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「神の憐れみによる選び」

「神の憐れみによる選び」
2007年4月29日
テキスト ローマの信徒への手紙 第9章6節~13節

「 『私はヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。』
では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」
 

教会の改革者カルバンのジュネーブ教会信仰問答の問い一は、人生の目的は何かと問い、神を知ることと答えます。私どもが作りました、子どもカテキズムの問い一も、同じです。人生の目的の第一に挙げたのは、神を知ることでした。

そもそも人間が、誰かのことを知るということは、実は、そう簡単なことではないと思います。自分より劣った人、年齢の若い人、子どもであれば、まだよいのかもしれません。しかし、子どもが大人を知る、あるいは、生徒が先生を知る、素人が専門家を理解するということは、これは、ほとんど不可能に近いことではないでしょうか。当然のことですが、小さな器のなかに、大きなものを盛ることは不可能です。ですから、人間が自分より優れた人間を知るということは、それだけでも実に、困難なことなのです。

人間が相手を知る、夫が妻を、子どもが親を、友達どうしを知るということは、そこで私どもに求められていることは先ず、先入観をどれだけ排除できるのかということでしょう。自分自身の心を開かなければ、相手を理解できません。そのためには、自分の心が、相手に誠実、真実でなければ、知ろうとする相手はモノでも動物でもないのですから、相手が心を開いてくれません。そうなればいよいよ、人間を、生きているかかわりを持っている相手を知ることが困難になるのです。自分自身の心をどのように素直に開くことができるのか。それが問われるわけです。しかしそこでも、途方にくれるのです。自分を素直に、真っ白な状態で、相手に向かうということが、実際どれほど難しいのかということです。

そうであれば、いったい人間が神を知る、言葉を換えれば、理解し、認識することは可能なのでしょうか。そのことを改めて真剣に考えておきたいのです。なによりも、先週、そして本日のテキストによって、私どもはあらためて神を正しく知ること、信じることとはどういうことなのかを考えさせられるざるを得ないのです。

パスカルは、このような言葉を残しました。「人間が神を知ることは不可能である。しかし、神は人間を知っていてくださる。」この意味で、この神の可能性のなかでしか、人間は神を知ることはできないのです。人間は、世界中を探検し、しらみつぶしのように神を探し出そうとしても、そこで神を見出すことは、極めて困難です。しかし、神が、人間を探し出してくださるのです。そこに、私どもの揺ぎ無い救いがあります。

さて、使徒パウロは、13節で、旧約聖書の最後の部分におさめられているマラキ書第1章3節を引用してこう言いました。「『私はヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。』「エサウを憎んだ」という御言葉は、我々の意表をつくような言葉であると思います。我々人間にとっては、耳障りではないでしょうか。たとえば、伝道新聞の巻頭言の御言葉に記すとすればどうでしょうか。いささか気が引けるのではないでしょうか。あえて載せるのであれば、「エサウを憎んだ」を削除するかもしれません。

しかし、聖書はまさに神の言葉です。聖書はまさに、人間的な書物ではなく、徹底して神の御言葉が記されているのです。つまり、宗教を信じさせるために、信じやすいこと、分かりやすいことを書いているわけではないのです。

さてここで使徒パウロは、我々がこのような御言葉を聞くと直ちに、湧き上がってくる反発、文句を言いたくなる心を、先回りして、受け止めています。14節です。「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。」「神さまは不正を犯しているのではないか」これは、先週6節で学びましたように、「神の御言葉は無効になっているのではないか」と同じように、いへ、それ以上に厳しい問い、批判であります。

神は確かにここで、生まれる前から双子の弟の方のヤコブを愛し、実際の長男とし、逆に、長男として生まれたはずのエサウを憎んだというのです。そうなれば、憎まれたエサウにしてみれば、「自分は悪くない、自分には不義はない、悪いのは、生まれる前から決めていた神のほうだ。神こそ、不義、不正である。」そのように文句を言いたくなるのも当然ではないでしょうか。私自身も、かつてはそのように考えていました。そこでは、自分をエサウの立場においていたわけです。

しかし信仰者、使徒パウロは、断言します。直ちに言います。「決してそうではない。」断じてそのようなことがあるはずがない。」これは、とても大切な言葉です。ある人は、この言葉は、信仰者の言葉、神は不正であるとは、不信仰者の言葉と言いました。そして、私どもは、この二つの間で、徹底して神の語りかけ、パウロを通して断言する神の言葉を聞き続けるべきです。そのような思いが、私どもにわずかでも沸き起こったのであれば、ただちに、パウロの言葉を聴いたらよいし、聞くべきです。「決してそうではない。」

私どもは、ここで何度でもあきることなく、先週学びました結論、メッセージを確認したい、思い起こしたいのです。つまり、ここでは、神の独り子、神の長子、長男であるお方、神に愛されることが当然の主イエス・キリストが、なんと、エサウの立場に立たれたということでした。十字架の上で、神の刑罰を受け、神の憎しみ、神の怒り、神ののろいをお受けになられたのです。そのイエスさまのおかげで、私どもはキリスト者になることができた。神の民の一員。イスラエルの一員になれたのです。ですから、私どもは、ヤコブの子孫、イスラエルになれたのです。ですから、主イエス・キリストの御業、神が人間になられ、十字架について黄泉に降って、復活された以上、もはや、誰も、自分は神に憎まれた人間なのだ、などと、決して言ってはならないということでした。それは、同時に、神に不正がある、神は不義であるとは、決して言ってはならないということでもあります。

しかしその結論を学びながら、私どもは、ここでさらに丁寧に考え抜きたいのです。それは、「神は、どなたなのか。どのようなお方なのか。」ということです。初めに申しましたことです。しかし、問題は、単に、未信者の方だけではないのです。キリスト者であっても、しばしば、まことの神をまことの神として知り、礼拝し、従うことにおいて失敗し、罪を犯します。それは、神を神の側から知ろうとしないからです。神を、人間の側から知ろうとする、小さな容量のなかにおさまりきらない生きておられる神を、まるで、無理をして入らせようとするのです。そこで、必ず行うことは、神をいわばコンパクトにしてしまうことです。自分の容量、大きさに合わせるのです。そこにとんでもないまちがい、おそるべき間違いがあります。そのようにして分かる神は、生きておられる神ではなく、キリスト者がコンパクトにした神です。それは、偶像でしょう。

神は、神である。それは、創造者であられ、主権者であられるということです。創造者、主権者は人間ではないということです。
パウロは、ここでモーセを実例として引き合いに出します。出エジプト記第33章の御言葉の引用があります。モーセは、自分たちが、確かに神の恵みにあずかっている事実を確信したいと願って、このように神に願い求めたのです。その箇所を聞きましょう。「モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」
 
神は、その僕モーセに神が神である。つまり神が主である。神こそ唯一の主権者であられて、それゆえにまったくどこから強制されることなく自由に、恵もうとするものを恵み、憐れもうとする者を憐れむことがおできになることを明らかに宣言してくださったのです。確かに、ここでは、「憎む」という否定的な言葉はありません。神が積極的に、あの偉大な僕モーセに恵み、憐れみ、慈しみを一方的にお与えになられたのです。

しかし、ここで丁寧に考えなければならないことがあります。モーセとは、どのような人間であったのかということです。モーセ、彼の名の意味は、「引き上げられた」というものです。エジプトの王ファラオは、イスラエルの奴隷たちがあまりにも多くなりすぎたことが不安になって、イスラエルの男の子は、皆、殺さなければならないという恐るべき命令を下したのです。モーセは、生まれて三ヶ月は、隠されていましたがとうとう、隠し切れなくなり、ナイル川に流されてしまったのです。ところが、この赤ちゃんは、よりによってファラオのおきさきに発見され、川から引き上げられたのです。つまり、命を拾われたわけです。モーセとは、死ぬべき命を拾われたという意味です。40年間をエジプトで、王子として過ごし、その後の40年間は、ひとりの羊飼いとなっていました。80歳の老齢のモーセを、神がイスラエルのエジプトからの解放の指導者として呼び出されました。イスラエルの歴史のなかで最大の功労者、民族の英雄です。しかし、モーセという人間を描きだす聖書は、彼自身の人間としての圧倒的な優秀さ、指導者としての能力の突出した力量を示してはいないのです。確かに、エジプトの宮廷で、やがての王をめざす教育は施されていました。当時のイスラエルの人々のなかでは、まさにありえないような教養を身につけた40年間であったでしょう。しかし、羊飼いとなって40年余り、80歳の人間に、どうしてあのような英雄的な仕事ができたのでしょうか。

それは、まさに、パウロが言うとおりではないでしょうか。「人の意志や努力ではなく」モーセは自ら率先して、エジプトにいる同胞を救い出そうとしたのではないのです。彼の意志ではなく、神の意志でした。モーセは、自らイスラエルの指導者となるべく努力を重ねたわけではありません。40年間のエジプトでの生活も、40年間の羊飼いとしての生活も、自分で率先して選び取ったのではありません。そこでの努力の積み重ねによって、やがての英雄的指導者としての準備をしていたというのでもまったくありません。神が、彼の特殊な経験へと導き入れ、神ご自身のご目的によって彼を、訓練されたのです。つまり、モーセの努力ではなく、ただ神のご計画に基づくものなのです。パウロははっきりと告げます。神の憐れみにのみよるのだというのです。

私どもは、うっかりするとこの憐れみという日本語に、何か頼りないものを感じやすいのです。日本語での憐れみには、人間の憐れみしか意味がありませんから、神の憐れみを伝えきれません。しかし、ヘブライ語での憐れみは、愛です。しかも契約の愛ということです。ふわふわした感情などとはまったく異質の、強固な意志のことです。神が強固な意思をもって、どんなことがあっても愛するという御心が、ここでの憐れみなのです。モーセが選ばれたのは、神の憐れみによるのです。

しかも神が一方的に、モーセを選ばれたのは、モーセの内に、選ばれるにふさわしい意志、努力、賢さ、優秀さ、能力、技能があったからではないことに触れておかねばなりません。神に選ばれる特別の清さ、正しさがあったからではまったくないのです。それにも関わらず、神がモーセを選ばれる。そこに、神の憐れみがあります。神の自由な選び、ご計画があります。

何故、ここで偉大な神の人モーセを、例に挙げるのでしょうか。ユダヤ人であれば知らない人などいないモーセを引き合いにだせば、あのような優れた人と自分とは比べられないと、すぐに考えられやすいのですが、実は、違うのです。パウロにしてみれば、あのモーセにおいて、神の選びははっきりするのです。神が憐れもうとする者、慈しもうとする者を、憐れみ、慈しまれる事実は、名も無きキリスト者、ローマに住むキリスト者である読者と同じなのだと言いたい、告げたいのです。たとえ、モーセのような神の救いの歴史を担うことができなくても、モーセは神に拾われた人間ではないか。それは、ローマで福音を聴いて、信仰に導きいれられたあなたがたもまったく同じではないか。そう告げるのです。

さて、使徒パウロは、ここでダメを押すかのように、ファラオについて言及します。ファラオとは、モーセが告げた神の言葉を徹底して無視し、反抗した不信仰な人間のモデルです。彼は、自分の面子のため、どんなに神の怒り、さばきを受けてもなお、いよいよ強情になって、イスラエルの民をエジプトから去らせてはなるまいとしたのです。

ところが誰しも初めて出エジプト記そのものを読むとき、大きな違和感を抱くのです。何故かというと、モーセが警告したとおり、神はエジプトに災いを与えられました。実に、血の災い、蛙の災い、ぶよの災い、あぶの災い、疫病の災い、腫れ物の災い、雹の災い、いなごの災い、暗闇の災い、そして最後の十番目の初子の死です。動物も人間も、エジプトで生まれたすべての長子が死んでしまいます。ところが、最後の最後まで、ファラオはイスラエルには生きておられる真の神、天地創造の神がおられることを認めなかったのです。

しかも、聖書は、災いが下されたたびに、繰り返しこう告げるのです。「主がファラオの心をかたくなにされたため、ファラオはイスラエルの人々を国から去らせなかった。」こう読めば、ほとんどの人があきれてしまうのではないかと思うのです。「いったい、神さまは、どっちの味方なのだろうか。」モーセの告げたとおり神の驚くべき災いがなされたのです。しかし、それによって、ファラオは、「モーセよ、分かった。お前たちの神は生きておられる。だから、これ以上、我々を苦しめないでほしい、エジプトから去って行きなさい。」このようには、ならなかったのです。出エジプト記は、繰り返し、「主がファラオの心をかたくなにされたため、ファラオはイスラエルの人々を国から去らせなかった。」と言うわけです。

一生懸命に、モーセは祈りながら、神さまの助けを受けながら、神の裁きをファラオ王に告げるのです。そして神は、その通りになさるのです。ところが、その一方でファラオがますます頑なになるのは、神のせいであると言うのです。これは、明らかに、理性的に言えば、矛盾でしょう。神は、自ら人間をもてあそんでいるのではないかと、文句を言いたくなる人も出てくるでしょう。出エジプト記の著者は、そのような人間の文句、批判を知らないのでしょうか。そうではありません。使徒パウロはここで新しい真理を主張しているのではありません。旧約聖書から連綿と語られてきた真理を、語りなおしただけです。神が、主権者であられるということです。

それは、神が、人間を弄んでいるのではなく、人間が、巨大な権力を掌握していたファラオでさへも、彼の一存で、イスラエルを解放したり、奴隷に留めおくことはできないというのです。
そしていずれにしても、神が不信仰者すら用いて、神のご栄光を自ら現され、そして、神の御名を広まられるのです。イスラエルを救われるのです。それは、今日で言えば、教会を救う、キリスト者をどんどん増やして行かれることです。神の福音がどんどん広められるということです。

「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。実に、神は、ファラオのように神を信じていない者、むしろ神に敵対する人間であっても、神の栄光を損ない、福音伝道を阻止することはできないと仰せになられるのです。この御言葉を引用したパウロの信仰は、すさまじいまでに、したたかなものです。神の民がたといどんなに酷い目に会ったとしても、それで神のご計画は阻止されない、神のご栄光は神御自ら現されるものなのだというのです。

そうであれば、最後の18節、「このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」という御言葉も、神が頑なにしようと決意されたご意志も、それは神の憐れみに基づいているのだということが分かります。

ただし、わたしは、この信仰は、まさにすさまじいまでにしたたかな強さをもたらすことは確かです
が、それは、何かの冷たい理論とか、考え方ではなく、信仰の人生を重ねて行くなかで身につけられるものだと思います。そしてそのためにこそ、私どもは、逆境のときはもとより、順境のときも、問題なく、平穏で主の業にいそしんでいられる間に、説教を聞き、聖書を学び、礼拝の体験を重ね、この信仰を常に養うことが求められると思います。いざ、というときに、このしたたかな信仰によって乗り越えるためにもです。

さて、最後に、私どもに残されている課題があります。この選びの神を賛美し、そして選びの意味をわきまえ、神の選びの目的に自分の人生を、ぴたりと合わせることです。選びの意味そして目的とは、何でしょうか。あらためて先ほどの御言葉を読みます。

「モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」
つまり、神の栄光を現すことです。それは神の主権と言い換えてもよいでしょう。神が主であられるという、主権者であられるということを徹底して証することです。私どもは、証人となること、神の栄光の証人として生きることです。それは、自分の意志や努力で担えるのではなく、神に憐れまれたから、慈しまれたから、恵まれたからできるのです。そしてこの神の主権、その栄光は、自分の全存在をもって、神の憐れみを証する以外にないのです。今自分がこのようになお生かされ、神の恵みを受けている、その憐れみを証するのです。これが、キリスト者の選びの目的です。そのために、身を乗り出して、すべきことがあるのです。

いよいよ、今週から5月の伝道月間が始まります。13日には、親子合同です。日曜学校の父兄を招くのです。教師方は、まさに、この日を目標にして伝道し、必要であれば、家庭訪問を試みて、子どもたちとの絆を深めることも大切です。日曜学校教師でなくとも、日曜学校に知り合いの父兄を誘うこともできるのではないでしょうか。午後には、コンサートです。これは、教会に興味のない方にでも、案内できるのではないでしょうか。どうして、伝道のコンサートをするのか、それは、会員が、教会に誘う「きっかけ」を作れるからです。このきっかけを用いてほしい。20日は、実に久しぶりに、外部講師をお招きするのです。説教学の教師が来られます。学生も来ます。それだけでも、この礼拝堂に溢れるようになるでしょう。しかし、もっとも大切なことは、皆様の親しい方、祈っている方を、招き、ここに来ていただくことです。

伝道する私どもは、自分の意志にではなく、努力によってでもなく、ただ神の憐れみによって救い出されたことを誇りにしているのです。だから、あなたもこの憐れみを受けてほしい、だから、あなたも神の怒り、神の憎しみのなかにあるのではないのだ。何よりも主イエス・キリストが十字架についてくださったのだ、神の憐れみはあれほどはっきりとあなたにしめされているではないか、だから、あなたが、神の憎しみのなかにあるはずもないのだと、説得するのです。これが私どもの伝道です。

ある人は、頭のなかだけで理論をこねます。このような理論です。「神は自分でヤコブを愛し、エサウを憎むのだから、伝道しても無駄ではないか。愛されている人は、教会に来て、憎まれている人は教会に来ないはずだ。」それは、自分が、ただ恵みによってのみ救われた事実、憐れみによってのみ選ばれた事実を忘れているのです。あなたですら、愛されたのであれば、この神の愛の大きさ、豊かさは計り知れないのです。ですから、伝道をしないのであれば、この選びをもてあそぶことになりましょう。選びは神の目的のためなのです。選ばれて、それで良かったと言って、座り込んでいてはならないのです。

祈祷
 私どもをあなたの憐れみの御心において、何よりも主イエス・キリストの十字架において、選び、救ってくださいました父なる御神、しかもそれは、私どもの意志でも努力でもないのです。あなたの恵み、憐れみを心から感謝申し上げます。どんなことがあっても私どもを救おうとし、救ってくださるその憐れみの確かさのなかで、どうぞ、あなたのご目的を担う教会としてください。ひとり一人の人生を通して、あなたの選びの目的を実現させてください。いよいよあなたのご栄光を現してください。アーメン。