「神の愛から引き離せない」
2007年3月18日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章34節~39節⑤
「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
この日も、愛する皆様とともに、主日礼拝式を捧げることが許されています。礼拝の恵みにともにあずかることができています。これにまさる幸いはありません。神の民である皆様の上に、あらためて最初に、祝福を告げます。「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが皆さんと共にありますように。」
先週の説教では、礼拝式の最後の祝福の言葉、厳密に申しますと、この世への派遣の言葉について申しました。「安心して行きなさい」です。これは、主イエスさまが、12年間、病とともにあらゆる人生苦を味わわされていたひとりの女性を、解放した言葉、宣言であると確認しました。「娘よ。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」この安心して出てゆける。生きてゆける。この幸いをもたらすのが、信仰であり、ここで使徒パウロが告げる祝福の一つの姿なのだと申しました。先週の姉妹会で、ひとりの方が、「あらためてこの御言葉に支えられ、平安な日々を過ごすことができました」と証されていました。
私どもは、本日で、このローマの信徒への手紙第8章までを読み終えます。これまでは、福音の真理、人間の罪と罪の赦しを与える福音を学んできましたが、第9章から第11章までは、また一転して、イスラエルの問題、ユダヤ人の救いの問題へと変わります。その意味では、ローマの信徒への手紙の中心は、やはりこの8章までと言っても良いかと思うのです。それを遂に今日で、学び終えるのです。そして、先週は、そのクライマックスのなかのクライマックスである、38節と39節を学びました。さらに今日は、もう一度、この御言葉を味わいます。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」まさに、使徒パウロの究極の勝利宣言です。この御言葉を読むものは、彼の心に寄り添って読むことができるなら、読者自身の心も熱く燃えてくるのではないでしょうか。何度も読む、何よりも声に出して読むなら、パウロのこの信仰の心が、そしてそれとともに神の愛が、まるで大波のように何度も押し寄せてくる感じがいたします。一度だけではなく、波のようになんども押し寄せるのです。畳み掛けてくるのです。
35節には、こうあります。「誰がキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」一つの理解からすれば、第8章は、もう、この言葉で終えてもかまわないのではないかと思います。勝利宣言をここでしているのですから。キリストの愛からわたしたちを引き離すものは何ものもないと、究極の宣言をしているのですから。
ここで、注意して読みたいのですが、39節では、「キリストの愛」ではなく、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛」です。御子なる神、キリストの愛ばかりか、父なる神の愛も今、押し寄せて来るのです。神の愛、父なる神の愛です。神の愛は、主キリスト・イエスによって示されました。
さらに注意して読むなら、ここでの示されたということは、どのように私どもに示されたのかと申しますと、ここでも具体的なことです。聖書を読んで、説教を聴いて、牧師との聖書の学び会を通じて、また様々な体験を通して、示されたのです。先週の説教で申しますと、説得されたのです。確かに、そのように説得し、示してくださったのは、この牧師やこのキリスト者、この教会という特定の交わりですが、しかし同時にそれは、聖霊なる神のお働きがそこにあったということに他ならないのです。聖霊なる神の愛がそこに注がれたのです。もう、明らかになったかと思います。私どもは、父と子と聖霊の三一の神の愛を注がれたのです。三位一体の神の愛、それは、父と御子と御霊とがお互いに切り離せないです。
「神は、愛です。」第一ヨハネの中にある御言葉です。神は愛であるということは、神ご自身がお互いに離れ離れにならないということです。一致しているということです。まったく相互に何の誤解も、不安も、欠けもない、違和感もないのです。完全に理解しあい、完全に一体になっているのです。これが真の愛です。これが、神の愛です。父と子と聖霊相互に働く愛です。言わば、内側に向かう愛です。しかし、この愛は、相互に激しく向かい合うだけではなく、実に、外へと溢れるのです。神の外です。外とは、神さまの被造物のことです。神の被造物のなかで、最高の傑作であるのは、人間です。なぜなら、神の似姿に、ご自身の形にかたどってつくられたものだからです。神は、この人間を特別の愛で、愛されたのです。この愛が私どもに向かうのです。そのようにして、私どもと神ご自身とを結びつけ、結び合わせようとするものです。
先週、愛とは、お互いの心と心とが通じ合うことだと学びました。人間同士の愛、友人同士、夫婦、親子いずれも通い合わせることがどれほど難しいかです。しかし、キリスト者とは、実に、神と心と心とを通い合わせるような存在にされたのです。それは、神が心を開いてくださったから実現されたのです。神が私どもに心を開いてくださったゆえに、私どももまた心を開くことができたのです。神のこの真実に触れて、私どももあるがままで、神に向かうことができるようになったのです。驚くべきことです。
現在の我々の社会には、引きこもりに悩む人々が驚くほど増えています。ひきこもりとは、隣人になれない状態ではないでしょうか。隣人に心を開けない状態に陥っているのではないでしょうか。しかし、神は、引きこもらないのです。神は、常に、我々に心を開いておられます。ですから、私どもは、この神が真実に、向き合ってくださり、かかわってくださったおかげで、人間にも心を開けるようになるのです。教会の交わりとはまさに、この神の愛をお互いに受けているからなされるものなのです。神の愛がないところでは、人間の真実の交わり、絆も結ばれないのです。そのようにして、分かってくるのは、私どもが神に愛されるということは、どういうことなのかと申しますと、父と子と聖霊なる神の愛の交わりのなかに、入れられるということです。
これは、ひとつの例になりますが、洗礼を受けると同時に教会に入会します。洗礼入会式と申します。どこで洗礼を受けるのか、どの教会に入会するのか、それは、地上にあっては、極めて重要なことです。どうしてかと申しますと、地上にあっては、その教会の交わりを通して、私どもは神を知ることになるからです。そして教会員になると、その交わりのなかに受け入れられるのです。ですから、そこで、教会員の愛の交わりがなければ、それは、決して人数の多さではなく、その愛の交わりの内容の問題ですが、その愛のなかで、育つのです。神に愛されるということは、神の愛の交わりの中に入れられることであって、それは、教会の交わりのなかに受け入れられてキリスト者が育つことと似ています。ですから、教会の交わりの核になるのは、真実です。真実の愛です。嘘や偽りでは、ない正直な関係です。
横道にそれますが、使徒言行録で、アナニアとサフィラ夫妻が、神の裁きを受けて即死する物語りが記されています。教会の愛の交わりが証されているそのところで、この厳しい事件が起こったことを使徒言行録は伝えるのです。それは、自分たちが使徒たちに正直にならず、嘘をついたからでした。見栄をはったからなのです。わたしの素朴な気持ちは、神さま、何もそこまで厳しくこの夫婦を裁かなくても・・・という気持ちがどこかにあります。しかし、このことが起こったのです。それは、どれほど、愛には偽りがあってはならないのか、神の愛を映し出している教会の責任の重さを思わさせられます。
実に、神が私どもを愛してくださる限り、そしてその愛を私どもが受け入れた限り、もはや、なにものをもってしても、神の愛から引き離せないのです。当然のことですが、それは、私どもが神の愛から引き離されないようにがんばっているということではありません。神の愛が引き離さないのです。ここに、安心、平和、平安があります。安心して出てゆくことができる人とは、神の愛を注がれ、神の愛の交わりの中に包み込まれ、主イエス・キリストと一つにされている人です。
さて、パウロのここでの表現のイメージは、波のように押し寄せるイメージと申しましたが、それは残念ながら、神の愛だけではありません。それはまた、わたしどもへの攻撃であり、誘惑でもあります。どのようなものかと申しますと、神の愛から引き離そうとする攻撃であり、誘惑なのです。
すでに、35節で、キリストの愛から引き離そうとする力に数えられたものは、7つありました。7とは完全数ですから、いかなるものも引き離せないということを言いたいのです。この七のものとは、何よりも36節の詩篇第44編の引用で明らかになるのは、一言で言うならば、要するに迫害に伴う困難、厳しさではないでしょうか。明らかにパウロはそれらを経験しています。しかも、この経験は、最初の読者であった、ローマにあるキリストの教会員、信徒たちのほとんどもまたその身に経験していたことなのです。
わたしは、すでに何十回、何百回となく、この御言葉を読んでまいりました。信徒のときから、言わば、大好きな箇所であります。しかし、正直に申しますと、どこか、遠い世界のような気もしていたのです。「艱難か。苦しみか。」そこまでは、分かるのです。しかし、「迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」となると、どうもピンと来きませんでした。詩篇第44編では、実に毎日、死ぬような危険な目に会っていると言うわけです。わが身を振り返って、イエスさまを信じてこの方、そのような経験をしたことがあったのか。正直に申しまして、一度もありませんでした。
私どもは、かつて祈祷会で、ヨハネの黙示録を丁寧に学びました。そこで、当時の教会がどれほど厳しく、過酷な地上の生活を強いられていたかを学びました。ローマ皇帝の支配のもとに、皇帝礼拝すら強制され、命を奪われた信仰者、殉教者がたくさん出たのです。ローマの信徒への手紙のこの箇所を読めば、まさに、当時のキリスト者と教会の置かれていた厳しい局面がよく分かります。しかし、黙示録を書いた使徒ヨハネも、ここでの使徒パウロも、今すでに、輝かしい勝利を収めていると宣言しているのです。確かに、この勝利は、黙示録で約束されているような究極の勝利、つまり、地上を支配するという形での勝利ではありません。勝利者イエス・キリストと離されることのない、キリストの勝利を与えられているという勝利なのです。
さて、このような恐るべき迫害の嵐のなかでも、キリストの愛から引き離されないのであれば、もはや、それで十分なのかと思います。しかし、なお続きます。そこに、やはり神の導きがあるとわたしは思います。パウロは、38節で、もう一度、数えてみせます。ここでは、最後の「他のどんな被造物も」を入れて、10を数えます。先ほどは、迫害に集中しましたが、ここでは、「ありとあらゆるもの」というわけです。ありとあらゆるものをもってしても、キリストの愛から引き離せないというのです。
最初の7つは、迫害という、命すら奪われかねない厳しい艱難、苦しみでした。そしてここで改めて数え始める敵、敵対者の最初に数えるのは、「死」であります。それは、よく分かると思います。迫害者は、死をもって脅すのです。「我々は権力者、支配者であって殺す力を持っているのだ。同時に、お前がキリストが王であり、主であることを否定しさへすれば、生かす力もあるのだ。」このように脅すのです。ですから、パウロがここで先ず「死も」と言うことはよく分かるのではないでしょうか。
それなら、「命も」とはいかがでしょうか。ここで数えられた10のものを一つ一つ丁寧に語る暇は残念ながらありません。死の反対は、命、生です。生や命がどのようにして、キリストの愛から引き離すのか、もしかするとピンと来ないかもしれません。しかし、私どもは、先ほどは、迫害のことはピンと来なくても、この国に生きるキリスト者にとっては、この命の誘惑、生の攻撃の方がリアルのはずです。
有名な主イエスのたとえ話のなかに、放蕩息子のたとえがあります。父なる神の愛を、主イエス御自身が生き生きと語って見せてくださったのです。使徒パウロは、この神の愛について、ここで、賛美の叫びを挙げていますが、主イエス御自身がたとえの中ではっきり描き出されたのも、父なる神の愛でした。さて、放蕩息子は、お父さんが生きているのに、財産を分けてくださいと願い出ます。つまり、遺産相続をしたいというのです。それは、こういうことを意味するはずです。生きているお父さんを、殺すということです。もとより、その命を殺めることはしていません。しかし、精神的には、殺しているのではないでしょうか。やがて、相続できる財産を今すぐに欲しい。そのように願い出ることは、父親殺しでしょう。何故、父を殺すのでしょうか。それは、この弟息子にとって、お金こそが、生きることそのもの、楽しみそのもの、幸福そのものだったからです。彼は、お金に困っていたのではありません。病いを患って苦しんでいたわけでもありません。その意味では、若くて健康、生きることに苦しんでいたのでも何でもありません。艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣、それとは無縁の生活を楽しんでいたのです。ところが、彼は、その命が、この世への関心が、父親との愛の関係を自ら壊したのです。
わたしは、学生時代に信仰が与えられました。その頃、しばしば、キリスト者の先輩方から言われたことがあります。学生時代に熱心であっても、就職してからが、大変なのだ。就職してからどのように信仰者として生きるのかが問われる、その準備をしておくように。ということです。そして確かにそれは、本当だということが自分も分かりました。もとより、わたしはすぐに献身して神学校に進むことになりましたから、職業を通して教会に仕える厳しさを、皆様のようには味わっていないと思います。しかし、わたしの友人、当時、熱心に励んでいた仲間たちのなかで、今、信仰の生活から離れている者もいるわけです。願う会社に入った、一流企業、銀行、一生懸命祈ったはずです。しかし、入社一年目の厳しさがすぐに始まる。そこで、学生時代のように時間を用いられなくなる。礼拝だけがかろうじての教会生活になる。そしてしばらくすると、会社の生活が落ち着く、自由になるお金もある、そこで、教会生活に仕える志を失ってしまう。残念ながら、そのような現実は少なくないのです。
女性の場合は、結婚と言われました。未信者の方との結婚についての指導も受けました。何よりも、キリスト者の伴侶が与えられるようにと祈りことを、どれほど教えられ、指導されたかと思います。しかし、キリスト者と結婚しても、幸せな結婚生活が、しばしば、教会生活を邪魔することが起こるのではないでしょうか。何のためのキリスト者の家庭なのかと言うことになるのです。子どもが与えられる。家が与えられる。すべて神の恵みでしょう。しかし、それが、私どもをキリストの愛から引き離す力になることを、私どもはすでに十分に知っているのではないでしょうか。ですから、パウロがここで「命」と書いたことが、現代の私どもキリスト者には、実に現実のこととして分かるのです。命は、神の賜物です。命が悪いわけではありません。生きることのなかに与えられている楽しみを楽しむことは決して不信仰なことなのではありません。少なくとも改革派信仰からすれば、生のすべての領域、命のすべての部分は神のものであって、神を喜び生きるキリスト者であればこそ、神の与えられた、造られたものすべてを喜べるはずでしょう。食べること、飲むことの幸いということが、人間の生活にどれほど重要であるか、何も説教において、こんこんと説く必要はないかもしれません。しかし、結婚の生活、出産、育児、子育て、職業すべてを楽しみことができるのです。しかし、万一、それを神の被造物であり、神が与えられたものであって、それ自体に特別の価値と意味があると考えるなら、そのときには、神の愛から引き離す誘惑、攻撃になります。
そこで、キリスト者も父殺し、神殺しをする可能性を持っているのです。使徒パウロもそれを経験しているはずです。パウロほど優秀で、能力に満ちた人間であれば、裕福になろうと考え、実行すれば、実現できたはずです。いつだって、伝道者、使徒であることを止めれば、この世の中で、自己実現の道を進めたエリートなのですから。しかし、パウロは、そこで言うのです。それらは、被造物であると。神ではないと言うのです。それを偶像にしてはならないということでしょう。この世の楽しみ、幸いを神にしてはならない。そのようなものは神になるはずがないからです。
放蕩息子は、それに遅ればせながら気づきました。我に返ったのです。そして、自分はもはや子どもと呼ばれる資格はない、しかし、父の家に帰ろう。雇い人の一人にしてもらって、何とか、生きる道は探そう。彼は、そう考えて、ぼろぼろの姿のままで、父の家を目指して歩き始めるのです。すると、どうでしょうか。父親は遠くから彼に気づきます。そればかりか、父は、急いで駆け寄ります。駆け寄ったと思ったら、息子の反省と悔い改めを丁寧に聴こうともしない勢いで、直ちに、何をしたのでしょうか。思い出してください。ルカによる福音書第15章20節。「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」父親は、抱きしめたのです。
この主イエスが描き出してくださったシーンは、まるで、このローマの信徒への手紙のテキストのイラストではないでしょうか。いえ、この主イエスの描き出したシーンを、パウロが説明しているような気がします。父がこのぼろぼろに汚れている服をまとう息子をしっかと胸に抱きしめたとき、どれほどの喜びが押し寄せていることでしょうか。そして、この胸に抱きしめる力は、父の力なのです。息子は、父親を抱きしめたくても、赦していただかなければ、自分から抱きつくことはできません。しかし、今、この息子も、この抱きしめる愛の暖かさのなかで、自分もこのお父さんをしっかと抱きしめたくなったのではないでしょうか。主イエス・キリストにおける神の愛、そして聖霊の愛、この愛の交わりのなかに入れられ、愛されるということは、この父の胸に抱きしめられる経験のことなのです。
使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙第3章でこのように祈っています。「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。アーメン。」パウロは、ここで、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さと言います。すばらしい祈り、すばらしい表現です。彼は、私どもがそれを理解するようにと祈るのです。祈っている本人は理解しています。厳密に申しますと理解し始めています。どうして理解できるのでしょうか。それは、彼が、この愛の外に立って、客観的に評論しているからではありません。愛の広さ、長さ、高さ、深さという表現は、その中に入らなければ、見えない世界です。パウロも私どもも、神の愛の中に入っている。抱きしめられているのです。この中には、「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も」も入り込んでしまうのです。つまり、神の被造物に過ぎないのです。神より圧倒的に小さなものなのです。だから恐れる必要はないのです。ここで数えたものたちは、神の力に比べて余りにも無力なものです。だから、神の愛から私どもを引き離せないのです。これらは、神にまったく勝つことができないのです。ですから、私どもも勝ち得て余りがあり、輝かしい勝利者となるのです。
今や、私どもに残されていることはなんでしょうか。それは、パウロと共にこのように歌うことです。このように感謝することです。「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
祈祷
主イエス・キリストを十字架につけ、復活させてくださった父なる御神、あなたの御子における愛、御子の愛、聖霊の愛が今、私どもを取り囲み、私どもはあなたの愛の中に招き入れられています。ここに私どもの勝ち得て余りある勝利があります。どうぞ、この愛の中に私どもをとどめおき、そこから離さないで、また、私どもも、離れないで、この愛の広さ、長さ、高さ、深さを日々、知ることができますように。そのようにして、私どもを神の子として成長させてくださいますように。そして、願わくは、この愛を隣人とともに分かち合い、隣人に分かち与えることができますように。私どもを用いてください。アーメン。