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「神の相続人の幸い」

2006年12月3日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章12節~17節②

「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」

 先週に引き続いて、同じ箇所から御言葉を学んで、神を礼拝します。初めの12節には「それで」とあります。という結論へと導く言葉は極めて重要です。これまでも、使徒パウロは徹底した人であり、神の救いの御業を中途半端ではなく、まさに徹底的に、水も漏らさない丁寧さで、順々に語ってきたのです。その折々に、「それゆえに」「こういうわけで」「それで」という言葉が重ねられてまいりました。しかし、この12節の「それで」は、いわばこれまでの総決算をする導入のことばです。頂点へと至らせる「それで」、なのです。これまでの議論を一言で申しますと、救いについてでした。神の救いの御業、つまり神が、私どもの救いのために何をしてくださったのかが徹底して明らかにされてきたのです。つまり、救いとはいかなるものなのか、救いとは何かが議論の核心でした。
 
 わたしどもがつくりました「子どもカテキズム」の問い31は、「救いとは何ですか」とあります。そうであれば、このローマの信徒への手紙の頂点を問う問いであるといっても良いかもしれません。答えはこうです。「神さまの子どもとされることです。」神の子とされることこそが、救いなのです。私どもの周りで、「救い」「救われる」という言葉が用いられるとき、このような答えを読めば、きょとんとされるかもしれません。救いとは、何か困っていること、苦しんでいることからの解放をイメージするからです。苦しみや悩みが解決しなければ、救われたことにならないわけです。ところが、聖書は、救いとは、神の子とされることだと告げるのです。カテキズムはこう続きます。「そのために、神さまはわたしたちの罪を赦して義と認めてくださいました。ですから私たちは、喜びと感謝を込めて、『わたしたちの父なる神さま、わたしの天のお父さま』とお呼びします。」とあります。

 このカテキズムは、まさにローマの信徒への手紙に基づいているといってよいでしょう。使徒パウロはここで、私どもの救いの頂点として、何を告げるのかと申しますと、それこそが、「『アッバ、父よ』と呼ぶ」ことであると言うのです。ここで、「アッバ、父よ」と「呼ぶ」と訳されていますが、もともとは「わめく」「大声で叫ぶ」です。小さな声で、神を私のお父さまとお呼びするだけではないのです。大声で呼べるのです。言いたいことはつまり、誰はばからず、公に呼べるということです。そもそも、信仰は私的なものではありません。公的なものです。キリスト者は、公的です。そもそもキリスト者には、公私の区別などないのです。

先週の洗礼入会志願者との学び会で、「公的な存在」という言葉が用いられるテキストを読みました。「あなたは、いよいよ岩の上教会の教会員となる、それは、公的な存在となることなのです」と申しました。この世にあっては、教会を代表するからです。洗礼を受ければ、この世にあっては、ついに、キリスト者として伝道する資格が与えられたということを意味するのです。キリストを伝道する公的な資格は、洗礼によって付与されるのです。

わたしは、かつて洗礼を受ける前から、伝道していました。大学2年生の9月に救いの恵みにあずかって、すぐに、学内での証を始めました。洗礼を受けたのはその年の12月です。証を初めて、あるときその友人に、「君は、洗礼を受けたのか。洗礼名は何?」とたずねられました。「いやいや、洗礼名などはない教会だし、洗礼は受けていないんだ。」すると、友人は、「なんだ、自分が洗礼を受けていないのに、なぜ、人に勧めるのか」と言いました。返すことばがありませんでした。そもそもわたしは、無教会というまったく新しいあり方のキリスト教をの共同体を提唱した内村鑑三というすぐれた信仰の先生の書物を読むことによって求道を始めたのです。内村は、洗礼は必要ではないと言った人でした。わたしも、イエスさまを信じていれば、何も形式的に洗礼を受けなくてもキリスト者であることができる、などという自分勝手な議論のままでいたのです。しかし、そう言われて、これはおかしい決断、よい例ではありませんが、「ああ、洗礼を受けなければならない」と初めて思ったのでした。洗礼によって、自分がキリストにあるものとしての公的な存在であることが証明されることを思いました。洗礼を受けなければ、人に伝道できない、認めてもらえないと思ったのです。これは、確かに聖書の御言葉に裏打ちされての洗礼志願ではありませんでしたから、問題であったかもしれません。しかし、洗礼がキリスト者として神に公に受け入れられ、教会に入会することが許されるということはまさに聖書の教えです。

公的ということは、また、ひっそりと、陰に隠れて、いわば小声で、神さまを「お父さん」「天のお父さま」と呼ぶあり方とは異なります。もちろん、小さな声で、天のお父さまと呼ぶことは、宜しくないということではもちろんありません。しかし、ここで使徒パウロは、「大声で叫ぶ」とこだわるのです。それは、自分だけでこっそりと自分が神の子であると誇るのではなく、すべての人の前で、公然と、自分が神の子であると認められ、誇れるということ、それが、神の霊に導かれていることだといいたいのです。

 「アッバ」はヘブライ語であって、赤ちゃんの言葉であると先週、学びました。赤ちゃんが最初に音声を出すことばがお父さんです。「父君、父上」ではなく、「お父さん、お父ちゃん、パパ」です。愛と信頼、親しみを込めているのです。しかもアッバのあとの父は、ギリシャ語です。当時の世界語です。つまり、ここでパウロは、ヘブライ語とギリシャ語で神を父と呼んでみせたのです。そのことを16世紀の教会改革者のカルバンは注目しました。アウグスチヌスという人の言葉を紹介し、「今日、神の憐れみが全地に公布されたので、神はすべての国語によって、差別なしにたたえられたもう」と言いました。
 また叫ぶということは、疑いをもってではなく、大胆に、おそれなく、はっきりした声を天にあげるとも言います。

 さて、パウロはここで15節で、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく」と言います。これは、分かったようで分かりにくい御言葉かと思います。これは、神の霊に反抗する霊、つまり悪霊のことを言っているのでしょうか。そうではありません。それなら、奴隷の霊というのは、どういうことなのでしょうか。それは、これまでのパウロの手紙の議論から言えば、神の律法のことです。旧約聖書において証され、啓示された神の律法は、神の人間に対する正しいあり方、正しい生き方、正しい生活の道をはっきりと示しています。もちろん、この律法を条件にして、つまり神の言葉を守るから救われる、守れるものだけが救われるということが言われているのではありません。旧約聖書も新約聖書も、一人の神の御心が示された神の御言葉です。恵みによって救われるという神の御業にいささかの変更はないのです。しかし、旧約聖書には、そのことがはっきり示されているでしょうか。残念ながらそうではありません。しかも、この旧約聖書の律法は、神の民イスラエルに向けて語られています。そうです。ここにいるわたしども異邦人には直接語りかけられておりません。しかし、今や、新しい時代が始まりました。新約の時代が始まりました。主イエス・キリストが人間となって来てくださったのです。クリスマスは起こったのです。

 旧約聖書の時代にも、もちろん神の霊のお働きがありました。しかし、パウロは、今ここで、主イエス・キリストによって新しくされた時代のすばらしさを対比させるのです。そのようにしてはっきりと今、私どもに与えられている恵みを浮き彫りにして見せるのです。

 奴隷の霊というのは何を言いたいのでしょうか。当時、ローマの信徒への手紙の読者、ローマ教会にも何人もの奴隷がいたと思います。すぐれた奴隷であればあるほど、主人は自分の仕事を任せます。財産管理を任される奴隷もいました。管理と運用です。その意味で奴隷と一言でいってもずいぶん差があるのです。しかし、どんなにすぐれた奴隷であっても、どうすることもできないことは、そこには、失敗したら厳しい処分を受けるという恐れであったはずです。きちんと管理する、一円の違いもなく、お金を合わせる、合わなかったら大変なことです。あるいは、大きな信用を受けて、資産運用を任せられたら、どれだけ誇らしい思いをもったかと思います。しかし、同時に、もしもとりかえしのつかない損害をもたらしたら、その誇りは一気に奪い取られてしまうでしょう。そこには、絶えず恐れがあったはずです。
パウロは、主イエス・キリストによってもたらされた恵みの時代は、もはやそのようなものではないのだと言いたいのです。奴隷ではなく子どもです。「子どもとする霊」なのです。「アッバ」と叫べるのです。

 そこでパウロは、言います。奴隷であれば、たとえどれほどすぐれた能力のある奴隷であっても、主人の財産を管理、運用まではできますが、それを自分のものとすることはできません。つまり相続できません。パウロは、今ここでいかにも人間的な、地上的な例を挙げて読者を説得し、イメージを喚び覚ますのです。遺産相続という言葉があります。親が亡くなれば、その遺産を遺族は相続します。今も昔もかわりありません。莫大な資産を残されたのであれば、相続というのは特別の響きをたてる言葉でしょう。しかし、大したものでなければ、どういうこともなく、聞き流すかもしれません。パウロは、極めて実際的、現実的なことを語ります。わたしなどはいささか躊躇するようなことです。彼は、遺産相続のことを考えて御覧なさいと勧めるのです。

 神の相続人。パウロは、読者にはっきりとしたイメージを与えます。遺産相続であるが、それは神の遺産なのです。そのようにして、パウロは私どものまなざしを地上から天へと引き上げるのです。
いったい、どれだけ財産をもっていると誇ってみても、神の財産を持っている人は一人もおりません。神の宝に比べられるような宝を持っている人はおりません。パウロは、フィリピの信徒への手紙第4章で、こう言いました。「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」「栄光の富」と言います。神の相続人。それは、この神の栄光の富を受け継ぐのです。

ところがある人は、もしかするとこのようなイメージを持つかもしれません。「現在、統計上は、何十億人もキリスト者がいるらしい。それなら、神の富もまた、何十億分の一になっているではないか。結局は、自分の相続分は少ないのではないか。」もしもそのように考えるなら、それこそ、地上のイメージそのままです。栄光の富とは、神の富です。つまり無尽蔵の富、無限の富なのです。

何よりも自分の分だなどと、目の色を変えて主張することじたいがおかしいのです。これは、みんなで受けるものだからです。もはや、それはちぎりとるようなことはできません。一つの無尽蔵の富、神ご自身です。神の国を与えられるのです。この国がわたしのものであり、私どものものなのです。そこに、わたしども、名古屋岩の上伝道所の会員が入るのです。自分だけ入りたいなどと思う人は一人もいません。神の子の特徴は、そこにもあります。皆で入りたいと願うのです。一人でも多くの人と入りたいと願うのです。

この国の主人は、主キリストです。神の国はまたキリストの王国なのです。キリストが王の王、主の主、ほふられた子羊がこの国の主なのです。しかもその神の国は、実に、わたしの国になるのです。あなたの国になるのです。これ以上、いったい何を神に求めることができるでしょうか。求めるべきでしょうか。

 主イエスは心を込めて語り続けられました。「神の国とその義を第一に求めなさい。」「神の国は、近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」主イエスが語られたのは、神の国の福音なのです。そして今使徒パウロは、心を込めて、喜びにあふれて言うのです。「わたしたちは神の相続人。」「あなたは神の相続人。」「わたしたちは神の国に入れる、あなたは神の国を相続できる。キリストとともに住む、神の国はあなたがたのものなのだ。」

 主イエスは、「神の国とその義を第一に求めなさい」とお命じになられた後に、「これらのものはみな加えて与えられる。」と仰せになられました。「これらのもの」とは、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかということ、つまり、地上での生活必需品のことです。

しかし、決してこの順序を逆にしてはならないのです。私どもの生活必需品もまた、神から与えられるのだと、私どもがそう信じるとき、実は、わたしどももまた、あの使徒パウロがそうであったように、富を持って生きる道も貧しさに耐える道もわきまえて自由に生きることができるようになるのです。そうでなければ、もしも富を持てば、それを自分のためだけに殖やして行くのです。そのようにして結局ますます、自分の奴隷になります。お金の奴隷になるのです。また、もしも貧しくなってしまえば、僻んで生きるようになるでしょう。そして、また逆に富に、お金に執着するしかなくなるのではないでしょうか。しかし、これらのものが神から与えられると信じるなら、すべてを感謝できるようになるでしょう。しかし、そのために、主イエスは、「まず」と仰せになられます。「第一に」と仰せになられます。神の国を求めることこそ、最初なのです。すべての根本なのです。これが前提です。神の国を相続できる人間だけが、地上でどんな境遇にあっても、したたかに生きることができるようになるのです。

 実に、神の国は、あなたのものです。そうであれば、どうしてこの世の国の価値観にとらわれて生きていてよいでしょうか。地上のいかなる栄華も成功も、出世も楽しみも、私どもにとってはどんどん小さなものになってしまうのではないでしょうか。これは、やせがまんではありません。無理をしているのではありません。神の国を相続できる立場にいる者の、まことの勝利からそう思うのです。しかも、この相続は、死んでから、死んだ後にやっと自分のものになるような相続ではないのです。地上の相続とはここでもまた違います。私どもは今、「アッバ、父よ」と叫べる霊、神の霊を受けているのです。この立場に移されているのです。私どもは、すでに、この相続を受け始めているのです。だから、手ごたえがあるのです。この手ごたえが、私たちの霊と一緒になって証する神の霊なのです。

 どうぞ、私どもに天が開かれ、上から与えられる栄光の富、神の国から目を離さないで下さい。この天が開かれないキリスト者ほど、惨めなものはありません。いへ、キリスト者として、神の子として生きることはできません。どうぞ、神を見ましょう。上から注がれる霊、アッバ。父よ。と呼ばせていただける上からの霊、神のみ子の霊を求めましょう。上を見ましょう。

 さて、最後に、パウロは、神の国を求める者、また神の相続人が必ず受ける道をもあわせて語ります。それは、「キリストとともに苦しむ」ということです。そのことを語らないでは、やはり終われないのです。神の相続人。それは、地上にあっては一つのはっきりしたしるしを帯びます。神の国を第一に求める人には、この苦難がくっついてまわります。これは、おもいがけないことではないのです。たとえば、先週は洗礼入会志願者の方々との合同の学びのときを持ちました。キリスト者として、いよいよ、公的な存在となるのですが、主イエスを信じたら、神の相続人であって、神の子なのですから、すべてが祈り願うとおりに進むのか、そうではありません。むしろ、特に日本人としてキリスト者になるのであれば、いちいち数えなくとも、大きな風圧を受けるのです。洗礼を受けて、自分の思うように行かなくなって、教会から離れ、信仰から離れるということが残念ですが、ないわけではありません。

ヘブライ人の手紙第12章には、こうあります。「おびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。~あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはならない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。模試誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。」
 
 神の御子は苦難を受けられました。この苦難は、決して私どもが受けることもできない苦難です。想像を越えた苦難です。計り知れません。つまり、御子の苦難の極致は十字架の死、神の裁き、神の怒りとしての十字架の死なのですから、私どもがほんのわずかでも、代わることなど、ありえません。まったく考えもできないことです。それなら、「キリストと共に苦しむ」とは何でしょうか。キリストがなお苦しんでおられることがあるということでしょう。それは、この世界がなお、完成されていない世界であって、罪と死の法則のなかで、神に敵対し、反抗し、神のご支配を受け入れない世界があるからです。戦争があり、貧困があり、不正があり、弱いものいじめがあり、憎しみと敵意、殺意に燃え上がるこの世界を主イエス・キリストがどれほど痛み、苦しんでおられるかを思います。
神の子が今生きるのは、天国ではありません。この闇の世界です。そうであれば、この地上で、神の子が安住することはできるはずがありません。これは、極めて大切な大前提です。この地上で、もしも、神の子、キリスト者が苦しみなく生きれると思うなら、それは、神の子であることを自問すべきかもしれません。「イエスさまを信じて、悩みや苦しみは何もなくなりました。」そうではありません。確かに、これまでの悩みや苦しみは、克服できます。それは、どれほど感謝しても仕切れません。しかし、新しい悩みと苦しみを知るのです。キリストの苦しみに連なるのです。愛の苦しみです。神の愛がこの地上においてなお、戦いのなかにあるということです。この愛に気づかず、無視し、自己中心の罪の道を進み行く方々のなかで、伝道し、証することは、愛の戦いであり、苦難です。しかし、神の子は、すでにこの苦しみを知っているのです。洗礼入会志願者は、いよいよ、遂に、この苦しみのなかへと招かれようとするのです。

 しかし、それはもはやくどいかもしれませんが、苦しむから、神の相続人になれるのではないのです。キリストと共同の相続人になるために苦しみも耐えるというのではありません。神の相続人だから、天国の富、栄光の富、天国の相続人、神の子だから、地上にあって、苦しむのです。そして、不思議に、この苦難、苦しみが私どもに、勝利を与えます。私たちの霊と一緒になって神の霊が、あなたは神の子、わたしは神の子と自覚させてくださるからです。苦しみが、私どもの神の子であることの証拠、確信を与えるのです。
 
 キリスト者である私どもは既に知っているはずです。キリスト者にならなければ知らなかった悲しみや苦しみがあるということをです。自分の愛する人、かけがえのない人が、主イエスを信じない、その苦しみもまた、キリストと共に苦しむことでなくてなんでしょう。既に洗礼を受けている方々はこの苦しみを知っています。みんな知っています。しかし、まさに皆で、この苦しみも相続するのです。ですから、そのような教会は、かならず慰めの共同体になります。慰めなしに生きれない者たちの集いになります。キリストの苦しみを受け、それだけに、自分が弱い人間であることを知っている、いへ、弱くされたのです。キリストのゆえに弱くされたのです。これまで何気なくしていたことも、できなくなる場合も出てまいります。良心が痛み始めるからです。主の愛を知らなければ、もっと強かったはずです。しかし、今は、そうではないのです。しかし、私どもは、知っています。この弱さこそ、本物だということをです。この弱さこそ、強さなのです。キリストの慰めが、その力強い慰めが私どもを包み、立たせるからです。そこに、慰めの共同体が形成されます。わたしどもは、どれほどお互いを必要としているでしょうか。それは、慰めを必要としているということです。そのような交わりが、神の相続人なのです。そこで、既にキリストの栄光を受けることができるからです。私どもに、神の栄光はすでに照らされています。私どもは、地上にあっても必ず勝利します。神の相続人だからです。この地上もまた、私どもの父なる神の支配する国に他ならないからです。私どもは神の子です。神の相続人です。

 そしてたった今、この相続人であるということの客観的な、目に見える保証を主イエスは備えてくださいました。なんとありがたいことでしょうか。それこそが、聖餐の食卓なのであります。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに私どもの天のお父さま。そのようにあなたをお呼びするだけで、もうすべてのものを得ている思いがいたします。あなたの恵みは私どもにあふれています。心から感謝申し上げます。しかしなお、あなたを天のお父さまと呼ぶ者が少ないのです。私どもの身近な、愛する者の中に、神の子、神の相続人となっている者が少ないのです。どうぞ、私どもを用いてください。私どもの証によって、この救いの恵みのなかに一人でも多くの人を、私どもの教会に、神の国に招きいれることができますように。アーメン