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「悩む力」06年10月4日

「悩む力」 
       
 日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所 牧師 相馬伸郎
 聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第7章24~25節
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」

 青年期を、大学生として過ごすことができる皆さんにとって、ある意味では「特権」とも言えることは、「迷うこと、悩むこと」ができる、それが許されているということだと思います。今、自分にはまったく悩みなどないという人はここには、おられないはずです。生きている限り、それが大きなものか小さなものかは、別にして悩みは、ついてまわるでしょう。生きることは悩みを抱えるということであるといっても言い過ぎではないと思います。
友人関係や恋愛のこと。授業やバイトのこと。ファッションや今日のお昼のこと・・・。きりがありません。しかし、そこで問われるのは、何に悩むのかということです。自分が本当に自分らしく生きるとはどういうことなのだろう。本当に、自分は人間らしく生きているのだろうか。このような人生について真剣に悩むことこそが、より良い生、人生の質を決めるのです。

 さて確かに、今申しましたように、人間に悩みはつきものです。ですから、誰だって、悩む、悩めると考えがちです。しかし、案外、そうではないのです。実は、私たちは、悩むべき、考えるべきもっとも大切な事柄に対して、それをじっと考え、深く悩み、目をこらして見つめることができていないのではないでしょうか。
 このことは、わたしたち一個人としてだけでなく、日本という国においても、深刻な問題になっているはずです。たとえば、日本の国は、かつての侵略戦争の罪責を悩み、見つめることができていません。それがどれほどわたしたちの国だけではなく、世界にとっても、危険なことであるかを思います。

 皆さん一人ひとりのことも例外ではないと思います。たとえば、かつて、犯した失敗、過ちを考えます。それが今なお生々しいものであれば、悩まざるを得ないはずです。ところが、そこで深く悩むのではなく、なんとか忘れてしまおうと、言わば、悩みから逃避することを企て続ける人もいるかもしれません。そこでこのようなことに気づくことができるのではないでしょうか。悩むということは、どれほどの力、エネルギーが必要かということです。

 今朝の御言葉は、聖書の中でも、もっとも鋭く人間の罪の問題をえぐりだしている箇所として有名です。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」これは、人間存在のどん底から発せられたうめき声です。
 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙のこの箇所で、他の誰のことでなく、自分自身がどれほど、神の律法、掟に背いて生きているのか、その悲惨な現実に決して目を背けません。これまで、言わば人間一般の罪について細かに語ってきたパウロは、ここで、それは、自分を棚に上げて言っているのではないのだと言うわけです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」ここではわたしたちではなく、このわたしは、と告白しているのです。彼は、他の箇所(一テモテ1:15)で、自分がどれほど罪深い人間であるのかを説明して「罪人のなかで最たる者」とすら言いました。しかも自分が罪人であるということは、「死に定められたこの体」つまり、神の裁き、怒り、刑罰を受けて当然の人間であるということを自覚して言っているのです。実に、恐ろしいまでの自己理解。自己認識です。それほどまでに、自分の姿を見つめているから、「わたしは悲惨です。惨めです」と、誰はばからず、嘆くのです。

 このような使徒パウロの言葉を読むとき、ショックを受けないでしょうか。キリスト教の歴史上最大の伝道者、神学者と称されるパウロが、自分をこう見ているのです。ところが、もしかすると、私たちは、自分のことをそれほどまでに罪深い人間とも考えず、認めず、それだけに、嘆いてもいないのではないでしょうか。あるいは、こう考えてみてください。もしも、自分がそれほど悲惨な人間であることが分かったのなら、このパウロのように、その事実に真正面から向き合い、悩めるでしょうか。
 何故、使徒パウロは、悩みから逃げないで、悩み、嘆けるのでしょうか。ここに、今朝、わたしたちに神さまからの問いかけがあります。お招きがあります。

 わたしはこれまでもしたことがありませんし、これからもしたくない遊びに、バンジージャンプというものがあります。ところが、これを楽しいと感じる方もおられるわけです。それならどうして楽しいのでしょうか。それは間違いなく、橋の上で、その人の体に、ゴムのロープがしっかりと装着されているからだと思います。だから、飛び込めるのです。谷底をまっさかさまに落ちて行けるのです。

 使徒パウロが、自分のあるがままの姿、罪深い姿、神の裁きを受けても弁解、文句の言えない惨めな自分の姿をどうして、素直に正直に見つめ、悩むことができるのか。それには、はっきりとした理由があるのです。それは、橋の上からではなく天から、生ける神がその力強い手をしっかりと差し伸べていてくださり、しっかりと捕らえていてくださるからです。使徒パウロはこの神の御業を信じているからです。

 私たちも、自分を偽らず、自分の惨めさ、罪に素直に向き合い、正直に悩み、深く嘆くことができるためには、天からの命綱にしっかりと結び合わされているかどうかが鍵になるのです。天からの命綱、それは、天から地上に来られた主イエス・キリストのことです。
 そしてこの命綱は、あなたにも届いているのです。何故、命綱なのでしょうか。それは、主イエス・キリストがあなたのために、十字架について、あなたの罪や過ちをすでに完全に赦していてくださるからです。主イエスは、死人の中からおよみがえりくださって、信じる私どもに永遠の命を約束しておられるからです。この救いの中で、私たちは、悩む力を与えられるのです。救われるということは、悩みがなくなることではありません。むしろ、主イエス・キリストによって、悩まなければならない悩みを真実に悩めるようになることです。
今朝、礼拝を捧げたお一人ひとりの上に、天からの命綱が下ろされています。どうぞ、この命綱にくくりつけられてください。主イエスを信じることです。教会、とりわけ日曜日の礼拝式こそ、この命綱に結ばれる場所、ときです。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神。どうぞ、私たちが、主イエス・キリストの救いのなかで、自分の罪深さを見つめ、自分の悲惨さに悩むことができますように。そしてそこで同時に、自分が赦され、救われている事実にこそ気づき、その幸いと感謝に溢れることができますように。悩みに圧倒的に勝利して、立ち上がる力を豊かに与えて下さいますように。
                       アーメン。