「確信できる神の愛」
2007年3月11日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章34節~39節
「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
私どもは、今、ローマの信徒への手紙のいわば、クライマックス、山頂に上りつめています。今、信仰の恵み、信じる幸い、キリスト者であることの幸いを言い表す使徒パウロの勝利の宣言を聴きました。そして何より、使徒パウロとともに、私どももまた声を揃え、信仰を一つにして、宣言したい。私どもの勝利宣言をしたいのです。それが出来るのです。確かに今朝、ここに招かれたお一人ひとりの現実の人生には、深い悩みがありましょう。新しい年度の自分の責任などで、緊張感を強いられることもありましょう。不安のなかに置かれている方もおられるでしょう。あるいは、もはや自分の人生には何の望みも残されていないのだと、サタンに騙されてしまっている人がおられる、かもしれません。しかし、今、私どもは、この使徒パウロ、かつてはキリスト教会の迫害者、その急先鋒の人、第一人者であったような人が、キリスト信仰の幸いを、このように高らかに宣言し、神に感謝し、神を賛美した言葉を聴いたのです。
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
わたしは、一年に数回、他の教会に出張いたします。そこで、説教だけします。司式をなさるのは、しばしば、その教会の牧師か長老です。しかし、最後にはもう一度、説教卓につきます。そこで、祝福を告げるのです。わたしは、この祝福を告げること、それが、礼拝式のフィナーレ、大団円であると信じているのです。確かに、礼拝式のクライマックスは説教そのものにある、また先週祝いました、聖餐の礼典にあります。その通りです。しかし、この祝福を告げることも、なお、クライマックスのような思いがしてならないのです。皆様も、ここで、多くの牧師が説教してくださったので、それぞれの説教者から大きな祝福を既に受けてまいりました。そして、祝福においても、それぞれの先生たちの語り口と言いますと、語弊があるかもしれませんが、やはり同じ御言葉を告げるのでも、そこに個性があるかと思います。他教会にお招きを受けて、説教について、お礼を言われる、感想を言われることは、普段ないことですから、わたしにとっても新鮮な喜びです。しかし、恥ずかしいことですが、説教についてのお礼や感想をお伺いするとき、わたしは複数の方々から、説教ではなく、いの一番に、「今日の祝祷、-私どもは祝福と申しますが-、はとても励まされて、良かったです。」と言われるのです。それは、特に、私どもの教会では、この祝福を告げる前に、主イエス・キリストの御言葉、つまり、会員をこの世へと祝福して派遣する言葉、派遣の言葉をも添えています。「安心して行きなさい。」との主イエスの御言葉です。この御言葉に応答する方が少なくないのです。説教については、何も言えないので、それだけが、良かったというのであれば、残念ですが、しかし、「安心して行きなさい」との御言葉が、その方に届いたのであれば、これは、先週の説教の冒頭でも申したとおり、説教が成功したことにつながるのではないかと、考えるのです。
「安心して行きなさい。」この御言葉は、主イエスとひとりの女性との癒しの物語りにおいて告げられた言葉です。マルコによる福音書にもルカによる福音書にも収められています。マルコによる福音書第5章には、こうあります。「ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」彼女は、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」主イエスの衣をそっと触ったとき、瞬間に癒されたのです。そのとき、主イエスは誰が触ったのかと申しました。主御自身もまた、ご自身から力が抜けていったことを知ったからだと言います。大勢の人でごった返しになっていた状況です。病気の女性は、本来、触ってはいけないのです。しかし、彼女は、隠すことはできない、と考えて、震えながら、自分のしたこと、癒された次第を告白しました。そのとき、主が告げてくださったのが、この御言葉であります。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
この女性は、自分が病気で苦しみ抜き、何とかして、癒してもらえないかと考えたのです。イエスさまに正面から、お願いする勇気も気力もなかったのかもしれません。どさくさに紛れて、しかも、イスラエルの女性であれば、いかにも迷信的な行為、衣の房にでも触らせていただければ、癒されるのではないかというのは、何か、日本人がしでかしそうな、偶像崇拝のにおいすら漂ってくるのではないでしょうか。しかし、彼女は、主イエスの恵みにあずかった、それは、単に、癒されたと言うことで終わらないで、救われたということです。12年間の苦しみの歴史が一気に吸い取られてしまうような、宣言を聴いたのです。しかし、主イエスは、彼女を、「娘」と呼ばれました。あなたの信仰と彼女の行為を評価し、認められました。
パウロのローマの信徒への手紙の言葉で言えば、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。」のようです。彼女は、女性の病を患っていましたが、実は、それは、当時の人々の考えでは、血を流し続けるのですから、宗教的にも汚れた人、神さまから特別に見放されている人間であると考えられていたのです。ですから、彼女の苦しみは、病気の苦しみばかりか、社会的な、宗教的な、経済的な、ありとあらゆる苦しみと不幸をしょわされていたのです。彼女は、治りたい、イエスさまなら、何とかしてくださるのではないか。そっと近づいて、衣にさわらせていただきたいと考えたのです。それを主イエスは、信仰と認められました。つまり、彼女の行為、その思いを信仰と認め、信仰によって義と認めてくださったのです。「あなたの信仰が、あなたを救った。」もとより、信仰も救いも神の賜物であり、神から来るものです。彼女自身に備わっていた信仰心や能力ではありません。しかし、その信仰を、彼女は確かに受け、これを生きたのです。そして、神に義とされたのです。救われているのだとの主イエスの赦しの宣言、救いの宣言を受けたのです。それを、最後にいわば、補強する言葉が、「安心して行きなさい。」なのです。
12年もの長きにわたっての苦しみ。さらには、もしかすると、医者にだまされたのかもしれないと疑われるほど、その全財産を失っているのです。しかし、彼女は、神の愛、主イエス・キリストの愛の外にいる人間ではなかったこと、そのような人間ではないことが、ここで明らかにされるのです。
いささか、長い導入になりました。なぜ、このようなお話をするのかと申しますと、パウロの宣言、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」という言葉の典型的な実例であると思うからです。
つまり、彼女のこの悲劇、この病も、主イエス・キリストによって示された神の愛から、彼女を引き離せないのです。神は、彼女をお見捨てにはならないのです。そしてそれは、彼女だけの経験ではありません。パウロ自身もそれを経験したのです。しかし丁寧に申し上げなければなりません。ある人は、言うかもしれません。彼女は、12年間であっても、結局、癒されたから、救われたのであって、つまり神の奇跡が起こったから良いのであって、ほとんどの人には、そのような奇跡は起こらないではないか。
パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅱ第12章で、自分の肉体に与えられた「とげ」について、書きました。彼は、「三度」主に願ったと言います。三度とは、三回という意味ではなく、特別の数として、徹底してという意味で用いているのは、明らかです。「どうぞ、この苦しみ、この痛み、この病を癒してください」しかし、主なる神は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と祈りに答えてくださったのです。明らかに彼にとってこの肉体のとげ、肉体の病、ハンディは、伝道者として奉仕するには、不要のものと考えていたのです。どうして、神さまは、神さまのお働きをする使徒パウロに健康な体をお与えになられなかったのか。
しかし、パウロにとって、このとげがどれほど、厳しくつらいものであっても、神の愛から引き離すようなものとは、毛頭考えておりません。ただ、何故、神がそのような御自身の伝道に不利益と思うようなことを、自分の肉体に課されるのか、納得行かないだけです。もとより、その苦しみは、小さなものではありません。むしろ、キリスト者であればこそ知るものです。神を愛しているからこそ、神に愛されているからこそ、問いたくなるし、問わねばならなくなるものなのです。
さて、パウロは、今ここで、「わたしたちは」という複数形で表現するのを止めます。これまでずっと、「わたしたちは」と「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」と、圧倒的な勝利、勝ち得て余りある人生を与えられているのだと、これをキリスト者全員の体験、信仰、幸いなのであると表現しました。これまで学んだ通りのことなのです。しかし、パウロは今このクライマックスにおいて、「わたしは確信しています。」こう言います。この私は、このように信じて動かない。堅く信じているというのです。
わたしは、このような使徒パウロの表現を、大切にしたいと思います。これまでもそうでしたし、これからも当然そうなるはずですが、わたしは、聖書の正しい信仰を説くことにこだわってまいりたいと考え続けております。その一つは、聖書の信仰は、徹底的に神の民の信仰であって、共同体的なものであるということです。個人的な信仰なるものを、私どものなかで立場を持たせることはありえないのです。これは、もはや、何の心配もしていないほど、私どもの教会の常識となっている、通じ合っていると考えています。
しかし、それなら、ここで使徒自身が、「わたしは確信する」という表現はいかがなものでしょうか。パウロは、個人的な信仰の表明をしようとするのでしょうか。確かに、ここでは、他の誰でもない、このわたしと言うのです。使徒パウロ自身の言葉です。かけがえのないたった一人のパウロの言葉であり、信仰の表明、その確かさの表明なのです。主イエスとパウロとの間に、常に、教会があること、交わりがあることは明らかです。しかし、同時に、主イエスへの信仰と愛とは、かけがえのない、他の人と交換できない、パウロ自身のものであることも明らか過ぎることです。
「親が信仰者であるからとか、友人がキリスト者であるからとかで、わたしも信じるのだ。家の信仰、宗教がキリスト教だから、最初から自分の宗教もキリスト教である」などということが実際にあっては、困ります。信仰とは、信じるとは、この私自身が、応答するものなのです。告白するものです。確信するのです。あの病に苦しんだ女性も、彼女自身の信仰の決断、判断で、主イエスの衣のふさに触ったのです。主イエスは、それを「あなたの信仰」とお呼び下さいました。彼女の信仰です。ですから、パウロが、この福音の信仰を語る、頂点において、このわたしは確信すると表明することは、正しいことなのです。ふさわしいことなのです。
さて、「確信する」という言葉にもう少しだけ、こだわりましょう。これは、丁寧に訳せば、「確信させられている。」となります。受身形なのです。さらに直訳すれば、「説得されている」となります。説きつけられている、というのです。考えてみれば、とても不思議なことではないでしょうか。パウロは、これまで長い議論を一生懸命、神の福音、キリストの福音、さらにはわたしの福音とすら表現しながら、ひたすらに福音の真理、神の救いの道を説き続けたのです。つまり、パウロがここでしていることは、ローマの信徒たちに福音の真理を説き続け、語り続け、説得することであったはずです。しかし、ここでこのような表現をしたことで、いよいよ明らかになるのは、この福音とは、まさに神の福音であり、このローマの信徒への手紙そのものが、実に、神が人間パウロを通して読者を説得し続ける試みであったということです。そして、語った本人自身が今言うのです。「わたしは神に説得されている。わたしは神に信仰を与えられている。わたしは、神からの信仰を受けている。わたしは、神の真実を受けている。それゆえに確信している。確信させられている。説得されて、心から信じることができている。」こう言うのです。
神の恵みを受けて、神の真実そのものである信仰を受けて、そのようにしてパウロは信じているのです。これまで、パウロが一生懸命に証言した決定的に大切な福音の真理とは、信仰によってのみ救われる、信仰による義でした。それは、信じるこちら側、私ども側に力点があるのではなく、徹底的に、神のお働き、神ご自身がわたしどもを選び、信頼し、救いとろうという神の御業にあずかるところに起こる出来事でした。
その意味で、使徒パウロは、確信させられるのです。神の恵みを、神に十分に説得されて、もはや、信じる以外にない、信じない可能性、信じられない可能性はないというのです。確信する。それは、神さまとよい関係にあるということです。神の説得を受けて、納得しているのです。その通りです。
これまで、たびたび申し上げてきたことですが、第1章17節が、この手紙を紐解く、理解する鍵となる御言葉です。
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」福音は、信じる者に救いをもたらす、神の力。福音の中には、神の義が明らかに示されている。公に宣言されている。と言うのです。そしてその福音は、信仰を通して実現する、実際の出来事となる。信仰から信仰へと導くというのです。つまり、確信する、確信できる、あるいは、確信させられるということが実現するということであります。端的に申しまして、信仰によって生きるとは確信して生きることなのだと言うのです。ですから、パウロは、この福音を恥としないというのです。彼の誇りなのです。そのような確信、揺ぎ無さはどこから来るのか。福音です。それなら、この信仰によって義としてくださる神の御業、いへ、神さまそのものとは、いかなるお方なのかという根本的な信頼が問われるのです。根本的な理解です。疑うことができない事実。そこに通じ合うもの、それが、主イエス・キリストにおいて示されたものです。それを愛と呼ぶのです。神の愛です。この神の愛が、どれほど、激しいものであるのか。
少し横道にそれますが、今、我々の国の総理大臣が、従軍慰安婦というかたちはなかった、日本軍が女性を奴隷として強制連行したことは、なかったと、歴史の捏造を主張しています。これは、この方のかねてからの主張です。そしてそのように主張する勢力が、自民党はもとより、民主党などのなかにも、少なからずいるのです。
日本軍が強制的に女性を奴隷にしたという事実、その被害者たちの叫びを、彼らは、まったく無視します。彼女たちの悲しみ、嘆き、憤り、悔しさに心が響かないのです。共感できないのです。過去の事実だけではなく、現在の彼女らの最後の叫びにすら目や耳を覆います。歴史の事実に向き合わないことが、どれほど、実は、日本を不幸な国にしているかと思います。これまでの中国、韓国からの批判は、慣れっこになっているのでしょう。ところが、今、おもいがけずに、アメリカ議会からの批判が急速に激しくなってまいりました。日本は、これまでも、アジアや、自分たちの国の少数者の意見には、動揺を示さず、封殺、圧殺しますが、アメリカからの主張には、戸惑います。しかし、今、彼らが、問われるのは、日本は信用できないということでしょう。歴史の客観的な事実を否定する人と、どうして信頼しあえるのでしょう。当然のことであります。それは、人と人との言葉が通じなくなるからです。
自分たちの主張は、極めて強いのです。ところが相手の訴え、主張には、耳を傾けないのです。それは、人間と人間の関係にとって、国と国の関係にとっても不幸で、悲しむべきことです。しかし、もしも、人間などは、信じあえなくても、通じ合えなくても、分かり合えなくても、もし、自分たちが信じている、考えていることが絶対正しいと貫けるのであれば、それでかまわないと考えているのでしょうか。しかし、それを貫いたなら、そこには、ただ、力が強く、声が強い者の主張が通るのみです。そこには、血の通った人間がいなくなるのです。
さて、元に戻りましょう。いったい、夫婦の間でも、親子の間でも、兄弟同士も、友達どうしも、心が通い合い、理解しあい、合意が成り立つ。これほど、すばらしいことはないのではないでしょうか。さて、使徒パウロは、今、徹底して通じ合っています。分かり合っています。心と心が通い合っているのです。誰とでしょうか。それは、人間とではなく、神さまとなのです。
そして、パウロはこのクライマックスで告白するのです。「わたしは確信する。」と言うのです。「主イエス・キリストによって示された神の愛がどれほど大きな愛、どれほど深い愛、どれほど力ある愛、どれほどすばらしい愛であるのかを信じているのです。この神の愛から、いかなるものも、わたしを引き離すことはできない。」と確信しているのです。主イエス・キリストの十字架の犠牲をもいとわない愛を見れば、まるで、御子イエスさまのお命より、罪人であるわたしの命の方が大切で、かわいくて、愛する価値があるのだといわんがばかりの行為として、彼は、受け止めているのです。
今朝の礼拝式でも、式次第の最後に、主イエス・キリストからの派遣の言葉を聴きます。しかし、新鮮に聴き取ります。「安心して行きなさい。」それは、今朝のパウロの宣言と通じているのです。「あなたの信仰があなたを救った」あなたは、義とされている。あなたはサタンの支配から、わたしの贖いの恵みの支配のなかにわたしが奪い返した、神の子である。父なる神から、私の愛する子と呼ばれる、わたしの兄弟である。だから、安心して、ここから出てゆけるはずだ。わたしもあなたとともに出てゆくのだから。わたしとあなたとは、決して引き離されてしまって、ひとり出てゆくのではない。私とともに、わたしの愛の中で、出てゆくのだ。」
説教とは、あるいは福音とは、この神の宣言を告げ、それを聴くことです。そしてそれを確信することです。わたしも確信して語っています。皆様もまた、確信して聴かれるのです。そこに、神の愛が実際に出来事として、起こっています。わたしはそして、私どもは、それをここで豊かに経験してまいりました。
ですから、今週も、あの婦人のように皆様の上にも、この何ものにも引き離されることのない、神の愛に結び合わされての生活となることが定まっているのです。
わたしは祝福の最後に、三一の神の祝福を告げます。「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わり。」どうしても、この御子と御父と聖霊の御名を唱えたいからです。それは、私どもへの愛とは、この三位一体の神ご自身の絆のなかに取り囲まれ、包み込まれているからです。もはや、決して引き離されないのです。見捨てられることはありません。たとい、人間の世界では、親が戸籍を抜いてしまい、子を捨て、あるいは殺してしまうようなことが起こります。しかし、神の子たるキリスト者は、安心して出て行けます。確信して出て行けます。この愛のなかで、私どもは、この一週間を生きれるのです。たとい、死ぬことがあっても、この神の愛の外で死ぬことはありえないのです。
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもは、あなたの恵み、あなたの真実、あなたの真実の愛によって、自分が神の子であり、自分がこの愛によって愛され、生かされていることを信じることができました。そのようにして、あなた様と心が通い、理解しあい、通じ合うことすらできるのです。確信して生きる世界へと、導きいれられました。心から感謝申し上げます。人間と人間の心が通い合わず、お互いに心を閉じて、非難しあうような戦いの地上です。2000年前のローマの市民も、日本の市民も同じです。しかし、どうぞ、この国にも、あなたの福音が伝えられ、証され、神の愛を確信する神の民、神の子たちを、ひとりでも多く出現させてください。教会を形成してください。それを、ここから、始めてください。私どもが、この確信に生き続けることが出来ますように。アーメン。