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「神の愛の中での悲しみと痛み」

「神の愛の中での悲しみと痛み」
2007年3月25日
テキスト ローマの信徒への手紙 第9章1節~5節①

「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」
 

 私どもは、2004年9月からローマの信徒への手紙を通して語られる神の御言葉を聴いて、礼拝式を捧げてまいりました。すでに、2年半の年月が流れました。そして本日は、いよいよ、第9章に入りました。これまでのパウロの記した内容は、神の福音、キリストの福音とは何かでした。人間の罪が詳細に語られ、神の民の罪が詳細に語られ、その罪人を救う神の義が、主イエス・キリストにおいて現れ、神の義が、ただ信仰によって私どもに及び、私どもが罪を赦されて、神の子とされることを学びました。そして、この恵みを、要約する形で、彼がその幸い、喜びを爆発させたのが、神の愛の偉大な力でした。パウロの手紙は、いつも、この信仰による救い、神の義を集中的に明らかにするものなのです。どの手紙も、そうなのです。そしてその最も集中的な形で記されているのが、このローマの信徒への手紙であり、第8章までなのです。

 正直に申しまして、今朝もなお、先週に引き続いて、第8章の38節と39節を学ぼうかと迷いました。奏楽奉仕者にも、もしかすると、予告していた通りではなく、もう一度、先週のテキストから説教をするかもしれませんと申しました。先週の水曜日の夜の祈祷会で、皆さんと先週の説教を読み直し、語りなおし、分かち合いの言葉を聴きながら、もう一度、説教したくなったのです。何故でしょうか。それは、テキストが、神の愛を集中的に、語っているからです。ローマの信徒への手紙の頂点ですし、全聖書においてもその頂上、頂点に位置する内容だからです。いかなる説教においても告げるべき福音が、ストレートに記されているからです。あるいは、こう言うこともできます。この毎週の主日礼拝式で経験させていただく幸い、恵みがそのまま文字になって記されているからです。わたしはついに、木曜日の深夜に、思い定めました。やはり今日は、予告どおり、9章に入ろう。どうしてか。それは、結局、どこを語っていても、あるいは、礼拝の体験そのものが、あの第8章39節の経験、「他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」この経験に尽きるからです。そうであれば、たといここからもう一度、-そうなると6回目になってしまうわけですが-、しなくても、良いと考えたのです。
 
 さて、しかし、そう言いながら、皆様とただ今、聴きました。このパウロの言葉、神の御言葉と直前までの言葉とは、明らかに違います。まったく違う響きを立てていると思います。
 この手紙はテルティオというキリスト者に口述筆記させて記したものです。もとより、パウロ自身もこれだけの大きな手紙ですから、ここまで一気に、書かせたわけではないでしょう。今月号の「教会学校教案誌」には、牧師たちの座談会の記録が掲載されています。教育基本法改悪を受けて、卒業式、入学式を控えて、日曜学校に通う子どもたち、契約の子どもたちのために、教会や日曜学校としてどのように配慮をすべきかということもありましたから、「教会学校教案誌」に掲載しました。ただ、この案は、言わば、現代版の口述筆記者がいなくてはかないませんでした。議論するその横で、ただちにパソコンに入力する技能者がいなければ、すぐに掲載するということはできないのです。大垣の辻牧師が引き受けてくださいました。辻牧師のおかげて、2時間ほどだったかと思いますが、私どもは、自由にそこで、座談会をすることができたのです。

第8章まで書くまでに、おそらく、すでに何度か休憩が入ったかと思います。そして、この第8章39節を書き終えたところで、使徒パウロはまさに福音の喜びに溢れ、興奮しながら、語り終えたはずです。そこで、彼は充実した思いで、しばし、休憩したのではないでしょうか。あるいは、今日は、もうここまでにしようと言って、一緒になって休んだのではないでしょうか。
第8章と第9章との間には、言わば、それほどの誰が見てもわかるような、太い線がくっきりとひかれていると思います。何よりも、議論の内容が違います。一転します。線が引かれていると言うよりも、あるいは、溝があると言った方がよいかもしれません。ここから第11章までは、いわゆる、「ユダヤ人の問題」が語られてまいります。パウロの数多くの手紙のなかで、この議論は、まさにこの箇所だけにしか記されていません。そして、このことは、来週、集中的に学ぶつもりでいます。

本日は、特にこの2節を中心にいたします。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」

使徒パウロは、ここで、深い悲しみがあると告白します。悲しみは心の動きです。彼は、そればかりか、心に痛みを覚えているとも言うのです。深い悲しみとそればかりか、絶え間ない痛みを抱えたまま生きていると告白するのです。いきなりどうしたというのでしょうか。喜びを爆発させた後、一気に落ち込む。何か、精神的に不安定になっているのか。まさか、そうではありません。しかし、それくらい、ここには激しい動きがあると思います。

それなら、この深い悲しみ、絶え間ない痛みの原因とは何でしょうか。それは、一言で申しますと、いえ、一言でなど言えないでしょう。パウロの兄弟たち、同胞たちのことです。つまり、ユダヤ人のことです。彼らの救いのことです。今私は、ユダヤ人と申しましたが、ここで、使徒パウロは、ユダヤ人とは申しません。ユダヤ人という表現は、日本人、アメリカ人、韓国人というような国、領土あるいは民族とむすびついた国民という考え方において表現されるものです。パウロはここで、彼らのことをユダヤ人とは呼ばずに、兄弟と申します。同胞と呼びます。しかも、彼らは、イスラエルの民だと言うのです。正真正銘、神の民だと言うのです。

「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。」極めてすばらしい特権を受けている民なのです。つまり、神がその救いを約束した民です。神ご自身の栄光を与えられた民。神の御言葉を与えられた民。神礼拝へと招かれ特別の民です。特選の民です。アブラハムを生み、何よりも人とならえたイエスさまは、正真正銘のユダヤ人に他ならないのです。まさに、人類の中で、彼らだけが、「特別」と言いうる資格を持っていると言っても言い過ぎではありません。

ところが、パウロは誰よりも知っているのです。この兄弟たちが、他ならない、神の御子、人となられた神である救い主、イエスさまを十字架で殺したことをです。しかも、殺したことを恥とせず、悔い改めず、むしろ、なおキリストへの敵対を続けている現実を見ているのです。御子なる神にして人となられたイエスさまを、もっとも喜んでお迎えすべき彼らが、主イエス・キリストを十字架で殺してしまったこと。この究極の罪を他ならない神の特選の民がしでかしてしまったことです。

そうなりますと、そこに二重の問題が生じます。一つは、兄弟であり、同胞であるユダヤ人自身の罪の問題です。彼らは滅ぼされて当然の者たちになるでしょう。彼らこそ、もっとも厳しい神の刑罰を受けて当然とならざるを得ないでしょう。パウロは、まるで自分の身を切られるような悲しみや痛みを覚えるのです。しかも、この問題は、簡単ではありません。このような惨めな不信仰でかたくなな民を選ばれたのはどなたなのでしょうか。それは、神に他なりません。そうなれば、それは、神ご自身のご計画の大失敗を意味する、神ご自身の全能、その栄光、その主権、その権威が損なわれてしまうことを意味してしまうのです。ユダヤ人じしんの課題と神さま御自身の課題、どちらに転んでも、解決できない、極めて深刻な悩みのなかに落とされるのです。

そうであれば、このユダヤ人問題は、つまりユダヤ人の救いの問題は、異邦人のキリスト者であっても、決して他人事ではありません。他人事にできません。なぜなら、神ご自身が、聖書の証するとおりの神であれば、神の救いのご計画の失敗になってしまうからです。計画を実現できない神は、主権者でも創造者でも全能者でもないことになります。いかなる被造物にも負けないのが主なる神の力です。実力のはずです。しかし、神の約束を受けた選びの民が、御子を殺して、しかも今なお、悔い改めず、すべてのユダヤ人が、キリスト者になっているなど、程遠い現状があるのです。このユダヤ人の救いの問題は、異邦人キリスト者にとっても決して避け得ない問題です。だから、パウロは、それをここできちんと扱うのです。この問題を棚上げにしません。逃げません。きちんと、福音の光のもとにおいて、その信仰的な意味を明らかにしてみせるのです。

さて、私どもは最初に、この第8章と9章との間には、一線が引かれ、溝があると申しました。それは、第一節の証言、宣誓の言葉でも分かります。しかし、第二節では、その内容からも、ほとんど感覚的に分かるかと思います。

たった今、今の今まで、彼は、神の愛から引き離すものは地上にはないのだと勝利の宣言をしたばかりです。神を心から愛し、賛美し、感謝し、救いの喜び、救われた者の感激を歌い上げたのです。最初に申したとおり、私もなお、ここからこの喜びの源から同じ喜びをなお汲み取ろうとも考えたのです。ところが、ここで、別人ではありません。こう言った同じ人が、深い悲しみと心に絶え間ない痛みがあると言うのです。

一つの英語の聖書を読んでおりまして、「絶え間ない」という言葉を、エンドレスと翻訳されているのを見ました。終わりがないということです。断続的、しかも、何か、生きている限り逃げられない痛みなのです。皆様のなかで、痛みと戦っておられるかたもおられるでしょう。昨年一年間、五十肩ならぬ四十肩になりました。右肩があまりにも痛く、しかも直らないので、いささか怖くなりました。しばらくして、病院に行って、これは、四十肩ですと言われ、一方で安心しました。放っておいてもいずれなおると言われる症状です。案の定、ようやく一年で、治りました。しかし、こんな小さな痛みでも、時に、不便でした。しかし、四十肩や五十肩は、エンドレスではないのです。ちゃんと、時が来れば、おさまるのです。しかし、もしも、間断なく、痛み続けるというのであれば、それを一生涯抱えるのであれば、これは、どれほど深刻なこと、厳しいことかと思います。わたしは、麻痺の経験をしたことがあり、今もなお、その不自由をかこちながら生活しています。麻痺も、厳しいことには違いありませんが、しかし、痛みはありません。不自由ですが、思うように動かないことと折り合いをつければ、と思います。しかし、使徒パウロの心のなかには、いつ果てるとも知れない、悲しみと痛みが心を圧迫し続けるのです。

神の愛の圧倒的勝利、神の恵みの完全なる勝利、神の救いの徹底的勝利を賛美し、感謝し、喜びに溢れた使徒パウロが、しかし今、同時に、このような状況にあるということを、私どもは目をそらしてはならないのです。

この悲しみと痛みとは、どのようなもの、何によってもたらされるものなのでしょうか。それは、愛に生きる者にしか理解できないことです。キリストの愛によって生きる者にしか理解できないのです。また、逆から申しますと、キリストの愛、神の愛に生きる者であれば、パウロと同じように避けられないということです。

つまり、この悲しみ、この痛みは使徒パウロだけの特別のものなのかどうかということです。もし、そうであれば、これは、まったく他人事です。今日の説教も、ただ単に、パウロという一人のキリスト者の個人的な心模様を知るだけであれば、何も二回にわけて説教する必要などありません。そもそも、礼拝式でこの言葉を読む必要もないはずです。私どもはこの言葉を神の御言葉と信じるゆえに、そして、それゆえに、この言葉が私どもの日本の教会にも、この名古屋岩の上教会にもどうしても聴き取らなければならない言葉であると確信するゆえに、朗読し、そこからの説教を試みているのです。

ただし、言うまでもなく、私どもはパウロのようにユダヤ人ではありません。異邦人です。しかし、異邦人キリスト者なのです。そのようにして、私どもは、自分のことを、真のイスラエル、正真正銘のイスラエルと自覚しているのです。すべきです。「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。」この御言葉を自分のこととして受け止めることができるし、すべきなのです。ユダヤ人イエス・キリストを信じたゆえです。イエス・キリストの兄弟とされたことによって、私どもも、いへ、私どもこそ、正真正銘の霊的なイスラエルなのです。ただし、それは、血統から、肉的にではなく、あくまでも信仰上の、霊的な意味でのイスラエルなのです。

さて、そのようなことを細かく議論しなくても、私は、日本人のキリスト者として、この悲しみと痛みを知らないで済ませるキリスト者は、ほとんどおられない、そう断言してもかまわないと思うのです。それは直ちに了解していただけるものと思います。皆様の肉親、その兄弟たちのことを考えればすぐにわかります。ご両親のこと。子どもたちのことです。何よりも配偶者のことです。そこに親戚を含ませてもよいでしょう。いかがでしょうか、私どもの教会員の中で、この悲しみ、痛みを知らない人、関わりなく過ごせる人は一人もおりません。家族、親族全員がキリスト者として教会に仕えている人は一人もおりません。私どもはその意味で、この悲しみと痛みとを既に知っているのです。

今朝、私どもは、あらためてこのパウロの悲しみと痛みとを真剣に思わなければならないのではないでしょうか。私どもは、配偶者の救いのために、涙を流し、祈りを重ねている仲間たちのことを知っております。どれほどの痛みをもって、祈っておられることでしょう。あまりにも深い悲しみ、絶え間ない痛みのなかで、ときに、信仰がなえてしまうことすらあるのです。あるいは、もう、悲しみと痛みから逃げ出したい、祈るのも止める。もう、こんな人はどうでも宜しい。そのように愛に生きる戦いから戦線離脱する誘惑もあるのではないでしょうか。あるいは、聖書の教えを、自分勝手に解釈する誘惑も起こります。つまり、イエスさまを信じなくても、洗礼を受けなくても、その人が自分なりに幸せに、しかも生き生きと喜んで生きているなら、間違った不道徳な歩みをしているわけではないのだから、それで仕方がない。自分はキリスト者でよいけれど、あの人は、神さまなしでも生きてゆけるのだ。神さまを信じなくても、そこまで永遠に滅びるだというような不幸、恐ろしいことにはならないはずだ、などと自分勝手に御言葉を解釈する。そして、そこで実際に何をしているかといえば、実は、自分が楽になろうとするのです。イエスさまを信じていない人のことを慮っているのからそう考えるというより、キリスト者自身が、伝えることの責任、伝道の責任を軽く考えたいのです。そしてそこに何が問われるのかと申しますと、愛の欠如です。神と人への愛の欠如です。

私どもは、今朝、先週とはまるで180度異なるような、このパウロの悲しみや痛みにどれほど共感して生きているでしょうか。自分の課題、戦いとして生きているでしょうか。私は、私どもの仲間たちは、皆、この悲しみと痛みに踏み止まっていると信じています。この悲しみと痛みからなお逃げずに、生きている、今日もここに、それらを抱えるようにして来ているはずです。

それなら、そのような言わばマイナスの価値をどうして私どもキリスト者は担わなければならないのでしょうか、あるいは、何故、担えるのでしょうか。未信者の方々は、イエスを信じ、神を信じて、そんな目に遭うくらいなら、信じたくもないし、信じる価値などないではないかとあざ笑うかもしれません。

そこで、皆さんに、第7章の24節と25節とを思い出していただきたいのです。そこには、深淵の溝があると申しました。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」この自己理解は恐るべき理解です。まるで、谷底に転落するようなものだと申しました。さらに、「死に定められた体」とも言いました。自分自身が、永遠の神の刑罰を受けることに定められていると認めるのです。まさにエンドレスの苦しみ、底なしの痛みです。しかしその直後の25節ではこういいます。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」あまりの落差です。普通の方が読めば、どうしても言葉がつながらない、おかしいと、考えられてしまうような文章なのです。

それは、この箇所ととても似ています。実は、同じこと、同じ理屈なのです。なぜ、パウロは第7章で、自分を徹底的に惨めな罪人と、認めることができたのでしょうか。それは、この罪人に注がれた神の愛、神の恵みをパウロが確信できたからです。あのとき、バンジージャンプの例を持ち出しました。バンジージャンプを楽しめるのは、自分の体に確実にロープがくくりつけられているからです。命綱なしに、谷底に飛び込める人間はいないのです。

パウロがなぜ、ユダヤ人のことでこれほどまで、深い悲しみと痛みを心に感じることができるのかと申しますと、それこそが、直前の第8章で明らかにした神の圧倒的な愛のお陰なのです。この神の愛に包まれているからこそ、この愛の引力、愛の包容力を確信するからこそ、彼は、今、自分の正直な姿をちゃんとさらせるのです。

「キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」異常なことばです。いくら兄弟たちを愛しているからと言っても、自分が神から見捨てられてもかまわないと言うのは、信仰の見地、見方からすれば、言ってはならないような恐ろしさのはずです。ある注解者ははっきりと、このように書きました。「少し誇張しすぎているのではないかと思わないでもない」これは、微妙な表現、すっきりしない日本語です。
しかし何故、「キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」と言えるのか、それをきちんとわきまえるべきです。それこそ、直前の第39節を確信しているからなのです。「他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです。」つまり、キリストから離され、見捨てられることは、ありえないと確信しているからこそ、このような恐るべき表現もなお可能なのです。それは、単なるポーズとは、違います。単なる誇張ではないのです。本当に、愛している。同胞のために、心痛んでいるのです。
私どもも、なお、兄弟たちの救いのために、この悲しみと痛みに留まれるのです。そして、彼らのために祈れるのです。とりなしの祈りに生きることができるのです。

最後に、考えたい。使徒パウロは、実際に、キリストから離され、神から見捨てられたのでしょうか。決して、断じてそうではありませんでした。ところがしかし、人類のなかでたった一人、神から見離された人間がおられます。そのお方こそ、人となられた、ユダヤ人となられたイエスさまです。このイエスさまが、神の刑罰、神の怒りを十字架で、私どもの身代わりにお受けくださったそのお陰で、私どもは、もはや決して、神から見捨てられることはないと確信することができるのです。まさに、この命綱、この天からの命綱にくくられている者だからこそ、まだ、救われていない人々のために、彼らの悲惨を思い、祈り、伝道できるのです。彼らは、自分たちが、惨めであるとは分かっておられません。神が必要であるとは考えていません。むしろ、伝道する私どもを邪魔とか、迷惑とすら考えることの方が多いのかもしれません。そこに、私どもの悲しみも痛みもなお深まることです。

先週の講演会で、このようなことを申しました。わたしは、子どもたちの前で説教するとき、喜びながら説教する一方で、いつも、今日ここに来るべき子どもたちがいないことに悲しい思いをすると申しました。それがなくなったら、説教者としては致命傷と申しました。この礼拝式も同じです。現住陪餐会員が全員揃わない。求道者がおられない。どうして、悲しみと痛みとを覚えずにおれるでしょうか。
そうであれば、なお、私どもも兄弟たちのために、家族の救いのために祈り続けましょう。主が私どもをお救い下さったのであれば、必ず、家族も救われると信じましょう。そして、このいつ果てるともしらない痛み、悲しみを共に担うのです。逃げたり、捨てたりしなくてもよいからであります。神に呪われ、見離されたのは、ただ一人、人間となられた私どもの主イエスさまだけなのですから。しかも、父なる神は、御子を十字架で滅ぼされましたが、三日目に死人の中からよみがえらせたのです。私どもは、この御子のゆえに神の愛のなかで生きることができるのです。そして、その愛の中で、悲しみを悲しみ、痛みを担えるのです。伝道の春です。大胆に、祈り、伝道してまいりましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、今朝の礼拝式にも選びの民が御前に勢ぞろいしているわけではありません。そこに、私どもの悲しみと痛みがあります。しかし、主なる御神、どうぞ、この悲しみと痛みから逃げることなく、どこまでもあなたの愛のなかで、兄弟を愛し、隣人を愛することができますように。御霊を注いでください。伝道する志を燃やしてください。自分を楽にさせるために、罪を犯すことがないように守ってください。私どもの教会に求道者を、選びの民を送ってください。私どもが彼らを招けるように用いてください。
アーメン。