「神の将来を見よ!」
2006年12月10日
説教原稿朗読によっての主日礼拝式のために
聖書朗読 ヨハネによる福音書 第9章1-12節
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。」
本日、わたくしは代理宣教教師を勤めている浜松伝道所に参ります。愛する名古屋岩の上伝道所の兄弟姉妹と離れることは寂しいことでありますが、実は、この説教は、浜松でも行います。もとより、説教とは特定の教会、つまり特定の教会のためになされるものです。その意味では、浜松での説教と、名古屋岩の上伝道所でのこの説教とは、異なったものとなるはずです。まったく同じ原稿を読んで浜松での説教を担うことはできません。しかし同時に、説教はどこの教会のどの会衆にも通じるものでなければなりません。名古屋岩の上伝道所でだけ通用するようなものではないのです。なぜなら説教は、聖書の御言葉、神の御言葉を今ここで語るもの、告げるものだからです。普遍的な真理の言葉なのです。
私ども改革教会では、このような言葉が言い継がれてまいりました。「教会とは説教によって立ちもし倒れもする」私どもの教会は、徹底して聖書に立つ教会を目指しているからです。神の言葉こそが、私どもの教会の生命なのです。
説教は、牧師がその務めを担います。一週間かけて準備をします。そして、ここで語ります。その意味では、説教は、牧師の務めであります。しかし、説教は同時に教会員みんなでつくるものでもあります。ここで礼拝説教をわたしが語るときには、皆さんは、徹底して聴くのです。聴くということも実は、説教の一つの形です。皆さんが説教を聴いて、それを信じることなしには、ここでの説教は、まことの説教になっていません。聴いて信じることなしには、説教はまだその目標を十分に達成できていないのです。そして私どもにとって信じるとは生きることです。生活することです。そしてまたそのように、聴くということは、理解する、信じるということが不可欠ですから、説教の言葉が理解されるということは、すでに、皆で説教を語っている、少なくとも生きていることになるのです。いよいよ、そのような教会を目指したいと願います。
さて、今朝、与えられた聖書の御言葉は、ヨハネによる福音書第12章であります。
主イエスは、いつものように伝道のために一生懸命働いておられます。ある日のこと、主イエスは、通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけられました。するとそばにいた弟子たちがこのような質問をしたのです。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、どうしてですか。いったい誰が罪を犯したからこんな目にあっているのですか。本人の罪のせいですか。それとも両親の罪のせいですか。」
どうしてこのような質問をするのでしょうか。しかも、主イエスの弟子たちがこのようなことを問うのです。これは、二重に驚きではないでしょうか。
実は、このような考えは、この物語に特別に出てきて、我々が知らない話ではないはずです。特に、日本では、今でも、いへ、むしろいよいよと言うべきでしょうが、あちらこちらでまことしやかになされています。占い師がおります。宗教家がおります。最近では、スピリチャル・カウンセラーなどというおかしな職業まで出てきました。そのような横文字を使っているとわからなくなりますが、つまり、昔からある、霊能力者のことに他なりません。霊媒師です。驚くべき書物が売られ、喜んで若い方々が読んでいるそうです。彼らは、その人の前世、つまり、今その人がここで生まれる前の人生のことですが、その前世を知ることによって、今の自分を知ることができるなどというのです。まったく何の根拠もないことです。占い師と基本的には変わりありませんし、新興宗教などの宗教家ともあまり変わらないのではないでしょうか。彼らは、「あなたが今、苦しいことや、つらいこと、不幸なことがあるのは、あなたに関わる誰かが悪いことをしたからその罰が当たっているのだ」などと言ってのけるのです。彼らは、まじめな顔をして、「あなたが今、不幸な目にあっているのは、あなたが生まれる前に、とても悪いことをしたからです。つまり前世の因縁があるのです。」と言います。インネンとは、今ここに生まれる前に生きていたときに犯した悪行のことで、それが、「たたっている」というのです。ですから、そのインネンを断ち切るために、あれをしなさい、これをしなさいなどと言います。言われた方は、すでに悩みや課題があって相談しに来て、話を聞こうとするわけですから、いとも簡単に、騙されます。そして、その人に言われるとおりにしたということで、一方でとても安心してしまうわけです。まったく、でたらめなことであります。ある人は、人間として生まれる前に、あなたは、犬だったとか、ゴキブリだったとか言うのです。
言うまでもありませんが、私どもの命は一度限りのものです。前世などは、ありません。聖書はそのようなことを記していません。今ここにいる、わたしという人間は、たった一度、この地上の人生を、言わば初めて生きているわけです。今日の一日は、我々にとって初めて経験する一日です。
今日、実は、小学生や中学生の子どもたちの半数以上が、人間は、一度死んでも、また生まれ変わってやり直せる、このように考えていると報告されています。実に2割の子どもたちが、人間は生き返る、あるいは生き返ることもあると信じていると報告されています。そして、さらに驚くべきことは、大学生の24パーセントが、人は死んでも生き返ることができると信じているというのです。これは、ある教授の今年のクラスのアンケート結果なのです。しかし、命はゲームのようにリセットボタンを押して、やり直すことはできません。何よりも、前の人生のたたりとかのろいだとか、前世の罪によって今の悪い、不幸な人生があるということもまったくの空想です。
昨日、一人の中学校2年生が、飛び降り自殺をしたとの報道がありました。手書きのメモにこう記されていたといいます。「絶対生まれ変わってやる。ほんとにごめん」彼がどんなに、願ってみても、生まれ変わることはできません。
二重の驚きと申しましたもう一つの驚きとは、このような類の発言を、イエスさまの弟子たちまでしているということです。これほどまでに、人間は、そのような不幸の原因を探すことが好きなのです。好きというより、そのようにしてでしか、今の自分を支えること、説明することができないと考えるからです。
ところが、聖書にはそのようなことは何一つ、記されていません。むしろ、まったくそうではないと、今朝、聖書を通して、イエスさまが宣言してくださいます。よく聴いてください。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」つまり、のろいとかたたりとかインネンとか、ぜんぶ偽りであるということです。そのようなことは、要するに過去のことであります。私どもは、過ぎ去った昔のことをひとつ一つ思い出して、あんなことをしてしまったから今の自分はもうだめだとか、あんな悪いことをしてしまったから、その責めを受けなくてはならない、もう、自分の未来は暗い、希望がないとか、もはや神さまに愛される資格がないとか、悪いことが起こっても仕方がないとか・・・、そんなことは考えなくて良いのです。いへ、考えてはならないと宣言してくださったのです。
それに続けて、このように宣言されました。「神の業がこの人に現れるためである。」神の業がこの人に現れるためである。いかがでしょうか。主がこのように仰せになられたとき、神の御業は現れたのでしょうか。そうではありません。彼は、盲人のままでした。しかし、主イエスは宣言してくださったのです。「神の業がこの人に現れる」
この約束、この確かなお約束は、弟子たちに、つまり私どもに何を求めるものなのでしょうか。主イエスは、こう宣言なさって、私どもに何を要求なさるのでしょうか。それは、一言で言えば、過去を振り返るな、過去をほじくりまわすな、ということです。私どもの顔を、私どもの視線を後ろにではなく、前へ、向かわせるのです。つまり、「これまで」のことに心を支配させてはならない、「これまで」のことではなく、「これから」のことに心を向けよという招き、要求なのです。
これから先の事ごと、それを日本語では二つの漢字で表すと思います。一つは、「未来」という言葉です。そしてもう一つは「将来」という言葉です。この未来という漢字は、「未だ来たらず」まだやって来ないと書きます。しかし、「将来」は、「将に来たらんとす」と書きます。いよいよ近づいてきているということです。英語では、フューチャーが未来ですが、将来は、イン・ザ・フューチャー、「未来の中に、しかし今ある」という感じでしょうか。「神の業がこの人に現れるためである」そうであれば、これは、未来ということが言われているのでしょうか。それとも将来でしょうか。
横道にそれますが、聖書における英語のフューチャー、「未来」は、正確に申しますと、それは、「将来」となります。「今将に来たりつつある」という激しい動きなのです。主が、「神の栄光が現されるためである」と仰せになられたとき、確かに、目の前の盲人はなお盲人のままでした。しかし、もうおわかりいただけたかと思いますが、正しく、丁寧に言えば、すでに、神の、主イエス・キリストの御業が働き始めているのです。「いや、まだだ」と言い張るのであれば、信仰はいつまでたっても現実にならないのです。もしも、主イエスがこの人にそう宣言された瞬間に、目が開かれたのであれば、皆、信じるのかもしれません。しかし、それでは信仰になりません。信仰は、まだ見えていないことを信じることなのです。しかし、信仰の目、信仰のまなざしはそこで既に神のお働きが始まっていることを認めるのです。信じるのです。この盲人に、将に神の御業が始まっている。つまり、主イエスは、弟子たちに、過去ではなく、将来へ、神の将来、主イエス・キリストの将来へと視線を向かわせ、そのようにして期待を持たせ、確かな希望を持たせてくださるのです。
主イエスはさらに続けてこう仰せになられました。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは世にいる間、世の光である。」ここで主イエスは、不思議なことを仰せになられました。ここでは、「わたし」ではなくて、確かに「私たち」と仰せになっておられます。私たちとは、つまり、主イエスを信じている私どものこと、主イエスの弟子である私どものことです。主イエスは、ご自身だけではなく、主イエスを地上に派遣された主イエス・キリストの父なる神、それゆえに私どもの父となってくださる神の業、神のお仕事をすることができるし、しなければならないと、弟子である他ならない私どもをお招きくださったのです。
しかも、主イエスの口ぶりは、「日のあるうち」にしなければならないと、急いでおられるのです。どうしてでしょうか。それは、ご自身が、天の父なる神さまにから、この世に遣わされ、その使命、その目的を速やかに実現しなければらないこと、すなわち十字架の死を見通しておられるからです。しかも、十字架の御業が実現したら、主イエスは、天の父なる神のみもとに戻られます。この世にいる期間は、実に、限られているのです。ですから、主イエスはのんきな、あるいは悠長な時間の使い方をなさっておられません。まさに、ご自身の御業を真剣に、惜しまずなさっておられます。この地上を去るときが近づいているからです。
「誰も働けない夜」と仰せにならました。それはいつの日なのでしょうか。これがもしも、ご自身が自己紹介されたとおり世の光であられる主イエスがこの地上から去られたときのこと、天に戻られたときのことであったら、いったい私どもはどうすればよいのでしょうか。なぜなら、もしそう理解すると、私どもの今の時代、現代社会は「誰も働けない夜」でしかなくなってしまうからです。
この御言葉の解釈は実に深いのです。今は、残念ながら、それを丁寧に説く暇がありません。しかし、どうしても、ここで明らかにしなければならないのは、今は、「誰も働けない夜」ではないということです。確かに今は、「夜」、つまり悪魔の支配の下に蹂躙されているような世界であります。新聞を見れば分かります。いへ、新聞にはそのほんのわずかのことしか書いていません。世界には、まさに「夜」つまり闇の世界でしかない悲惨な戦争が行われています。しかし、なおそれは、「夜」ではないのです。どうしてそのような「のんき」なことが言えるのでしょうか。
主イエスは、マタイによる福音書第5章14節で、こう仰せにならました。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」ここでの、「あなたがた」とは誰のことでしょうか。それは、弟子たちに他なりません。そうであれば、世の光とは、イエスさまだけのことではないことになります。弟子たちも世の光なのです。だからこそ、ここで、イエスさまが神の業を行うのは、「わたし」ではなく、「わたしたち」と仰せになられた理由がよく分かるのではないでしょうか。私たちとは、私どもつまりキリストの教会のことに他なりません。ですから教会は、今、主イエスとともに、一生懸命、真剣に、まさに全力を注いで働くのです。時間が限られているのです。このときがいつまでも続くものではないからです。主イエスの再臨によって、世界は審判されるのです。そのときには、まさに、誰も働けません。働く必要もなくなります。
主イエスは今、天におられます。そして、かしこにおいて今、主は天のお父様のまさに隣において、私どものために王として働かれ、私どもを守り、治めていてくださいます。主イエスは今まさに、預言者としてここにいる私どもに御言葉を語っておられます。また、主イエスは、祭司として、私どものためにとりなしの祈りを捧げていてくださっています。つまり、今もなお、主イエスはその全存在をもって働き続けていてくださるのです。
さて、そう仰せになると、すぐにイエスさまは地面に座り込まれます。つばで土をこねておられます。まるでどろんこ遊びのようです。そうしていると突然、イエスさまは、その泥を、目の見えない人の目にお塗りになられました。かりにもし、わたしがこのようなことをされたら、この人はそれをうけいれるだろうか、いや、間違いなく抵抗したのではないかとすら思います。いくらなんでも失礼なことです。非礼な行為と理解されても当然ではないでしょうか。
しかし、この主の振る舞いを注意深く、思い見るなら、あることに思いが至るのではないでしょうか。それは、神が最初の人間をどのようにしてお造りくださったのかということであります。神は人を、土のちりで創造されました。その後人間は、神さまの命の息を鼻から吹き入れられたのでした。そうして、人間は初めて人間になったというのです。つまり、この振る舞いにおいて、主イエスはご自身がどなたであるかを、言葉だけではなく、すでにこのふるまい、パフォーマンスで表現しておられるのです。主イエスは、全能の、創造者なる御子なる神であられることを高らかに行動で宣言なさったのです。
不思議なことに、イエスさまは、それで終わらせませんでした。さらに、このようにお命じになられます。「シロアムの池に言って洗いなさい」。ヨハネによる福音書を記したヨハネは、わざわざ、「シロアムというのは、『遣わされた者』という意味なのですよ」と読者に教えます。つまり、ヨハネは、教えたがっている、読者を説得したいのです。「イエスさまは、天の神さま、天のお父さまの御業、お仕事をするために送り出された方、遣わされた方なのだ。だから、誰でも、主イエスさまのところに行けばよいのだ」ということです。
目に泥を塗られたこの生まれながらの盲人は、主イエスに言われたとおりシロアムの池に行きます。そして、洗いました。するとどうでしょう。見えるようになったのです。
わたくしは、かつて静岡盲人伝道センターがある静岡教会に礼拝の御奉仕にあずかることができました。多くの目の見えない人たちが通っている教会です。皆さん、明るく元気に讃美歌を歌っていました。とても励まされました。生まれながら目の見えない人も、途中で目が見えなくなった人もおられました。そしていずれも、この人のように、主イエスを信じたのです。ところが、それによって、目が見えるようにはならなかったのです。おそらく誰一人、視力が戻った方はおられないのです。それなら、イエスさまを信じてもしかたがないのでしょうか。違います。その方々は、心の目、信仰の「まなこ」がはっきりと開かれたのです。そして、目には見えない神さまを信仰の眼で仰ぎ見ることができるようにされているのです。そして希望をもって、それぞれに、主イエスのお仕事、業をなさっておられました。しかも教会として、日本に唯一の盲人の方々のためのキリスト教図書館の働きをなさっておられるのです。まさにディアコニアの働きを、教会を挙げて取り組んでおられます。
こうして、生まれながらの盲人は、やがて、はっきりと主イエスの弟子の一人になって行きます。この物語の続きを読めば、彼が、主イエスを信じたために、どんなにひどい仕打ちに耐えなければならなかったかを知ることになります。主を信じる道は、主イエスの苦難をともに生きる道以外のなにものでもないことが、彼の歩みでよく分かります。そうであれば、この人は、まさに私どもキリスト者のモデルに他なりません。
しかし、この人は喜んで主に従ってゆくのです。私どももまた、この一人の信仰者の物語から教えられ、励まされて、私どもの将来をしっかりと見てゆきたいのであります。「これまで」から「これから」へ、過去から将来へであります。何とか自分の力でがんばって切り抜けてやろうとする生き方から、神の力で神の栄光のために働く生き方へと毎日、転換してまいりましょう。そして、わたしどもの周りにいる、人間の真実、人生の真理を教えられず、さまざまなおかしな教えにふりまわされている人々に、人生が一度限りであり、この人生が神なしには、真実には成り立たないことを証しましょう。何よりも、おかしな教え、根拠のない教え、「前世」や「因縁」や「たたり」を言われて悲しんでいる人々に、あるいは自分の過去に縛られ、怖がっている方達に、このように声をかけて行きましょう。「大丈夫です。私とともに、イエスさまのところ、教会に一緒に行きましょう。」
この国は今、政府によって、おそるべき時代の転換点、瀬戸際に立たされています。教会は、世の光として、それに抗ってまいります。それが、主イエスとともに働くことなのです。この盲人の歩み、それこそが、わたしどもに今起こっていることであり、これからも起こり続けてゆくことなのです。天上の主イエスを見上げるなら、私どもは恐れるものはありません。主イエス・キリストは十字架ですでに勝利され、復活し、今や天におられるのです。
神の将来を見ましょう。それは、未来のことではありません。今まさに、ここで、この礼拝式のなかで起こっていることです。主イエス・キリストとの交わりの恵みはここで始まっているのです。やがて、この主イエス・キリストとの交わりは、完全になります。勝利の主キリストが再臨される、再び地上に来られるからであります。その日を目指し、私どもは前を、上を、キリストを見つめつつ、キリストへと急ぎつつ、歩むのであります。
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、どれほど多くの人々が、私どもの周りにおられる人々が、主イエスを知らないゆえに、主イエスを信じないゆえに、まことに愚かな、悲しむべき、偽りの人生観、世界観をもっているのでしょうか。私どもが福音を大胆に証しないゆえに、自分の命を粗末にしてしまう若者たちが少なくありません。また、わたしどもも、自分の過去や現在の状況に縛られ、自分の人生を諦めたり、なすべき業を力いっぱいすることができないのです。どうぞ、神の将来を見る信仰のまなこを開いてください。そのために、いよいよこの礼拝式を祝福してください。ここに招かれたすべての者が、主とともに、主イエスのために働く、すばらしい人生を生きることができますように。アーメン