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「呼び求められている人間」

「呼び求められている人間」
2007年7月22日
テキスト ローマの信徒への手紙 第10章5節~13節
「モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」

先週は親子合同礼拝式として子どもたちと一緒に説教を聴いて礼拝式を捧げることができました。とても嬉しいことでした。ローマの信徒への手紙から離れて、ヨハネによる福音書第8章12節以下から御言葉を聴きました。今朝はまた特別に嬉しいことがあります。夏休みに入り、本当に久しぶりにともに礼拝を捧げる大人、そして小さな仲間たちがいることです。
 
先週の説教を一言で要約すれば、イエスさまを信じている神の民の祈りの家は、皆で天国を目指して旅をしているのだと言うことです主イエスさまは、こう宣言されました。「わたしはどこから来て、どこへ行くのを知っている」それは、言うまでもなく、イエスさまは、私どもの救いのために天から地上に来てくださったということです。それは、ゴルゴダの丘で私どもの罪を贖うために十字架について、私どもの救いの御業を成し遂げてくださるためでした。そして、復活した後に、父なる神のおられる天へと昇って行かれました。私どもも勝利者とするため、天国に行くためです。その道を切り開かれるためです。

そして、「どこから来て、どこへ行くのか」ということは、イエスさまだけではなく、イエスさまを信じる私どももまた、同じように宣言できる、分かっていると学びました。つまり、私どもは信仰によって、主イエスさまと一つになって、この地上を、天国を目指して旅をすることが許されているということです。どこから来てどこに行くのか、つまり人生の目的、人生の意味、何のために生まれ、何をして生きて行くべきか、鮮やかに知らされたのです。もはや、人生の迷子にはなっていないということです。光なる主イエスさまと共に生きていない人間は、真っ暗闇の中を生き、どこへ向って、何のために生きて行くのかを分からずにそれだけに不安な、望みのない、苦しい、怖い人生を送っていると学びました。信仰の旅はなんと明るいものなのかと学んだのです。

さて、今朝は、いつものようにローマの信徒への手紙に戻ります。先回は5節から9節まで学びました。そこでも、まことに恵みの御言葉を学びました。

神の御前に罪人でしかないのに、神の怒りと刑罰を受けることが当然なのに、神は、御子イエス・キリストの故に、イエス・キリストが完全に掟を守られた故に、このイエスさまと信仰によって一つに結ばれた者は、そのままで神に罪を赦されるという福音を聴きました。そしてその福音の言葉、福音の言葉そのものであるイエスさまは、私どもの口、私どもの心にある。つまり、私自身、わたしという存在よりもっと近くにイエスさまがおられるのだと学びました。説教を聴くことによってそうなりますが、それと同時に、聖餐の食卓、パンとぶどうジュースを食べ、飲むことによって、私どもの口、私どもの心に宿ってくださるということも、改めて確認したのです。だからこそ、いよいよイエスさまを主と信じ、告白するようにと、心から派遣されたのでした。

さて、このように圧倒的な救いの恵みを私どもはこのローマの信徒への手紙で学び続けています。そして、本日の御言葉9節以下もまた、恵みの御言葉、祝福の言葉、救いの言葉が私どもの心に口に畳み込むように聞こえてまいりました。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」
救われるからです。救われるのです。誰も失望することがない。すべての人を豊かにお恵みになるからです。誰でも救われるのです。パウロは、畳み掛けるように私どもに救いの約束を告げます。誰でも救われる。ユダヤ人とギリシア人の区別もなく救われる。この幸いな言葉をかみ締めながら、皆さんは何を思うでしょうか。もしかすると、このように問い、感想を持たれる方もおられるかもしれません。

「確かに救われるということは、すばらしいかもしれないけれど、しかし結局、そこには、言わば条件がついているではないか。こうすれば救われるという限定、条件があるわけだ。」なるほどそう言われれば、明らかに御言葉はこう言います。「信じるなら、あなたは救われる」「主を信じる者は、だれも失望することがない」「御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」信じること、呼び求めること、これなしには、救われないのです。
もう一つのこととして、「信じることは、心のなかだけのことではなく、言い表すことが必要なのか。心で信じるだけでは足りなくて、口で公に告白することにまで進まないといけないものなのか。やっぱり、信仰は大変な決意が必要なんだなぁ。」

私どもはこの箇所で、改めて、信じることについて、つまり、信仰について問い、福音の真理をいよいよ鮮やかに悟りたいと思います。

大きくおさらいをしますと、私どもはこれまで、特にローマの信徒への手紙を通して、信仰とは、徹頭徹尾、神の恵みであるとして学び、理解してまいりました。人が義とされるのは、救われるのは信仰のみによる、言葉を換えれば恵みのみによると骨の髄にまで浸透するように、学んでまいりました。まったくその通りです。修正する必要など微塵もありません。先回も、教会の言葉として、「全的無能力」という言葉を皆さんと学んだのです。神さまの御前に、神の前に、掟、律法を要求されたとおり、つまり完全に守ることは、不可能ということです。神さまの御前に、神さまに喜ばれ、受け入れられるような業を行うことが完全に出来ない。そのような力、能力をまったく持ち合わせていないのが、罪人の姿、罪人である私どもの赤裸々な現実であると学んだのでした。そうであれば、神を信じる能力もまた、人間には備え合わせてもいないわけです。信じることこそ、神の恵みの力の働きかけによることを、私どもは確信しています。

それなら、信じる者は救われると、言わば信仰を救いの条件にするなら、矛盾ではないかという反論、疑い、混乱が生じるかもしれません。いったい神を信じるとは、神の恵み、神の力のみなのか、それとも人間の力もそこで必要になるものなのか。もし必要なら、たとえば何割くらい必要なのか。何十パーセントくらい求められるものなのか。そのような議論も出るかもしれません。しかしこのような議論は、そもそも間違うのです。間違っているのです。

聖書は、使徒パウロは、そのような意味での信仰の議論をしません。信仰論を語りません。パウロにとって、信仰、信じることは徹底的に神の恵みのみ、力のみです。しかし彼は、徹底して信仰とは、信じることとは、心でしっかりと受け止め、さらに心の中だけのこととして収めるのではなく、世界中に、公のこととして告白するものと考えるのです。それ以外に、パウロが考える信仰はないのです。信じることは、イエスさまを主と公に言い表すことです。それは、ローマの教会員にとっては、実に、極めて危険な行為でした。なぜなら、ローマ帝国は、「皇帝だけが主」「主なるローマ皇帝」と告白することを、市民に課していたからです。帝国に生きるということ、帝国で暮らすためには、皇帝を主の主、主人のなかの主人と認めることを要求したからです。ところが、誰でも知っているその現実の只中で、パウロは、平気で、平気であったかどうかは、定かではありませんが、しかし、当然のこととして、神がイエスさまを死人の中から復活させられたと信じることは、ただ教会の中だけではなく、公の場で、生活のすべての場面でイエスさまを主と告白することなのだと言うのです。

その使徒パウロは、信仰にとっての「心」の部分を強調しています。それなら、心とは何でしょうか。そこで何を言い表そうとしているのでしょうか。心に対して、頭に浮かぶのは、まさに頭ではないでしょうか。脳についての研究はいよいよ盛んになっております。人間は、頭、脳が発達しているからこそ、人間でありうると、言われます。我々は、心はどこにあるのかと尋ねると、ほとんどの人が、胸の辺りを指します。しかし結局、肉体の組織から言えば、脳の活動でありましょう。しかし、パウロが、心で信じると言うとき、それは、何を言おうとしているのでしょうか。それは、信仰とは、単なる知識、認識ではないということです。心という意味は、人間の全存在をかける部分という意味なのです。だから、心で信じるとは、決して心の中だけのことではなく、人間の全存在で信じること、公にすることなのだと言うわけです。知識が感情にまで結びつき、その感情は、生活のすべてにおいて影響を与え、実らせるようになること、これが信仰なのです。実に、信仰とは、そのような人間の全存在の応答を呼び出すものなのです。これが、神が与えてくださる信仰なのです。そして、その信仰によってのみ、神の恵みを受けることができるのです。

今朝の礼拝式で読んだ招きの御言葉、招詞は、イザヤ書第43章1節でした。「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

聖書の中で、人間が主なる神の御名を呼ぶということ、呼ぶべきことは、至る所に、何度も何度も記されていることであります。ところが、造り主なる神ご自身が、私ども神の民の名前を呼んでくださるということ、呼んでいてくださるということは、実は、数少ないのです。ただしかし、直接にそのような御言葉が記されているのは少なくても、聖書はその全体で、そのことを雄弁に証ししています。
第9章で、パウロのホセア書の引用を学びました。25節以下です。「ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

 神は、ここで、キリストの教会という場所で、私ども罪人に、お前は私に背き、わたしを裏切り、わたしを捨てて、自分を中心に生きてきた、それを恥ともせずに、徹底して自分勝手な、神なき生活を送ってきた、だからお前は、わたしの民ではないと、そう呼ばれるのが当然にも関わらず、キリストの教会において、そのような呪いの言葉の代わりに、神の子と呼ばれるというのです。なぜなら、繰り返しますが、御子イエス・キリストが神の呪いを身代わりに十字架で受けてくださったからであります。私どもの名前を、生ける神の子と、驚くべき名前をもって呼びかけてくださるのです。この呼びかけこそ、私どもが主の御名をお呼びすることのできる根拠、原因、理由なのです。何度も繰り返しますが、神が私どもの名前をお呼びくださるのは、神が私どもを、神の子とお呼びくださるのは、簡単なことではないのです。神がその独り子を十字架で犠牲にすることなしには、十字架で血を流させ、殺してしまう犠牲を払うことなしには、決して、できないことなのです。わたしが神の子と呼ばれる。この罪人が、愛される値打ち、資格のないものが、愛された者、愛する者と呼ばれ、神の子と呼ばれるためには、イエスさまのあの御苦しみがあったればこそです。ですから、私どもは、神を、主イエスをお呼びするとき、失望するはずがない。恥を受けることはないのです。神が私どもに先立って、既にわたしを呼んでおられるからです。

先週の主日のお昼に、高校生たちとの学び会をしました。そこで、わたしは、これまで用いたことのない比喩を用いてみました。高校生向けの比喩でした。わたしが高校生のとき、はやっていたゲーム、遊びです。それは、言葉を飛ばすゲームなのです。説教で、説明するのは、とても難しいのです。一人の人がとにかく音を出す。声でも何でもよいのです。その声、その音がどこに落ちるのか、届いたのかを考えさせるゲームです。要するに、音を出した後に、最初に音を出した人が、音をキャッチした人、声を拾った人、届いた人になるのです。何も分からないまま、このゲームをされて、しばし、分かりませんでした。ゲームを説明しましたからもう、教会や日曜学校でもできなくなりました。わたしは何故、高校生にこのゲームを説明し、神の御言葉を聴くということ、を説明したかったからです。あるいは信仰の説明にもなるのではないかと思うのです。

教会の改革者、私どもの教会を興した原点に立つ信仰の教師カルバンは、信仰についてこう言いました。「信仰とは、堅固な認識である」これは、私どもがこれからも大切にしなければならない適切、的確な信仰理解であります。信仰とは、認識です。神認識です。神を知ることなしに、信仰を始まりません。また、カルバンは、そのカテキズム、ジュネーブ信仰問答の問いの一で、人生の目的とは何かと問いを立てて、こうこたえます。「人生の主な目的は何ですか。神を知ることです。」問い3「では、人間の最上の幸福とは何ですか。それも同じです。」人生の目的は、神を知ることなのです。それなら、その神を知ること、認識することは信仰ですが、その堅固な認識は、どのようなものなのでしょうか。それは、感情的な、ふわふわしたものではないというイメージです。堅固です。そのような堅固な神認識はどのようにもたらされるのか。それが、私どもの今の最大の問いです。

ほとんど例外なしに、そこで我々は180度の考え違いを最初に持つのです。それは、認識すること、知ることとは、どこまでも、こちらの問題、こちらである自分の課題と考えるからです。堅固な認識をするためには、それこそ、テキストである聖書を正しく、厳密に解釈すること。そうなると日本語を学び、できればそれ以外の言語も学び、究極には、ギリシャ語やヘブライ語を学び、書かれた当時の歴史状況を知り、著者を知り、そのように研究の道を進むことです。そのような研究的な態度なしには、およそ堅固な認識を持つことは、ないと思います。そして、そのような企てが、聖書に向ってなされることはもとより悪いことではなく、出来れば、した方がよいのです。

しかし、聖書は言います。神を認識すること、神を知るということは、神ご自身がご自身もっておられる自己認識を私どもに与えてくださる、投影してくださる、分かち与えてくださる限り、その限りのみ持つことができるというものです。昨日は、ピカソの集会がもたれましたが、言わば、わたしという白いキャンバスに、神さまが書き込んでくださること。それこそが、堅固な認識なのです。それが神知識です。神を知ることなのです。そして信仰なのです。

神が書き込んでくださる。御言葉は言います。神が、私どもに呼びかけてくださる。わたしの愛する子、わたしの民。だから、まさにただその神の呼びかけがあるが故に、私どももまた神を主と、イエスさまとお呼びすることができるし、許されるのです。そして、呼ばねばならないのです。

大胆に、神を主と父と呼ばねばならないのです。ユダヤ人だけでなく、ギリシア人である私どもにも、神が、わたしの愛する民と呼んでくださる。だから、私どもは、大胆に呼ばなければならないのです。ユダヤ人は、ギリシャ人を神を知らない者と軽蔑しました。ギリシャ人は、ユダヤ人を教養のない者と軽蔑しました。しかし今、そのお互いの壁は空しいのです。誰でも、信じる人は呼べる。呼ぶべきです。呼ばれているのですから呼ぶべきです。声が届いたら、わたしにも届きましたと声をあげるべきです。それが、信仰なのです。ですから神を信じる人は必ず、祈る人です。信仰とは祈ることです。神の御名を、主イエスの御名を呼ぶことです。呼べるのは、相手を知っているからです。相手からの呼びかけを聞いているほどに、近くに神を知っているからです。誰もいないのに、離すのは、独り言。ときどきはあるでしょうが、いつも独り言を言っていたら、問題です。しかし、お祈りはそうではありません。独り言ではないからです。話しかけてくださる神がおられるから、わたしどもの呼びかけを聴いてくださることも信じられるのです。ですから、「主を信じる者は失望することがない」とパウロは、何度も言うのです。

私どもは先週も、生活のなかで小さな失望なら、何度も経験させられたかもしれません。思い通りにことが進まない。思い通りに、子どもが育たない。思い通りに、夫が妻がこたえてくれない。思い通りに、自分の体も動かない・・・。失望の連続であるかもしれません。しかし、キリスト者は、大きな失望がありません。それは、主の御名を呼んで、それが独り言になってしまうという、恐るべき失望のことです。そのようなことがない。そこに確かさがあります。究極の確かさです。生きる手ごたえです。支えです。そのお方が神なのです。この神が今や、主イエス・キリストにおいて、こんなにまで近くにいてくださる。わたしどもの口、心にまで入ってくださる。だから、私どもが、信じて救われることは確実であり、堅固なのです。私どもの救いは堅固です。神が堅固なお方だからです。そしてその知識を、神が私どもに与えてくださいました。そこに私どもの信仰の確かさ、堅固さがあります。

かつて、ローマ皇帝が主であると言えと強制されました。しかし、彼は堅固ではありませんでした。今や、その帝国は地上にありません。滅びてしまいました。しかし、神の国の主、教会の主イエス・キリストは、鮮やかに世界の主として支配しておられます。私どもは、いついかなるときにも、この主を主として、心で信じ、口で公にする。それが、キリスト者であり、キリストの教会なのです。この教会の旅路を、今週も、主イエスを先頭にして進み行くのです。

神は、私どもの名前をお呼びくださいます。そのようにして、私どももまた御名をお呼びするのです。それが信仰です。そうであれば、この信仰とは神がまさに全存在をかけて人間に働きかけてくださる出来事、御業を意味することも分かるのではないでしょうか。そうです。信仰とは、神の壮大な、宇宙より広大、壮大な、驚くべき力強い働きです。そして、それは、宇宙のようななにかつかみどころのないものではなくて、はっきりしたものなのです。確かなものです。どれほどはっきりしているかと言えば、それは、名前を持っている、名前がつくほどはっきりしたものなのです。その尊いお名前こそが、イエスです。あのイエスさまにおいて、神のご存在、ご人格は決定的に人間に明らかにされました。あのイエスさま、つまり十字架にかかってくださり、ご復活してくださった御子なる神にして人間となられたお方が、私どもにあのようにまさに命をかけて働きかけてくださったのです。

この命をかけてくださった、全存在をもって私どもに関わってくださった神を知った人間は、その人間もまた、その全存在をもって神に向うようになるのです。それは、神の力なのです。そのような神が、イエス・キリストにおいて私どもに近くいてくださるから、私どもは、まさに命をかけて「主イエス」「イエスさまはわたしの主、世界の主です」と告白するのです。

最後にキリスト者の詩人、八木重吉さんの「イエス」という詩を朗読し、祈りを捧げます。私どもに与えられている主の御名を、今週もまた、何度でもお呼びしたいからです。どんなときにも、心を込めてお呼びしたいからです。

「イエスの名を呼びつめよう
入る息出る息ごとに呼びつづけよう
いきどおりがわいたら
イエスの名で溶かそう
弱くなったら
イエスの名でもりあがって強くなろう
きたなくなったら
イエスの名できれいになろう
死のかげをみたら
イエスを呼んで生きかえろう」

祈祷
 主イエス・キリストよ。あなたの御名を心を込めてお呼びします。主なるイエスさま、キリストなるイエスさま。永遠に変わらない御名の故に心から感謝し、御名を賛美いたします。あなたが、私どもを呼んでくださいました。わたしの兄弟と。父なる御神、あなたは御子を通して、御子によって、私どもをお呼びくださいました。わたしの愛する子と。ですから、私どもも大胆に天のお父さまを、あなたをお呼びするのです。この確かな関係こそが、私どもの救い、希望であります。どうぞ、この信仰に、地上にある限り、かたく踏みとどまらせてください。そして、この信仰の言葉を、私どもも語り、証することに励ませてください。   アーメン。