過去の投稿2006年9月3日

9月3日

☆   先週は、恒例の夏の読書会を行いました。毎年、教会の戦争責任をめぐって学びを重ねてまいりました。今回は、初めてのことですが、非キリスト者の哲学者である高橋哲哉氏の講演録「心と戦争」を中心に読みました。先週の欄でも触れましたが、キリスト者の中で、実に「危うい」発言をしている人々が増え続けています。むしろ、この哲学者の視点の方が、戦争、平和に関して、聖書の教えに近いと考えるからです。

★   先週、西部中会の機関誌「リフォルマンダ」9月号を読みました。これは、先週、指摘した東部の機関誌「まじわり」に掲載された主張と対立するものでした。神学校で教えておられる袴田牧師は、教会の外の崩壊と内側の崩壊の危機を語られました。内側の危機感が、日本キリスト改革派教会で希薄、60周年大会にそれを覚えさせられたとあります。わたしは、危機意識という点では、外・内両方とも、希薄であるとの感を持ちました。

☆   袴田牧師は、先週記した、富岡幸一郎氏の主張「靖国神社をキリスト者として参拝する」というようなつまり、「(靖国)神社非宗教論」に立っていることを、厳しく批判します。当然のことです。神社は宗教ではなく、国民儀礼(追悼)である。天皇は絶対の神であって、日本の諸宗教は、この天皇の絶対性を認める限り、その信仰の自由を認める・・・これが、大日本帝国憲法の信教の自由規定でした。天皇を絶対の神とする、擬似キリスト教=人造宗教=国家神道の体制を強力に構築して行きました。そのための、子ども達への教育の指針が、「教育勅語」です。その最終完成の形が、昭和に出版された「国体の本義」という書物でした。神社参拝は、宗教ではないので可能である。これを、当時の日本のキリスト教会は受け入れました。そして、このおそるべき信仰否定、偶像礼拝を、隣国朝鮮にも出かけて行き、当時の日本基督教団の統理が、教会に参拝強制の「国策」を強いたのです。

★  この神社参拝強制に抵抗して殉教した牧師の一人が朱基徹牧師です。そして9月17日の中部中会信徒研修会の講師は、そのご子息の朱光朝長老が証言してくださいます。

☆    「歴史は繰り返す」、今、日本は、まさにこの言葉どうりの道を、加速度を上げて突っ走ろうとしています。しかも、日本のキリスト教会も例外ではないのです。どうして教会まで・・・。理由があります。何よりも、聖書の信仰、教会の教理を徹底して学ばないからです。言うまでもないことですが、教会の学びとは、「生きる」こと。「生活」において実るものです。信仰は、神「認識」だけでなく、心からの「信頼」のことだからです。今こそ、あらためて繰り返します。教理の「体得(生きること)」!です。

★   戦前の教会の敗北とは、国家神道の教理に教会の教理が負けたということです。「教育勅語」と「国体の本義」の徹底した教育、その強制なしに、負け戦でしかありえない戦争遂行を国民一丸となって突き進むことはありえなかったはずです。先週、はじめて「国体の本義」全文を読みました。これを読めば、今日の保守政治家と思想家の主張が、まったく同じであることに呆れ果てます。国家神道の思想が「敗戦」の根本にあることを認めない限り、この国は、もう一度「負ける」しかないと思います。

☆  神社は、宗教です。自民党の新憲法草案では、「習俗」は宗教ではないとします。つまり、かつての神社無宗教論の焼き直しなのです。もしも、このような憲法が実現されれば、キリスト教会がその信仰に生きることがどれほどの戦いを強いられるか、日の目を見るより明らかです。もとより、教会が、かつてのように、国策に迎合すれば、圧迫されることは少ないでしょう。むしろ現代は、アメリカと一体化しようとする為の「改正」ですから、かつてのような「キリスト教弾圧」にはならないことでしょう。しかし、私どもが御言葉において啓示された唯一の神に従うのであれば、圧迫・迫害は決定的です。東京都の日の丸・君が代強制への抵抗によってキリスト者の教師たちが受けている処罰を見れば分かります。

★   読書会で、一人の姉妹が、「自分の親戚の教会では、牧師は政治問題について教会で学んだり、発言しないことにしている」と話されました。私どもは、教会では、教会と国家、すべての領域の主であられる神を神とする限り、何でも、議論できる共同体を目指します。私どもの教会は、牧師に対してでも、間違った考えであれば、御言葉と信仰告白(教理)に基づいて、いさめ、反対することができます。その為にも!説教し、教理教育をしているのです!同時に、神の言葉が語られるなら、勇んで、主の道を進み行くのです。  

☆    先週の夜の祈祷会で、殉教者ステファノとパウロの「キリストのために苦しむことをも恵みとして与えられている」フィリピの手紙を語りました。録音があれば、全員が聴いていただきたかったと思っています。