過去の投稿2007年2月7日

2月4日

★   先週は、会員総会を恵みのうちに終えることができました。閉会が30分遅れて、3時になってしまいました。教会の成長に伴うこととであり一方で喜ばしいことかもしれませんが、毎年、遅くなります。しかし今回が、最長記録になるようにと個人的には考えています。途中退席された方もあり、申し訳なく思います。

☆   会計担当の○○委員が、丁寧に、会計状況を報告してくださいました。要するに、私どもの経済状況は、予断を許さない厳しい状況にあるのです。毎年、繰越金が減ってゆく状況を何とかしなければと思います。昨年も、特別献金が捧げられた事があって、やっと、あのような状況になれたわけです。献金のディアコニアもしかし、ディアコニアの本質からいえば、「できる人が担えばよい」のです。その通りです。聖書に記されている通りです。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」(ローマの信徒への手紙第12章8節)
 しかし同時に、献金のディアコニアにおいても、一部の人だけができるディアコニアではなく、ほとんどすべての人に担えるものです。皆で大胆に担うことが必要です。献金を、ディアコニアの視点だけでは捉え切れません。もとより、このことで、負担に思い、弱い信仰が萎えてしまうということも現実には起こります。ですから、会計担当者は苦心なさるのです。牧師も同じです。しかし、「献金」においてこそ、私どもの信仰がもっとも鮮やかにされる、その側面を否定できません。○○委員が、その意味で、きちんと皆様に報告され、訴えられたことはとても大切なことでした。

★   総会を終えて、期せずして、○君、○君、○君、そして○○委員と近くの公園で野球をしました。ほとんど始めてのことではないかと思います。時間の余裕があるということは、どれほどうれしいことでしょうか。わたしの四十肩が治ってきているからできたのですが、このような時が与えられたこと、本当にうれしいときでした。先週の説教で、子どもたちの心、ディアコニアの志に火を着け、育てられる教会になりたいと申しました。それは、また子どもたちが、教会の交わりの中で育つことが必須となるでしょう。男の子たちはゲームで遊ぶことを家内に禁じられ、それを守っています。野球チームがつくれたら・・・などと夢を見ます。いずれにしろ、私どもの教会は、大人も子どももおのおの信仰が育てられ、教育の実りが結び、ディアコニアに生きる教会になること、これをはっきりとめざすのです。

☆   ○○がいよいよ信仰告白の準備の学びを始めます。しかも、保育園のときからいっしょに日曜学校に通ったお友達、○ちゃん、○ちゃんも一緒です。洗礼を受けるかどうか、確定してはいませんが、学びを始めます。これは、名古屋岩の上伝道所の歴史にとって、実に大きなことです。
日曜学校の究極の目的は、子どもたちを聖餐の食卓へと招くために、聖餐受領のための訓練を施すことにあります。そのために、必然的に、洗礼入会へと招くのです。この究極の目的を見失ってしまえば、子どもたちに主イエスの真実な愛と牧会を施すことは出来ません。「子どもだまし」などという嫌な言葉があります。子どもを見下げているのです。日曜学校で語られる神の福音は、「子どもだまし」などではなく、真実に子どもを救い、育てる真の福音です。ただ楽しい、面白いという次元を越えた、まさに福音、主イエス・キリストでしか与えられないものを提供するのです。それをめざして歩んだ(それがどの程度、実ったかは別として)私どもにとって、地域の二人の子ら高校生になり、今、学びを始めようとしているのです。開拓伝道13年かけた実りが今、実るかどうか・・・。そのようなときです。
契約の子の信仰告白も、まことに親としてはこれ以上にうれしいことはありません。一歩一歩、生ける神、聖霊なる神がわが子にも、親しく働いてくださった。当然のことですが、それを目の当たりにするのです・・・。どうぞ、親は、子どもたちを、無理やりでも、教会に連れてきてください。もとより、信仰告白を強要できません。しかし、教会に連れてくることは、できるのですし、しなければならないのです。

★   「キリスト新聞社」に拙稿の抜粋が掲載されました。なんと、「闘うキリスト者」という欄に収められていました。タイトルが実に面映くてかないません。特別の何かをしているわけではありません。キリスト者とは、信仰のために闘う存在です。「あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。」 ユダの手紙3節(さて何ページにあるでしょう!?)