過去の投稿2006年8月27日

「天からの命綱」

「天からの命綱」
2006年8月27日
テキスト ローマの信徒への手紙 第7章7節~25節④

「 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
 

 ローマの信徒への手紙第7章の7節以下を読み始めて、本日で4回目となります。二週続けて、ローマの信徒への手紙の講解説教から離れてしまいましたので、来週、ここからの最後の学びをなそうと考えておりますが、本日は、主題説教のように、このところから学びたいと思います。24節に集中して学ぶ、そのようにしてまいりたいと考えております。
 
 久しぶりに、愛する兄弟姉妹とともに、礼拝式を捧げます。この場所が、今、天にまします父なる御神と御子イエス・キリストとの聖なる交わりがなされる場所として聖別されています。私どもは、地上にあって生きていますが、このひと時、自分の存在が、天に根ざしていることを、心新たに悟らせていただくことができます。礼拝式を捧げる私どもの喜びの頂点、それは、さまざまに言い表すことができると思います。ひとり一人、それぞれの表現で言い表すことができるかと思います。しかし、その中でも、やはりお互いの喜び、幸せ、祝福を貫いているのは、私どもの存在が、天国にあること、天の栄光にすでに捉えられている、天の祝福にすでにあずかっているということであると思います。ここで天が開かれる、天にまします父と御子との交わりが聖霊によって今、私どもに与えられていることです。確かに、地上にあっては、私どもにはなお、悩みもあり、課題もあり、責任があり、プレッシャーもあります。それを避けてやり過ごすわけにはまいりません。しかし、私どもの国籍は天にあります。私どもの永遠のすまいは、天にあります。今、天上では、数え切れない多くの天使たちとあがなわれた聖徒たちが、ほふられた子羊、復活した子羊なる主イエス・キリストを礼拝し、賛美し、崇め、喜びの歌が歌われています。私どもは、この地上で、この礼拝式と連なっています。わずかでも、天の喜びを、その聖なる交わりを映し出すことができたら、私どものこの礼拝式はどれほど豊かなものとなるかと思います。毎週、毎週、それを目指して、私どもの全力を注いで、豊かな礼拝式を捧げてまいりたいと願います。

 キリスト者とは、このように天に根ざして生きる人のことです。ある人は、それを、天に錨を下ろして生きると人間と言いました。船は、海の上で、風と海流に流されてしまい、漂うことのないように、海底に錨を下ろします。錨を失った船は、どれほど危険な不安定な状況に置かれることでしょうか。キリスト者は、地上にあって、地上の風と流れ、地上の、神を神としない思想や慣習に流されません。錨を天に下ろしているからです。そこでしっかりとつなぎとめられる、主の日のたびに私どもはそれを確認し、更新し、さらに強い神の鎖でとどめられるわけです。
 
 さて、私どもは、これまで、ローマの信徒への手紙のこの箇所を、マイナスの頂点として学んでまいりました。人類、人間の罪深さのどん底を描き出しているからです。ローマの信徒への手紙だけではなく、旧約、新約聖書を貫いてももっとも人間の罪の現実の悲惨さを描いているわけです。しかも、ここで、使徒パウロは、「わたしは」と書き始めることに注目したいと思います。これまで、パウロは、「わたしたちは」と一人称複数で語り続けてまいりました。使徒は、キリストの証人とされ、キリストの教会のために、神の御言葉を語る存在です。つまり、彼は、私的な存在ではなく、教会のための公的な存在なのです。公の器です。彼が語る言葉は、教会の教えであり、教会の真理なのです。つまり、個人的な次元の事柄を語るのではなく、キリストを語るのです。神の言葉を語るのです。そして語る相手は、教会です。ですから、彼の語る言葉、語りかけが、常に、「わたしたち」となるのは当然のことと言えます。これは、説教者である私のことを見ても、同じです。わたしの説教の主語は、いつでも「私ども」です。「わたしたち」です。一人称複数形です。ちなみに、「私ども」と言うのは、謙譲語です。神の御前に、語るとき、日本語では、「私たち」と語りだすより、「私ども」と語るほうが、ふさわしいと判断しているから、わたしは「私ども」と申します。ところが、皆様もすでにお気づきのことかと思いますが、ここで、使徒パウロは、「わたし」は、「わたし」はと語り始めます。どうして、そう語り始めるのでしょうか。最初に、それを考えたいと思います。

 そのために、あらためてこれまで学んでまいりました、ローマの信徒への手紙を振り返りましょう。第1章18節から戻りたいと思います。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。」ここではユダヤ人ではなく、異邦人の罪についてパウロは糾弾します。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」

しかし、使徒パウロは、異邦人の罪を糾弾してそれで済ませません。むしろ、その次に記すのは、ユダヤ人、神の選ばれた人々であるはずの自分たちの罪を指摘するのです。糾弾するのです。2章17節「あなたはユダヤ人と名乗り、律法にたより、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。~それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら盗むのですか。」これ以下、いよいよ、ユダヤ人の罪が鋭く糾弾されて行きます。

そして遂に第3章でこう記します。9節「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」「正しい者はいない。一人もいない。」「すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。」つまり、使徒パウロは、完膚なきまで、すべての人間が神の御前に罪人になってしまっていること、それゆえに、神の聖なる刑罰、裁きを受けなければならない状況にあることを明らかにしました。パウロはこれまで徹底して、人間の罪の現実を描き出したのです。

そして今、この第7章24節でこそ、明らかになることがあります。それは、これまでのメッセージは、自分を高みにおいて、いわば、高みの見物のように、他の人々を見下すようにして、あなた方は罪人であり、あなたがたは悲惨な存在であると語ってきたのではないことです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」パウロはこう叫びだして、これまでの罪についての議論を自分のこととして語ってきたし、自分のこととして弁えていることが、ここで明らかにされているのです。

休暇中に、軽井沢に参りましたが、帰りは、車で碓氷峠を越えて高速道路のインターチェンジに入るのです。そのとき、目の前に、岩山が目の前に広がります。断崖絶壁の岩山がそびえるのです。もしも、自分があの岩山の頂上に立たせられたらどんなにおそろしいことであろうかと思います。その前に、登ることもできないでしょう。高所恐怖症の人でなくても、自分を支えるなにものもない状態で、何の手すりもない状況で、断崖絶壁の崖っぷちに立つことは、立ち続けることは、恐ろしいことではないでしょうか。それは、ほとんど不可能なことではないでしょうか。もしも、その崖っぷちに立って、真下を覗き見ることができる人があるとすればその人には、やはり、命綱がしっかりとつけられているという秘密があるからではないでしょうか。手すりも命綱もないところで、断崖絶壁のしかも真下は、荒れ狂う海、あるいは、岩肌も荒々しい谷底であれば、そこに立ち続けることはできない、しゃがみこむしかないのではないか、しゃがみこんで、下を見ないようにするしかないのではないかと思うのです。

さて、使徒パウロは、これまで、人間の罪を徹底的に暴露し、糾弾し、神の裁きと刑罰、神の呪いのもとに置かれている人間の定めを、真正面からみ続けました。それは、まさに断崖絶壁の上から、自分たちの現在と将来の姿、罪にまみれ、それだけに、神の怒りを受けるばかりの悲惨な姿を、彼は目をそらさないで見続けたのです。しかも、肝心なことは、この罪の現実を、他人事としてではなく、自分のこととして見続けたのです。その意味では、使徒パウロのこれまでの議論は、決して高みの見物などではなかったのです。自分だけは、例外であるなどというのんきな議論ではなかったのです。これまでの罪の問題は、自分自身のこと、自分の姿でもあったのです。だからいまや、彼は、叫ばざるを得なくなっているのです。それが、24節の叫びです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」パウロは、自分を含めた人間は、罪に売り渡されてしまっている、神の裁きを受けることが確定している、つまり、永遠の死、つまり、永遠の滅びへと定められている人間であることが分かってしまっているのです。その現実が見えてしまっているのです。

断崖絶壁が怖くない人は、手すりや命綱がちゃんとあるからだと申しましたが、もう一つの可能性は、あまりよくない例ですが、目が見えないということもあるでしょう。盲目であれば、立つことはできる、しかし、今や、使徒パウロは、目が見開いているのです。人間の、そして自分自身の現実の姿の悲惨さを見続けて、第7章まで来たのです。徹底して罪と向き合い、罪の現実を抉り出して第7章まで来たのです。だからこそ、誰よりも深く、誰よりも深刻に、認めざるを得なかった、嘆かざるを得なかったのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」

パウロの言葉の中でも、わたしが強い印象を持ち続けている言葉の一つに、テモテへの手紙一、第1章15節があります。彼は、そこで自分がどれほど罪深い人間であるのかを説明してこう言いました。「罪人のなかで最たる者です」口語訳や新改訳の翻訳では、こうなっています。「罪人の頭なのです。」罪人の親分、罪人のなかの罪人であるということです。この自己理解は、やはりパウロであればこそ、パウロのような半生を過ごせばこそ、自分をそう理解するのは当然なのでしょうか。

わたしはそうは思いません。パウロだけが、特別の罪を重ねたのでしょうか。確かに、キリスト者への迫害、教会への弾圧の首謀者でした。ユダヤ人として、キリスト教攻撃の急先鋒として働いていました。しかし、それなら、使徒ペトロやヨハネ、主イエスに直にお仕えした十二弟子たちは、どうなのでしょうか。主イエスを裏切り、否定した彼らの方が、さらに、罪深い行為を行ったといえるのではないでしょうか。そうではないはずです。それなら、なぜ、このような自己理解、自己認識を持つことができるようになったのでしょうか。
おそらく多くの人は、自分のことをそのように考えるような人間は、最近の嫌な言葉で言えば負け組み、敗北者であると、否定的にしか考えないように思います。自分のことを、罪人と考えることだけでも、嫌悪感、嫌な気持ちがするのに、「罪人のなかで最たる者」などというのであれば、とんでもないことのように考えられるのではないでしょうか。

ところが、パウロは、このように言いながら、多くの人の予想に反して生き生きと生きているのです。実に前向き、積極的、肯定的、天国を目指してまっすぐに生き、働いているのです。自分のことを罪人、罪人の頭と考えている人間は、暗く落ち込んで、意気消沈しているわけではないのです。いったいどうしてそうなるのでしょうか。いったどこにそのような不思議な秘密があるのでしょうか。

人生には悩みがつきものです。悩みのない人生に、あこがれますが、しかし、おそらく生きている限り、悩みとかかわりなく過ごせる人はいないと思います。生きることは、悩むことだと言っても言い過ぎではないように思うのです。

ある人は、悩むということを人生の敵と考えます。人は、欲望にかられるから悩むのである。だから、欲望をなくしてしまえば、悩みもなくなると説きます。なるほど、一理あります。しかし、欲望を消し去ろうと真剣に追求すればまた、そこでさらに深刻な悩みの中に落ち込んでしまうように考えてしまうのはわたしだけでしょうか。つまり、自分の中の欲望は、きりがないからです。またある人は、悩みを真剣に見つめないこと、つまり悩まないことが大切だと説きます。なぜなら、悩みはつきないのだし、解決できることも少ない、だから、悩みそのものから逃げることがもっとも良いというわけです。今日、多くの人は、この考え方に共鳴しているのかもしれません。確かに悩みといのは、少なければ少ないほど良いかもしれません。しかし、「生きるとはなんだろう」「何のために生きるのだろうか」というような悩みや問いを深めることは、人間性を豊かにし、生きる質を深めることになると思います。単に、悩みからの逃避だけでは、何となく薄っぺらな人生、人間にとどまってしまうように思えます。

  わたしはこれまでもしたことがありませんし、これからも決してしたくない遊びとして「バンジージャンプ」があります。橋の上から体にゴムひもをつけて、はるか谷底にまっさかさまに飛び込む遊びです。どうしてあんなにおそろしいことをするのか、気持ちが分かりません。しかし、それが楽しいのは、体にしっかりとゴムひもがくくりつけられているからに違いありません。

何故、使徒パウロは。自分のあるがままの姿、罪深い姿、神の裁きを受けても文句の言えない惨めな自分の姿をどうして、隠さず、偽らず、素直に、正直に見つめることができるのでしょうか。悩みから逃げ出さないで、悩みを悩めるのでしょうか。それにははっきりとした理由があります。それは、生ける神がその力強い御手を天から差し伸べていてくださり、しっかりと捕らえていてくださるからです。パウロは、天からの命綱にくくりつけられているのです。

天からの命綱、それは、天から地上に来られた主イエス・キリストのことです。そしてこの命綱は、あなたの上にも降ろされているのです。何故、命綱なのでしょうか。それは、主イエスがあなたのために、十字架についてくださり、あなたの罪や過ちを、すでに完全に赦していてくださるからです。主イエスは死人の中からおよみがえりくださり、信じるすべての人に永遠の命の祝福を与えていてくださるからです。
救われるということは、悩みがなくなることではありません。むしろ、主イエス・キリストによって、悩まなければならない悩みを真実に悩めるようになることです。主イエス・キリストを信じる人には、悩む力が与えられるのです。そのようにして、既にその悩みに圧倒的に勝利することができるのです。

それなら、いったいどこに行けば、この天からの命綱をくくりつけていただけるのでしょうか。それこそ教会なのです。特にこの礼拝式のときに他なりません。ここで、天を見上げれば、あなたの上にも、はっきりと天の命綱が下ろされていることが分かるはずです。そのためには、主イエスがあなたのために何をしてくださったのかを見つめることです。私どもはここで、使徒パウロとともに、ここで、誰がわたしを罪から、神の裁きとのろい、永遠の滅びから救い出してくれるでしょうかと叫べるはずです。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と叫べばよいのです。私どもは、天からの命綱にくくりつけられているからです。だから、永遠の滅びをも覗き込めたのです。自分の真の姿を見ることができたのです。自分が罪人であることを認められた人は、すでにこの永遠の命綱、天からの命綱にくくりつけられているのです。だから、明るく自分の現実を認められるのです。私どもは、はっきりと知っているからです。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」私どももまた、即座に使徒パウロとともに、答えることができます。私どもの救い主、私どものために人間となられ、私どもの罪を償うために、身代わりに十字架について神の刑罰、神の呪いを受けてくださったイエス・キリストがおられる。主は、三日目に死人のうちよりおよみがえりくださり、私どもをも体の復活の約束の中に保障してくださったのです。だから、覗き込めるのです。だから、凝視することができるのです。そして、パウロとともに私どもも歌いだせる。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」とうれし涙すら流せるはずです。

主の日のたびごとに、私どもはこの礼拝式で、私どもの上に、天から降ろされているこの命綱にくくりつけられている自分を再発見するのです。そして、そのような人間だけが、この世に勝利することができます。この地上が私どもの人生の、すべてではないと分かっているからです。たとい、この地上において幸せ、喜び、楽しみを味わい尽くせなくても、かまいません。私どもには、永遠の祝福のなかに生きる場所をすでに備えられているからです。

このように、天からの命綱にくくりつけられて生きる人だけが、この世を絶対視しないで済むのです。この世の価値観に絡めとられない生き方を進めることができるのです。そうなれば、ことは、罪の赦し、私どもの救いだけにとどまりません。天からの命綱にくくられた人間は、天から生きるのです。終末から生きるのです。徹底して、終わりの日の現実、主イエス・キリストが全世界を統べ治める完成の日、勝利の日から生きることが許されているのです。そのとき、教会はまさに教会にだけ与えられた特権に生き、同時に使命に生きることもできます。この世の罪、この世の暗黒のどん底を見続けるのです。この世の暗闇の実態を見る、それに覆いをしない。教会自身の罪にも目を背けないのです。

私どもは、今日の午後、読書会で、私どもの教会の戦争責任、そしてなにより戦後責任を自ら問い、学びます。私どもの先輩たちの失敗、それは、何よりも霊的な課題であったかと思います。教会がしっかりと天からの命綱につなぎとめられている現実、教会の生命は、天の礼拝と直結し、地上的な安泰、地上の安定にあるのではないこと、そのように地上では旅人であることを余儀なくされても、それこそが、教会の強みであり姿であり、この世の視点、有限の世界でしか生きられないで、いよいよ罪を犯し、ますます世界を暗黒と崩壊とに急ごうとする世界の只中で、教会の務めを果たすことができるはずです。そのためにも、私どもの礼拝式が、天の礼拝といよいよ結ばれ、天国の祝宴を常に、垣間見ることができますように。そうすれば、私どもは勝利します。私どもは神の国の完成に奉仕できるのです。それは、武力や経済力によって世界を平定する、安定する企てではありません。神が実現する支配です。天の命綱にしっかりと捉えられ、それを信じ、これからも、自分の個人的な悩みや苦しみに勝利し、世界の将来のためにも、しっかりと主イエス・キリストに他ならない命綱に引き止められつつ、教会の社会的、国家的、政治的な奉仕をも担ってまいりましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神。どうぞ、私たちが、主イエス・キリストの救いのなかで、自分の罪深さとその悲惨さに目をそらさないで生きさせてください。そしてそこでこそ同時に、自分が赦され、救われている事実に気づき、その幸いと感謝に溢れ、御名を賛美することができますように。悩みに圧倒的に勝利して、立ち上がる力を豊かに与えて下さいますように。また、教会が、この世の価値観にからめとられず、むしろ、今こそ、永遠の世界、主イエス・キリストの支配する神の国の到来の喜びの知らせを告げ知らせ、権力者たち、戦に急ぐ世界の流れに抵抗することができますように。    アーメン。