過去の投稿2006年11月23日

11月19日

★  これを記しているのは、16日の午前です。15日(水)の朝、夕の祈祷会は、先週お知らせしたとおり、教育基本法改正案が国会で審議未了廃案少なくとも継続審議になるようにと祈りました。しかし、夜の祈祷会を終えて、ネットで委員会において与党の単独採決で可決したことが報じられていました。「礼拝指針」第12章は、「断食の日と感謝の日」について記されています。「第70条(断食の日)断食の日には、この日を守ることを必要とした事柄について、普段よりもいっそう強くおごそかな祈り、あるいは罪のざんげをなすべきである。」私どもは一度も、このような断食の日を守ったことがありません。しかし、もしも、教育基本法改正が参議院を通過したなら、少なくとも名古屋岩の上伝道所として、断食の日を設けることも考慮せざるを得ないのではないかと思います。戦後の「新しい日本」が、終焉することを意味すると考えるからです。

☆  教育基本法 前文  「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」

★  教育基本法は、教育の憲法です。日本国憲法とセットになって、憲法を守り、生きる民を育成するために教育が機能すべきことを定めているのです。現行憲法も教育基本法も、「政府の過ち」によって二度と戦禍を招かないようにするための、国家為政者を「しばる」ための基本法です。ところが、自民党の改憲案も、今回の基本法改正案も、まったく逆の法律となっています。つまり、国家が、国民を「しばる」のです。これは革命的な転換を意味します。この恐ろしい逆転を、安倍首相は、なんとしても確定し、余裕をもって、その最後の砦の日本国憲法を改悪、「改変」しようとするのです。

★  ときあたかも、日本の教育問題として、「いじめ」問題が深刻な社会問題化されています。この教育基本法改悪は、国家による国民への「いじめ」の構造です。改悪案は、「国を愛し、伝統文化を尊重する態度の涵養」をうたいます。恐ろしいことは、「態度」というふるまいを強制しかねないことです。日の丸への敬礼なり、君が代を歌うことへの強制が、この法律によって強制力を持つことが十分予見されます。そうなれば、明らかに、「キリスト者」(キリスト者といえどもいろいろです。日本キリスト改革派教会は教育基本法改正反対を声明し、中部中会は、憲法9条20条を守ることを教会の立場と決議しています。この時代に、立場を表明しないことは、現状を肯定していることを意味します。キリスト教会の対応を、心ある者は見ているでしょう。「山の上にある町は隠れることができない」のです。)は、法律とぶつかります。つまり、迫害下の状況に立ち至ったことを意味するのです。先日の中部中会の集会で、美濃ミッションの講師は「カナリアのたとえ」を紹介されました。もともとは、大江健三郎氏のたとえですが、カナリアは毒ガス検地のために使われます。それは、カナリアがもっとも毒に弱い(敏感)だからです。文学者もまた、社会のカナリアとして生きなければということです。そうであれば、キリスト者こそです。神は、キリスト者をもっとも「弱い者」とされているのではないでしょうか。そして、この世界の弱さの先端、底において、「神の顧み」を証するのです。今こそ、そのときを迎えようとしています。

☆  本日は、○○委員の奨励です。主の日の礼拝式を司ることも大きな奉仕ですが、御言葉の「奨励」は、第一の聴衆は神に他なりませんから、神の御前で語る緊張を味わわれることでしょう。しかしまた教会員を代表して、神の御前で、私どもの信仰の告白として語るのです。会員に、祈られています。

★  わたしは、広島です。土曜日から伺います。条件が許されれば、広島原爆ドーム、記念館に立ち寄りたいと考えます。小学生のとき、ドームに参りました。わたしの「戦争」に対する姿勢をつくる、原体験のような場所です。「単立教会から何故、日本キリスト改革派教会に加入したのか」というまことに実存的な主題で語るように求められています。私どもの教会の存在が、中会形成に役立ち、また、広島にまでもよい影響を及ぼすことができれば望外の喜びです。月曜日は朝一番で、大学。午後から東京・新宿です。「説教シンポジウム」出席のためです。まるで国際学会のような趣で、海外からの研究者の講演を聴きます。主題は、「教会形成としての説教」これこそ、まさに私、私どもが目指した説教であり、その理解なのですが・・・。