過去の投稿2007年6月15日

「キリスト新聞社」掲載原稿

日本キリスト改革派教会は、第61回定期大会において、「中部中会は憲法第9条(戦争放棄)と第20条(信教の自由)に立つ」とする中会決議が報告され、さらに大会の「宣教と社会委員会」からの提案をめぐっても、白熱した議論が交わされた。「教会と国家」をめぐる問題について、同中会「世と教会に関する委員会」の相馬伸郎氏(名古屋岩の上伝道所牧師)による原稿の一部を掲載する。

◆神学的戦いの再出発のとき
 教会の実践になくてならないものの一つは、正しい歴史認識です。その歴史認識は、神学的な認識つまり信仰に裏打ちされた教会独自の認識であらねばなりません。これが的をはずすと、教会の実践が「空を打つ拳闘」をはじめ、世界から遊離し、神の使命を果たすことができなくなります。
 そればかりか、悪魔的支配者に奉仕することにすら転落します。正統教理ですら、教会の単なる自己弁護になることが多いのです。それが、戦前の日本の教会がしたおそるべき罪でした。権力者たちの身勝手な権力の遂行を、神の御名によって承認し、追従し、加担したのです。
 たとえば、「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」を送り、朝鮮の教会には直接出向いて「神社参拝は宗教ではない」とし、参拝を強制したのです。さらに同胞にも、「キリストの流された御血を尊ぶ日本人キリスト者は、護国の英霊の血に深く心を打たれる」などと、うそぶき、敵殲滅を鼓舞したのです。

◆ 改革派教会論の要点として 
「なぜ、キリスト者個人ではなく、教会が政治的な発言をしなければならないのか」という類の問いに答えるために、「教会と国家」、「抵抗権」、「信仰告白の事態」などの学びを、教会として繰り返すことが大切です。
 改革派信仰は、常に「神の国」のひろがりを視野に入れます。神のご支配は、人間の生の全領域におよびます。ですから、神の支配(神の国)に仕える教会は、教会内に向かってだけではなく、教会の外に向かっても神の御言葉を、そのあらゆる内容を、大胆に証することが求められます。ときに、結果として政治的な発言としても聞き取られます。ローマ帝国における「イエスは主」という告白がどれほど政治性を帯び、権力批判の発言となったかは簡単に想像できるかと思います。
 ただし、教会は政党ではありません。ですから、政策を提示する必要も責任もありません。しかしもしも、権力者たちが、神の像に似せて創造された人間(性)を損なおうとするなら、つまり、人権侵害、暴力、差別、不正……などに、教会は、神の正義を告げ、裁きを警告しなければならないのです。それは、旧約の預言者たちの道でしたし、新約の使徒たちや預言者たちの道でもありました。
 改革派信仰はこの視点を明瞭にし、その立場を堅固なものとします。また、その実りとしての霊性は、個人の内面の慰めの問題に終始させません。政治や文化や国家全体に、あるいは被造世界の全体にまで関心を広げさせます。創造の完成に至らせる聖霊なる御神に励まされて、その道具にされるために、積極的にこの世と関わらせるのが、言わば「改革派的霊性」なのです。

◆ 低くなられたイエスの眼差しで
 神学的認識を深め、歴史を見る眼が開かれるために、どうすればよいのでしょうか。何よりも、聖書を読むことです。ただそこで要点になるのは、聖書を、弱い人間の立場で読むことです。それは、決して聖書を先入観や、なにかのイデオロギーで読み込むことではありません。御子ご自身が「低き」に下られました。そこから、神がどれほど、弱い者たちに配慮しておられるのかが見えてきます。そうすると、世界のなかで弱い人はどこにいるのか、弱くさせられてしまっている人はどこにいるのかも見えてくるでしょう。そして強い人間(権力者)の問題性、罪の本質も見えてくるはずです。

◆ 説教の論理で考えよう 
先の大会で、大会「宣教と社会問題に関する委員会」より提出された「教育基本法『改正』反対声明」の提案文に記された文言「たとえ、そのような法案が立法化されたとしても、そのような強制に対しては『信仰の良心』に従って断固拒否することを表明します」に対して、反対や削除を求める意見が提出されました。
 そのような議論で、しばしば言われることは、「教会員のなかには、多様な職業に従事する人がいる。たとえば、自衛官もいる。そのような人への配慮を欠いているのではないか」ということです。一人ひとりの教会員は、さまざまな政治認識を持ち、職業に従事しています。その意味で、お互いの社会的経済的利害がぶつかってしまうことも当然起こるでしょう。
 たとえば、雨が降れば利益があがる仕事の人と損をする人とが、同じ教会員である可能性は極めて高いのです。そのとき牧師は、接する相手によって雨がふりますようにと祈り、雨が上がりますようにと祈るのでしょうか(牧師ならおそらく牧会的な配慮の知恵で対処するでしょう……)。
 このような現実の政治認識にかかわる難しい課題、判断を、筋道をたててひもとくために、何かよい方法はないでしょうか。そのとき、わたしがお勧めしたいのは、説教の論理で考えることです。教会の課題は、基本的に説教の論理で考えるとき、出口が見えてくるものです。教会が立ちもし、倒れもするのは神の言葉の説教が正しく語られ、聴かれるかにかかっているからです。
 万一、牧師が神の言葉の説教において、いずれかの立場の人にだけ通用する、受け入れられる言葉を語るとしたら、神から委託された務めを放棄していることにならないでしょうか。説教は、社長さんにも労働者にも、お金持ちの人にもホームレスの人にも、その場にいる人にだけではなく、その場にいない人にも聞かれるべき(通用する)真理の言葉を語ることです。

◆ 御国を告知する正しい伝道を 
これに加えて、「地域伝道にとってマイナスになるのではないか」という議論もあります。伝道は、神の国のおとずれを告げ(福音の宣言)、悔い改めと信仰とに招くことです。なるほど、憲法改正や教育基本法改正に賛成する方々も多いのだから、言わない方が教会に多くの人を招きいれられるとの議論は、「賢明」かもしれません。
 しかし、神の愚かさは、人間の賢さをわらうのです。また、そのような伝道は、はたして福音伝道といえるのかどうかも考える必要があるのではないでしょうか。論より証拠、わたしどもが地域の方に向けてつくったリーフレット(「日本キリスト改革派教会は憲法九条・二十条に立ちます」)を手渡しされた一人の年配の共産党員が、降誕祭で受洗入会されました。

◆ いま、キリスト者として 
「日の丸・君が代」への違和感を持ち、抵抗を真剣になしているし、なすべき!なのは、むしろ、わたしどもキリスト者ではないでしょうか。そうであれば、教育基本法改正を「教会」として反対し、成立のあかつきには抗議することは、教会の信仰告白そのものにかかわる行為であることは明らか過ぎることではないでしょうか。神社の前に強制的に立たされるような事態に立ち至ったとき初めて、教会として声を挙げるのでしょうか。それでは時既に遅し!です。いへ、戦前の歴史の証言に謙虚に聞けば、そのときには、もはや声を挙げなかったのです。「神社参拝は、宗教に非ず」との国策に迎合したからです。
 もしも、現代に生きるキリスト者、教会が、すでにさまざまな形で古い日本へと逆戻りさせる法律の制定、何よりも憲法と並んで日本のあり方を規定する教育基本法改正に無関心である、あったとすれば、戦前とまったく同じ過ちをすでに犯し始めていることになるのです。
 今まさに、わたしども日本キリスト改革派教会創立の意義が切実に問われています。この日本にキリストの主権に服する堅固な教会形成のために、いよいよ学びを深め、祈りを熱くし、キリストの王権を証する伝道にまい進するべきであります。
(おわり)