過去の投稿2007年9月2日

「一日中、手を差し伸べられる神」

「一日中、手を差し伸べられる神」
2007年9月2日

テキスト ローマの信徒への手紙第第10章19節~21節
「それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。
イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。
しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。」

二週間ぶりに、ローマの信徒への手紙に戻ります。先回は、信仰は聴くことによる、キリストの言葉を聴くことによるとの使徒パウロの言葉を聴きました。信仰は、説教を聴くことによって始まると学びました。
使徒パウロは、イスラエルに問うのです。彼らは、この神の言葉、キリストの言葉を聴いたことがなかったのかと。パウロは、18節で、徹底的に、イスラエルが神の御言葉を聞いたことがないなどという主張は、ありえないと批判するのです。何よりも、そこで、気づくことは、イスラエルは、預言者の中の預言者であられるキリスト・イエスの御声、御言葉を直に聞いたはずなのです。聞いて、どうしたのでしょうか。殺したのです。主イエスさまを十字架に追いやり、地上から抹殺し、葬ってしまったのです。

さて、本日は、19節に入ります。パウロは、さらに議論を深めます。「それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。」つまり、そこで明らかにされるイスラエルの問題とは、こういうことです。分からないとは、聞こうとしないということです。

分かるということは、悟るということです。認識することです。パウロは、第10章2節で、彼らイスラエルは、神に熱心に仕えていることを証しました。ところがそこで同時に、厳しく主張しました。「この熱心さは、正しい認識に基くものではありません。」そこに、悟らないイスラエルの惨めな姿が映し出されています。彼らは、自分たちに約束された神の言葉を軽んじたのです。あえて、聞こうとしない。かたくなになったのです。聞いた言葉が「分からない」。これは、イスラエルにとって極めて異常なことなのです。神との関係をつくっていただいた民、神の契約を受けた民、イスラエルにとって、御言葉が分かることは当たり前のことなのです。それにもかかわらず、分からないのであれば、それは、彼らの意志、ひねくれ、自分勝手さのせいでしかないのです。たとえれば、あえて、耳栓をするようなことです。

見ることと聞くこととの違いを例にとれば、物を見るということは、まぶたをあけることであって、もしも閉じてしまえば、ただちに見れません。その意味で、人間にとって、見ないということは、簡単なことだと思います。しかし、聞くことはどうでしょうか。目と違って耳は、自分の力で閉じることはできません。あえて「聞かない」ということは、そこに強い意志が働くのではないでしょうか。つまり、耳を閉ざすためには、耳に手をあててしまうことが必要なのです。開いている耳に、あえて耳栓をつけるようなことです。目の前にしゃべっている人がいるのに、耳栓をする。あるいは、イヤホンをして、違う声を聞く、そのときには、聞いても分からないのです。

たとえば、クラッシックのコンサートに行った人が、自分の耳にイヤホンを深く押し込んで、まるで、ボリューム一杯に、目の前で演奏されている曲とはまったく関係のない、自分の好きな音楽を聴いているようなものです。そこで、同じ曲を録音で聴いているなどということではなく、まったく違った音楽を聴いているわけです。それは、実に愚かな行為です。しかも、悲劇の極みは、まるで、自分たちは、目の前の音楽を聴いたつもりになっているということです。実に、そのような状況がイスラエルと神との関係になってしまっているのです。

さて、パウロは、「70人訳」と呼ばれるギリシャ語に翻訳された旧約聖書、申命記第32章21節に記されたモーセの言葉を引用して言います。「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。」ここで、鍵となることばの一つは、「愚かな民」という箇所です。これは、激しい言葉ではないでしょうか。 
イエスさまは、人に向かって愚か者、ばか者と言ってはならないと語られました。地獄に投げ込まれると警告しておられます。つまり、人間が同じ人間に向かって、愚か者と見下すことは、自分を偉くすること、自分を神の側に立たせることを意味します。人間をそのように呼び、見下すとき、ただ単に人間を貶めることをしているのではなく、神に敵対することになるからなのです。

ところが、使徒パウロは、ここでは、モーセの言葉を引用してですが、はっきりと「愚かな民」と言います。ばか者ということです。それは、他ならない異邦人のことなのです。イスラエルの民ではない、異邦人は、神を信じ、神に従わない、その意味で、真の意味で、愚かな民なのです。ばか者なのです。神の民ではないのです。「わたしの民ではない」ということは、地上の民ということです。地上のことのみに関心を注ぐ人のことです。つまり、異邦人です。

ところがどうでしょうか。今や、そのような神の民ではない異邦人、まったく愚かな民でしかない異邦人が、神の御声を聞き、神を信じる人間、神の民になっているのです。御言葉が分かる人間、神を認識する人間になっているのです。そして、もともとは、賢い民、神の特別に選ばれた民であったイスラエルが、異邦人にももとる。異邦人にさえはるかに及ばない、愚かな者に成り下ってしまったわけです。ここに皮肉があります。

神は、実は、そのことをはるか昔、既に、モーセを通して御自身の民に語られました。どうして、反対の立場になってしまったのか。その理由として、二つあげました。「ねたみを起さすため」だり、「怒らせるため」と仰いました。もともとは、神とはまったく無関係に生きている愚か者であり、地上をはいつくばって生きる民、地上の民でしかない者たちが、今や、神を信じ、神に愛されている。天国の民、神の住まいである天へと引き上げられて生きる民になっている。そのありえないことが、事実、起こることによってイスラエルに、ねたみを持たせ、憤らせようと、神がなさるのです。

「ねたみ」とは、愛の裏返しです。嫉妬するのは、その人への愛があるからです。愛する相手が自分に向かって愛を返してくれない。むしろ、自分以外に愛を注ぐ。そこにねたみが生じます。激しい愛であればあるほど、ねたみが起こるのです。

「ねたみ」という言葉を聴くとき、神の民イスラエルであれば、ただちに思い起こす御言葉があります。十戒です。その第二戒です。「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」という掟です。私どもは、今朝も十戒を唱えました。そこであらためて、確認しておくことも大切と思いますが、それは、私どもの十戒の「交読」は、十戒の全文、すべての御言葉を読んでいるのではないということです。特に、第二戒、三戒、四戒は、最初の言葉だけを読んでいます。第二戒は、こうです。「私は主、あなたの神。私へ熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」とあるのです。申命記第五章に記されています。新共同訳聖書では、「熱情の神」と訳しました。しかし、古い訳では、「ねたむ神」です。ねたみの神では、あまりにも日本人には、誤解されやすいと考えての翻訳だと思います。「熱愛」です。燃え上がる愛は、真実の愛です。まことの愛、神の愛は常に燃え上がる愛、真実の愛です。愛する相手が、自分のことに無関心で、そっぽを向く。そればかりか、自分を捨てて、他のものを愛している。そのとき、真実な愛は、それに無関心ではいられません。好きなようにするさと、そっぽを向かないのです。決して、諦めないのです。自分を、自分だけを愛するようにと、立ち上がられるのです。それが「ねたみ」の意味です。それが神の愛、熱愛、熱情なのです。神の愛とは、そのような実に激しい愛なのです。

神は、ご自身のこのねたみ、ご自身の御心を、イスラエルにも体験させようとなさるのです。追体験と申します。異邦人、愚か者の民にしかすぎない者たちが、自分たちの目の前で、神に愛され、神を愛しているその現実を見せることによって、彼らに神の愛を思わせ、ねたみを起させるということです。嫉妬させ、そして怒らせるということです。いった何故、神は、自分たちではなく、約束されていない者を愛するのかという憤りです。そして、そこでこそ、自分たちの背きの罪、反逆の罪、偶像礼拝の罪を悟らせ、分からせ、悔い改めさせようとなさるのです。これが神の御心なのです。

パウロはさらに畳み掛けます。イザヤ書第65章を引用して言います。「イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。」
異邦人のような罪人たち、神を探求せず、神に無関心な者たちに、見出されたのは、彼らのもともとの資質や能力にはよらないのです。つまり、神御自ら、ご自身を表された結果だと仰せになられるのです。いわば神は、異邦人の目の前で、すばらしい音楽を奏でたのです。そのとき、異邦人は、その音楽を聞いて、そして心を動かしたのです。感動したのです。その驚くべき愛に、全存在で心動かされた異邦人は、神を探求し始め、神を尋ねもとめるようになりました。それは、神ご自身が、彼らの耳を開かれたからなのです。

しかしそこで誤解してはなりません。神さまが、もともと選ばれたイスラエル、神の民はやっぱりだめであった。ご自分の選び間違えであった。本当にどうしようもないイスラエルであるので、神はがっかりして、イスラエル以外を見たら、異邦人を見たら、なんと彼らの方がよほど素直で、優秀であったのだということでは決してありません。神は、ご自分の選びを失敗であって、異邦人こそ、ご自分の御心にかなっていたのだと、後悔なさっておられるのでは決してありません。

神は、イスラエルへの愛を、決して、消し去られてなどいないのです。異邦人が、神を信じるようになったのは、神ご自身が、彼らに近づき、彼らの目前で美しい、すばらしい音楽を奏でて、その耳をご自身が開かれたからなのです。ここで使徒パウロは、直接引用していませんが、本日の礼拝式の招きの言葉で朗読した、イザヤ書第65章1節後半にこのような御言葉があります。「わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。」神は、異邦人のためにも、「わたしはここにいる、ここにいる」と、自らのご存在を明らかに示しておられたのです。

しかもその神のもっとも深いお考え、御心は、そのことを通して、もともとの神の民イスラエルをねたませ、怒らせ、そのようにして、自分たちの罪の恐ろしさ、愚かさに気づかせるためなのです。彼らは、神とその御言葉が分からないはずがない。正しい認識をもてないはずなどないのです。神は、不思議なことに、イスラエルを救うために、横道にそれるかのように異邦人をお救いくださり、しかも、それは、横道ではなく、その目的が、イスラエルの救いをはっきり目指し、実現するのです。しかも、彼らの不従順によって、異邦人にも救いが及んで行く。これが、使徒パウロが、明らかにするメッセージ、神のメッセージなのです。これは、神の御心であり、神の将来であり、神の約束なのです。

使徒パウロは、何よりも、同胞であるユダヤ人に、神がどのように接し、おのぞみになっておられるのかを、イザヤ書を通して、告げます。「しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。」これは、ギリシャ語訳の聖書からの引用ですが、もともとのヘブライ語の言葉では、「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてきた。」となっています。一日中、絶えることなく、手を差し伸べる神です。これは、驚き以外のなにものでもありません。

いったい、彼らは、神の御前に、これまで何をしてきたのでしょうか。神の御顔の面前で、何をしてきたというのでしょうか。彼らは、預言者たちに耳を傾けなかったのです。かえって、うるさいことを言うといって、殺したのです。しかも、最後の最大の預言者、預言者のなかの預言者であられるイエスさまを殺したのです。主イエスは、ただの預言者ではなく、人となられた神ご自身です。その神を殺した。神の御子を十字架で殺して、なんとローマの皇帝に従う、総督ピラトの権力になびき、彼に頼って、殺してもらったのです。

神の御顔の前で、神を殺す。刻んだ像を造る。第二戒への違反であり、何よりも、神の御前に、他の神、よりによって、自分たちの最大の敵であるはずの異邦人の大勢力、ローマ帝国の権力に頼って、イスラエルの約束の救い主を殺してしまう。これ以上の神への反逆はありません。これ以上の、偶像礼拝はありません。イスラエルの歴史のなかでのもろもろの反逆と不信仰は、あの十字架の上に主イエス・キリストを追いやって、地上から抹殺しようとしたところで頂点に達したのです。

そうであれば、そのような罪を犯した者に、神は何をなすべきなのでしょうか。その罪を子孫にまで問う、その偶像礼拝の罪は、三代、四代までも問う、つまり、裁くべきことです。それを、神ご自身が十戒の第二戒で宣言しておられるのです。そのようなおぞましい罪を犯したユダヤ人、イスラエルに、神が手をお出しになられる。その神の聖なる御手は、どのようにイスラエルに向かうのが予想できるのでしょうか。それは、「殴る」というようなあり方以外には、考えられないのではないでしょうか。殴る。ぶん殴るということです。これこそ、神が、その熱愛をもって、ご自身の民に接し、ご自身の御子を与え、イエスさまを通して、ご自身の御言葉を懇切丁寧に、その全存在をもって明らかに示し、お教えくださったのにもかかわらず、それを聞こうとしなかった。理解しようとしなかった。分かろうとしなかったのです。神の独り子、たったお一人の皇子を、十字架でなぶり殺してしまった反逆の民を殴ることこそ、神の神らしい振る舞いではないでしょうか。なぜなら、十戒にそう書いてある。神ご自身の御心なのです。

しかし、イザヤは、告げます。そして使徒パウロもまた、引用して告げます。神の、神らしいそのねたみの愛、熱情の愛は、徹底的に愚か者、不従順で反抗する民に、そこで、神は、手を差し伸べたもうのです。両手を差し伸べたもうのです。差し伸べるとは、包むということです。抱くということです。まさに赤ちゃんを、抱く優しい手のことです。病者、悲しむ者を包んで、癒そうとするあのいたわりの手のことです。そのような御手をもって、殴るのではなく、滅ぼすのではなく、救おうとなさるのです。実に、その御手は、イスラエルにも、また異邦人にも、一日中、差し伸べられているのです。一日中とは、どういうことでしょうか。それは、今日も続いているということであります。今朝もなお、この差し伸べられた御手は、引っ込められてはいません。今まさに、私どもに向かって、この殴る手、裁く手であるべき神の御手は、包み、癒し、赦す御手なのです。私どもがそこで、この神の御手に、抱きしめられるとき、一体何が起こるのでしょうか。不従順と反逆が帳消しにされるのです。なぜなら、その抱きしめるお方は、御子イエス・キリストにおいて抱きしめる父なる神だからです。彼らの罪を、そして私どもの罪を償うイエス・キリスト。十字架のイエス・キリスト。この御子において父なる神が、両手で抱きしめてくださるのです。そこでこそ、何が起こるのでしょうか。起こるべきでしょうか。それは、唯一つ、悔いあらためが起こるのです。起こるべきなのです。それ以外に、神の差し伸べられた御手で包まれて何ができるのでしょうか。

最後に、私どもキリスト者、異邦人でありながらキリスト者とされ、神の民、イスラエルとされた教会は、この御言葉をどのように解釈するのでしょうか。すべきでしょうか。これは、あのユダヤ人、イスラエルの不信仰と罪、偶像礼拝のことと済ませるのでしょうか。ここで、厳しく叱責されている罪は、他人事なのでしょうか。もしも、そのように読むなら、それは、偽善的な聖書の読み方でしかありません。的外れな読み方と言わなければなりません。

この手紙が記されてから、すでに2000年近く経ちます。新しい神の民教会は、この短くない歴史のなかでどのように生きてきたのでしょうか。あるいは、日本の教会の歴史、140年近くの福音主義教会の歴史は、この日本のなかでどのような歩みを、神と人との前でなしてきたのでしょうか。先週、読書会で、ごくわずかでしたが、あらためて学びました。私どもは、神社参拝と天皇絶対の支配体制に完全に屈服され、同化し、偶像礼拝と戦争推進へと突き進んだのでした。そうであれば、私どもこそ、愚かな、この上ない愚かな民に逆戻りしたということでしょう。真の神を信じている人間が、神社に詣でて、祈願する、お祈りするなどということが両立するはずなどありえません。神の御顔の前で、偽りのものを拝む、神の御顔の前で、耳栓をして、異なる声を聞いたのです。人間の声。権力者の声。それを神の声にしたのです。

そのようなおぞましい罪を犯しながら、もしも、なおこの日本でキリストの教会であることが赦されているとしたら、それは、神が一日中手を差し伸べていてくださるから以外のなにものでもありません。そしてこの手を差し伸べていてくださる内に、悔い改めることです。二度と、もはや二度と、イエスさまを国に売り渡したりしてはならないし、売り渡さないと誓うことです。君が代や日の丸に屈服させられたり、美しい国を愛するのだと強要されて、ヤスクニ神社を受け入れたり、「隣国からの侵略に備えろ」などと洗脳されて、戦に協力することは、決して許されません。

私どもは問われています。日本の教会が今、鋭く問われています。キリストの教会は、日本人同胞に、どのように見られるのでしょうか。神に愛されていることを、心から喜び、誇りとしている教会として、うらやましがられているのでしょうか。いわば、ねたみを起させるような存在になっているのでしょうか。私どもがなすべきことは、この差し伸べられて御手の中で、悔い改めることです。徹底的に、自分の不従順の罪と反抗を、厭い、嫌悪し、そこから立ち上がることです。出てくることです。それらを捨て去ることです。そのときこそ、神がこのような罪を犯した日本の教会、私どもにもなお一日中手を差し伸べていてくださる神を証しできるのです。

この幸いの中で、私どもの悔い改めが深まりますように。そして、この秋、この御手を、私どもが隣人に差し出せるかどうか、それが問われています。伝道の手があの人、この人にどう差し出せるのか、そこにかかっています。

今、聖餐を祝います。ここでも手が差し伸べられます。皆さんに、パンとぶどうジュースを持ち運ぶ手です。そして、あなたが、手を出すとき、それは、悔い改めと信仰の決断、服従の手なのです。大胆に、手を出してください。そして、あなたの手をもって、隣人に手を出してまいりましょう。

祈祷
私どもは、イスラエル人ではありません。それにもかかわらず、主イエス・キリストの贖いによって今では、神の民、イスラエルとされています。そのように神の民、神を御父と呼ぶことを赦し、お命じくださる御神、心から感謝申し上げます。あなたから差し出された御手、ここにいる、ここにいるとの御言葉の説教を聞いて、私どもは、あなたを信じ、従うことができるようになりました。どうぞ、この幸い、このあなたの愛の支配の下に生きる幸いと喜びを、何にもまさる喜び、特権とさせてください。そしてこの信仰に生き、あなたから受けた愛を証する者としていよいよ励ませてください。御言葉と御霊とで私どもを常に、満たして、力を与えてください。アーメン。