼拝式です。そして、あわせて考えてみたいのです。聖餐のことをギリシャ語でユーカリストといいます。つまり、感謝という意味です。神への感謝の最高の形態が聖餐を祝うこと、これに与ることだというわけです。受動的な感謝です。確かに聖餐の準備の奉仕者は、能動的にご奉仕くださいました。しかし、パンとぶどうジュースを準備するだけで、永遠の命、罪の赦しが保証され、更新され、深められるのです。これほどありがたい恵みはありません。この神の供えられた恵みに今、私どもはあずかります。しかしこの受動性の中に、神への感謝が言い表されるのです。この感謝に生きる教会となりたいと思います。そして、自分自身を差し出す、明け渡す、イエス・キリストだけを主と告白する神の教会をここに形成する。これが、私どもの変わらない志であり、幸いであります。

祈祷 
 私どもにあなたの恵みに他ならない悔い改めの心、悔い改める力をお与えくださり、また、同時に感謝する心と力をお与えくださいました、主イエス・キリストの父なる御神。今、私どもは自分の罪とその悲惨さを心から認め、嘆き、恐れおののくことができます。どれほど幸せなことかと思います。あなたの前にも、人の前にも、自分を飾り立てて、偽り、自分の正義を主張し、そのようにして他者を踏みつけることからあなたは救い出してくださいました。どうぞ、この福音の力に、私ども教会がいよいよ真実に生きることができますように。また、この国に、この国に生きる市民に、あなたの福音、罪の赦しを忍耐強く宣べ伝え続けさせてください。十字架の主イエス・キリストが招いてくださる命の食卓にあずかる喜び、感謝を、一人でも多くの人々と分かちあえますように。
アーメン