「お母さん、そして神さまといっしょに
ーナオミはやっぱりナオミですー」
ルツ記 第1章
ここに今日、「親子合同礼拝式」として、一緒に礼拝できることを心から感謝いたします。天と地をお造りになられた私たちの真の神さまが、ここにおられる一人お一人を愛していてくださり、今日、その神さまの御許へとお招きくださったのです。そして、今、その神さまの御許に僕たち私たちはみんな出ているのです。そのように皆さんに、主イエス・キリストの恵みと父なる神の愛と聖霊なる神さまの交わりが豊かにありますように。
神さまが喜んでくださるのは、わたしたちが、一人ぼっちで礼拝することではなくて、このように日曜日の朝、皆で集って一緒に礼拝することです。もちろん、お家で一人でお祈りすることもすばらしいことですが、それができるのも、今日の日曜日、主の日に皆でこのように一緒に礼拝しているからです。
今日のお話は、旧約聖書のルツ記からです。僕たち私たちは、これまで、旧約聖書の士師記という箇所から御言葉を学んで礼拝してきました。先週は、サムソン、先々週はギデオン、その前はヨシュアというような偉大な人たちから神さまの御言葉を学びました。今日のお話の主人公は、男の人たちではありません。女の人たちです。とても立派な、すばらしい信仰を生きた女性たちです。
最初に登場するのは、ナオミさんという一人のお母さんです。夫の名前は、エリメレクさんと言います。二人は、もともとは、イスラエルの国にあるユダのベツレヘムという小さな村に住んでいました。「ユダの町ベツレヘム」という小さな村の名前は、今では、世界中で大勢の人たちが知るようになりました。みんなの中にも、「アッ」と思ったお友達もいるかもしれません。そうです、イエスさまがお生まれになられた村です。
ただ、このベツレヘムの村は、イエスさまがお生まれになられる前までは、「ダビデの村」と呼ばれていました。ダビデというのは、イスラエルの歴史のなかでもっとも偉大な王さまのことです。この村は、ダビデ王様の故郷だったのです。イエスさまの生まれた村、そのもっと昔はダビデ王様が生まれた村、そのような有名な村になったのは、どうしてなのでしょうか。その理由は、今日のルツ記のなかに書かれてあります。
さて、この夫婦には、かわいい二人の男の子が生まれました。男の子たちは、どんどん食べます。ところが、その頃、ベツレヘムの村は、天候が不順で、畑には、お野菜や麦が取れなくなって、食べ物がなくなってしまいました。「御腹がすいたよぉ」と泣いている子どもたちのために、ついに、エリメレクさんと奥さんのナオミさんの二人は、しかたがなく、ベツレヘムからモアブという国に行きました。このモアブという国は、遠いところにある国でした。外国です。そこは、異邦人の住んでいる国、つまり真の神さまを知らない人たちばかりの国でした。けれども、愛する夫のエリメレクや、二人のかわいい子どもたちがいましたから、ナオミさんは、神さまを信じて、明るく、楽しく働きました。
ところが、なんということでしょう。夫のエリメレクさんは、まだまだ幼い男の子と愛するナオミさんを残して死んでしまったのです。
けれどもお母さんのナオミさんは、負けませんでした。「今こそ、神さまを信じて、神さまに頼って生きて行こう。」こうして、ナオミさんは、親戚もいないモアブという外国で、二人の男の子を、女手一つで一生懸命、立派に育て上げました。
そして、とうとうその子どもたちも、立派な大人になりました。それぞれにモアブの国のお嫁さんをもらって、結婚することができました。ナオミさんは、それはそれは、幸せでした。
ところが、なんということでしょう。この大切な息子たちが、死んでしまったのです。しかも二人とも、奥さんを残して死んでしまったのです。どれほど、つらかったでしょう。どれほど悲しんだことでしょう。
ちょうどその頃、故郷のベツレヘムでは、もう飢饉は終わって、自由にものが食べられるようになっているという知らせが届きました。ナオミさんは、ついに決心しました。「故郷のベツレヘムに帰ろう。」
ナオミさんは、残された二人の若いお嫁さんと一緒に暮らしていました。お嫁さんたちは、二人ともナオミお母さんと一緒に、見たことのないベツレヘムの村に行こうとしました。
しかしナオミさんは、若い二人の娘たちの将来を心から心配していました。イスラエルの町に行ったら、おそらくこのお嫁さんたちは、「あの人たちは、異邦人だ、イスラエルの民ではないのだ」と陰口を言われて、悲しい目にあうかもしれないと考えました。
そこでナオミさんは言いました。「あなたたち、もう、大丈夫です。わたしは自分の故郷に帰ります。あなたたちも自分の故郷に戻りなさい。まだ、若いのだから、結婚する相手を見つけてくださいね。わたしの故郷に一緒に来ても、あなたたちの結婚相手は、もう、いないのです・・・」
二人は声をあげて泣いてしまいました。そして、オルパというお嫁さんは、とうとう、お母さんのいわれたとおり、モアブの野に戻って行きました。
ところが、ルツさんは、お母さんにしがみついて離れないのです。ナオミさんは、もう一度、心を鬼にして、「オルパのように、故郷に戻りなさい。モアブの神さまのもとに帰りなさい。」と言いました。ところが、ルツさんは、こう言いました。「お母さん、あなたを見捨てなさいなんて言わないでください。お母さんの民は、わたしの民です。お母さんの神さまは、わたしの神さまです。イスラエルの神さまこそ、まことの神さまです。ですから、どんなことがあっても、ついて行きます。もし、お母さんから離れるようであれば、神さまがわたしのことを罰してくださいますように。」
そうです。実は、このルツさんは、今では、ナオミさんや自分の夫が信じていた神さまのことを、心から信じるようになっていたのです。それは、ただ単に、お母さんから離れたくないという気持ちだけではなかったのです。本当の神さまを知った喜びや、本当の神さまを礼拝する幸せを失いたくなかったのです。
ナオミお母さんや、ルツのご主人はきっと、すばらしい信仰者であると思います。だから、ルツさんは、わたしたちの神さま、聖書の神さまを信じたのだと思います。
でも、ナオミさんも、完璧な人ではありません。なぜなら、故郷に帰ってきたとき、皆が、懐かしがって「ナオミさん、ナオミさん」と呼びました。ナオミという名前の意味は、快い、気持ちが晴れ晴れするという意味なのです。そこでナオミさんは、このように言いました。「わたしのことをもうナオミと呼ばないでください。私は夫を失い、二人の大切な男の子も失ってしまって、わたしは神さまから罰を受けているのです。わたしは、神さまから酷い目にあわせられています。マラ、苦いと呼んでください。わたしはマラ、苦しみをなめている女性です。」
みんなはどう思いますか。確かに、ナオミさんは、愛する夫、子どもたちが死んでしまうという、これ以上にないような悲しい目、苦しい目に遭っていました。でも、どうでしょうか。本当に、ナオミさんが言うように、僕たち私たちの神さまは、わざわざこの家庭を、酷い目にあわせたのでしょうか。この幸せな、美しい家庭を、不幸に落とされたのは神さまなのでしょうか。
まったく違います。正反対です。どうしてそう言えるのかというと、それは、この後の章に書かれています。
さて、ナオミさんとルツさんは、ベツレヘムに戻りました。当たり前のことですが、二人には、すぐにこれといった仕事はありません。もう、何十年も住んでいなかったのですから。仕事がなければ、食べる物がありません。生きて行けません。女性だけの二人の生活は、どれほど厳しく、大変であったことでしょうか。
さて、イスラエルの人々、ベツレヘムに暮らしている人たちは、神さまからの御言葉をきちんと守って生きていました。神さまの、ご命令の一つには、このようなものがありました。「たとえ自分の畑であっても、そこから実った全部を収獲してはならない。」というのです。不思議な掟ですね。自分の畑なのだから、ぜんぶ、自分のものだと言っても、間違いではないようにも思います。今の日本に、そんな法律はありません。
それならなぜ、神さまはわざわざそのような不思議な掟を命じられたのでしょうか。それは、同じ神さまを信じる人たちのなかでも、何かの理由で貧しくなってしまった人もいるわけです。その一番の理由は、ナオミさんやルツさんのように、夫や息子をなくしてしまった女の人は、自分だけで生活しなければならなくなってしまいます。年をとって働けなくなってしまったら、死んでしまうかもしれません。神さまは、そのような弱い人たちが、決して死ぬことのないように、食べられるようにと、そのために収獲を残しておくようにと命じられたのです。ですから、この人たちは、堂々と、落穂を拾うことができたのです。
さぁ、ルツさんは、いよいよ、落穂を拾う仕事のために、出かけて行きます。すると、どうでしょう。彼女が落穂を拾いに入った畑は、ちょうど、ボアズさんという人の畑でした。なんと、ボアズさんは、ナオミの夫の親戚で、しかもお金持ちの人の畑だったのです。聖書は、2章の3節で、「そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」と書いてあります。この聖書には、「たまたま」と訳しましたけれども、他の日本語の聖書では、こう訳しました。「はからずも」とあります。こっちの方が、ちょっと分かりにくい言葉かもしれませんけれども、先生は、こっちの「はからずも」という方が、気にいっています。「たまたま」というのは、偶然にということでしょう。「はからずも」というのは、「予想外」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、それに近いです。予想もしていなかったこと、しかも、すばらしいことが起こったのです。
実は、ボアズさんは、ナオミお母さんの親戚だったのです。しかもボアズさんは、すばらしい信仰の人で心優しい人なのです。
ボアズさんはルツさんにこう言いました。「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れ来たあなたに十分に報いてくださるように。」
翼というのは、親鳥の翼のことです。生まれたての小鳥は、親鳥の翼の中に守られます。ボアズさんは、神さまのことを親鳥にたとえられたのです。そして、ルツさんをその小鳥にたとえられたのです。イスラエルの神、聖書の神さまは、もともとはイスラエルの人ではないモアブの女性のルツさんを神さまの子どもとして認められました。これはすばらしいことです。他のイスラエルの人たちは、こう悪口をいっていたと思います。「なんだルツというのは、モアブの女なんだってさ。モアブ人なんて、わたしたちの神さまを知らない人たちだよ。」見下していたのです。
ですから、このボアズさんがどれほどすばらしい信仰を持っていたかがよく分かります。そして、この後、ボアズさんが言ったとおりになって行くのです。神さまは、このルツさんを神さまの民に加えてくださったのです。つまり、神さまの子のひとりにしてくださったのです。
来週の日曜学校で、学びますが、実は、この後、ボアズさんとルツさんは結婚することになります。そして、赤ちゃんが生まれます。オベドちゃんと言います。オベトが大きくなって、エッサイが生まれます。そしてエッサイからは、ダビデ王様が生まれることになったのです。
つまり、もしも、ルツさんが、イスラエルにやってこなかったら、ダビデは生まれていません。ルツさんがいなければ、ダビデはいないのです。イスラエルの国は、このダビデ王によって繁栄し、強い民になるわけです。
何よりも、比べられないほどすばらしいことがあります。このダビデの子孫から、世界の救い主、僕たち私たちのイエスさまがお生まれになられるということです。神さまは、すごいことをなさったのです。
思い出してください。ナオミさんは、こう言いました。「わたしは不幸な女です。ナオミ、快いなんて呼ばないで、マラ、苦い、苦しみ呼んでください。」それは、本当のことでしょうか。神さまが、このナオミさんを不幸にしてしまったのでしょうか。違いますね。
どうして、神さまから不幸な目に遭わせられたなどと言えるでしょう。ナオミさんもルツも、夫を亡くしたことは言葉ではいえないほど、悲しいこと、不幸なことです。でも、神さまは、信じる人、御翼のかげに隠れようと、神さまに助けてくださいと願い出るものを、お見捨てにはならないのです。顧みてくださるのです。
それは、ルツさんのようにモアブの女性、異邦人であってもかまいません。神さまは、異邦人のルツさんによってダビデを、そしてイエスさまをこの世界にお与えくださったのですから。
今日の暗唱聖句は、長かったですね。しかも二つも読みました。
問い13、「神さまの摂理のお働きとは何ですか。」「今、私たちに働く、神さまの善いお力のことです。神さまのお許しがなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、神さまは私たちの父として 私たちを守っていてくださいます。ですから、健康も病気も、嬉しいことも悲しいことも、すべてのことが私たちの役に立つよう働くのです。」
ナオミさんもルツさんも、神さまの摂理のお働きってどんなにすばらしいのかを、わたしたちに教えてくれる人です。それは、この二人だけのことではありません。僕たち私たちにも、神さまの摂理のお働きがあります。
神さまを、イエスさまを信じる人は、どんなに悲しくつらいことがあっても、負けません。神さまを信じる人には、神さまのよいお力が働いて、必ず、神さまのすばらしい御業が実現するのです。神さまは、イエスさまの十字架の御業によって、僕たち私たちの罪を赦してくださいました。イエスさまを信じる人には、マラ、苦しみはイエスさまが吸い取ってくださりのです。イエスさまの十字架のおかげで、悲しみですら、ナオミに変えられるのです。喜び、嬉しさに変えられるときがくるのです。
最後に、ここには、自分のお母さんがナオミさんのようにイエスさまを信じているお友達も、そうでないお友達もいます。先生のお母さんも、子どもの頃は、イエスさまを信じていませんでした。でも、先生は、お母さんによって、生まれました。お母さんより、先生の方が、イエスさまを信じるのは先だったのです。でも、神さまは、このお母さんを先生のお母さんとして与えてくださいました。皆さんのお母さん、お父さんも神さまによって与えられました。それも摂理です。神さまを信じるなら、そのような大きなすばらしいよい力が働いて行くのです。今日、神さまに、お母さんやお父さんにあらためて感謝することができますように。
祈祷
主イエス・キリストの父なる神さま、それゆえに僕たち私たちの天のお父さま。神さまは、決して僕たち私たちを、不幸に落として、見捨ててしまわれることのないお方であることを感謝します。どうぞ、これからも神さまを信じて、神さまに感謝し、お母さんやお父さん、学校の先生やお友達に感謝できますように。僕たち私たちに、摂理の神さまを信じる信仰を、豊かに与えてください。アーメン