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「至福の宣言」

「至福の宣言」
2006年10月1日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章1節~25節⑤

「 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、
罪に定められることはありません。」

  
 今朝、皆様とともに礼拝を捧げることができますことを心から感謝申し上げます。ここに今朝、集う皆様は、一人残らず、神に愛され、神に呼びかけられた方々であります。私どもは、今まさに、天と地の創造者にして私どもの父なる神の御前にいるのです。目には見えませんが、聖霊なる神によって主イエス・キリストがここに臨在しておられるそのキリスト・イエスさまの前にまかりでているのです。これにまさる私どもの幸せはありません。その意味で、あらためて皆様に告げたいと思います。おめでとうございます。まことに私どもにまさって祝福されている人間はないのです。祝福される値打ちなど何もないのにもかかわらず、ただ、主イエス・キリストの恵みによって私どもは祝福を受けることが許されているのです。ですから、この礼拝式とは、私どもの祭り、救いの祭り、霊的な、最高のお祭りです。

 本日の聖書朗読は異例のことですが、一節のみを朗読いたしました。本来、聖書の御言葉は、どこまでもその文脈から解き明かすべきものです。仮に、一節のみを説教のテキストにする場合でも、その前後関係を明らかにするためにも、一区切り全体を読みます。しかしあえて、今朝は、この一句だけを読みました。なぜ、この一句だけなのでしょうか。それは、この一句の中に、使徒パウロが告げようとするローマの信徒への手紙における福音のすべてが凝縮されていると信じるからであります。いや、ローマの信徒への手紙一書のことだけではありません。全聖書を通じて、福音の真髄が示されているのです。

私どもはこのローマの信徒への手紙を学ぶことによって礼拝式を捧げ初めてちょうど二年がたちます。かつて、第1章16節が鍵となる御言葉であると申しました。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力。この一句の中にも、実に大変な力がとどろいています。ギリシア語で力はデュナミス、ダイナマイトという言葉の語源であると申しました。ダイナマイトは破壊する力であって、それも大したものでしょうか。福音のデュナミス、神の力は、破壊されて粉々になってしまったものを再生させ、いへ、さらにすばらしいものへと創り上げてしまう、地上にはありえないような驚くべき力なのです。福音とは、救いの知らせです。

それなら、その救いとはいかなるものなのでしょうか。第4章21節にこうあります。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」救いとは、「神の義」が明らかにされることです。その神の義とは、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられるのだということを私どもは丁寧に学んできたのです。

しかもそのような神の義は、22節、もともと「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」とあるとおり、罪人には無縁の世界のはずです。罪人にとっての神の義は、脅威、おそるべき災いでしかないはずなのです。義しい神の御前に決して立つことはできず、ただ神の刑罰と怒りを受ける以外に、その存在の運命はないのです。

ところが、そのような私どもに22節の後半はこう告げます。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」ここに福音の中核が鮮やかに示されています。決定的に重要な御言葉です。福音、それは救いの知らせ以外のなにものでもありません。

教会に初めて来られた方がおられるでしょうか。教会に来て、すでに半年、一年、数年と経っておられる方もおられます。洗礼を受けてキリスト者、教会員となっている方のほうが多いのです。いずれにしろ、教会とは、教会では、何がもっとも大切なこととして扱われているのか、はっきりと理解されているでしょうか。教会とは、そしてその中心的な業であるこの礼拝式は、毎週、毎週、何を最大の課題として取り組んでいるのでしょうか。教会では、常に、何が語られているのでしょうか。教会が与えるものとは何でしょうか。逆に申しまして、教会に来る者ども、私どもは、いったい何を聴きたいと願っているのでしょうか。これは、教会のまさに本質をただちに明らかにする問いです。それは、罪の赦しです。教会とは、徹底して罪の赦しを中心に据えて、営まれるものなのです。それが、不明瞭になるとき、教会は道を失います。教会の使命がぼやけるのです。

私どもの教会は、今年度の目標として、ほとんど初めてのことになりますが、「教会のディアコニア」について集中的に考えようしております。開拓伝道12年目の教会として、遅すぎたかもしれません。しかし、教会の執事的な奉仕活動について、いよいよ真剣に考える私どもの教会にとって、しかし、同時に、常に考えておかなければならないことがあると思います。それは、私どもがつたないながらも、この12年間、一貫して歩み続けてまいりましたその歩みです。それは、徹底して、キリストの主権に服する教会の形成でした。キリストだけが主の主、王の王であって、このキリストの主権を確立すること、キリストの王性を証することでした。私どもは、教会の務めの中心を、福音の宣教においてまいりました。徹底して神の福音を語ることに力を注いでまいりました。それが伝道者、説教者、牧師であるわたしの志でありました。開拓伝道の教会は、何よりも皆さんにも福音を正しく聞き取る教会員であって欲しい、学ぶ教会員であってほしいと、それなしに教会の土台は据えられないと確信してまいりました。そのように皆様と心を砕き、励んでまいりました。私どもが伝える福音、それこそは、罪の赦しに他なりません。教会は、罪の赦しの共同体なのです。これが中心、地上にあるかぎり、教会の使命は、罪の赦しを宣言することです。そのような使命と権威は、教会にしかないからです。
  
 8章1節で、「従って、今や」「こういうわけで今や」というのは、直前の議論、言葉を受けているのはもちろんですが、しかし、むしろ、これまでのすべての議論の内容を受けていると解釈するほうが良いと思います。その意味では、結論なのです。ローマの信徒への手紙を2年かけて読んでまいりましたが、その意味で、遂に私どもは、その頂点、頂上に立っているわけです。

 この説教の準備のために木曜日から始め、結局、原稿を纏め上げるのは、土曜の夜遅くということになります。ほとんど、そのようなペースです。今回、準備の途中で、わたしは、この一節を読み上げたら、それで終えてしまってもよいのではないかと、考えたことがあります。半ば願望であり、半ば真剣でした。どうしてそのようなことを考えたのかお分かりでしょうか。「ああ、牧師は先週もいろいろ忙しかったのか」と同情してくださる方はおられるでしょうか。確かに、その通りです。しかし、皆様の中でこう思われる方がおられれば、嬉しく思います。「なるほど、牧師が毎週の説教で語ろうとしていることは、この一句に尽きるからであろう。」

 カルバンのジュネーブの教会の礼拝式次第は、多くの改革派教会の礼拝式次第の一つの形、モデルとなりました。私どもの教会も、礼拝式の式次第については、皆様とも集中的に学んだことがあります。

 かつて、一人の伝道所委員から、「せっかく学びを深めながら、どうして名古屋岩の上伝道所の礼拝式の式次第を動かさないのですか。」と尋ねられたことがあります。確かにその通りです。しかし、礼拝式の式次第を大きく動かすことは、なお慎重と学びを要することであるという気もします。ただし、かつて午後の礼拝を月に一度、一年間、捧げたことがあるのですが、そのときの礼拝式のなかに、「罪の告白と赦しの宣言」というプログラムを入れました。わたしが記した罪の告白の言葉を会衆が読むのです。わたしは、その告白に対して、「あなたがたの罪はキリスト・イエスによって赦された」と宣言するのです。多くの教会では、この式次第が採用されています。

 この「罪の告白と赦しの宣言」のプログラムによって、何が明瞭になるのか、何が鮮やかに示されるでしょうか。それは、礼拝とは、この罪が告白され、その赦しが実現するときであり、これこそ、礼拝の中心、教会の営みの中心であることがよく分かるようになると思います。

しかしわたしはまったく同感なおですが、なお同時にこの赦しの宣言とは、他ならない説教の課題、説教でこそ、これが明らかにされているはずであって、そうあるべきであるという理解があるのです。説教で、罪の赦しがはっきりと語られ、聴き取られることなしに、正しい説教にならないと思います。もとより、説教者がどのテキストからでも、「あなたがたの罪は赦されました」とはっきりとこう、宣言することはありません。しかし、イエス・キリストが語られるということは、イエス・キリストの御業が語られることであり、それは、十字架と復活の御業が中心ですから、罪の赦しの御業を目指して、主イエス・キリストのご生涯と説教があるのですから、いかなる説教もそれを目指しているのです。ただ、取り上げる聖書のテキストによっては、それが中心でない箇所もたくさんあるわけですから、きちんと、罪の告白と赦しの宣言を、礼拝式のプログラムに組み込むべきであるという議論には、大賛成なのです。

いずれにしろ、私ども罪人にとっての福音とは、要するにこの一句に込められている、そう断言してかまいません。この一句こそが、人間にとって究極の言葉と言って過言ではありません。罪人である人間は、死んだ後に、神の法廷に立たされます。そこで、罪のリストに上げられた数々の具体的な罪の行為が読み上げられるでしょう。そのようにしか生きれなかった骨の髄まで罪深い人間でしかない存在、使徒パウロが「わたしの中に住んでいる罪」としかもはや表現できない罪人は、ただ神の正しい判決を受けて、永遠に滅びる以外にないのです。

ところが今や、そのような私どもに対して、「キリスト・イエスに結ばれているあなたは、罪に定められることはありません。」と、神が宣言してくださるのです。驚くべき宣言です。この上ない甘美な言葉、至福の言葉です。
そして実に、この一句を聴ける場所は、世界中でただ教会しかありません。この一句を宣言できる権威が与えられているのが教会なのです。

先週の祈祷会。「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主です。」テモテへの手紙1の第6章15節を読みました。神のご存在とは、祝福そのもの。祝福に満ちた存在です。祝福を受ける必要はないお方です。ただ祝福に満ちておられます。そしてこの満ち満てる祝福は、外へと流れ出し、あふれ出して、祝福の神に接するすべての者を祝福するのです。祝福で満たしてくださるのです。これが、私どもの神、聖書の神に他なりません。

それなら、その祝福とはいかなるものなのでしょうか。それは、端的に申しまして、神ご自身のことです。神の祝福を注がれるということは、神の全存在が私どもに及ぶということです。神とのかかわりそのものです。エフェソの信徒への手紙 第1章3節には、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」とあります。この祝福は天の祝福、霊的な祝福なのです。まさに、それは、神ご自身なのです。「健康が祝福される。家庭が祝福される。経済が祝福される。仕事が祝福される。」このような言い方がなされます。しかし、ここで言われていることは、それらに比べれば、そのもっとも中心、源にあることです。祝福とは、神そのもの。神からの霊的なものなのです。これを私どもはキリストから受けることができるのです。

ある人は、自分は祝福されていないと固く信じています。かつてのわたしもそうでした。自分は、あの人、この人と比べて、どれほど恵まれていないか。わたしはあのキリスト者、このキリスト者とくらべてどれほど厳しい状況にあるのか、その意味で、自分には神が遠いではないか。自分の人生は、神に愛されているなどとは言えないのではないか。そのような、言葉を、考えを私自身、かつてその虜となっておりました。しかし、現実はそうではないのです。どれほど、自分が祝福されている人間であるのか、それが分かったのです。どこで分かったのか。どうして分かったのでしょうか。

それは、自分が、罪人であることを教えられたからです。聖霊によって、自分の罪に目が開かれたからです。自分が罪人であると知った人間にとって、「罪に定められることはない」と宣告を受けることにまさってありがたい言葉があるでしょうか。「まったくない。今や有罪の判決を。このような人、キリスト・イエスにある。」

 有罪の判決を下されるべき人間なのです。それは、これまでの議論で決定的に明らかなのです。直前の言葉だけを受けてもそれは明らかなはずです。「肉では罪の法則に仕えているのです。」「わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」「死に定められたこの体」もはや、有罪判決を受けて、永遠の滅び、神の裁きをのみ受けることがふさわしいはずなのです。

 ところが今や。まったくない。そうされる必要がない。と言うのです。死刑判決はまったく下されないのです。パウロは、「したがって今や、無罪です」とは言わないのです。「有罪とはされない」つまり否定の否定です。本当は、有罪でしかないにもかかわらず、そこにものすごい何かが働いて、無罪となった、されたのだということを明らかにしたいのです。

 そしてそれこそは、ただ、キリスト・イエスというお方であると、ここで宣言するのです。キリスト・イエス! 私どもは、普通は、イエス・キリストと申します。「イエスさまは、キリストなのです」、「イエスさまは救い主なのです。」という信仰告白の言葉です。私どもの主イエスをキリスト、救い主と告白する順序が通常ですが、ここでは、キリスト・イエスです。2節でもキリスト・イエスです。「キリスト・イエス、キリスト・イエス」と喜んで美しい御名、聖なる尊い御名をここで何度でも告げる。お呼びするのです。救い主とはイエスさまである。救い主によって、私どもは、罪に定められない、キリストのおかげで私どもは罪に定められない。

 どうしてキリストのおかげで罪に定められないのか、それは、3節であらためて明らかにされます。「つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」「唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方」であられるお方の御子、この御子が実に、処女マリアから肉体を受けて人となってくださったのです。罪深い肉と同じ姿です。つまり、まことの人間となってお生まれ下さったのです。そして、この人間となられた御子の御名がイエスさまです。このイエスさまが、人間であるからこそ、人間であるわたしの皆さんの罪を償うために、その罪の刑罰の永遠の死、神の怒り、神の呪いを十字架で受けてくださったのです。私どもの罪を、まったく手加減することなく、そのままの罪として神の激烈な裁きを十字架で受けてくださったのです。

 それゆえに、パウロは宣言します。このキリスト、そのお方こそはイエスさまですが、このキリスト・イエスと結ばれているなら罪を処罰されない。キリスト・イエスに結ばれること、これこそ、祝福、恵みそのものだと告げるのです。
 
それならキリスト・イエスに結ばれている者とはどのような人のことなのでしょうか。ローマの信徒への手紙をはじめ、使徒パウロがその手紙の至る所で表現する言葉です。それは一文字です。英語で申しますと、「イン」です。この前置詞の翻訳が「結ばれる」ということです。「一つとなる」と訳してもよいのです。キリストのなかに入る、そしてそこでキリストと結合するこれが「イン」の意味です。

 どうすれば、キリストと結ばれるのか、それはこれまで何度も語ったことです。キリスト・イエスを信じる信仰です。信じることです。キリスト・イエスを信じるのです。キリスト・イエスの真実に全幅の信頼をもって自分を投げ出すことです。キリストの真実に触れていただくことです。

 それなら、そのようなキリストとどこでお会いできるのか。それが、教会です。キリストの体なる教会です。この教会のなかで、特にこの礼拝式においてキリストと結ばれるのです。
 しかも今朝、私どもは聖餐の礼典を祝います。聖餐は、キリストと一つに結ばせるためにキリストご自身が制定されたものです。この聖餐は、キリストの体なる教会において執行します。誰が受けることができるのでしょうか。洗礼を受けた人だけです。

洗礼とは、生涯にただ一度だけ、まさにキリスト・イエスと一つに結ばれるために、主イエス・キリストが制定された恵みの手段です。祝福の手段です。キリスト・イエスと結ばれるということは、言葉を変えれば、キリストの体に結ばれることです。教会員となることです。教会員とされるということがどれほど大きな恵みであるかが分かります。それは、具体的な教会です。この教会です。ですから、皆様は自分がこの教会、この名古屋岩の上伝道所の教会員であることを無上の喜びとしてよいはずでしょう。どれほど、この教会の会員であるということが光栄なことであり、幸いなことであるかと思います。

教会員とされたのは、ここで洗礼を受けた方。その他には、他教会で洗礼を受けたのですが、この教会に移られた方です。そしてこの教会で、毎週、神の宣言を聴くのです。「キリスト・イエスに結ばれた者は、罪に定められることはありません。」これこそ、キリスト者の特権です。光栄です。祝福です。幸福です。

 すべての人にこの幸福、幸福の中の幸福、至福へと招かれています。しかし、もしも、そのようなものは自分にとって幸福でも祝福でもない、わたしの幸福は別にあるというのであれば、それは、神が与えてくださりながら、それを捨てることではないでしょうか。私どもは、この祝福にもっと驚きたいのです。これにまさる幸いはありえないからです。教会に通って、これ以外のものを受けようとするなら、それは、受けることができないのです。それ以外のものを提供する教会に、私どもはなってはならないし、ならないようにと志しています。しかし、神がこの教会を通して、至福に他ならない、神の福音、キリストの福音を提供してくださいます。与えてくださいます。そのような教会にますますなるために、私どもは、心したい。それは、この教会がいよいよ霊的になることです。教会が霊的でなければどうなるのか。人間的な成功、幸福の価値観が幅を利かせます。そのようなものを鼻にかけ、誇ります。そのようにして、キリストの主権をないがしろにします。しかし、私どもは、ただこの宣言を聞くために、教会生活に励むのです。この宣言を本当に喜ぶ教会になりたいのです。これだけあれば、生きていける。これだけがあれば、死ねるのです。これなしに、私どもは死ねません。生きれません。それをキリスト者が本当に味わうことが、霊的な教会の姿です。たとえ会堂がなく経済も困窮状況があっても、教会がこの宣言を重んじ、語り、聴き取ることができるなら、そこにまことの教会があるのです。
 すべての営みは、この罪の赦しのためにあります。罪の赦しから出発し、そこへと常に立ち返り、罪の赦しを証するのです。それが、教会なのです。
 
祈祷
私どもの主イエス・キリストの父なる御神、ただあなたの御子のおかげで、今や、あなたをわが神、私たちの父よとお呼びすることができます。今朝も、キリスト・イエスと結ばれた者は、罪に定められないと赦しの宣言を聴くことができました。心から感謝いたします。この宣言こそ、私どもを生かす、命の言葉であることをいよいよ深く悟らせてください。この罪の赦し以外に、教会がよって立つ場所がないことを悟らせてください。今、この世界はそれを必要としていないのです。軽んじています。自分が赦されるべき、それほどの罪人ではないと開き直っているからです。どうぞ、そのような時代のなかで、あなたを真実に礼拝し、あなたを証する私どもとしてください。全力を注いで、この赦しの宣言を受けた者として生きることができますように。アーメン