過去の投稿2007年8月31日

「迫害される福音に生きる」

「迫害される福音に生きる」
2007年8月26日
テキスト マタイによる福音書 第5章10-12節
ガラテヤの信徒への手紙 第6章11節-16節

「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」

 愛する皆様と共に、ここで礼拝式を捧げることができますことは、どれほど大きな喜びでしょうか。先週は、離れておりましたから、いっそうそのような思いが沸きます。皆様とともに礼拝を捧げることができるわたしは、なんと幸いな人間であろうかと思います。

今朝、与えられたテキストにおいて、私どもは、他ならない主イエス・キリストご自身の言葉として、「あなたがたは幸せな人である」との宣言を聴くことができました。わたしは、説教の冒頭で、それこそ何度も、あきることなく皆様に告げてまいりました。それが、「あなた方は幸いである。」との、この主イエスの祝福の言葉、宣言です。ですから、「おめでとう」という言葉を、しばしば、私は、説教の冒頭で、皆様に挨拶しているのです。言うなれば、礼拝式に出席するということは、自分がどれほど幸せな人間であるのかを、新しく悟ることと言ってもかまいません。そもそも、そのことが分かった人、感謝できた人こそが、信仰者になれるのです。それなら、改めて問いましょう。いったい、わたしどものどんなところが、何がそんなに幸せなのでしょうか。

今朝は、先の戦争とその敗戦を覚えるために、主題説教をいたします。特に、9節以下を学びます。主イエスは、この山上の説教において、最初に、幸福の教えを語られました。 主イエスが描き出された幸せな人の姿、その八つの姿が明らかにされます。

「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心に清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」以上、八つです。そこから「八福の教え」と言われることがあります。弟子たちに向かって、繰り返して、「あなたがたは幸いな人だ。」「幸せ者だ」と主イエスが畳み込むかのようにして、私どもの姿を描き出してくださるのです。私どもの真実の姿とは何でしょう。それは、主イエスの御眼に映る私どもの姿です。神の御眼に映っている私ども自身の姿のことです。そして、それは、幸いな人間として断言、宣言してくださるのです。

最後の8番目の教えは、こうです。「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

そこでは、迫害されるということが丁寧に説明され、あらためて幸いであると言われます。つまり、この八つの教えの一つ一つの教えの結論がこの8番目なのです。

ここでは、「天には大きな報いがある」と、報酬が与えられることを強調しておられるのです。これは、驚くべきことと思います。キリスト教は、決して、所謂ご利益信仰とは無縁のものです。しかし、ここでは、はっきりと、報い、報酬が約束されているのです。それだけに、誤解されないようにあえて申し添えておきたいと思います。聖書における報い、主イエス・キリストの与えてくださる報酬とは、一方的な賜物、贈り物のことであり、恵み以外のなにものでもありません。私どもが自らの力や働きで正当な対価として獲得するような報い、報酬などではありません。たとえば、マタイによる福音書第20章にある、「ぶどう園の労働者のたとえ」を思い出してくださるとよいと思います。そこでは、朝一番から働いた者にも、午後5時に最後にやってきて、何も働けなかった労働者にも同じ1デナリオンが与えられました。主イエスは、それによって、天国の恵み、救いとは、労働の対価のように与えられるもの、獲得するものではなく、ただ恵みであり、贈り物であることをお示しになられたのです。その意味では、迫害を受ける人には、大きな報いがあるけれど、迫害を受けない人には、報いは小さいということではありません。

しかし、そうであればこそ、ここで主イエスが天国の報いのことをはっきりと語られたことは、私どもの心は、大きく動かされるのではないでしょうか。どれほど、主イエスが迫害されるキリスト者、ご自身の弟子たちのことに心を配っておられるのかがよく分かります。
あるいは、11節や12節の言葉遣いのなかで、「あなたがたは」と、弟子たちのことを第二人称で、直接に呼びかけられているのです。迫害される者、それは、目の前にいるあなた方、弟子たちのことなのです。そしてキリストの弟子とは、迫害を受けることが当然のこととされているのです。

この説教が語られたはるか後、使徒パウロが、若きテモテに書き送った第二の手紙の第3章12節にこう記しています。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」キリスト者として生きようとすれば、皆、迫害を受けると言うわけです。それは、第一世紀の世界、教会が置かれた状況だけなのでしょうか。わたしは、違うと思います。これは、時代を超えた普遍的な真理なのです。確かに、西欧と日本の状況とでは、その差は著しいものがあります。あるいは、日本においても、戦前戦中と戦後とでは、その差は著しいものがあります。しかし、いつでもどこでも、キリスト・イエスに結ばれて、その信仰を正しく、熱心に生きようとすれば、そこでは、激しい戦い、軋轢、迫害を避けることは、地上が地上である限り、神の国が完成していない限り、避けて通ることはできないのです。この軋轢や戦いは、教会の中でも起こることです。外部からの迫害は、途絶えたこともあったのですがしかし、内部からの軋轢や戦いが途絶えたことは、2000年の歴史のなかで一度もなかったことです。

主イエスが語られた、幸いの教えとは、言わば、危険な教えです。キリスト者として生きることは、迫害において生きることとされているからです。この説教を直に聴いたのは、使徒ペトロでした。ペトロはその手紙Ⅰ第4章でこう言いました。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」火のような試練は、思いがけないことではないと言うのです。はっきり言えば、当然のことであるということでしょう。パウロの語った言葉とまったく同じです。むしろ、ペトロのこの言葉の方が、主イエスの説教に直接的に響きあっているように思います。「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。」ここには、主イエスの「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」との御言葉が含み込められているのです。

「キリスト者として苦しみを受ける」その先頭に立ったのは、まさに使徒ペトロであり、また先ほどの使徒パウロたちです。主イエスの福音を証言するために殉教した者たちこそ、まさにその先頭に立った人であります。

ただこれもあえて誤解のないようにと申しますが、殉教者になることを奨励する教えは、聖書のなかにはありません。むしろ、主イエスは、「あなたがたがある村で迫害されたなら、そこから逃げなさい」とお教えくださいました。自分の命を軽々しく扱ってはならないということでしょう。そして、2000年後の今日の私どもで言えば、そのような迫害状況を作り出さない戦いに全力を注ぐことこそ、私どもの信仰の戦いの大きな側面であると思います。

その意味では、かつての、戦前の日本では、大日本帝国憲法が施行され、明治政府は、日本を帝の国。天皇の国として、絶対的に支配する神国としました。つまり、私どもの国は、キリスト教にとってまさに、おそるべき荒れ野。石地であったのです。

ところが、私どもの先達は、その石地でしかなかった日本において、どのような福音の戦いを敢行したのでしょうか。その当時、教会指導者がどのような言葉を語ったのか、それを紹介すれば、本当に「おぞましい」「おそるべき」ことばが続くことになります。説教では、紹介する暇がありません。一言で言えば、教会は、この天皇を神とする宗教、偶像宗教に完全に屈服してしまったのです。そのとき、日本のほとんどの教会は死んでいたと言わざるをえません。異端に成り下がったと言っても決して、言い過ぎではありませんでした。

そのことは、今日の私どもがただ単に、批判することはたやすいことであります。そして、それだけなら、ほとんど意味がありません。私どもは、その歴史の事実から決して目をそらさないことです。そこからの問いかけに誠実になることです。日本の教会が、戦争責任を心から懺悔し、謝罪し、悔い改めの実りを結ぶこと、これ以外に、キリストの、神の教会として再建する道はないことを肝に命じなければなりません。その学びは、説教の課題であるより、本日の午後の読書会での学びの課題です。その意味では、私どもの教会形成にとって、読書会がどれほど重要であるかを理解していただけると思います。

ここで、使徒パウロと使徒ペトロとのやりとりにおける一つのエピソードを紹介して、考えてみたいと思います。ガラテヤの信徒への手紙第2章11節です。「ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。」ケファとは、使徒ペトロのことです。パウロは、おそらくみんなの前で、もしかすると教会員たちの前で、大使徒ペトロを面罵したのだと思います。叱責した理由は、ペトロが、それまで異邦人と一緒に食事をしていたのに、「割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたたからです。」パウロは、この行為を「偽善」と見ました。みせかけの行為としました。それは、ペトロの人間的弱さとして、許容してはならなかったのです。見逃してあげたり、大目に見ることはできなかったのです。なぜなら、それは、人間の性格云々の問題ではなく、福音の真理の問題、教理の問題だからです。

確かに旧約聖書を読めば、ユダヤ人にとって、割礼を受けることがどれほど重要であるかは、一目瞭然のことです。割礼こそ、自分が神の民とされている目に見える証拠となったのです。すでに2000年の伝統とされていたのです。その2000年の伝統を、打ち捨てることは、人間的に言えば、どれほど抵抗感、どれほど大きな決断、革命的なこととされるか、我々でも少しは想像できるように思います。

しかし、それは、今では違うのです。主イエス・キリストが来てくださったことによって、割礼はばっさりとやめなければならないのです。この明白さが、福音の真理なのです。割礼を受けていない異邦人とユダヤ人が食事を共にすることも明らかな律法違反でした。しかし、それも今では、イエスさまが十字架に死んでご復活された今では、無意味になったのです。これまでとはまったく違う生活を、スタートするとき、そこにどれほどの摩擦、軋轢が起こることになるのかは日の目を見るより明らかです。
おそらく使徒ペトロにとって、割礼の問題や、割礼を受けていない異邦人と食事をすることを、ユダヤ人キリスト者に弁明することは、面倒なことだったのではないでしょうか。面倒な論争から、逃げたのではないでしょうか。割礼を受けていない者とユダヤ人が挨拶したり、食事をするなど、何事であるかと血相を変えて憤るユダヤ人、言わば「分からず屋」の伝道者を恐れたのではないでしょうか。しかし、使徒パウロは、まさにそのようなところに、「迫害をさけよう」とする思いがわずかでもひそんでいると見なしたのではないでしょうか。

実に、この「迫害されたくない」という思いのなかに、福音を裏切ってしまう、信仰を裏切ってしまう、真理を裏切ってしまうという問題の急所があるのです。迫害されたくないということは、何も、命を奪われるというような究極のことだけではありません。むしろ、大抵の場合、「皆と同じでいたい。皆に理解される人間でいたい。良い人と呼ばれたい、思われていたい。多数の人々と、上手く、問題を起さずに平和に過ごしたい。」この考えの中に、私どもの課題の急所があるのです。

第4世紀後半、ローマ帝国はキリスト教を公認し、自分たちの統治のために利用しようとしました。それは、教会の歴史にとってまさに最大級の出来事になりました。教会の出発の当初は、主イエスが山上の説教で語られたとおりの実に厳しい迫害にさらされたのです。その後も、なお単発的ではありましたが、地方によってはなお断続的ではありましたが、迫害は続きました。しかしその300年後、これまでとは打って変わって、キリスト者であることの方がむしろ楽になって行くのです。

実に、そのような歩みにおいて、見失われてしまう危険性がありました。それは、ヘブライ人の手紙第11章13節です。「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」そこでは私どもが、この地上ではどこまでも旅人であり、「在留異国人」であることを当然のことと受け入れることが、当然のこととされているのです。

この手紙においても、主イエスの山上の説教の約束がこだましています。「天には大きな報いがある。」「天国はその人のものである。」この約束によってアブラハムは生きていた。信仰者が、特に迫害に耐えて生きる力は、地上から汲み取ることはできないのです。

私ども神の民の歴史をつくる最初の人、アブラハム以来、神の民は「よそ者」であり、「仮住まいの者」、つまり旅人であり寄留者なのです。そこにはキリスト者でない人々との間に、あざやかな異質性があります。その異質性は、普段は意識しないかもしれません。しかし、主の日にははっきりします。キリスト者とは、主の日に教会にいる人なのです。また葬儀のときにはっきりします。焼香をしないからです。ある公立の学校での式典のときにも、はっきりします。君が代を歌ったり、日の丸にお辞儀したりしないからです。いや、本来、どこにいてもはっきりすることこそがふさわしいはずです。

福音の真理は、この地上にあってはどこまでも異質です。この異質さが、異質でなくなるのは、地上に神の国が完成されるそのとき、主イエス・キリストの再臨のときです。それまでは、福音と福音に生きる者は、地上にあっては異質です。

とりわけ、この国にあっては、戦前の日本にあっては、あまりにも明らかなことのはずでした。ところが、私どもの先達は、ほとんどその最初から、どうしたら異質ではなく、むしろ自分たちこそ天皇絶対制、天皇の支配する国体にも合致できるかを、日本人に示せるのかという発想に立ったのです。それは、悲劇的なボタンのかけ違いです。日本の国が悪魔化を極めた先の戦争に反対し、抵抗することができなかったのは、当然のことでした。正しく言わなければなりません。抵抗どころではなく、加担して行ったのです。

率直に申しまして、私どもは、今、同じ過ちを犯し始めているような気がしてなりません。日本キリスト改革派教会も例外ではないと思います。堂々と、「教会として憲法を支持すること、とくに9条を支持することは、教会として不可能である。するならば、キリスト者個人がすればよいのだ」という意見が、私の世代からも、なによりも戦争を知っている世代からも、大きな声が上がっているのです。そこに何か、組織としての教会を守ることを優先したいという、まさに「迫害されたくないばかりに」という問題性を私は、見るのです。

私どもは誰しも、自分の立場を安定させたい、問題を起したくない、面倒なこと、自分にとって、マイナスになることからは身を引いていたいと考えます。あるいは、誰でも自分自身を誇りたいという誘惑から逃げることができません。アダム以来の罪です。しかし、キリスト者とは、使徒パウロが言うように、主イエス・キリストとその十字架だけが私どもの誇りであるべきなのです。それ以外には、ない人間なのです。なぜなら、私どもの主キリストが、誰もがあのように死にたくはない、殺されたくはないと逃げるあの十字架で死んでくださったからです。あの惨めで、恐ろしい苦しみ、神の裁きを受ける死をお受けくださったことによってのみ、私どもが受けるべき神からの呪いは、一気に、神からの祝福へと変えられたからです。私どもは、あの主イエスの十字架によってのみ、幸いな人間に造りかえられたからです。

「迫害される人々は幸いです」と主イエスの宣言は、これから迫害されるからではなく、そもそも、キリストにあって、キリストと結ばれた人間の避ける事の出来ない姿を言い表しているのです。
パウロは言いました。「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」「原理」とは、カノンという言葉です。基準、規範です。新約聖書を意味する言葉として用いられてゆくのです。主イエス・キリストの十字架を誇りにして生きる人は、神のイスラエル、神の民なのです。

新しく創造された私どもは、不断に、たえず新しくされ続けます。その限りで、私どもは新しく創造された者となっているのです。決して一度で終わってしまうことではありません。一回限りのことではないのです。地上に生きる限り、キリストとの結合を深めるのです。あの十字架のイエスさまと結ばれた存在であれば、それは、まさにこの世においては、新しい存在とされてしまうことを意味します。主イエスとの交わりに生きる人間は、この世にあっては、異質な存在としてあり続けるのです。異質ではあっても、異常ではありません。むしろ、この世の異常性をこそ、明らかにするような異質性です。私どもは、天からの視点でこの世界を見つめ、この世界に福音を証します。福音によって、この世を裁き、そして何よりも赦しの道へと招き入れるのです。これが、主イエスが、私ども神の民、イスラエルに歩くようにと指し示してくださった福音宣教の道なのです。そして、主イエス・キリストのお姿そのものに他ならないのです。

使徒パウロは、「神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」と祝福を告げます。この祝福、この祈りは必ず実現します。なぜなら、主イエス・キリスト御自身が、すでに保証しておられるからです。「天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

実に、この幸いな人の姿の頂点にあるのは、人となられたイエスさまご自身のことに他ならないことが見えてまいります。預言者の中の預言者であられるイエスさまは、迫害を受けられたのです。しかし、神はこのイエスを死人の中か復活させてくださいました。そうであれば、この幸いを受けたお方、この幸いを完全に生き抜いて下さったからの祝福の言葉であることを、心に刻みましょう。そして、私どもは、このキリストに従う者として、呼び出されている者たちに他ならないのです。今、迫害されている、いないということではなく、主イエスを真実に信じ、従っている者は、すでに、この天の報いが保証されているのです。ですから、あなたは幸せな人間として、神の御眼に映っているのだと宣言してくださるのです。この宣言を、しっかりと聴きましょう。そして、今、これを語っておられるお方が天におられることを何よりの、誇り、何よりの力、なによりの希望として、地上を迫害から逃れて、キリストの足跡から逃れて生きる、いへ、死んでしまうのではなく、主の約束を受けている者らしく旅を続けてまいりましょう。

祈祷
教会の頭にしてすべての国々の頭であられる主イエス・キリストの父なる御神、私どもは、この国で、まことに少数の群れ、民です。いへ、どの国、どの時代にあってもキリスト者と教会は、多くの人々と異なった歩みをしなければなりません。キリストの十字架を誇りにする道、迫害されることをさけるために、語るべき福音を語らず、何よりも語るべき福音の真理を捻じ曲げてしまう誘惑に打ち勝たせてください。外の誰か、何者かと戦う前に、そのような自分自身の弱さ、罪との戦いにこそ、勝利の秘訣があることを悟らせてください。天国は私どもの上に約束され、すでに教会の交わりのなかで永遠の命の祝福に入れられていることを確信させてください。そのようにして、この日本にあって、私どもの存在が光となり塩となりますように。アーメン。