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「近くにある信仰の言葉」

「近くにある信仰の言葉」
2007年7月8日
申命記第30章10節~14節
「あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」

テキスト ローマの信徒への手紙 第10章5節~9節
「モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」

私どもは今、祈祷会で罪について集中的に学び続けております。そこで、いくつかの教会の言葉を覚えました。その一つが「全的無能力」という、いかめしい言葉です。人間には、神さまの前に正しいこと、善をする能力を、それを求める能力も、何よりも神さまを信じる能力、それじたいが完全に失われているという教えを意味する言葉でした。

また先週の説教では、副題として「宗教の終わり」という説教を致しました。使徒パウロは、ユダヤ人たちが、自分の義を求めよう、自分の義を立てようとして神の義を行うことによって、達成すべき課題として律法を考え、熱心に実践していること、それを実に厳しく批判しました。それは、神の義を知らないことであって、そのような熱心は、神に敵対する熱心にほかならないということでした。そして使徒パウロは、キリストは律法の目標であり終わりである、だから、律法を行うことによって自分の義を達成するような企て、それをわたしは宗教と申しましたが、その宗教は完全に終わらせられているのだと学びました。

私どもは、そもそもアダムによって罪を犯してからこの方、すべての人間は完全に、そしてすべての面で神に喜ばれる善を成す能力を失っているのです。それにもかかわらず、自分で自分の義を獲得しようと企て、しかもそこでもしも、自分はできた、できていると思い上がるなら、それこそは信仰とはかけ離れた行為、神の義、神ご自身が積極的に罪人を救おうとなさる御業を裏切り、対立することになるのです。

さて、今朝、皆様とお読みした申命記第30章も、今朝の説教のテキストも先週学んだことと同じことを繰り返しているのです。その意味で、今朝も、主題は同じです。パウロは、何度でも飽きることなく同じことを語り続けているのだと言ってもよいと思います。くどいとすら思う人も出てくるでしょう。何故、パウロは同じことを、それほど繰り返して語るのでしょうか。

その理由の一つは、使徒パウロ自身が、かつて、律法を行うことにかけては、誰からも後ろ指を指されることはないと自負しえたほど、律法を掟を守って生きていたからです。神への熱心の点では、教会の迫害者であったほどであると言うのです。神の御前で、自分の義を誇りに生きることができたような宗教者のなかの宗教者であったのです。しかし、パウロは、キリストを知ることによって、キリストによってそれまでの誇りのすべてを粉砕させられました。あのときの熱心、キリスト者を迫害し、捉えて殺すほどの神への熱心が、神への敵対行為であると復活のイエスさまに教えられたのでした。そのときから、キリスト・イエスを知る知識のあまりのすばらしさのゆえに、一切のものをちりあくたと考えることができたのです。フィリピの信徒への手紙の第3章以下に記されています。

もう一つの大きな理由もあります。それは、この福音の真理に生きるべく救われているキリスト者自らも、実は、簡単に、あのユダヤ人が犯した宗教の過ちに転落するからです。律法主義にはまってしまうからです。律法主義とは、自分の義を求めること、自分で自分の義を立てること、自分で自分を義とすることです。自分の行為によって自分を救えると思うこと、その企てです。その実例としてすぐに思い出すのは、ガラテヤの信徒への手紙第3章です。彼はこう呼びかけます。「物分りの悪いガラテヤの信徒たち」実に厳しい批判の言葉です。相手は、ユダヤ人ではなく、キリスト者なのです。彼らがせっかく、ただ信仰によって義とされる救いの知らせ、福音を聞いて救われたのに、やがてすぐに、律法の行い、掟を守ることによって義とされることへと転落してしまったからです。こう記されています。「“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。」

神の恵みと力によって始められたのに、人間の能力によって完成しようとしている。つまり、宗教に転落しているということです。私どもも他人事として聞き捨てることはできません。最初はよかったのに、途中で、律法主義に転落し、福音の真理を裏切る可能性があるのです。そして律法主義とは、私どもの福音と正反対の教えであり、対立するのです。しかし、私どもこそが、そのような過ちに陥りやすいことを、使徒パウロは、骨の髄まで、体験的にも知っているわけです。だから、何度でも、同じことを、しかし、言い方を変えながら、言い続けている、それが本日のテキストであります。

いったい、どうしてそのような転落が起こるのでしょうか。その理由は、私どもの信仰そのものの性質にあります。つまり、私どもの信仰生活とは、聖化を目指す歩みであるからに他なりません。キリストに似せられて、いよいよキリストに近づく歩みとなるのです。私どもは、間違った熱心に生きることは許されませんが、しかし、真実に神の熱心に応えて生きようとするものです。キリストの姿に似せられる歩みのなかで、私どもも積極的に、恵みに応えて生きることは、私どもの基本的な信仰の態度です。私どもは、その意味で、怠惰に流れる罪を自覚し、いわば前傾姿勢をとって神と人との前に、あまりにも高価な恵み、尊いキリストの十字架の愛に応えて生きようと身構えるものです。

しかしそこに大きな罠があるのです。私どもはそこでつい、自分の姿を気にしてしまうのです。あらためて自分は大丈夫かと、自分を見つめ始める。自分が気になると、また教会の仲間たちのことが気になる。自分を点検し始めると、隣人の信仰をも点検し始める。つまり、批判が起こるわけです。それが私どもが何度も何度も陥る誘惑、律法主義的な誘惑です。

さて、本日は、申命記第30章をもあわせて読みました。パウロはここで、申命記を引用して、議論しているからです。しかも、お気づきになられた方も多いと思いますが、ここで、驚くほど自由に、大胆に翻訳しています。むしろ翻訳を越えて、解釈していると言った方が近いようにも思います。使徒パウロは、ここで、申命記第30章を用いて、福音の真理を弁明しようと試みるのです。

横道にそれますが、ユダヤ人の聖書学者からすれば、ありえないような自由な引用であり、解釈と批判されるでしょう。しかし、初代の使徒たちは、新約聖書の著者たちは、驚くほど自由に、旧約聖書を自由に翻訳して、福音の真理を明らかにして見せました。そこから分かること、教えられることがあります。それは、使徒たちにとって、旧約聖書とは、イエス・キリストとその御業によってのみその真の意味、深い、隠されていた真理が放たれるのだという確信があったからです。

申命記第30章11節以下は何を記しているのでしょうか「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。」
神が与えてくださった戒め、律法は、それを行うのに難しすぎるとか、それを行うのに、遠く及ばないようなものではない。天の高きにあるものでも、海のはるかかなた遠くにあるものでもない。手が届かないのではなく、むしろ、あなたの口と心、あなたにもっとも近いところにあるのだから、それを簡単に行うことができるはずである。そういうことです。神さまは、無理難題を押し付けられているのではないということです。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」律法を守ることは、ほとんど無意識の領域のように簡単であるということです。

いかがでしょうか。この申命記のもともとの主張は、パウロがここで引用して説明しようとすることと、似ているようですが、実は、まったく違っています。
私どもは、徹底して学んでいるはずです。第10章の冒頭でも、人間の能力で、自分の義を立てることは不可能であると学んだばかりです。律法を守り、掟を守って生きることは、極めて困難、いへ、厳密に言えば、神の掟にかなって生きることは、不可能なのです。それなら、使徒パウロは、どうして、あえて自分の主張と180度違うとしか読めない御言葉を、自分の主張を裏付ける証拠聖句として引用するのでしょうか。むしろ反対に、自分の言いたいことを真正面から否定するような、御言葉が申命記第30章なのではないでしょうか。

パウロは、申命記第30章を引用して、ここで鮮やかにキリストを語ろうとします。キリスト・イエスが何をしてくださったのか、それによって聖書の隠されていた意図、メッセージがどのようにして明白になるのか。開示されるのかをここでこそ、鮮やかに示せると考えているのです。この申命記の御言葉の本当の意味は、主イエス・キリストによってのみ分かるのだ、明らかにされるのだと言いたいのです。
使徒パウロは、「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。」と言います。それは、自分の力で天に昇る必要はないということです。自分の力で律法の完全に守ってみせること、天とは神がおられる場所を意味しますが、自分で神の位に昇ってゆくことはできません。そのような企ては、天から地上に来られ、私どもの救いのために十字架について、死んで、お甦りくださり、今天に昇り行かれたイエスさまを、引き降ろすことと言うのです。
つまりこういうことです。もはや、人間は誰も、自分で神の律法を、掟を守ってみせることによって救われる必要も、可能性もないということです。なぜなら、私どもに代わって、私どもの代表として、主イエスは現に天に昇っておられるからです。

次にこういいます。「 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」これも同じ意味です。パウロは、海の果てを、底なしの淵と言い換えました。間違いではありません。当時の人にとっての海の果てとは、地獄の底を意味したからです。パウロは、はっきりと言っているのです。神の御前に罪を犯したものは、底なしの淵に落ちます。地獄へと落とされて、神の裁きを受けるのです。人間のなかで、いったい誰が神の刑罰を受けて、しかも、そこから這い上がってくることができるでしょうか。出来るわけがありません。そして、そのようなことはもはや考える必要もなくなったのです。なぜなら、主イエス・キリストが十字架の上で神の刑罰を受けて、黄泉に降ったからです。底なしの淵、海の果てに追いやられたからです。そして、主イエスは、三日目にお甦りになられたのです。

つまり、こういうことです。私どもの代わりに律法を行ってくださったお方、そのようにして律法の終わりとなってくださった方が、こんなに近くに、こんなに身近かに、こんなに間近におられる故に、ただキリストのゆえに律法は簡単になる、掟を行うことが私どもの普段の生活に身近になるということなのです。

使徒パウロは、大胆に、申命記の御言葉をキリストによって解釈します。つまり、あの御言葉こそが、あの申命記第30章で語られた掟こそが、キリストを目標とし、キリストを目指して語られていたということです。まさしくキリストこそ律法のエンド、目標であることが明らかにされたのです。パウロは、言うのです。主イエス・キリスト御自身が、罪は犯されませんでしたが私どもとまったく同じ人間となってくださり、その人間イエスさまが、私どもの代表となって神の掟を100パーセント守ってくださって、完全に成就してくださっているから、申命記に言われているように律法、掟を生きる生活は、きわめて簡単になってしまったのです。なぜなら、もはやそこでは、自分が守りきれているかどうかを、点検する必要すらなくなっているからです。自分が神の御前に義とされているかどうかを自分で心がけることなどまったく必要なくなったのです。それほど徹底的に、キリストが代わりに実現していてくださるからです。

私どもは全的無能力者です。まったく神の前に義を行い、掟を完全に守ってみせることはできません。しかしそれでかまいません。なぜなら、キリストは能力に溢れておられるからです。キリスト・イエスが、掟を完全に成就しておられるからです。
今や、この御言葉が、私どもの口に、私どもの心にあるのです。この御言葉とはキリストと言い換えることもできます。キリストが私どもとそのように一つになっていてくださる。私どもは、先週の主日に聖餐の礼典を祝いました。そこであのパンとあのぶどうジュースをいただいたことによって、まさに私どもの口のなかに入り、私どもの心と一つになる。それくらいに近くなってくださったということであります。

使徒パウロが伝えた信仰の言葉、福音とはこれほどまでに福音なのです。これほどまでに、私どもが神の御前に義とされていることを明らかにするものなのです。そうであれば、私どもはただ、キリストを信じればよい。ただそれだけで良いのです。キリストを信じて救われるときはじめて、申命記が言う、戒めに生きる生活、律法を守る生活が身近になり、簡単になるというわけです。そして本当に、その通りであります。私どもに代わって、私どものために神の御前に100点満点をとってくださったイエスさまが、十字架に死んでくださり、お甦りになられ、天に戻られたのですから、もはや、律法の義を自ら獲得する必要など、まったくないのです。

さて、本日の説教はそこで終わりません。最後に、9節にも短く触れます。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」

イエスさまを信じるとは、どういうことなのでしょうか。わたしどもは、イエスさまのことを丁寧にお呼びするときには、「イエス・キリスト」と申します。あのナザレのイエスさまは、神が立ててくださったキリスト、救い主であられると信じるゆえです。さらに丁寧に、そして正確にお呼びすることをも大切にいたします。それが「主イエス・キリスト」という呼び方です。それがこの9節の前半です。「口でイエスは主であると公に言い表し」私どもの教会が生み出した信仰告白のなかで、最初のものであり、そして最も短く、何よりも最も大切なものは「イエスは主」「主イエス」という告白です。

私どもは、今、主イエスが十字架の上に上られ、地の底に下られ、そして天に昇られたことを知っています。主イエス・キリストは死人の中から復活させられたお方です。イエスさまは死を打ち滅ぼして、死を踏みつけられたお方なのです。まさに、人類の究極の敵であり、人類をその足の下に踏みつけることのできる死とその力を、主イエスがその足の下に踏みつけてしまわれたのです。そうであればこそ、言葉の真実の意味で「主」という称号を与えられることができるお方こそ、復活者イエスさまです。ですから、私どもは主イエスとお呼びするのです。そしてこの主は、わたしだけの主ではなく、全宇宙の主でもあるのです。

イエスさまを主とお呼びするのは、私どもが、ただこのお方によってのみ救われ、このお方の僕であって、このお方の他に自分を支配するものがあってはならないということを意味します。これは、決定的な告白なのです。中途半端なあり方は許されていません。イエスさまを主としたら、もはやそれ以外のいかなるもののためにも生きてはならない、生きない、人生の目的はこの主なるお方とのかかわりにおいてのみ問われる。そのような究極の関係に入るということを意味するのです。イエスさまを主と告白するということは、そのようなあいまいさをまったく排除する、決定的なことです。

当時の世界には、奴隷がおりました。ローマ帝国の繁栄を支えていたのは、結局、奴隷たちの労働によるものであったことが言われています。奴隷たちは、主人に買い取られ、その主人の支配と、その主人の所有という、あいまいさのない、はっきりとした身分なのです。僕、奴隷とは、そういうことです。
使徒パウロは、自分のことを「キリストの僕」と呼ぶことを好みました。それは当然の理解でした。なぜなら、主イエスをお呼びすれば、パウロ一人ではなく、誰でもイエスさまの奴隷であることを言い表すことに他ならないからです。彼らは、喜んで、主イエス・キリストと告白したのです。

イエスさまは、彼らの主ですが、しかし、本来、彼らだけの主ではありません。なぜなら、イエスさまは神によって死人の中から復活させられたお方だからです。世界の主、人類の主なのです。その主を、自分の主と告白すること、口で言い表すことが、救いとなるのです。

イエスさまは主。それは、わたしを神の御前で義とするために、わたしのために身代わりに死んでくださり、甦られたお方だからです。わたしは、一滴たりとも血を流すことなしに、完全に、神の前に義とされ、罪を赦され、神の所有となり、永遠の命を受けている。救われているのです。そのようにしてくださったイエスさまのことを、主とお呼びするこの口も、そしてこの心も与えられているのです。ですから、イエスさまによって赦されたわたしの生涯は、主の僕としての生涯であり、そのように生きる以外には、もはやありえないのです。それが、救われるということです。イエスさまの僕にしていただくことが私どもの救いなのです。この口もこの心も、主イエスのものなのです。そのようにしてイエスさまは私の全存在において主という位置についてくださったのです。それは、言葉を換えると、王さまとなってご支配くださることが、わたしがわたしであることの根拠になるのです。しかもこの支配は、愛の支配でした。そうなると、私どもの最高の場所に愛が君臨するのですから、私どもの価値は、この愛におかれたということです。愛こそが私どもの絶対的な価値基準となった、なるのであります。私どもの人生の座標軸は中心ポイントは、このキリスト、このキリストの愛に、神の愛に根ざす点におくことになるのです。この主イエスを起点にして、すべてのものは、判断される。これがイエスさまを主と告白するものの生き方になるのです。しかもそのような人間の座標軸は、自分自身で定めることはできません。私どもの造り主なる神によって、外から、私どもに打ち込んで頂く以外にないのです。

この十字架の主、復活者なるイエスさまが、私どもの精神的な座標軸、人生の羅針盤、生きる原点となってくださることによって、すべての価値、すべての権力、権威など、私どもを屈服させ、従わせ、誘惑し、引き込もうとするありとあらゆる思想、力から解き放たれて、自由に生きることができるのです。もはや、自分で自分を救う必要も無く、自分で自分を義とする必要も無く、ただキリストのお陰で生きることの出来る人生へと解放されているのです。私どもはなんという幸いであろうかと思います。

私どもの信仰生活とは、このイエスさまを主とすることに他なりません。キリストの主権に服すること、これが私ども、教会の唯一の使命と言い切ってかまいません。キリストを主と告白することにまさってすばらしい礼拝はありません。人生はありません。そうであれば、この礼拝式はもとより、私どもの生活のありとあらゆる局面で、イエスさまを主と口で、公に告白してまいりましょう。教会のなかだけでの告白ということはありません。そもそも教会そのものが公のものなのです。隠れて存在することは許されていません。ですから、教会でただ真実に礼拝を捧げることそのものが、実に、最大の政治的な行為ともなるのです。なぜなら、私どもはこの礼拝の時と場所をささげ、守ることによって世界に向かって、宇宙に向かって、イエスさまは主と告白していることを意味するからです。そして、この主の主権を、犯すものはいかなるものであっても、容認することはできません。キリストの教会は、その主権を徹底的にキリストに返還する、奉還することへといそしむのです。主の主、王の王はただ私どもの主イエス・キリストのものだからです。これを証することが私どもの伝道です。礼拝です。そして生活そのものなのです。

祈祷
御子イエスさまを十字架につけられ、死人の中からお甦らせになられた父なる御神、そのようにして私どもの主としてお立てくださり、私どもの救いを完全に、完璧に成就してくださいましたことを感謝申し上げます。今、心から主イエスと告白し、お呼びします。願わくはどうぞ、私どもが毎日、心を込めてお呼びする主イエスとの告白の重さを自覚させてください。そしてその告白の重さに生きることができますように、導いてください。アーメン。