過去の投稿2007年8月31日

>「日本における教会形成の急所-戦争責任の懺悔と謝罪-」(上)

「日本における教会形成の急所-戦争責任の懺悔と謝罪-」(上)  
名古屋岩の上伝道所 相馬伸郎

教会への愛とは?
思いがけず、「大会・宣教と社会問題に関する委員会」より、「今、考えていることを自由に語りなさい。」との依頼を受けました。これほど間口の広い、「太っ腹」な寄稿の招きをお断りすることはできません。

教会において責任を持って「自由に」、その考え、信じるところを語ること、またそれが許される環境があることはとても大切なことです。真理探究の場であるべき大学では、「学問の自由」が保障されることが前提とされています。しかし、他のいかなる場所にもまさって、教会こそ「真理の柱」なのです。もとより、この真理とは、神の真理であり救いの真理、つまり霊的な真理のことです。この真理によって生かされ、また裁かれる教会であればこそ、教会にとって、真理探究の自由の保障とその熱心はその生命的形成に不可欠です。それなしには、教会の将来を自ら損なうことになります。

ただし、その自由は、教会の信仰と生活の唯一の規準である正典としての聖書に拘束されるものです。聖書の真理は、常に、信じる者をして神の栄光と教会の交わりを建て上げる方向へと導きます。真理なる神への愛と真理によって結ばれる隣人(狭義には教会員)への愛へと促してやまないのです。ですから、教会における言論活動は、教会の仲間たちへの愛に根ざし、その愛を深めることへと向かい、そのようにして、神への愛を証するものとなるはずです。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(ヨハネの手紙Ⅰ第4章12節)

守るべき「教会」とは何か
ただし、この真理への愛と教会への愛とは、  歴史のなかで、極めて不幸な関係を生じました。こともあろうに、しばしば対立したのです。その典型として真っ先に挙げられるのは、先の戦争における私どもの先達のとった行動です。私どもは、  教会を「守る」と称し、教会の存続を最優先の課題として、天皇を万世一系の絶対的な統治者とする「国体」を擁護しました。結果として、侵略戦争の国策に積極的に加担しました。神社参拝や教会合同などへと転落しました。「教会」を守ると言いながら、信仰の真理を否定し、真理なる神への愛と従順を裏切ったのです。それは、教会の自殺行為であり、異端化でしかありません。つまり、「目に見えない教会」からの断絶でしかありませんでした。彼らが守ろうとしたのは、教会の「資産」ではあっても、教会の「信仰」ではありませんでした。今でも、「当時の指導者たちは、会員や教会を守ろうとした」とする歴史認識があります。しかし、教会の会員を守るということが、彼らの信仰の戦いを励ますこと、つまり、永遠の命を獲得するようにと励ますことでなければ、何の意味があるのでしょうか。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」(テモテへの手紙Ⅰ第6章12節)

教会を丁寧に考えるとき、私どもは、改革者以来、「目に見えない教会」と「目に見える教会」とを分けてまいりました。「目に見える教会」が、「目に見えない公同の教会」に連なっていなければ、そこで救われることはできないのです。救いの確かさを失わざるを得ないのです。「目に見えない教会」だけが、神のものであるのではありません。私どもが直に仕えている、人的財産やしばしば不動産を持つ「目に見える教会」もまた、徹底的に神のもの、神の教会なのです。つまり、神の主権に反抗し、福音の信仰を裏切ってまで守るべき「きょうかい」なるものは、天上はもとより、地上には、ありえないのです。
(先の大戦における日本の諸教会の赤裸々な姿を報告する書として、「『十五年戦争期の天皇制とキリスト教』富坂キリスト教センター編 2007年 新教出版社」をお勧めいたします。)


殉教者・朱基徹牧師の模範

この点で、私ども日本人キリスト者が学ぶべき、特筆すべき歴史的出来事があります。それは、  韓国の殉教者、朱基徹牧師の戦いです。彼の属する老会(=中会)は、「神社参拝は宗教行為ではない」「天皇の臣民、赤子として神社参拝をしなければならない」と言う、日本の官憲と日本基督教団(統理)の圧力に屈して、中会決議においてこれを受け入れました。しかし、彼は、これに断固反対しました。遂に、老会は、彼を罷免しました。

教会会議を重んじることは、長老主義の教会形成の要諦であり、常識です。しかし、彼の信仰の良心と確信にもとづく反対、そして抵抗運動は、その後の韓国教会の行く道を明るく照らし出すものとなりました。韓国キリスト教界は、私ども  日本の教界とは対照的な伝道の実りをもたらすことになりました。古来、「殉教者の血は、福音の種」と言われてきたことがこの牧師においてこそ、 よく当てはまるように思います。

彼が守ったのは、目に見える人的、物的財産ではなく、目に見えない「教会の信仰」でした。   それゆえにこそ結果として、地上の教会をも守ることとなったのです。
余談ですが、2006年、大韓イエス教長老会統合総会は、かの罷免決議を、神の前に罪であったと公式に悔い改め、謝罪致しました。

ついでに申しますと、私ども長老主義教会の牧師理解は、その召命の教理において「外的召命」を重んじます。つまり教師は、教会の正しい手続きを経た上で任職されます。決して「内的な召命」だけで牧師になることは、原理上できません。  自分だけで自分を牧師とすることはできないのです。しかし、もしも「敢えて」、どちらがもっとも大切かといえば、それは、明らかに内的召命であると思います。

たとえば、あの使徒パウロを思います。彼は、自分の使徒性を疑い、批判する多くの敵対者に囲まれていました。確かにパウロは、他の使徒たちのようには召され、立てられたわけではありませんでした。外的召命の確かさにおいては、言わば、「欠け」があったのです。ところが、そのような彼は、決して教会の秩序を軽んじることはありませんでした。むしろ、当時の経済的に困窮を極めたエルサレム教会へ、異邦人諸教会からの募金を集めることによって彼らを援護しました。それによって全体教会の霊的な絆を強め、教会の秩序保持に、全力を注いだわけです。

しかし同時に、彼は、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」とガラテヤの信徒への手紙冒頭に記したように、職務に対する内的召命の決定的な優位性と重要性を確信しているのです。 またあわせて、教会とは、徹底して、イエス・キリストと彼を死者の中から復活させた父なる神のものであることをガラテヤ教会に気づかせたかったのだと思います。ついでのついでに、カルバンこそ、教会史上、教会的任職を経ずして用いられた最大級の牧師でしょう。

もし地上の制度的教会が、キリストへの忠誠、服従を裏切るなら、そのときには、「人々からでもなく、人からでもなく」と、まさにぎりぎりの内的な召命に立って、地上の教会に反対して立つことも必要なのです。朱基徹牧師の戦いは、地上の教会とまことの教会の信仰との「乖離」に、まさに命をもって架橋しようと、究極の信仰の戦いを戦ったのです。(第32回中部中会信徒研修会記録誌「過去を振り返り、我らの信仰を確認する」には、御子息、朱光朝長老の証が掲載されています。)
迫害されないキリスト教?

朱基徹牧師の獄中でのすさまじい拷問を知れば、いったい誰が、迫害に耐えられるのだろうかと思います。決して人間の力ではなしえないことは明らかであると思います。もとより、誰しも迫害を望んだり、喜んだりする者はいないはずです。

しかし一方で、テモテの手紙Ⅱ第3章12節にはこう記されています。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」さらに主イエスは、山上の説教における八福の教えにおいて、その八番目、結論としてこう結んでおられます。「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人のものである。  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイによる福音書第5章11-12節)

ちなみに、ここで描き出された幸いな者、幸いに生きる者の姿とは、まさに人となられた御子イエスさまのお姿と一つに重なります。と同時に、ご自身と信仰によって結ばれた弟子たちの姿をも描きだしておられるのです。つまり、「迫害される」人々とは、ご自身の弟子たち、キリスト者である私どものことに他なりません。

使徒パウロは、まさにその典型でしょう。キリスト者となってからの半生は、迫害につぐ迫害を受けた歩みでした。「偽使徒」でしかないユダヤ主義伝道者たちからの批判とユダヤ教指導者からの迫害です。コリントの信徒への手紙Ⅱ第11章24節以下には、その壮絶な姿が証言されています。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。」

 蛇足ですが、迫害は、自ら進んで受けるべきものではありません。主イエスは、「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。」(マタイによる福音書第10章23節)とお命じくださいました。ただし、そこでこそ誤解してはなりません。  主イエスは、迫害される宣教活動から逃げなさいとは仰せになっていません。

 いったい何故、迫害されるのでしょうか。何故、避け得ないのでしょうか。それは、伝える福音、  証する福音そのものが、この世がめざし、求める方向とは、「反対・逆」のものだからです。だからこそ、福音を信じるときには、同時に「悔い改め」が求められるのです。福音を信じることと悔い改めることとは、一つのことなのです。もしも、私どもが語る福音の言葉が、誰にでも喜ばれ、受け入れられる言葉でしかないのであれば、それは、福音の全体を語っているのかどうか、疑う必要があります。「悔い改め」が伴わないままキリスト者になることはできません。それを可能にするような「福音」なるものは、結局「他の福音」(ガラテヤの信徒への手紙第1章6節)でしかありえません。

「迫害されたくないばかりに」
パウロは、ガラテヤの信徒への手紙第6章12節においてこう言いました。「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。」パウロは自分の反対者である、律法主義者、ユダヤ人伝道者が、異邦人に割礼を強いたとき、それを、自分たちが迫害されたくないばかりに主張しているのだと喝破しました。批判された者たちは、いよいよ憤慨し、パウロこそ、ユダヤ人の敵対者であり、神の敵対者であり、キリスト教、福音の真理を曲げる者と理解し、憎悪したのだと思います。

 私は、日本の福音主義教会の歴史を振り返れば振り返るほど、その出発の時から、大きな「落とし穴」にはまっていたことをしみじみ思わせられます。 その一つのしかも最大の問題は、教会と国家との関係をどのように理解するのかということです。

「キリスト教」を日本に一掃するためには、遂に鎖国政策すら辞さなかったのが江戸幕府でした。 いらい、キリスト教は日本の津々浦々まで、邪宗とされ、禁じられていました。(為政者が恐怖心に捉えられたのは、一つには、キリスト教の教えそのものにもありましたが、ポルトガル、スペインなど当時の植民地政策への敵対心も考慮すべきでしょう・・・)明治新政府もまた、キリスト教を邪宗とする政策(五榜の高札)を、そのまま継承しました。しかし、欧米列強の圧力に屈する形で、言わば、  なし崩し的にキリスト教の布教を認めて行ったのでした。

 そのような極めて厳しい歴史的背景と状況の只中で、私どもの第一世代の指導者たちは、キリスト教信仰の地歩を固めるために、国家権力に認められることこそ焦眉の急としたのでした。それは、ごく当然のことでもあったと思います。

 1889年に制定された大日本帝国憲法第二十八条は、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ゲズ及ビ臣民タルノ義務ニ背カザル限リニ於テ、信教ノ自由を有ス」と規定します。いわゆる、信教の自由の保障の条項です。今日から見れば、簡単に分かることですが、その自由とは、どこまでも天皇が神であって、民は臣民、つまり天皇のものであることが了解され、それに従う限りのものなのです。天皇から「下賜」されたものでしかない自由なのです。つまり、「信教ノ自由」とは、言葉の罠でした。

しかし、そもそも、天皇制国家体制において、キリストの主権を正しく語ろうと志すとき、偶像としての「天皇」、「天皇絶対制」との対決を回避することはできなかったはずです。しかし回避した結果、指導者たちは、その回路を、真逆に転換しました。大日本帝国憲法、第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という絶対性、宗教性を持つ『国体』に合わせることへとシフトしたのです。

天皇制の問題を正面から、神学的に考察することを回避して、まるで福音に立つ教会と「天皇(絶対)制」とが共存可能であるかのように理解しようとする「罠」に自らはまって行ったのです。  その結果、時の権力者の「意向」に寄り添って行く体質を育むことになるのです。これこそ、日本の教界が陥った最大の落とし穴であったと思います。戦前、神社参拝は宗教行為ではなく国家儀礼であるという国家の詭弁でしかない「施策」を、これで神社参拝をキリスト者としても可能となると、喜んで丸呑みしたのです。会員に、神社参拝を呼びかけ、奨励して見せたのです。ついには、天皇のために殉じることと、英霊として靖国神社に祀られることの尊さを「キリスト者軍人」のために訓令してみせた指導者をも輩出することとなりました。こうして、あの戦争への加担というあまりに悲惨、無残な罪を犯す結果を生むことになったのでした。

恐ろしいほどまでに悲しい事実ですが、敗戦直後、私どもの属した日本基督教団とその指導者たちは、戦争加担の責任と罪を、神に悔い改めるのでも、戦争犠牲者に、謝罪することもまったくありませんでした。敗戦の責任は、自分たちの報国の力が足りなかったからであると言ったのです。ひたすら「天皇に対して」懺悔・悔い改めるべきことを会員に呼びかけたのでした。いわく、「聖断一度下り畏くも詔書の渙発となる。而してわが国民の進むべき道ここに定まれり。本教団の教師及び信徒はこの際聖旨を奉戴し国体護持の一念に徹し、愈々信仰に励み、総力を将来の国力再興に傾け、以て聖慮に応え奉らざるべからず。我らは先ず事茲に到りたるは畢竟我等の匪躯の誠足らず報告の力乏しきに因りしことを深刻に反省懺悔し、今後辿るべき荊棘の道を忍苦精進以て新日本の精神的基礎建設に貢献せんことを厳かに誓うべし」(1945年8月28日教団統理令達)何をかいわんやでしょう。

 ところがその後、連合国の占領政策を知るや、一転します。占領政策に迎合するような発言が目立って行くわけです。臆面もなく、連合国側からのミッション協力や莫大な献金への受け皿として日本基督教団を機能させて行くことになります。このようにして、権力・時代に迎合して歩み始めます。戦後の伝道は、平和国家樹立とその精神的基盤たるキリスト教を錦の御旗にして、進められて行ったのでした。繰り返しますが、自らの戦争責任をなんら問うこともなく再出発したのです。敗戦時に、戦争責任を自ら問うことのなかった教会は、その後長く、戦責を自覚せずに歩み続けました。そのような教会が、戦後責任を自覚すること、ましてや、教会の対社会的責任、国家的使命を果たすことなど、望むべくもありません。

わたしは、日本の教界は基本的にはなお、神とアジア諸国の人々、日本の人々に対する悔い改めと謝罪をしないまま今日に至っていると考えます。
ちなみに、日本基督教団総会は、67年、総会議長名で、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を公にしました。これは、罪責についての不徹底さなど問題も山積していますが、しかし、教団の歴史と日本の教会史にとっては、  特筆すべき光彩を放つものと考えます。戦後50年を機に、多くの教団が、戦争責任を告白しました。

 歴史の詳細については、専門家や資料にゆずります。しかし、聖書は言います。これらの問題は、   決して日本だけ、あの特異な時代だけの問題ではないのです。その根本には、普遍的な問題が横たわっているのです。それこそが、使徒パウロが指摘した真理、「迫害されたくないばかりに」信仰の真理を裏切り、神の教会を人間の宗教団体へと貶めてしまったのです。そこに、今日の私どもまた鋭く問われている信仰の問題、課題があります。

「旅する神の民」か「地上に根ざす臣民」か
ヘブライ人の手紙第11章13節に、信仰者の姿が描き出されています。「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、  神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」著者は、神の民キリスト者とは、この地上にあってはどこまでも「旅人」であると言明しています。教会は、言わば「在留異国人の共同体」として存在しているとされているのです。この御言葉においても、前述の主イエスの山上の説教のあの約束の御言葉、「天には大きな報いがある。」「天国はその人のものである。」がこだましています。

私ども神の民の歴史をつくる最初の人、アブラハム以来、神の民は「よそ者」であり、「仮住まいの者」でした。アブラハムは、この約束を信じてこそ生き、旅をし続けることができたのです。  信仰者の力、特に迫害に耐えて生きる力は、地上から汲み取ることはできません。天の報いを期待し、求めることによって与えられるものなのです。

そこに、未信者とのあざやかな異質性があります。その異質性を、普段はあまり意識しないかもしれません。しかし、主の日にははっきりします。また葬儀のときにも際立ちます。焼香をしないからです。また今日では、ある公立の学校での式典のときに、はっきりします。国歌「君が代」を歌わないからです。いへ、本来、どこにいてもはっきりすることこそがふさわしいのです。私どもの価値観、その生活スタイルは、地上を永遠の故郷のように考えている人々とは、まったく異なるからです。前述どおり、しばしば、「反対・逆」に向うからです。福音の真理は、この地上にあってはどこまでも異質です。この異質さが、異質でなくなるのは、地上に神の国が完成されるまさにそのとき、主イエス・キリストの再臨のときです。それまでは、福音と福音に生きる者は、地上にあっては異質な存在であることを避けることはできないのです。「わたしは福音を恥としない。」(ローマの信徒への手紙第1章16節)との御言葉は、福音を恥とさせようとするこの世の原理への勝利宣言です。しかし、それは、福音の主イエス・キリストにより頼む以外に実現しえない恵みの状態です。

横道にそれますが、先の戦争で例外的な抵抗をしたのは、美濃ミッションでした。美濃ミッションは、1918年、アメリカから個人的な支援者たちによって派遣された女性宣教師、セディー・リー・ワイドナー(1900-13年 合衆国改革派教会から派遣され宮城学院校長を歴任。)によって設立され、自ら監督者となられた小さな自給ミッションでした。ミッション設立の大垣教会の日曜学校に連なる小学生が、地元の神社参拝を拒否し、さらに三年後に、伊勢神宮への参拝も拒否しました。大垣市では、学校、警察、住民が一体となって、実力をもって美濃ミッションを排撃する運動を展開しました。ワイドナー宣教師は、治安維持法、宗教団体法などの恐るべき悪法によって信仰の自由を縛られてしまった状況のまっただ中で、なお信仰の戦いを貫かれたのです。彼女の信仰のよき戦いの根底には、おそらくリフォームドの信仰の気概、十戒の第一戒、そして「いかなる像も刻んではならない」とする第二戒に徹底して服する骨太の信仰的骨格があったものとわたしは考えます。しかし同時に、やはりアメリカから、つまり外から来られた在留異国人、旅人としての視点がはっきりしておられたからこそ、日本の異常さを見抜くことができたのではないかとも考えます。

ひるがえって、今日の私どもの伝道、とりわけ日曜学校伝道において、あの美濃ミッションの子どもたちの信仰の根本である真の神のみを神とする素朴な信仰とその視点から偶像礼拝を拒否する真剣なまなざしを植えつけることができているかどうか、問われているように思います。

 かつての国民学校は、今日の小学校でしたが、  それは、まさに「教育勅語」と、文部省の制定した国家神道の聖典たる「国体の本義」に基づく教理を教える「教会」の機能を担いました。言わば洗脳的教育によって、「鬼畜米英、打ちてしやまん」と、天皇陛下のために自分もはやく戦いたいという軍国少年を育み、その血をたぎらせて行くことになったのです。私どもは、否応なく、この時代の「空気」とそれをもたらす思想の影響を受けて育ちます。 子どもたちこそが、真っ先に、純粋に洗脳されてしまった現実を振り返れば、昨年、改定されてしまった教育基本法がどれほど恐ろしい力を振るえるかが分かると思います。あのとき、教会が挙げて反対の意思を明白にし、何よりも、これを阻止するために尽力すべきであった事は明らか過ぎる事でありましょう。 

なお繰り返します。私どもの先達は、ほとんどその最初から、正反対の方向へと動き始めたのです。どうしたら異質性を払拭できるかと志向したのです。自分たちこそこの国を支えるのに有用であり、必要なものを提供できるのだと、天皇の支配する国体に擦り寄ることによって、活路を見出そうとしたのです。つまり、旅人であることを止めようとしたのです。それは、あまりにも悲劇的なボタンのかけ違いでした。悪魔化を極めた先の戦争に抵抗するどころか、反対することもできなかったのは当然すぎることです。正しく、はっきりと発音しなければなりません。私どもは、戦争に進んで加担した者たちの末裔に他ならないのです。確かに、私どもの被害者としての側面を否定することは極端な主張でしょう。しかし、それ以上に極端なことは、加害の主体であることを否定してしまうことです。戦争責任を明白にし、神に悔い改め、隣人に謝罪する以外に、日本の教会の再出発はありえないのです。教会の生命を自ら損ない、異端化する罪を二度と犯さないように、徹底してキリストの主権に服する道を歩むことを志とする以外にないのです。

 
コルプス・クリスティアヌムの罠

「コルプス・クリスティアヌム」とは、4世紀末、コンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認とその後の国教化によってもたらされた「キリスト教世界」のことです。それは、教会の歴史にとって決定的な転換点を意味しました。教会の歴史において最重要な出来事が起こった「とき」でした。内外からの厳しい信仰的、教理的戦いを経て、教会は自己像を確定することができたのです。新約聖書の正典化、ニカヤ・コンスタンティノーポリス信条の制定、監督制度の確立などによって、いわゆる古カトリック教会が成立したのでした。加えて、ローマ帝国の公認を得たことも、教会の信仰の戦いの勝利という側面を認めることもできるはずです。

しかしながら、同時に、この公認、国教化こそ、教会にとっての大きな落とし穴、罠になったことを常にわきまえておく必要があります。それは、教会がこの世にあって旅人であることを忘れさせてしまう誘惑、教会そのものを神の国にすりかえてしまう過ち、教会をこの世に解消する罪を犯す端緒となったことを意味するからです。

 先ほど日本の教界は、「国体」に取り入ろうとし、教会であることを事実上放棄した罪を指摘しました。それは、一種のコルプス・クリスティアヌム化を目指す行為であり、体制側に立つことへの憧れと言えるかもしれません。(一例として、神学者・熊野義孝の提唱した「国民教会」の構想なども)

 ちなみに、美濃ミッションを起した宣教師を輩出したアメリカ合衆国は、信教の自由を求め、神の国を拡大する冒険者たちによって建てられたとする建国物語をもっています。国教会ではなく、教派教会、自由教会の形成という新しいキリスト教の運動による新しいキリスト教会の樹立をもたらしたと理解されます。しかし、その企ても、あくまでコルプス・クリスティアヌムを大前提としていることには変わりありません。しかもそこで、多くの教会は、その教えをアメリカ合衆国国民の常識、単なる倫理の世界へと「解消する」ことに力を注ぐという陥穽にはまったのです。彼らの「落とし穴」は、聖書の教えによって、アメリカ(その政治体制、支配者層)を正当化することでした。

 例えば、1861年、アメリカ南部連合長老教会総会は「キリストの全教会に告ぐ」(起草者、J・H・ソーンウェル)という文書をあらわしました。そこでは、黒人を奴隷とする制度を聖書の信仰によって支持し、正当化して見せています。さらにまた教会が、奴隷制度を批判するという政治的発言に及ぶことすらも、教会の霊的性質からの逸脱であり、越権行為であると主張しています。しかしそのような主張こそは、教会をこの世へと解消する暴挙であり、教会の頭に対するまさに越権行為に他なりません。

 それからはるかに下って、先の大戦とのかかわりで言えば、キリスト者を含むアメリカ人の多数は、広島、長崎への原爆投下を、「しかたがない」と許容しました。しかし、核兵器使用を是認した国家と教会が、その後、「正義の戦争」を主張するたびに、神の正義といよいよ乖離する無残な姿、倫理的凋落の悲惨を世界に明らかにするしかないのではないでしょうか。その意味では、アメリカの教会もまた神の御前に、ひとしく罪ととがを負っているのではないでしょうか。
しかし、私どもがなすべきことは、他国の教会を批判することではなく、日本の教会が犯した恐るべき戦争責任を明らかにすることです。それを徹底して悔い改めることであり、隣人たちに赦しを乞うことです。戦後責任をわきまえ、その使命に力強く生きることです。この罪責を、徹底して悔い改めることを抜きにしては、キリストの教会として再生の道を進むことは、「決して」ありえようはずはないのです。