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「愛し、愛される喜びー復活の主との出会いー」

「愛し、愛される喜び
      ー復活の主との出会いー」
2007年4月8日(復活祭)

テキスト ヨハネによる福音書 第21章1-17節
「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
 

実に、キリストは墓の中からお甦りになられました。復活祭おめでとうございます。本日、この挨拶、この祝福を告げる言葉が、世界中をかけめぐります。いったい世界中の何ヶ国語で、いへ何百の言語で、この喜びの報せ、勝利の宣言が語られようとするのでしょうか。かつて、ロシア正教会の復活祭に出席させていただいたとき、日本人司祭が、日本語だけでなく、英語で、ロシア語で、ドイツ語で、何ヶ国語の言葉で、「キリスト復活、実に復活」と宣言されていたのを忘れることができません。このキリストの復活、まことに私どものために人間となられた神の御子の復活こそ、全人類にとっての希望であり、福音です。このお方が、死人の中からお甦りになられたからこそ、私どもは罪を赦されたのです。私どもは神の子とされたのです。私どもは永遠の命、神の命を与えられ、御子イエスさまのように終わりの日に体が復活する約束にあずかることができたのです。キリストは、お甦りになられました。私どものために、墓を打ち破り、死を打ち滅ぼし、私どもを人生のまことの勝利者としてくださいました。これは、すべてのものが聞くべき福音の報せです。

昨年の紅白歌合戦で、「千の風になって」という歌が、流れました。わたしも実は、そこで始めて聞きました。その後、この曲は、あっという間にヒットチャートを駆け上りました。歌手の秋川雅史さんは、純粋にクラシックの方のようで、そのすばらしい美声とともに、また、美しいメロディーによって、多くの方の支持を今も受け続けているようです。わたしも、この曲にひきつけられました。そして、この曲が何よりも、多くの方々の心を打っているのは、やはりその歌詞にあるのだと思います。聞かれたことのない方もおられるかと思いますので、ご紹介したいと思います。

「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています
 秋には光になって 畑にふりそそぐ 冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 夜は星になって あなたを見守る
 私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています
千の風に 千の風になって あの 大きな空を 吹きわたっています
あの 大きな空を 吹きわたっています」

愛する方を喪った人が、この詩、この曲を聞いたら、やはり心を激しく動かされるのではないか。そう思いました。しかもその方が若ければ、まさに人間としての究極の悲しみになります。そのような方が、「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」と言う詩を読めば、確かに慰めを受けるのではないか、そう思いました。

しかし、これは、わざわざ言う必要もないことかと一方で思うのですが、やはり大切なことがあると思うのです。この詩で歌われている内容とは、結局、遺された者、遺族の願い、希望、憧れを歌ったものであるということです。つまり、事実ではありません。現実ではありません

わたしは、キリスト者として、この詩を受け入れることはできません。「私のお墓の前で 泣かないでください」確かに耳に心地よく、心に受け入れやすい歌詞です。しかし事実ではありません。私どもはそこでこそ、あらためて思い起こすのです。私は、私どもは、「泣かなくてもよい」と宣言されたお方をわたしは知っているのです。ルカによる福音書第7章にナインの町での物語です。「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。」あの、一人息子を亡くして、悲嘆にくれていた母親に、主イエスが「もう泣かなくともよい」と仰せになられたのです。

確かに、この人は例外中の例外の奇跡にあずかったのです。しかし、主イエスは、単に、このような奇跡がこのナインのやもめだけに起こること、このひとり息子にだけ起こることだと、示されるのではないのです。ご自身がその後で、死人からお甦りになられることによって、世界の終わりの日、主イエス・キリストが天からもう一度この地上に立たれるその日に、すべてのものを復活させることの先触れとして、見せてくださったのです。主イエス・キリスト御自身の復活によって、私どもに起きる将来を、この人にだけ、先取りして見せてくださった出来事なのです。

主イエスは、ご自分が葬られた墓の前で、泣きぬれていた婦人に仰せになられました。「婦人よ。何故、泣いているのか。」「わたしの墓の前で泣かないで下さい。」と願うのではなく、「泣くな」とお命じになることがおできになる方がおられるのです。そうであれば、我々は、あの「千の風になって」という歌に、心を慰められる必要はないのです。この歌は、この福音の事実、歴史の事実を知らない人、信じない人の、単なる空想、願望にしかすぎないのです。私どもは、主イエスの確かな希望、福音によって、死人の復活の信仰、体の復活の信仰を新しくしたいと願います。

さて、今朝、ともに聴きました、御言葉は、復活されたイエスさまとお弟子さんたちとの出会いの物語です。そして、このティベリアス湖畔における早朝の出来事は、当事者ばかりではなく、時を越え、今日の私どもにも起こっているできごとなのです。今朝、そのことを皆様と深く心に刻んでいただきたいと願います。

 ここに登場するのは、7人の弟子たちです。その中心にいるのは、ペトロです。私どもの罪を償うために、十字架につけられたイエスさまは、十字架につけられた日から数えて三日目、つまり日曜日の朝早く、復活されました。弟子たちは、十字架にはりつけられて殺されてしまわれたイエスさまのことをどんな気持ちで考えていたのでしょうか。言いようもない深い悲しみのなかに沈み込んでいました。それだけではありません。この弟子たちは、主イエスがユダヤ人の祭司長、ファリサイ派の人々が差し向けた兵士たちに捕まえられてしまったとき、イエスさまをお守りすることもできずに逃げ出してしまったのです。

実は、この弟子たちのなかでも、とりわけ、ペトロはイエスさまに誓って言ったことがありました。「イエスさま、たとえ他の弟子たちが、つまづいても、わたしは、どんなことがあってもあなたを離れません。どんなことがあっても、あなたをお守りします。あなたのためなら命を捨てます。」
ところが、主イエスが予告されたとおり、ペトロは、「自分は、イエスさまの弟子ではない。イエスさまなんて知らない。」と裏切ったのです。イエスさまは、もちろん、お弟子さんたちが十字架の前に散り散りになってしまうことをご存知でした。裏切られることもなにもかもご存知でした。

このようなわけで、ペトロを筆頭にして、皆、深い悲しみや悔しさのなかに、ぼろぼろになって、落ち込んでいたのです。「本当に、自分たちはどうしようもない弟子だ、本当に、ダメな人間だ。イエスさまも死んでしまった。もう、昔の生活に戻って、弟子であったことを隠して、ひっそり暮らそう。」そんな諦めきった気持ちでいたと思うのです。

おそらくペトロは、悲しみで目を真っ赤に晴らしていたでしょう。声をかけることもできないほどに憔悴しきっていたのではないかと思います。ペトロは、イエスさまのことが大好きでした。そのことを疑うことは、できません。どれほど、ペトロが主イエスを愛していたのか、それもまた、誰しも認めるほどのものであったかと思うのです。

さて、復活されたイエスさまが、先ずなさったこと、それは何でしょうか。主イエスがもっともそのお心にかけておられたのは何でしょうか。それは、弟子たちに会いに行くことでした。それならそれは、何のためでしょうか。

もし、これが、我々であれば、どうでしょうか。つまりこういうことです。もしも、誰かに裏切られ、嘘をつかれたとします。それが、分かってしまったとします。そのとき、皆さんは、そのような人に会いたくなるでしょうか。もし、会うとすれば、そのとき、我々の口からはいったい、どのような言葉が出てくるでしょうか。おそらく、ひどい言葉、うらみつらみの思いのたけをぶつけるのではないでしょうか。

それなら、復活されたイエスさまは、どうでしょうか。弟子たちを責めるため、懲らしめるため、ご自身の怒りや恨みを晴らすために会いに行かれるのではありません。正反対です。イエスさまは、弟子たちを、特に、ペトロを慰めるために、急がれるのです。

そして、弟子たちに会って、こう仰せになられました。「平和があるように」つまりそれはこういう意味です。「大丈夫です。神さまの平和は今、あなた方にありますよ。わたしは、あなたがたを叱りに来たのではありません。あなたがたを懲らしめに来ているのではありません。」そのように、神さまの赦しと祝福、つまり神さまの愛を告げるためなのです。主は、わたしどもにも何度でも、このように告げてくださいます。だからこそ、わたしどもは真実に神に悔い改めることができますし、悔い改めるのです。

このような主イエスに再びお会いすることができた弟子たちは、どれほど喜んだことでしょう。主イエスは、死んでそれっきり、終わってしまったのではないのです。今、目の前に愛するイエスさまは、生きておられるのです。しかも、自分たちが裏切り、見捨てて逃げてしまったイエスさまは、その自分たちを赦してくださるのです。これまでどおり、なにも変わらない真の愛で、愛してくださること、愛し続けてくださるをお知らせくださったのです。それはもう、飛び上がって喜んだと思います。

ところが、それでもなお、お弟子さんたちのなかでもペトロは、どこか心がやわらかくなっていないのです。堅いのです。その心は、アイロンのかかったシーツがぴーんと伸びているようではありません。心に皺が寄っています。心にこだわりがあります。晴れ晴れとしないのです。こんなに嬉しいことが起こり、こんなにすばらしい愛に触れているのに、どうしてでしょうか。それは、彼が主イエスにあれほどまでに酷いことをしてしまったからです。ですから、ペトロは、どれほど、優しくされても、赦されても、今更もう昔のようにイエスさまのお弟子さんにはなれないはずだ、なってはいけないはずだと考えてしまっていたのです。ペトロは、もともと漁師でした。ティベリアスの湖、ガリラヤ湖の岸辺で漁師をしていました。今、彼は、主イエスの弟子である立場から身を引くようにして、漁師に戻ることを決心するのです。ふるさとの湖の岸辺に戻って行くのです。

そしてこの岸辺は、同時に、イエスさまを初めてお会いした場所でもあり、主イエスにお従いした最初の場所でもありました。つまり、こういうことです。主イエスは、彼らをもう一度、初めの愛、初めの場所からやり直させてくださるのです。

主イエスは、彼らを放っておかれません。主は、彼らを追いかけて行かれます。弟子たちは、すでに3年あまり漁にでていませんがしかしそこは、元漁師です。この湖のことなら、よく知っていたはずです。7人で漁に出れば、それ相応の収獲があると、予想していました。ところがどうでしょう。彼らは、実に一晩中漁を続けましたが、一匹もとれませんでした。

彼らの肉体の疲れは、どれほどであったかと思います。しかし何より、精神的な疲れはどれほどのものであったのかと思います。今更、主イエスの弟子に戻ることはできないと考え、その意味では、もはや、後戻りできないこの最後の自分たちの仕事である漁において、一晩中働いてなお雑魚一匹も釣れなかったのです。

悩み続けている弟子たちに、主イエスは、命令されます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

彼らは、イエスさまがここまで来て下さり、しかも自分たちのこの惨めな状況を、一瞬で打破してくださり、網も破れるまでの大漁に導いていただいたことに、主の御心を悟ったのです。そして、ペトロは、いてもたってもいられずに、主イエスに近づくために、岸に船を着ければよいのに、いてもたってもいられない、まさに一分一秒でも早く、主イエスにお会いしたいと、上着をまとって飛び込みます。そこにペトロが、主イエスをまさに神の御子として、畏れ敬っていた姿、信仰の心がよく分かります。
主イエスは、魚をいっぱいに取らせてくださったばかりではありません。すでにペコペコに御腹をすかしている弟子たちのために、炭火をおこしていてくださったのです。そこで、とれたての魚を焼いて、もてなしてくださったのです。このときの、焼き魚、どんなにおいしかったでしょう。まさに、一生忘れられない朝ごはんになったはずです。心も喜びで満たされた、喜びでいっぱいになったことでしょう。

食事が済んで、イエスさまは、いよいよペトロにお尋ねになられます。このためにこそ、主は来られたからです。主イエスは仰せになられます。「ヨハネの子、シモン」ペトロはあだ名、シモンは本名です。主は、優しく名前を呼んで、お尋ねになられます。「この人たち以上にわたしを愛しているか。」しかも、一度だけではありません。三回も、同じ質問をされたのです。ペトロは、三回、同じように答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」すると、イエスさまは、三回仰せになられました。「わたしの小羊を飼いなさい。」と。

主イエスは、「この人たち以上にわたしを愛しているか。」と質問なさるのは、主がとことんまで、ペトロを愛しておられるからに他なりません。このような質問ができるのは、主イエスが徹底的に愛しておられるからに他ならないからです。その御愛を受けて、実にペトロも、「はい」と答えます。ここに、主イエスの愛とペトロの愛とが、ついにお互いに響きあったのです。通じたのです。心と心が通いあったのです。そこで確認しておきたいのは、そのような愛の関係は、主イエスの方から、始まるということです。主イエスの方から、通い始める愛なのです。私どもが主イエスを愛すること、それは、このときのペトロと同じです。イエスさまが愛してくださることに「はい、わたしはイエスさまに愛されています。だから、わたしも愛しています」と、このようにしか答えられないし、このようにしてくださったからこそ、大胆に、「はい、あなたを愛します」と答えることができるのです。

皆さんには、心から、そして命をかけて愛してくれる人がおられるでしょうか。隣人と、友達と、一番近くにいる兄弟と、父や母と、夫婦が、その心と心がぴたっと通っているでしょうか。そうであったらなんとうれしいことでしょうか。しかし、今朝もしも、自分には、そんな人がいないと思う方が、おられても、どうぞ、心を堅くしないでください。心を閉じないでください。なぜなら、あなたには、主イエスがおられるからです。復活された主イエスは、あなたのことをどれほど愛しておられることでしょう。何故、主イエスは復活してくださったのでしょうか。それは、ただひたすらあなたのためです。主イエスは、あなたの罪を償うために、その身代わりになって、十字架にかかってくださいました。そしてその御業が、確かなものとなるように、現実化するためにお甦りになられたのです。

そして今朝、今ここに、あなたがおられるこのところにも、主イエスは、追いかけてきてくださったのです。前もって、いてくださったのです。そして、あなたにも、「わたしはあなたを愛している。あなたはどうなのか?」とお尋ねくださるのです。これまで、どれほどこのイエスさまの愛、神の愛を無視し、知ろうとせず、真剣に考えようともせず、受け入れようともしないで、自分勝手な生き方を、貫いてきた人であっても、主は今ここで、「わたしはあなたを愛している。あなたはわたしを愛するのか」と迫ってくださるのです。私どもは、今ただちに、「はい、愛しています」と返事をしたいのです。そのとき、ただちに、主イエスと私どもの心が通いあうのです。

そして、その人には、主イエスから使命が与えられます。「わたしの羊を養いなさい。」ペトロだけではありません。私どもも、主イエスの羊とされ、教会員とされました。つまり、主イエスを愛して生きることは、教会員を愛して生きることと別のことではなくなるのです。

今から、聖餐の食卓を祝います。何故、復活祭に、聖餐を祝うのか。もはや、説明するまでもないのではないでしょうか。この弟子たちの経験は、昔のことだけではないからです。今、復活された主イエスは、その御言葉の説教を通して出会ってくださいます。また今あずかる、この聖餐の食物をもって、私どもの心と体と魂とを養い、満たしてくださるのです。私どもは、ここで声に出して、「わたしはあなたを愛します。」と告白しないかもしれません。しかし、手をさし出します。そして、この食物を食べ、飲みます。それこそは、主イエスが差し出す愛を受け入れる行為、主イエスへの愛を言い表すことなのです。

祈祷
私どものために、お甦りくださいました、主イエス・キリストの父なる御神。今、ここは、湖のほとりではありません。主イエスも肉眼では見えません。しかし、主イエスはその聖霊によってここにおられ、御言葉の説教を通し、私どもに復活の事実を明らかにし、何よりも私どもに御自身の愛を明らかに示していてくださいます。私どもも心から主イエスを愛します。どうぞ、今その信仰をもってこの聖餐にあずからせてください。そして、生きるにも死ぬにも、私が主イエス・キリストのものとされている慰めの事実に深く留まり、神の栄光と隣人への愛、救いのために生きる者としてくださいますように。アーメン。