過去の投稿2006年9月1日

06年5月 伝道月間 主日礼拝式出席感想文より

 06年5月の伝道月間に、金城学院大学の学生たちを講義の一環として、礼拝式に招きました。出席は義務としていませんが、当日は、9名の女子学生たちが出席してくれました。
 以下に、掲載した文章は、そのときの感想を率直に書いてくれたもの、原文のままです。 一読、大変、うれしく思いました。
 大学にももちろんチャペルがあり、礼拝が捧げられています。わたしの担当講義は、「宗教学」ですから、諸宗教を扱いますが、中心はキリスト教です。しかし、どれだけ、キリスト教を教室や大学で学んでも、おのずから限界があります。「教会」なくして「キリスト教」はないのですから。
 その教会がもっとも鮮やかに地上にその姿・輪郭を現すのが、主イエス・キリストが復活された日曜日に捧げられる礼拝の場所・時です。彼女たちは、言わば本物のキリスト教を体験したわけです。ただし、丁寧に言えば、単に礼拝式の場所にいれば、体験できるものではありません。信じる(信頼)ことなしに、知識(認識・学び)は生きてこないからです。
 キリスト教を知る道は、現実のキリスト教会の礼拝に出席することであることを、彼女たちの感想文があらためて、明らかにしているのではないでしょうか。
 ぜひ、これをお読みくださるあなたも、私どもの礼拝式に、お越しください!
 
 ※ 時間の関係で、全員の原稿をパソコンに入力できませんでしたことをお断りします。公開することを許可してくださった学生たちに感謝いたします。私どもの祈りは、彼女たちが、近くの教会に出席すること。生ける神、主イエス・キリストを信じて、新しい人として生きる人になること・・・です。

■生まれて初めて教会に行き、すごく緊張したし場違いのような気がした。別に悪いことしたわけでもないが、宗教に関して何もわからないし、神様を信じているに過ぎないから。でも、驚いたのが若い子たちが以外にたくさんいたことである。幼児たちもいたが、たぶんお母さんたちと一緒に来ていたのだろう。礼拝のことわかっているのかなと思ったが、いずれ自然にわかってくると思う。

 外から見た感じ、やはり一目で教会がわかった。なぜなら、十字架が飾ってあったから。あれは、教会のシンボル的な存在なのだろうか。中もすごくきれいだった。教会員の人たちも、すごくやさしく接してくれてうれしかった。

 礼拝式では、あんなにたくさん歌を歌うものとは知らなかった。みなさん、とても上手に歌っていて聞き入ってしまった。私もわかるものであれば一緒に歌いたかったが、まちがえると恥ずかしいので歌えなかった。さらに、オルガンがすぐ横で弾かれていて、迫力のあるものであった。

 私たちのほかにも初めて教会に来ていた人もいて、なぜ来たのか話を聞きたかったが、みなさん忙しそうだったので聞けなかったのが、とても残念である。ご夫婦で来ている方も見かけたり、中学生くらいの子たちが、友達同士で来ていたり、年齢は様々で幅広くキリスト教の人たちがいるのだとわかった。

 正直、最初は遠いしあまり行く気はなかった。でも、先生の話や歌を聞いて、楽しくなってきて最後には少し気持ちが癒されているような感じがした。1時間30分はあっという間だったように思えた。教会員の人たち全員仲がよさそうに見えて、いろんな人たち交流の場があることは、年配の人にも、若い子にも互いに刺激があり、たくさんのことを学べる場所でもある。そんな場所を私も見つけられたら、毎日楽しいのではないかと思う。

 私は、今回を含め1回しか教会と言うものを経験していないが、そこで感じたことは、ただ単に神様にお祈りするところではなく、多くの人たちが集まり、一緒に礼拝する事に意味があるのではないかと考える。互いの悩みや苦しみをわかちあい、解決する方法を導き出したり、他の人の考えを知ることも大事なことであると思う。そういう機会を与えるのが教会なのかもしれない。キリスト教に関心が無くても、誰かと話したりしたいと思っている人でも、気軽に行けるところではないだろうか。最初に教会に行く動機は、何でもいいと思う。そこから、自分とキリスト教について向き合っていけばいいと思う。自然にそうなれるのが一番理想的だと私は考える。

 最後に、献金の時に女の子たちが前に出てお祈りをささげていた姿がとてもかっこよく見えた。緊張してまちがえていたところもあったが、なんだか立派な教会員の1人だった。私も今、せっかくキリスト教について学んでいるからその子を見習って、もう一度真剣にイエス・キリストについて学びなおしたいと思った。

■人生で初めて入った本格的な教会。予想とはうらはらで、意外とかわいらしいデザインの建物で、重々しい雰囲気はどこにもなく、すごくアットホームな感じだったのでおどろきました。小さい子供もたくさんいて、わいわいしていてみんな楽しそうな顔をされていて、なんか、むっちゃ疲れていた私にとっては不思議なくらいフレッシュなエネルギーが満ち溢れている場所でした。

 実際、大学での礼拝しか経験していないので、どういうものなのか不安でした。しかし、あのなんともいえない素敵なオルガンの音色はとても荘厳で心地いいものにかんじました。そこから、賛美歌を歌い、説教を聞き、また賛美歌を歌い・・・。なんだか、普段あまり体験しようとしないものに触れた感じですごく新鮮
でした。わたしのまわりでは、カラオケ以外で大きな声で歌う人はいませんでした。だから、自分も歌わないようにしていたけれど、礼拝中の賛美歌などは皆さんと一緒にかなりの大きさで歌っちゃいました。

 心から歌うというのはやっぱし楽しいものです。賛美歌など全く知らない中でも意外といけるものです。

 礼拝式の最後に小学生の高学年くらいから中学生くらいの女の子二人が、すごく上手に喋っていて、さいしょ牧師さんかと思いました。神さまに対してすごく感謝しているみたいで、わたしもこの世に作られた人間の一人として、感謝の気持ちを忘れないようにしたいと思いました。

 また、最後に始めてきた人たちが紹介されて、どうしていいのかも分からず、ただきょとんとしてしまいましたが、あの時拍手していただいた方々はすごく笑顔で優しい目をしていました。そんな人たちにめぐり会える環境を作っていただいたことに感謝します。

 友達と、キリスト教ってちょっと理解しがたいところがいっぱいあるよねぇと喋っていましたが、実際終ってみると礼拝って時間さえあればまたいきたいなぁと思いました。

■礼拝式では、安息日についても学んだ。私は、「安息」というのはただ休むだけではなく、様々な形で調和することが大切なのだと思う。例えば、周囲の人々との「調和」や自然との「調和」がある。そして「安息」について考える時、一番大切なのは、神さまとの「調和」だと思う。

 神さまとの「調和」を保つという事は、神さまを近くに感じ、信じて聞くという事の中から生まれてくるのだと感じた。そして神さまとの「調和」を育てる助けとなるのが、教会へ行ったり、祈ったり、分かち合ったりする仲で、自分の生活を振り返ってみることだと考えた。

 また教会で頂いた「岩の上だより」で私が印象に残ったのは、私たちは日常の生活の中で、「自分は一体何の為に生きているのか。」という部分で、「人生の目標を見失ってしまいそうな時は一度それを中断してみればいい。」という言葉は私の中に自然に入ってきた。「一度それを中断してみると《本当の自分の姿》が見えてくるというところは素敵な言葉だと思った。

 今日初めて日曜礼拝に参加したが、どの教会員の方も親切に、また暖かく接してくださり、とても嬉しかった。あの時のみんなで歌った聖歌の歌声、包み込むような暖かい雰囲気を私はいつまでも忘れないだろう。

■今回は、教会の方に駅まで送迎していただき、時間があまり無かったのもあるが、教会員の方へのインタビューをする事が出来なかった。なので、礼拝式と教会全体についての感想のみを書きたいと思う。

 礼拝式は中学や高校、大学時代での朝の礼拝とは全く違った感じであった。いつもの礼拝は、賛美歌を歌い聖書を読み、お話しを聞いてお祈りをして頌栄を歌う。といった感じの礼拝だったが、今回はニカヤ信条や十戒、主の祈りまでみんなで朗読するとは思わなかった。

 中学の頃教会に行っていた頃は学校の期末試験に穴埋め問題が出たこともあったので、主の祈りを思えて何度か暗唱する事はあったが、ニカヤ信条の存在は知らなかった。そのときは朝の日曜学校に行っていたので、ちゃんとした礼拝を聞いていなかったからかもしれないが、報告会と言うものがあるのには驚かされた。
キリスト教は日曜日に教会に集まって礼拝を行うだけだと思っていたからである。

 教会全体についての感想は、私たちが教会に到着すると皆さんがとても暖かく出迎えに来てくださり、今日は大学の講義の出席に関係があるから行かなきゃと思っていた私は、少し困惑した。なぜなら、私は教会に「行きたくて来た」のではなく「行かなければいけないから来た」からこんな理由で教会に着た私を暖か
く歓迎してくれてよいのだろうか・・・。と思ってしまった。礼拝後の報告の前に名前を紹介していただいたが拍手までしていただいて、なんだか恥ずかしい気分になった。

 教会の中に入ると大きな一つの「家」のような印象を持った。どのように説明したらよいか分からないが、小さな子供たちから大人の方々までみんなが一つの建物の中で色々なお話を楽しそうにしているなと感じた。「子供たちが今押し花でしおりを作っているんですよ。」と教えてくれたので子供たちの様子を見たら、とても楽しそうに作っていた。礼拝堂は明るい感じの部屋で机が出てくる木の椅子に感動した。また聖書賛美歌にはそれぞれカバーがついていて、その刺繍に何かやさしさみたいなものを感じた。

 私たちを送迎してくれた方もとても親切な方で、行きや帰りの車の中でも色々なお話をしてくださった。車のドアをわざわざ開けに来てくださったりして、なんだか少し申し訳ない気分になってしまった。その方が、「教会のお話しではないにしろ、誰かの考えを聞くというのはとても良いことですよ。」と話してくださり、納得させられた。確かに今回お話を聴いて人の話を聞くというのは、悪くないことだなと思った。

■教会に行かなくなってから礼拝を受ける機会はありましたが教会で礼拝を受けるのは本当に久しぶりでどんな感じか忘れてしまうほどでした。
 
まず、教会に行くと、小さな子供たちがたくさんいてとても明るい雰囲気でとても感じがいいなと思いました。そして、教会員の人達皆さんとてもやさしく私たちを笑顔で迎え入れてくださいました。以前行っていた教会でも思っていたのですがキリスト者の教会員の皆さんは誰にでもとても優しく本当に心からにじみ出る笑顔の持ち主だなと思いました。教会に行くと自分自身とても優しい気持ちになれたし私もこんな心の優しい人になりたいと思いました。

 名古屋岩の上伝道所は私のイメージしていた教会とは全然違いアットホームなイメージでした。木がメインでつくられており、教会全体から暖かい雰囲気がにじみ出ていてとても素敵な場所だと思いました。礼拝式に出るのも本当に久しぶりだったのですが教会の皆さんのおかげで礼拝を受けることができました。

 皆さん賛美歌がとてもきれいで本当に心を込めて歌っていらっしゃるのだなと感じました。礼拝式の雰囲気がとてもよくて皆さんの気持ちがとてもよく伝わってきて鳥肌が立ちました。 

 皆さん一人一人が同じ気持ちを持ってここに集ってきているのだということがひしひしと伝わってきて私も同じ気持ちになれた気がします。ずっと行けていなかった私を導いてくださったのはやはり神様だと思います。この時期に教会に行くことが出来、やはり神様にはすべての事が分かっているのではないかと思いました。教会に行き、みなさんの優しさに触れることが出来て私も自分のことだけでなく他の人にも目を配れる人に優しい人になりたいと思いました。

 とてもすがすがしい気持ちになり、心が洗われた気がします。

■私にとって教会とはすごく固いイメージがありました。キリスト教の人達が集まってお祈りをして神様の教えを黙って聞くような感じでした。しかし、実際に行ってみてすごくギャップがあってびっくりしました。小さな子供たちの教会学校をやっていてみんな楽しそうに絵を書いたり、話をしたりしていました。すごく暖かい雰囲気でいっぱいでした。そして、教会に来ている人達はまるで家族のように優しく初めて会った人なのにすごく親切にして下さいました。初めて教会に来た私たちをとても歓迎してくれて私はとてもびっくりしました。そして同時にとても心が暖かくなりました。私もこんな優しい人間になりたいと思いました。

 私は中学から金城に行っていたんですけど何度も教会に行く機会があったのに一度も教会にいったことがなかったのでもっと前から行っていれば教会に対してのイメージがもっと早く良いものになっていたなと思いました。そして教会に来ている人は皆本当に神様のことを信じ、尊いものだと思っているのがふつふつと感じとても美しく感じました。一つのことを信じ、みんなで分かち合うことはすごく良いことだなと思いました。私の中で教会に対する思いは以前とは全く異なるものになりました。以前は自分とは全く遠いものだと思っていました。でも今はすごく身近なものなんだなと思うようになりました。誰でもどんな人でも受け入れ優しく暖かく迎えてくれる、まるで家族のような存在に思うようになりました。

 礼拝式は思っていたとおりやはり、おごそかなものでした。でも、みんなで賛美歌を 歌い祈ったりしていると、皆一つになれた気がしてとても心地よかったです。オルガンもすごく音色が美しくてお話もとてもためになるもので自分自身をすごく見直せるとてもいい場所、そして式でした。一時間半くらいの短い時間ですごく深い時をすごせました。

 私は全然キリスト教ではなく、すぐには絶対入り込めないと思っていましたがその空気と人の優しさですんなり入り込むことができました。キリスト教ってすごいな と思いました。どんな人でもなんの支障もなく受け入れる。私はまた是非行ってみたいと思いました。そしてまた色んなお話を聞いてみたいと思いました。本当にいい経験ができてよかったです。