過去の投稿2006年12月24日

12月24日

★ 本日は、洗礼入会式を挙行いたしました。三名の成人受洗者とお二人の幼児受洗者です。一人ひとりの歩みが、今日の日を目指したものであったことを深く思います。ただし、今日の日を昨年の私自身は予想しておりませんでした。すべては神の御業です。栄光はただ神にのみあります。Soli Deo Gloria!

☆  もとより、○○兄は、長く姉妹の祈りのなかにありました。かつて、○○ちゃんの幼児洗礼入会を勧めた際、「断られ」た経緯がありました。兄弟が洗礼を受けられるときには、同時に、お子様たちの洗礼も可能となることを信じ、それだけに長い祈りがありました。遂にそれが!。来年(今年?)は、もう一人契約の子が誕生するわけで、すでに、洗礼の恵みが待ち受けていることになります。実に、ご家庭にとってはもとより、教会にとっての大きな喜びです。あらためてお二人が心を合わせ、祈りをあわせて信仰教育を施されることを期待します。そして、それを教会全体で支えることをもわたしどもは心新たに「誓約」するのです。

☆  なによりも○○兄は、昨年の今、教会におられませんでしたから。その意味では、これまでの名古屋岩の上伝道所の歩みからすれば、洗礼までの歩みは短かったように思います。しかし、「神棚のこと」は既に皆様もご存知の通りです。残りの人生を、これまでの歩みを徹底して悔い改めて、まさに神の子、新しくされた人間として、神が全うしてくださることを信じます。それゆえに心から祈ります。今将に、出発点に立ち、神の民である名古屋岩の上伝道所、日本キリスト改革派教会とともに天国を目指した旅に出発するのです。

★  ○○姉は、ご存知の通り、「ハンディ」をお持ちの方です。しかし、すでに毎週、主日礼拝式、祈祷会に出席されておられます。これからも彼女のペースで、神の民の祈りの家での生活、旅路が始まるのです。彼女もまた、これまでの罪の歩みを悔い改めて、主イエス・キリストを主として従う信仰によって、私どもとともに旅する家族となりました。

☆  ○○ちゃんはそうではなくとも、おそらく○○ちゃんは、今日のことを忘れてしまうでしょう。しかし、この恵みを神が覚えてくださいます。そして、ご自身の召命を、必ず実らせてくださいます。

★  先週の祈祷会は「断食の日」として守りました。待降節と「断食の日」、これは、いささかつりあわない気がします。受難節や受難週とであれば、そうではないように思います。しかし、今回の「断食の日」において、そうではないのだと思わされました。マリアの賛歌(ルカ1:52)にありますように、主イエスの降誕は、権力者をその座から引きずりおろすためです。主イエスのご誕生が馬小屋であり、飼い葉おけであった理由を思います。それは、時の皇帝アウグストスが己の権力の絶対性を誇示するためにも、徹底した課税制度をしきました。そのために「勅令=私どもで言えば権力者がつくる法律」によって、住民登録を強いたからです。ヨセフとマリアは、旅の途上での出産を余儀なくされました。また、マタイが告げる降誕の物語も同じです。時の総督ヘロデのもとに、生まれたばかりのユダヤの王を東方から拝みに来たと告げる博士たちの知らせを聞いて、身の危険に恐れを覚えた彼は、二歳以下の幼児を皆殺しにさせました。そのような降誕の記事を読みながら、断食を守ることは意義深いことでした。降誕のこの上なく美しい出来事を黙想しながら、バッハの受難曲をもあわせて聴きました。シメオンは、マリアに告げました。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます-」(ルカ2:35)をも思います。降誕の背後にある、この受難のモチーフ。しかし、神は、いかなる人間の企てにも負けず、むしろこれをお用い下さって、救いの御業を完遂してくださったのです!

☆  朝夕の祈祷会で、あらためて日本キリスト改革派教会の創立の目的と意義を再確認しました。私どもの教会では、あまりにも当然のことであって、断食までしなくても、とも思います。しかし、日本の将来を心から案じながら、しかし、私どもの信仰の力、伝道の弱さによっても改正教育基本法を成立させてしまったこと、私どもの罪を「ざんげ」することができましたことは、大きな霊的な意義があったことと信じます。・・・ただ終日の断食、やはり、こたえました・・・。牧師だから許されることではありますが・・・。

☆  先週の「イエスさまのお誕生会」、周到な日曜学校教師方の準備によって、豊かなときが与えられました。感謝致します。ただ、残念なことは、子どもたちの出席が少なかったことです。35名の子ども、24名の大人は、おそらくこれまでで最も少なかったと思います。来年度の、はっきりとした目標が与えられたように思います。親子合同礼拝式は、逆に、子ども28名、大人53名。最も多くの出席者となりました。ザアカイの人形劇は、すばらしいものでした。冗談半分で、他教会の伝道のために・・という声が上がりましたが、その可能性も十分ある、よいものでした。福井伝道所への応援など、伝道の夢を描くこともまた実に楽しいことです。