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「本物の救い」

「本物の救い」
2006年9月3日
テキスト ローマの信徒への手紙 第7章7節~25節⑤

「 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
  
 

本日は、この箇所から5回目の学び、最後の学びにしたいと思います。今週から朝の祈祷会を再開します。ウエストミンスター信仰告白を改めて学んでまいります。17世紀につくられたこの信仰告白は、私ども日本キリスト改革派教会の信仰告白として採用されています。ですから、このウエストミンスター信仰基準を学ぶことは、私どもの教会にとって当然過ぎることです。しかし、私ども改革教会の伝統、信仰の遺産は、この信仰告白、教理問答だけではなく、数十にものぼる教理問答、信仰告白があります。そのなかでも、もっとも有名な教理問答の一つに、ハイデルベルク信仰問答があります。これも、いつか必ず、皆さんと学びたいと楽しみにしております。この問答の序の部分、その問い一は、実に有名な言葉です。

問い一、「生きるにも死ぬにも、あなたの唯一つの慰めは何ですか。」この問いに対する答えは、キリスト教信仰、その救いの恵みの真髄を見事に言い表しています。
答え「わたしが私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」
主イエス・キリストの十字架の贖いの御業によって、わたしのすべての罪の負債を完全に償い、返済してくださり、そればかりか悪魔の力からも解放し、神がつねに私どもの祝福を願って働き続けてくださること、さらにまた、永遠の命が保証され、主イエス・キリストのために生きることを心から喜ぶようにし、それにふさわしい人間、キリスト者になれるように整えてくださると言うのです。生きるにも死ぬにも唯一の慰めは、わたしが主イエス・キリストに贖われている、イエスさまのものとされていることなのです。この答えを読むとき、いつも思います。ああ、わたしはすでにこの慰めの中に生かされている。信仰が与えられ、わたしは主イエス・キリストのものとされている、贖われている、救われている。心からうれしくなるのです。

 さて、この問答の序文は、問い一だけではなく、問いの二も含んでいます。「この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか。」

 答え「三つのことです。第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか、第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、ということです。」

 本日で、ローマの信徒への手紙のこの箇所を学び終えようとする私どもです。どうしてハイデルベルク信仰問答の問い一、問い二を引用したのか、ご理解いただけるでしょうか。実は、ローマの信徒への手紙の第8章までの構成は、実に、ハイデルベルク信仰問答の構成そのままなのです。ということは、この信仰問答は、ローマの信徒への手紙の救いの恵みの構成をそっくり真似しているということが分かると思います。

実は、多くの信仰問答書は、このローマの信徒への手紙の前半の論理を採用します。それは、人間の罪の現実がどれほど悲惨なものであるのかを抉り出し、同時に、その罪人のために神の御子主イエス・キリストが十字架で贖いの御業を成し遂げてくださって、ただこの主を信じるだけで、救われるという福音の論理です。世々の教会は、私どもの信仰の先輩たちは、私どもが喜んで主イエス・キリストの救いの恵みのうちに、死に至るまで忠実に生き続けるために、私どもの罪とその悲惨を知らなければならないことを知っているからです。このローマの信徒への手紙によって知らされたのです。

 そして、キリスト者の歴史の先頭に立つ使徒パウロ自身が、それを経験したからこそ、この手紙が生まれたのです。本日の箇所、それはまさに使徒パウロが他の誰彼のことではなく、自分自身のこと、自分自身の内面をさらけ出して、どれほど自分の罪と悲惨が大きいのかを明らかにした文章に他なりません。生々しく、赤裸々に自分をさらけ出したのです。そして自分の苦しみと嘆きをさらけ出したのです。聖書を読みますと、そこに共通するのは、人間の赤裸々な姿が暴露されているということです。

 かつて伝道新聞に、「聖書は自虐史観なのか」というタイトルを掲げて、書き記したことがあります。日本が犯した負の歴史、罪の歴史を教科書にきちんと記すことに対して、それは、自虐的、自分で自分をいじめることだと中傷する学者たちの動きが激しくなって来たときに書いたのです。その文章の内容は、聖書はイスラエルの歴史がしるされているけれども、その自分の国の歴史を正直に、嘘で固めることなく、書き記している、もし、今日の歴史の教科書を彼らが言うように批判するのであれば、聖書にまさる自虐史観に貫かれた歴史の書物はないと書きました。

イスラエルは自分たちの歴史の罪と悲惨さを正直に書きました。福音書は、自分たちの指導者である使徒ペトロが主イエスを裏切ったことをあからさまに書き記しました。ルカは、使徒言行録のなかで、自分の同労者であり先生にあたる使徒パウロが、かつてキリスト者を迫害していた人間であること、迫害しているまさにそのときに復活の主イエス・キリストにお会いしたことを、一つの書物に三回も書き記しました。

 聖書の著者たちは確信しているのです。神は、悔い改めた人間のいかなる罪でもお赦しくださるということです。神は、私どもがかっこうをつけ、自分の罪と過ちを隠し通すことはできないし、そのようなことをしなくてもよいと教えてくださるからです。私どもは、罪と過ちを隠しながら生きるのはつらくなるだけです。つじつまがあわなくなるだけです。嘘で固める人生になるか、損になることは決して考えず、認めず、忘れて生きるしかないのです。しかし、神は、そのような罪と過ちをお忘れにはなりません。神は、終わりのときに御自身の正義と聖よさに基づいてお裁きになられます。キリスト者とは、この裁きをすでに経験しているのです。丁寧に申さなければなりません。私どもがうけるべきこの裁きを主イエス・キリストが十字架で身代わりになってお受けくださったことを教えられたのです。信じたのです。信じることによって、この裁きは私どもを過ぎ越し、通り過ぎて行かれたことを知らされたのです。それが、パウロが語った救いです。パウロは、この救いの御業を徹底的に信じ、救いの確かさのなかに生きているのです。天からの救いの確かさにしっかりと捉えられているのです。だから、自分の惨めさをさらけだせるのです。

 使徒パウロは、この箇所で、「私たちは」としてではなく、「わたしは」と語ります。そうであれば、この箇所を語る説教者もまた、わたしはと語ることは許されていると思いますし、そうせざるを得なくなるようにも思います。

実は、わたしの救いの証しをするとき、必ず、引用する御言葉があります。それこそ、第7章24節なのです。わたしは二十歳のときに洗礼を受けました。聖書との最初の出会いは、15歳、高校生のときでした。そして聖書を自覚的に読み始めたのは、おそらく高校2年生のときであったかと思います。しかし、それは、学校で読み、学ぶ聖書であり、言わば、自己流で読んでいたわけです。そのようなわたしが、教会に本格的に足を踏み入れたのは、二十歳になったばかりの頃でした。それは、仏教の書物、増谷文雄という仏教学者の著された「仏教とキリスト教の比較研究」というこれは、純然たる学術書ですが、このなかで読んだ聖書の御言葉が決定的な引き金となりました。それこそが、このローマの信徒への手紙第7章24節に他なりません。「わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。」これは、当時のわたしの心の叫びでした。当時のわたしの生活のなかで、結局、聖書に鼻をかんで投げ捨て、神などに頼らなくても生きてゆけると決心して出発しながら、自分の心の空しさ、孤独感をどうすることもできなくて苦しんでいました。ですから、共感したのです。宗教者、キリスト者でも、こんな嘆きを持っているのか。とても不思議であり驚きでした。これが私自身の真剣なる求道生活の出発となりました。遂に、自分から教会に足を運んだのです。一人ではこわかったので、親友を誘って二人で牧師を訪ねたのでした。春休みのときでした。そうして、その年の9月15日に、回心の経験に導かれ、救いの恵みに与り、降誕祭の礼拝式で洗礼を受けて、キリスト者、教会員になったのです。一緒に、行った友人も、翌年になりましたが、札幌の教会で洗礼を受けたのです。ただし、ここでも私自身正直に申さねばなりません。それで、このローマの信徒への手紙のこの箇所が分かったわけではありません。パウロの叫びの深い意味が、そのとき分かったわけではありません。

ここでのパウロの嘆き、苦悩は、未信者の苦悩とは次元が違います。神もなく希望もなくさまよっていた未信者の時代苦しみ、空しさ、孤独ではないのです。使徒パウロは、言うまでもなくキリスト者です。神を知っています。神の言葉、律法、聖なる掟を知っています。パウロは、キリストの使徒なのです。神の働き人、ほとんど空前絶後の伝道者であり、神学者です。キリスト者のなかのキリスト者なのです。しかし、彼は、今、自分のなかにこのおそるべき二重性を抱えているのです。分裂です。一人の人間が生きるためには、なにより真実に生きるためには、その人の言動と行動とが一致することが大切です。言行不一致では、人から信頼されることはありません。ところが、彼は、「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」というのです。これは、パウロのこれまでの議論の結論です。

ある聖書学者、キリスト者はこれが理解できずに、こう言います。25節の前半と後半を入れ替えて読めばよく分かるというのです。つまり、わたしはなんという惨めな人間なのだろうと嘆いた直後に、このようにわたし自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのですと読むべきであるというのです。
また、ある人は、説教でこの箇所を無視してしまう、読み飛ばすのです。キリスト者であってなお、自分のうちにこのような分裂があるのはおかしいと理解するからです。救われていないことになると考えるのです。

あるいは、こういう理解も少なくないキリスト者が持っています。パウロのいう「心では神の律法に仕え、肉では罪の法則に仕えている」ということは、これまでの結論、つまり善をなそうという意思はありますが、それを実行できない。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。善をなそうと思う自分には、いつも悪がつきまとっているという法則の支配下にある、罪の法則のとりこ、奴隷になっているということを要約した言葉であると言うのです。そのとおりです。しかし、このようなキリスト者は、霊的に低次元のキリスト者、救われているけれどまだ幼いキリスト者、肉的なキリスト者、いわゆる聖潔められていない状態のキリスト者であるからこその嘆きだというのです。

確かに一人の人間の中に、これほどまでに深刻な分裂があれば、まさに惨めの極みでしょう。このような惨めな姿であるなら、神を信じたり、聖書、律法を学んだり、いったい何の意味があるのか。むしろ、聖書の神とか、まことの神とか、信仰とか、そんなことにかかわりなく生きていたほうがよほど心に平安があるし、分裂もないし、悩みもないし、楽しく、陽気に暮らせるではないかと思う人も出てくるでしょう。早とちりする人は、聖書を読んで、これがキリスト者の姿であれば、自分と変わりない、何も信じなくてもよいではないかとすら誤解する人も現れるでしょう。

しかし、そうではないのです。わたしどもが地上に存在し、この肉体をもって生きている限り、この分裂から完全に解放されることはできないことをパウロは知っているのです。この分裂をごまかす必要はない。この葛藤、この苦しみから逃げる必要はないのです。どうしてか、それは、すでに何度も語ったことです。主イエス・キリストがおられるからです。救い主なる主イエス・キリストが天上から命綱を私どもに降ろし、私どもをご自身と一つにくくりつけてくださっているからです。

肉では罪の法則に仕えているのです。この惨めさは、地上に生きている限り、私どもキリスト者の姿に他ならないのです。しかし、誤解してはなりません。この悲惨さは、神なき悲惨さでは決してありません。そのことが決定的に明らかにされるのは、8章1節の御言葉です。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」私どもは、完全な救い、赦しにあずかっているのです。ですからキリスト者は、いわば、天と地の間をうろうろしないですむのです。信仰心や感情が上がったり下がったりしないで済むのです。この現実のままに救われているからです。そして、この善と悪、神の律法と罪の律法の二つに分裂し、二つの板ばさみのただなかで、まことの人間となってこの分裂、この板ばさみに勝利されたただお一人の人間、人間となられた御子イエスさまを救い主として信じることができるからです。ですから、私どもは地上にあって、自分のことを完成された人間、完全な人間、つまり罪の法則から完全に解き放たれて天国に住んでいるかのような人間となることを目指す必要はないのです。

私どもは最後の完成を目指して、主イエス・キリストの再臨による完成を目指して歩んでいます。しかし、その日はまだ来ていません。しかし同時に、すでに主イエス・キリストが人間としてこの地上を歩まれ、十字架に赴かれ、死人のなかよりお甦りになられ、天に昇り行かれたのです。すでに、この救いの御業は実現したのです。わたしどもはその「時の間」を生きています。自分で、再臨がすでに来たかのようにありえない完全な人間になってみせる必要はありません。そのような悩みなき人、戦いなき人になる必要はないし、それは不可能です。一生涯、私どもはこの戦いから無縁ではないのです。この分裂、この葛藤、この悲惨さから断ち切られることはありません。むしろ、主イエス・キリストを知っているから、神を知っているからこそ、この葛藤を知ったのです。神を知る前は、このような真実な葛藤に悩み、苦しみ、このことで、なんという惨めな人間なのだろうと叫んだ経験はないはずです。

キリスト者でない人の惨めさは、自分が能力がないということ、自分があらゆる点で、人と比べて優れていないということ、病気になった、失敗した、挫折した・・・そのようなこの世の価値観のなかで、勝ち組になり損ねたなどということではないでしょうか。キリスト者であってもそのような劣等感、惨めさで悩むことすらあります。しかし、パウロがここで嘆いているのは、罪の問題なのです。罪の悲惨さの問題なのです。この罪に悩むことができるのは、ただ、キリスト者だけです。神を知っている人、律法が与えられている人だけなのです。しかし、そのとき、パウロと一緒に叫べるはずです。私どもには、主イエス・キリストがおられる!この救い主が天から私どもをご自身と結び付けていてくださる、天からの命綱となっていてくださる。だから感謝せざるを得ないという叫びです。

私どもは、すでに、このキリストの救いの御業にすでにあずかり、身も魂も、内なる人としても肉体をもっている人間としても、主イエス・キリストのものとされているのです。ここに唯一の慰めがあるのです。私どもはもともと不幸な人間です。どん底の不幸です。なぜなら生れ落ちた瞬間から、死に定められた体をもって、神の怒りと刑罰を受けるべき罪人として、原罪をもった人間としてこの世に生まれているからです。ところが、私どもは今どうでしょうか。私どもは、ただ主イエス・キリストのおかげで、幸せな人間になっているではありませんか。なんという光栄、なんという幸いでしょうか。だから、パウロのようにわたしは肉では罪の法則に仕えていると認められるのです。これは、開き直っているのではありません。事実を言っているのです。そして、罪の法則と戦う新しい人間になっているのです。甘んじているのではないのです。

ハイデルベルク信仰問答の問い一の答えの最後にこう記されています。「そしてまた、ご自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように整えてくださるのです。」私どもの力ではなく、キリストの霊、聖霊にお力で、私どもの上に天が開かれ、永遠の命が保証され、その事実によって今から後、主イエス・キリストのために心から喜んで生きることができるのです。しかも神がふさわしく整えてくださることを私どもは知り、信じているのです。

ですから私どもは、悔い改めることができます。このような救い主を知っているからできるのです。怖がる必要などない。自分のこの真実の惨めさを否定し、隠し、つくろう必要はないのです。自分の信仰生活が、霊的に敗北ばかりだと自分で自分を裁き、責める必要もないのです。ただ、主イエス・キリストを信じ、その罪と日々戦い、日々悔い改め、そして日々、主イエス・キリストを通して神に感謝して生きればよいのです。これこそまことの救いです。本物の救いです。善なる意思と肉の欲望がせめぎあって、憎んでいる罪と悪を行ってしまって、悩みうめく自分自身を救われていないとか絶望する必要はないのです。いわんや、自分はそのような低い次元のキリスト者ではないなどと自分を偽らなくてもよいのです。おかしな言い方ですが、キリスト者ぶる必要すらないのです。善がやどっていない罪人であると認めてよいのです。これこそ本物の救いなのです。

これこそ、人間を本当に人間らしくするのです。本当の人間とは、真実の自分の姿を正直に知り、素直に認め、隠さず、そしてそれを心から嘆き、しかし同時に、神に愛され、主イエス・キリストのものとされ、そのようにして自分を神の子として認める人間のことです。そして自分を正しく愛し、重んじ、隣人を愛し、重んじることができる人間のことです。それが聖書の宗教、聖書によるまことのキリスト教の姿なのです。

キリスト教と言っても今日、まったく多くの教会があります。この箇所をめぐっても解釈が異なり、それによって違う実践をとるキリストの教会もあるのです。その意味で、私どもは謙虚でいなければなりませんが、改革派教会の伝統、聖書の正しい教理をもって聖書を読むことができる者であることをどれほど感謝してもしきれないと思います。ですから、これからも先輩たちが伝えた教理、信仰告白を学びながら、いよいよ本物の救い、まことの救いのうちにあることを感謝し、これからの肉体においても魂においても、全存在をあげて主イエス・キリストにお仕えするのです。

今、聖餐を祝います。感謝を表すのです。惨めな人間のままに、しかし罪が完全に赦され、聖霊によって永遠の命の保証を新しくしていただくのです。主イエス・キリストは私どもに繰り返し聖餐の食卓を整え、招いてくださいます。そして私どもは今あるがままで、この招きにあずかるのです。そして、あらためて圧倒的、徹底的なキリストの救いの確かさ、天からの命綱の手ごたえを味わうのです。そして同時に、聖霊の恵みによって、聖餐のパンとぶどう酒を受けることによって肉体も魂も全存在を主のものとして捧げます。また同時に、自分がキリストのものであると認めます。そのようにして、私どももまた徹底的に、今から後、主のために生きますと聖餐を祝うことによって告白するのです。これにまさる神への感謝の応答はありません。今、聖餐を祝いましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもは惨めな罪人でしかありません。徹底的に罪の支配のなかで、死ぬべき人間でしかありません。この事実をあなたが、あなたの聖なる律法によって教えてくださいました。何よりも、ご自身が、わたしどもをして、これを認めることができる人間にならせていただいたのです。しかも、それで終わりません。私どもがこのあるがままで、主イエス・キリストの贖いによって神のものとされていることをも教えてくださいました。私どもは、今罪赦され、神の子とされているのです。そのようにして、完全なる救い、まことの救いのなかに置かれているのです。心から信じ、感謝いたします。どうぞこの感謝を、ただ唇で告白するのみならず、全生涯にわたって、私どもが主のために生きることによって現させてください。そのために、キリストの霊、あなたの御霊を豊かに注ぎ続けてください。   アーメン