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「命、平和、喜び-聖霊なる神の下に-」11月5日

「命、平和、喜び-聖霊なる神の下に-」
2006年11月5日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章1節~9節③

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。  」

 「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」今朝も、使徒パウロを通して、神が私どもに宣言してくださる御言葉、人間が聴くことが許される究極の言葉、至福の宣言を聴くことができました。それは、まさに最高裁判所、神の法廷において下される罪の赦しの宣言、無罪放免の宣言であります。この決定的な、最後の、究極の判決を下していただきました私どもキリスト者とは、なんという幸いな人間なのであろうかと、つくづく思います。心から主の御名を皆様とあがめ、感謝いたします。

 しかも今朝は、この宣言の後にもなお続く、神の救いの宣言、祝福の宣言を聴き続けることができました。先週、中日ドラゴンズの優勝パレードが名駅であり、30分間なされたそうです。沿道から、「おめでとう」の声が選手たちに届いたことでしょう。実にはれがましい行進であったかと思います。しかし、彼らに比べられないほどの祝福を今、私どもはここで、受けています。まるで私どもは、祝賀のお祭りの主人公になったようです。この手紙を読み勧める歩みの中で、今や、あふれるように、次々と、至福の言葉、究極の神の言葉がシャワーのように、洪水のように浴びせられる、それが、ローマの信徒への手紙第8章、今朝与えられているテキストであると思います。おめでとうの祝福の言葉が、横から聞こえてきているのではなく、天から聴こえてくるのです。しかも、丁寧に申しますと、やはり横からです。使徒パウロという同じ人間を通して、この信仰の旅路を一歩一歩歩む私どもに、聴こえてくるのです。今朝も、同じ人間、牧師であるキリスト者から、皆様にこの祝福を告げることができることは、まさに、説教者であるわたしの特権であると思います。

 9節、「神の霊があなたがたに宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。」
 10節、「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。」
11節、「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

 これらは、すべて私どもが受けている完全な救い、揺ぎ無い救いの事実を確定する宣言です。このような神の言葉がシャワーのように降り注がれて、天国を目指して歩む私どもは、繰り返しますが、なんと幸せな人間なのだろうかと思うのです。

 さて、このように神の御言葉をローマの信徒たちに告げる使徒パウロは、しかし同時に、これは、既に第7章で学びましたが、改めて思い起こしたいと思います。第7章24節でこう記していました。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」悩みの深遠、断崖絶壁から自分の恐るべき現実と将来を覗き込んで、呻き、嘆いたのです。この呻き、嘆きこそは、おそらく全聖書の中でもっとも深刻、深みのある恐るべき恐怖です。不安です。そうであれば、人間の歴史のなかで、おびただしい文書の中で、最大の人間の嘆き、おののきの叫びであると言っても言い過ぎではないと思います。まさに、おそるべき自己理解です。それが、「死に定められたこの体」です。「この体」とは、単に、肉体という意味ではありません。

実は、肉体というギリシャ語はソーマと申します。これは、わたしの名前と同じ発音ですから、忘れがたいギリシャ語です。使徒パウロは、ここで死のソーマと言っているのです。ここでの死とは、肉体上の死を意味しているのではありません。肉体上の死の恐怖であれば、その死を従容として、受け入れ、宗教家として死んだ人々は数えられないほどいるでしょう。また、宗教家でなくても、死を恐れないで死へと向かって行った人々もまた、数え切れないほどいたはずです。

しかし、使徒パウロがここで見ている死、死の体とは、言わば本物の死のことです。本物の死とは、肉体上の死のことだけではなく、神とのかかわりの結果もたらされるものとしての死のことなのです。神とのかかわり、神様との関係のことで、神さまとの関係がないということです。神との交わりがないのです。つながっていないのです。つながっていないということは、神さまを軽んじ、神さまの前で反抗し、敵対し、神を攻撃し、神をのろい、神を踏みにじっているということです。そしてそのような人間の状況こそ、死なのです。神の怒りとのろいを受けていること、それを永遠の受けること、それが死であり、その死が、自分という存在の丸ごと、体ごと、覆いつくされている、飲み込まれているのです。それが、「死の体」という意味なのです。

しかもパウロは、そのことを、誰かを徹底的に批判し、攻撃する言葉として語ったのではありません。他の誰のことでなく、自分のこととして語ったのです。ですから、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」という嘆きは、まさに救いようのない嘆き、戦慄すべき恐怖の自己認識です。自己理解です。

そのように嘆いた使徒パウロは、しかし直ちに、「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝いたします。」勝利の雄叫びを挙げます。その通りなのです。イエスさまのおかげで、救っていただけたのですから、神に感謝できるのです。しかし、おかしな言い方ですが、それでやめておけばよいのに、パウロ先生は、すぐにこのように記すのです。「肉では罪の法則に仕えているのです。」こうなりますと、ほとんどの方は、頭が混乱します。パウロ自身が混乱して、自分が何を言っているのか、何がなんだか分からなくなっているのではないかとすら思えてしまうほどです。いったいパウロは救われているのか、救われていないのか。悲しみうめいているのか、喜び、感謝にあふれているのか。敗北感に襲われているのか、はたまた勝利の力にあふれているのか。いったいどっちなのか、分からなくなるのです。

私どもは、これまでの説教においてすでに決着をつけました。学んだのです。しかし、この第8章においてこそ、パウロ自身がその決着をつけるのです。パウロ自身がそのためにこそ、この第8章を書き進めているわけです。

 さて、この箇所を読んで、ある意味で、耳障りになるくらいに繰り返される言葉があるかと思います。肉、肉、肉と何度も出てまいります。今、三度申しましたが、ここでは、13回も記されているのです。先ほど、体、肉体のことをソーマというのだと申しました。ここでの肉とは、ギリシャ語では、サルクスと申します。ここではサルクスが繰り返されます。
 パウロは、7章の最後のところで、「肉では罪の法則に仕えている」と申します。偽らざる真実の姿なのです。しかし、少なくない方が、「そんなことを言ったら、イエスさまの救いにあずかっていないのではないか、そんなことを言ったら、キリスト教信仰なんていうものは、本物ではなく、あやふやなものではないか、中途半端で、いいかげんなものではないか」と、誤解を招くのも当然かもしれません。あるいは、もっとひどいことには、ある方は、「なんだ結局、地上にある限りは、心ではイエスさまを信じているけれど、自分の肉体、自分の実生活は罪深い生活を送っても仕方がないのだ、パウロだってそうなんだから、わたしなどはもっとそうであっても仕方がないのだ」などという口実を与えてしまうかもしれません。

 おそらくパウロ自身、そのような誤解や、混乱をもってしまう読者が出る可能性を知っていたのだと思うのです。だからこそ、パウロは第8章に進むのです。いよいよ、ここでこそ、はっきりと決着をつけて、主イエス・キリストにある救いの確かさ、その徹底性、その完全性を証し始めるのです。

ここでの主題は、肉です。それなら、肉とは何でしょうか。それを明らかにするのは、6節です。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。」肉とは、死へと向かわせる力であると言ってもよいでしょう。しかもその死とは、単なる肉体の死ということではなく、神の刑罰としての永遠の死、滅びのことです。どうして永遠の死に定められるのかと申しますと、神に従わず、かえって反抗し、敵対するからです。つまり、肉とは罪の座、罪の場所、罪が働く拠点なのです。罪は、肉という場所、あるいは道具、あるいは器なしに、動けません。しかし、肉があれば、おそろしく動き始めるのです。そしてこの罪にがんじがらめになっている人間の存在を肉とパウロは呼ぶのです。ですから肉の思いは、神への反抗ですから、その結果、死、永遠の死へと誘い、そこへと閉じ込めるのです。

「肉に従って歩む者は肉に属することを考え」とあります。肉とは、神への反抗、敵対、神を信じない人間存在のことです。つまり罪にがんじがらめに縛られ、捕らえられてしまっている神なき人間の全体のことです。肉は、罪のうごめく場所、部分ですから、何をどうしても罪の奴隷になっているのです。これが、罪の法則の恐ろしさ、おそるべき強力なものなのです。罪とは、罪深い生き方とは、「ああそんなことをしたら人に迷惑をかける、人を悲しませる、愛の生き方にはならないからやめよう、神さまに申し訳ない、神さまを悲しませることになるから、やめよう」その程度の反省、悔いでは、克服できるものではありません。いへ、もうとことん、自分が今まででたらめな生き方をして、自分自身を不幸にし、自分を惨めにするだけではなく、周りの人々をも巻き込んで迷惑をかけるものなのだから、もう二度と、もう決して同じ過ちを繰り返さないと、どれほど深く決心し、どれほど深く悔いても、それくらいのことでは、解決にならないのです。克服できないのです。

ここで、そのような人間の罪とのかかわりにおいて真剣に解決を求めた宗教に、釈迦の説いた仏教があります。実に真剣でまじめな教えです。しかし、いくらすばらしい教えをといても人間の煩悩、人間のむさぼりの心を消滅させることはできません。肉体が消滅すれば、煩悩はなくなるかもしれませんが、それは、肉体の死を待つ以外にありません。どれほど、難行苦行してみても、果たして肉の思いを完全に取り払えるのでしょうか。

以前に、キリスト者の科学者の文章を読みました。細胞を研究しておられる学者のものです。詳しいことは忘れてしまったのですが、このようなことを書いておられました。
「人間の肉体の細胞の核となるDNAは、徹底的に生きようとする。徹底的に自分を残そうとする。言わば、自己防衛本能を持っている。相手を倒しても自分の存在を拡大しようとする。その意味では、人間の細胞、DNAは、徹底的に自己中心性を持っている。」なるほどと思いました。私どもの心は、徹底的に自己中心です。神や隣人をないがしろにして、自分を喜ばせ、楽しませ、先ず、自分の安定、先ず自分のことから考え始めます。それは、心の問題だけではなく、我々の肉体の細胞の次元から、DNAのレベルからしてそうなのでしょう。まさに人間の罪深さは、骨の髄までというか、細胞のDNAまで、自己中心なのです。そうなると肉体が消滅するまで、私どもは救われないことになってしまいます。

けれども、そのような私どもに向けて、神が宣言してくださるのです。この第8章では、至福の言葉が響き渡るのです。それが1節でした。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」

我々は、肉を持った人間です。それゆえに、現実的に罪を犯し、罪に留まろうとします。その我々人間を救うためには、神が肉を持ってくださる以外にないのです。肉をもってなお、罪を犯さないような人間が現れる以外にないのです。そして父なる神は、独り子に、御子に肉をまとわせ、肉をとらせこの地上に派遣なさいました。主イエスは、自ら肉を持つゆえの厳しい誘惑と試練に襲われ続けられました。そしてそのご生涯でただの一度も、その肉体で神の御前に罪を犯されなかったのです。常に神に服従し、常に聖霊なる神に従われて、命と平和の道を歩み続けられました。豊かで深い交わりのなかで、徹底して神の栄光と隣人の救いのために生き抜いてくださいました。そして、最後に、その肉体をもって十字架についてくださり、私どもの肉において犯した罪のすべてを取り除いてくださったのです。神は、まさに容赦なく、人間となられた御子イエスさまを処断されました。処罰されました。私どもの代わりに、私どもの代表となって、神の刑罰を受け、私どもの罪を償ってくださったのです。神の律法、神の聖なる厳かな要求を、イエスさまはその全生涯、そのお命をもって満たしてくださいました。ですから、イエスさまを信じている者、つまり、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがないのです。

ただし、実は、なお問題がくすぶっています。問題がくすぶる可能性が残っているのです。それは、この神の赦しの宣言を聴いても、現実のキリスト者、自分は肉を持っているという現実はどうなるのかということです。私どもは今、死の体をもってキリスト者として生きているわけです。つまり、それゆえに、私どもの信仰生活での失敗、信仰の弱さ、いへ、なお具体的な罪の行いから完全に解放されているわけではないのです。

それはどれほど、私どもキリスト者にとってつらい経験でしょうか。時には、自分の救いはなお中途半端ではないか。自分はなお、神さまを信じていないのではないか。自分は、キリスト者としてまったくだめであって、自分は、罪の赦しには完全にはあずかっていないのではないか。このような救いを疑う局面、信仰を疑うとき、神につぶやき、疑う局面をまったく知らない人は、おそらくおられないと思います。

しかし、そのようなキリスト者に、パウロは、追いかけてくるように告げます。なぜなら、そのような迷いのなかに留まり続けることは、神に喜ばれることはできず、その人自身がキリスト者としての使命に生きることを妨げることになるからです。
パウロは、決着をつけるのです。それがこの第8章です。9節を聴きましょう。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」使徒パウロは、私どもに挑戦します。鋭く問いかけます。ここでは、霊という言い方をやめます。ここでは、神の霊と言います。さらにもっと直接的に言います。キリストの霊です。聖霊は、父なる神の霊であり、キリストの霊なのです。しかもキリストの霊を持っていないものは、キリストに属していません。キリストに属するということは、つまり、キリスト者そのものをさす言葉です。

先週、エホバの証人のご婦人が、訪問されました。エホバの証人は、キリスト教ではありません。異端です。しかし、家々を回り歩きながら、ご自分たちのことをクリスチャンと自称するのです。それは、私どもから言えば、まったく容認しがたい、勝手な主張です。クリスチャンとは、キリストに属している人のことなのです。キリストに所属し、キリストのものなのです。神の霊を受け、キリストの霊を受けているのです。主イエスをキリスト、神の御子と信じないで、キリストの霊を受けることはできません。逆に申して、キリストの霊を受けている人は、神を父と呼ぶことができるのです。御子なる主イエス・キリストの霊を受けているから、神を父と呼べるのです。

そうであれば、私どもは、キリストに属しているのでしょうか。それとも属していないのでしょうか。答えは、実に明解ではないでしょうか。もし、キリストに属していないのであれば、この説教は分かりません。聖書の真理も分かりません。キリストへの愛と服従も分かりません。命と平和も分かりません。天のお父さまとお呼びし、祈ることもできません。

今、降誕祭を目指して洗礼入会の学びを進めている方々がおられます。長い人生のなかで、神を父とお呼びしているのです。天の父なる神様、天のお父さまとお呼びする祈りを聞きながら、ああ、この方には、神の霊が宿っていると思います。パウロは言うのです。神は、パウロを通して、読者に、私ども一人ひとりに宣言しておられるのです。この兄弟も、そして私どもは、今や、キリスト・イエスに結ばれている。信じて、キリスト・イエスの救いにあずかっている。それは、パウロはここではっきりと宣言しました。それは、神の霊の支配下に移し入れられたということなのだと。もとより、かつては肉の支配下におりましたから、自分を傷つけ、隣人を傷つけていました。しかし、主イエスさまの十字架のおかげで、イエスさまを信じさせていただいたおかげで、神は、ご自身のご支配の下に、私どもを引きずり入れてくださったのです。私どもが、自ら入ったということではないのです。ふさわしい表現ではないような気もするのですが、神が引きずり込まれたのです。言いたいことは、要するに、自分で、堂々と神さまの霊の支配の下に、選んで、進み入ったのではないということです。

そこでも、あの善きサマリア人のたとえの中に登場する強盗に襲われたて半殺しの状態にされて道端に倒れていた者を思い起こしてくださると良いと思います。主イエスが、父なる神が、肉の支配下のなか閉じ込められて、永遠の死を待つ以外になくなっていた私どもを、介抱し、ろばに乗せてくださって、救ってくださったのです。そのようにして、今や、私どもをご自身の霊の支配下においてくださったのです。引きずり込んでくださった、引き上げてくださったのです。自分で、キリストのもとに堂々と近づき、キリストのご支配のもとに入ったはずではないのです。キリストが憐れんで近づき、ご自身のご支配の下に招き入れてくださったのです。私どもはそれを感謝して、心から喜んで受け入れました。それが信仰です。主イエス・キリストを信じる信仰です。

そのとき、それは、私どもの強さとか弱さとかをまったく越えたことが起こってしまいました。それは、このお方のご支配のもとにあるということは、このお方が主であって、このお方の力が完全に及んでいるということです。そうであれば、もはや、肉によって生きていても、肉に従っていきてはいないのです。いへ、肉に従って生きれないのです。それを、認めることです。私どもキリスト者の地上の歩みは、もちろん、肉をもって生きていますので、戦いがあります。悩みがあります。時に、残念ながら、敗北を経験することもないわけではありません。しかし、騙されてはならないのです。私どもは、キリストに属している。キリストの霊を受けているのです。キリストの支配下から、もはや、出られないのです。私どもは望んで出ようとするなら、話は別かもしれません。しかし、私どもは、キリストのご支配を喜んでいるのではないですか。キリストの霊の支配に生きる喜びと命と平和を味わい始めているはずです。洗礼入会志願者の方もそうです。すでに洗礼の前に味わい始めています。ですから、もう、決して、肉の支配下では行きたくないと心から願っておられるのです。だから、洗礼を志願なさったのです。

すでにキリスト者とされている私どもも、同じです。いつまでもキリストと神と共に生きることを願っております。神の霊を受けているとはそのことです。キリストの霊を受けているとはまさにそのような人のことなのです。

今聖餐を祝います。もしもキリスト者であって、この聖餐への招きを、感謝していないのなら、もしも、この聖餐の食卓を自分には必要がないという方がおられるなら、あとで個人的にわたしと祈りましょう。しかし、もしも、この聖餐の礼典にあずかることを願っておられるなら、あなたは、この聖餐のパンとぶどうジュースによっても、この神の祝福の宣言を浴びることができます。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」「あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。」アーメン

祈祷
肉をもって生きている人間を救うために、御子を人間とならせ、十字架において罪を処断してくださいました御子の父なる御神、私どもに御子の霊を注いでくださいました天のお父さま。肉にあって生きる限りは、厳しい信仰の戦いを避けて通ることはできません。しかし、私どもは、今あらためてあなたのご支配の下に置かれていることを、あなたがはっきりとお教えくださいました。あなたの支配にまさる力、支配は地上にありません。いかに肉の力、罪の力が強大であっても、あなたに打ち勝つことはできません。どうぞ、この圧倒的な、この徹底した救いの恵みを心から感謝し、信頼し、今から後、いよいよ、あなたを中心にし、あなたに喜ばれる生活を作らせてくださいませ。そのためにも、あなたの霊を私どもに豊かに注いでください。そのためにも、今祝う、聖餐の礼典を祝福し、この目に見える祝福を体ごと味合わせてください。アーメン。