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「共に働かれる神」 1月21日

「共に働かれる神」
2007年1月14日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章26節~28節

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

 今朝も、皆さんとともに礼拝を捧げることができますことを神に感謝いたします。主がおひとり一人を祝福してくださいますように。御顔をもって照らしてくださり、恵みをあふれるほど注いでくださいますように。主がその愛の御顔を救い主、主イエス・キリストを通して私どもに向けてくださり、まことの神との平和、平安をお与えくださいますように。

 先週の説教においても、また祈祷会の奨励においても共にお読みしましたのは、テサロニケの信徒への手紙Ⅱ第5章17節以下です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」

聖霊の火を消してはならない、むしろ、いよいよ燃え上がるようにと私どもは祈り求めました。それは、愛の火であって、お互いを愛する愛が燃え上がるようにというものでした。キリスト者にとって、いわば、人生訓のように掲げることも出来る御言葉の一つが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」であろうと思います。私どもの絶えざる目標であります。そして、そのような「いつも喜び、どんなことにも感謝する」生活の源はどこにあるのかと申しますと、それは、絶えず祈るということであります。そして聖霊の火が赤々とあたたかく燃やされるために必要なのは、預言、つまり聖書の御言葉であり、はっきり申しますと説教です。祈りを捧げることと説教を聴くことによって、喜び、感謝、愛の暖かな火が燃やされるのです。そしてそこにお互いを兄弟姉妹として結ばせる神の家族の交わりが形成されるのです。

ですから、私どもは、絶えず祈ることを、来週に会員総会を控えて、新しい年度を始める私どもですから、心新たに、ひとりで祈ること、何よりも共に集って祈ることをお互いに重んじあいたいと願っています。

しかし、使徒パウロがここで、「絶えず祈りなさい」という命令を受けながら、キリスト者である私どもは、この命令がどれほど、実際には困難であるかを、経験し始めているのではないでしょうか。「絶えず祈りなさい。いつも目覚めて、祈りなさい。」これは、愛する主イエス御自身がしばしば、弟子たちにお命じになられたことでした。そして、彼らにとってもまさにそこで、失敗してしまったのでした。つまり、「絶えず祈る」ということが、どれほど困難であるかを思わざるを得ないのです。

しかしそれなら、こういうことはいかがでしょうか。皆さんは、一日のなかで、四六時中、お祈りすることは難しいけれども、日に三度、食時の前の祈りを捧げることは、難しいでしょうか。おそらくそうではないと思います。すでに習慣になっている場合は、何の緊張感、困難さを覚えることもなく、「天のお父さま」と御名をお呼びして感謝の祈りをするのではないでしょうか。それは、信仰のない方が、手を合わせて「いただきます。」と言うことと同じくらいに、身につくような、まさに自然にできることなのではないでしょうか。

今朝、先ず、私どもにとって慣れ親しんでいる祈ること、そのものを深く考えたいのです。それをあらためて考えさせられる、問い直させる御言葉を今、聴いたのです。

私どもは、毎日、祈ります。基本的にそれがキリスト者の生活のスタイルです。その意味で、信じることは祈ることです。祈ることは神との交わりであり、人間が空気を吸ってはじめて生きることができるように、息が止まればそれはただちに死を意味するように、キリスト者にとって祈りとは、まさにそのような生きることそのものなのです。息をすることが無意識の行為であるように、キリスト者にとっての祈りもまた、そのような行為に似ている側面もあるのです。

そもそも、私どもが神に祈るということの不可能性を私どもはどれほど真剣に考えているのでしょうか。先週の大学の講義で、学生たちに初詣に行きましたかと尋ねました。誰も行かれませんでした。これは、とても嬉しかったのです。次にこのように尋ねました。これまで神社仏閣に詣でて、お祈りをしたことがありますか。ほとんどの人が手を上げられました。さらに尋ねました。そのとき、神社であれば、鈴を鳴らすでしょう。何故、鳴らすのでしょうか。それは、神を目覚めさす行動です。今からお祈りしますよ。しっかり、聞いてくださいね。そのような行為なのです。神さまを起す、神を目覚めさせ、注目を集める。それが、我々人間が知っている祈りなのです。その意味で、祈りは、何も特別に勉強したり、訓練したり、修練する必要などはないでしょう。そこでの祈りとは、単純に申しまして、「お願いごと」ではないでしょうか。

たとえばそこで、今日の御言葉のように「わたしたちはどう祈るべきかを知りません。」などということは、起こりえないと思います。なぜなら、その人自身のお願いごとは、そのために何かを学びとり、知る必要はありません。むしろ、願いごととは、自分の欲望、願望なのですから、どんどん湧き上がるのではないでしょうか。自分が一番よく知っているはずです。

ところが、使徒パウロは、いよいよこういうのです。「わたしたちはどう祈るべきかを知りません。」これは、異常なことばではないでしょうか。とりわけ、これがユダヤ人パウロの言葉であることを思えば、その異様さ、異常さは際立ちます。我々のような異邦人、偶像のカミガミ、神社参拝やお寺の参詣なら知っていますが、天地創造の真の神を、それこそ、物心着く前から礼拝すること、祈ることを教えられて育つのがユダヤ人です。しかもパウロは、ファリサイ派に属し、厳格な律法を教育され、みずからその宣伝者であったような人です。その人が、どう祈るべきかを知らないというのです。

わたしは、先週の講義で、祈りについて教えたのです。牧師というのは、いわば、お祈りの専門家です。とてもおかしな言い方で、嫌な表現ですが、いわば、「祈りのプロ」ということになるのかもしれません。そのわたしが、教室で「わたしはどう祈るべきかを知りません。」と言ったら、やはり驚かれるのではないでしょうか。しかし、ここでわたしなどとは比較にならない、使徒パウロが言うのです。

私どもはお祈りを、自動販売機にコインを入れるかのようになすことはできません。お手軽にすることなどできないのです。何よりも、究極のことは、神に向かって、「アッバ」とお呼びすること、それこそは、祈りの究極であり、救いの究極なのです。使徒パウロは確かにこれまでこの手紙のなかで、いささか、むつかしい議論も重ねてまいりました。しかし、要するに何を伝えたいのかと申しますと、それは、主イエス・キリストを信じて罪が赦され、神に義とされた結果、私どもが神を「アッバ」「お父さま」とお呼びできるような人間にさせていただけたという恵みの事実に尽きます。つまり、神に天のお父さまとお呼びすることができるようにされたことこそ、救いの究極なのです。そしてそのような呼びかけ、祈りを捧げることができるのは、まさに恵み以外のなにものでもないのです。恵み、つまり、神の一方的な働きかけです。祈りこそ、祈りを祈ること、祈りを捧げることこそ、神の恵みなのです。恵みの賜物です。決して人間の宗教的な能力、宗教心などではかないません。

だからこそ、使徒パウロは言うのです。お祈りすることができるということは、そこに聖霊なる神ご自身が働きかけてくださるということです。祈りとは、聖霊なる神が主導してくださるとき、実現するのです。

私どもにとって祈りは未知の世界です。神との会話、交わりは人間の可能性にあるのではないのです。その意味では、絶えず祈るどころか、一言でも祈るということそのものが、すでに、神の御業、それは奇跡であるとすら言いうることなのです。しかも神はその奇跡を、毎日起してくださる。神は、私どもに向かってそのような驚くべき働きかけを毎日、絶えず、していて下さるのです。

聖霊なる神は、私どもをアッバ、父よと呼ばせようと、私どもに働きかけてくださいます。そのお働きは、外からです。しかしそればかりか、私どもの撃ちに宿ってくださり、つまり私どもの内側から働きかけてくださるのです。そのようにして、すでに聖霊なる神が私どもの内側に住み込んでくださり、私どもと一つになって、一体化して、まるでわたしの本音、私自身の内側のもっとも深いところのうめき、叫び、思いそのものになってしまうかのようにして、私どもの内側で言葉にならないうめきをもって、父なる神にむかって執り成してくださるのです。

ここに、執り成すという言葉が二回繰り返されています。この言葉はお祈りについて考えるときのいわば急所になります。お祈りとは、聖霊なる神にとりなされることなのです。祈ることとは、聖霊なる神が、わたしどものことを父なる神に執り成してくださる行為、まさに聖霊の主導的な、主権的なお働きなのです。神との間にある溝、計り知れない深い溝、そして計り知れないほど広がった溝を神の霊自らそれを乗り越え、乗り出して、私どもに届いてくださいます。私どもでは逆立ちしても、できないこと、それを聖霊なる神御自らが常に乗り越えてくださるのです。そして、私どものことを執り成すのです。私どもの訴えを取り上げてくださるのです。しかもその訴えたるやしばしば、自分勝手なものです。主の祈りを教えられていますが、御名をあがめさせためへと全力を挙げて祈るよりは、日用の糧を今日も与えたまえと、自分の生活、人生にかかわる具体的なことを願い求めるのが、私どもの実際であります。

いへ、わたしどもは実にしばしばそれをも祈らないのです。ついつい自分の力で日用の糧を獲得しようと奔走します。私どもは、しばしばもっとも祈らなければならないそのときに、祈ることを忘れたり、祈る時間を設けることができない、そのようなことがしばしば起こるのです。仕事が山のように積み上げられている、まさに忙しさのきわみのような中で、そのときこそ、祈って神の助けを求めなければならないのに、です。

たとえば病気になって、本当に苦しんでいるとき、そこで祈ることは実に困難です。重大な病気の疑いをかけられて、検査する、入院する、本当に恐怖や不安にしばられるようなときこそ、祈らなければならないのに、心が千路に乱れるのです。心が一つに集中できないと、お祈りができません。これも、皆様のなかでもすでに経験なさったかたもおられると思います。

それなら、一番、祈りが必要で、祈らなくてはならないとき、人間の弱さで祈れなくなる、そのようなとき、私どもは途方にくれてしまうのでしょうか。違います。そこでこそ、この使徒パウロの極めて大胆な御言葉で励まされるのです。「わたしたちはどう祈ったらよいのか分からないが、御霊自ら言葉に表せない切なるうめきをもって、私どものその状況を父なる神に執り成してくださるのです。取り持ってくださるのです。「彼は、今こそ、父なる神の助けが必要です。彼女は、今こそ、あなたの慰めと励ましが必要です。今こそ、あなたの力強い御言葉が必要です。今こそ、あなたの守りと導きが必要です。」聖霊なる神が父なる神に、私どもにかわって仲を取り持ってくださる、関係をよく造ってくださる、深めてくださるのです。

実にこの聖霊の執り成しこそが、祈りの根拠なのです。祈りの力です。聖霊なる神は、私どもの内側に宿ってくださって、誰よりも、どんな親しい友人、家族、親よりもはるかに優って、いへ、自分自身よりはるかにまさって、このわたしのことをご存じていてくださるのです。「人の心を見抜く方」わたしより私どものことを理解しておられるのが聖霊です。この私どもがどれほど弱い人間であるか、罪に弱い人間であるのか、意思において弱く、良いことを行うその行いにおいてはさらに弱い人間であって、常に自己中心で、罪深いことへと引っ張られやすい私どもをご存知なのが、聖霊なる神です。そしてまさにこの聖霊が、実に的確に、どんぴしゃりと私どものために、父なる神に執り成してくださるのです。

それを知ることこそ、パウロがこのローマの信徒への手紙を通して訴え、伝えようとした福音の真髄です。奥義です。信仰によって義とされる。主イエス・キリストの真実によってのみ、ただ主イエス・キリストによってのみ救われるということです。ここでは、私どもの祈りの確かさ、祈りの確信は、祈り手本人にあるのではなく、ただ聖霊なる神にあると言うのです。この神が執り成してくださるのです。ですから私どもの救いは揺るぎがないのです。

しかもさらにパウロはこういいます。私どもの心の奥の底の底まで見抜いて、理解して、哀れみをもって神に執り成してくださるこの聖霊は、実に神ご自身の霊なのです。つまり、神との交わりを持つお方です。父なる神は、聖霊ご自身の御思いが何であるかを、奥の底の底まで見抜いておられます。理解しておられるのです。逆から申しますと、この聖霊は、神の御心をご存知なのです。その神の御心にしたがって、神の子たち、キリスト者たち、私どものために執り成してくださるのです。そうであれば、神は常に私どもの最善を、私どもが自分で理解する善、良さではなく、神の最善をなしてくださるのです。

実に祈りとは、このような父なる神と聖霊なる神との相互の御業です。この神の御業が、私どもに働きかけて祈らせてくださるのです。天のお父さまと呼ばせてくださるのです。

そればかりではありません。使徒パウロはこの後の34節でこのように語っています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」
パウロは最後の最後に、まさに究極において祈りとは、私どもの罪を償うために十字架に死んでくださったイエスさま、否、復活させられたキリスト・イエスさまが神の右に座って、わたしたちのために執り成してくださるというのです。そうであれば、この34節において、まことの祈りの世界の全貌が明らかにされます。真の祈りとは何かがその全体が鮮やかに指し示されるのです。つまり、祈りとは、父と御子と聖霊、三一の神の総力を込めた人間のための御業なのです。祈りとは、神の主導する、神がお与えくださる救いの手段なのです。徹底的に、神のお働きなのです。

しかも、そこで実際に祈るのは誰でしょうか。実際に声に出し、言葉に出して祈るのは、私どもなのです。つまり、この祈りにおいてこそ、神と私どもとが共に働く世界が開かれるのです。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

この御言葉は、キリスト教の歴史にとって極めて重大な解釈の議論が重ねられました。私ども改革派教会、宗教改革者たちは、ただ信仰のみによって救われるという教理を徹底して主張しました。それに対して、ローマ教会は、救いは神の恵みと人間の善行とによるとかつて主張していました。そして厳密に申しますと今日なお、この点で、ローマ教会と改革派教会とはお互いの間に距離を認めています。しかし、二つの教会とも、救いにおいて決定的に重要なのは、人間の働きなどではなく、神の恵みであることは共通理解と言ってよいのです。これを覆すなら、それは、もはやキリスト教ではなく、異端です。しかし、しばしば、ここで神と人間とが「共に働く」ということをめぐって真剣な議論が繰り返されたのです。当然のことです。そして改革教会の立場では、ただ恵みのみ、信仰のみなのです。それなら、神と人間とが共に働くとはどういうことなのでしょうか。それは、今、申しましたように、祈りの世界において起こっていることの説明であります。徹底的に神の、三位一体の神のお働きのなかで祈りが与えられる、祈りが可能となるのです。それを今朝、確認しました。しかし、もう一方で、誰が祈るのか、です。言うまでもなく、そこで、わたしが祈らねばならない。皆さんが祈らねばならないのです。そこに、私どもの出番があるのです。

「ご計画に従って召された」ということは、神の恵みの選びです。予定の信仰です。キリスト者は、全員、自分で信仰者になろうと思ってなったのではなく、神の永遠のご計画に従って召されたのです。救い出されたのです。しかし、そのような徹底して、一方的な神の御業でありながら同時に、「神を愛する者」と私どものことを言い表しています。召されただけではないのです。召されたものは身を乗り出すのです。自分の方からも働きかけるのです。神を愛するのです。しかし、そこに、神の霊のお働きを認めるのです。それが、共に働くということの意味です。神に愛されていなければ、神を愛しようもないのです。しかし、神に愛されている人間は、ますます神を愛する熱心へと駆り立てられることも事実なのです。神を愛する者は、神との交わりを楽しみます。つまり、祈りへと駆り立てられるのです。どうぞ、私どもは、この祈りの世界へと身を乗り出してまいりましょう。

安心して身を乗り出せます。人生でもっとも神の助けが必要なとき、人間は神に祈る暇もない。受験生が試験に臨んでいるとき、頭の中には、目の前の答案でいっぱいになりますし、ならなければなりません。しかし、まさに、そのようなときこそ、神の助けが必要となるのです。しかし、いわば、安心して答案用紙に没頭できる、それは、祈られていることを知っているからです。執り成されていることを知っているからです。

パウロは、主イエス・キリストの執り成しの祈りを言いました。わたしは、この知識をパウロ自身の体験から理解したのだと確信しますが、もう一方で、これは、あの使徒ペトロの経験にも基づいている、パウロは、ルカによる福音書に記されたあのペトロの経験を、直に聴いたのではないでしょうか。
第22章31節以下です。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

シモンペトロは、主イエスが十字架につけられる直前、主を裏切りました。三度、イエスなど知らないと否認しました。呪いの言葉さへ口にしたのです。しかし、主は、仰せになられました、「わたしはあなたのために祈った。」この祈りは、あのときのことだけではないのです。主イエスが天に戻られたのは、まさに、この執り成しの祈りをなすためです。父の右に着座され、私どものために祈ってくださっているのです。だから、今朝も、私どもは、ここに来ることができました。礼拝を捧げることができたのです。わたしもなお、説教することができたのです。皆様はそれを聴き取ることができたのです。
この神が共におられます。この神が私どもと共に働いてくださいます。そうであれば、わたしどもは実に大胆に生きることができるはずです。勇気をもって、安心して生きることができるはずです。いかなる力も、祈りの力には及びません。いかなる不幸も、困難も祈りの力に及ぶはずはありません。父なる神はは、聖霊の執り成しを喜んで受け入れてくださいます。御子イエスさまの執り成しの祈りを聴いてくださいます。それゆえに、実際に祈るわたしの祈りを聴いてくださらないはずはないのです。祈りが聴かれないなどと言うことは、ありえない。そのような言い方は、言葉の矛盾です。

ですから、祈りましょう。そしてそこでこそ、いよいよ、共に働かれる神を知りましょう。聖書の御言葉が本当なのだといよいよ知らされてまいりましょう。そして、いよいよ、神を愛してまいりたいと願います。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、私どもに御子イエス・キリストの霊を与えてくださり、あなたをアッバ、父よと呼ぶことを許してくださいました。そして私どものもっとも深いところを知ってくださり、その上で、私どもを命をかけて愛してくださり、その愛によって、常に私どものために御霊を注ぎ、御霊の執り成しの祈りを聴いてくださり、私どもに最善を持って臨んでくださるあなたの限りない恵みと慈しみを心から感謝申し上げます。どうぞ、私どもも聖霊の火に燃やされ、いよいよ熱心に、いよいよ信仰をもって、祈ることができますように。そして、願わくは、私どももまた、あなたの栄光のための祈りを第一にし、第二に、隣人のために執り成し祈ることができますように。アーメン