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「神の栄光の選び」

「神の栄光の選び」
2007年9月9日

テキスト ローマの信徒への手紙第第11章1節~11節
「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。 神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。
「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」
しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。 同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。 もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。 では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。
「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。
ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」

先週、「わたしはここにいる。わたしはここにいる」とのイザヤを通して語られた御言葉を聞きました。神は、ご自身の民ではない異邦人にも呼びかけておられる御業を、示されました。つかまり立ちをし始めた子どもに、手をたたいてこっちこっちと、誘導する親のような神のお姿を思いました。神は、
異邦人にも見出されることをお望みなのです。そしてそのように、なさっておられるのです。

そして、次に、神の民、主の民になされた御業をもイザヤを通して示されました。「一日中、手を差し伸べられた。」「終日、両手を差し伸べて、神の民を包み込む」これがイザヤが示した、神の御業なのでした。しかし、本来がなすべきことは、その胸に彼らを抱きしめることではなく、殴る。先週は、ぶん殴るという言葉をあえて用いましたが、そのような御業こそ、聖書の神にふさわしいことを学びました。自分のために刻んだ像を作ってはならない。その罪を三代四代に及ぼすとご自身が誓われたからです。しかし、神は、ご自分を礼拝せず、ご自分の御顔の前で、神ならぬ偶像を刻んで、「これが、わたしの仕え、わたしを守る神である」と言ってのけて礼拝する破廉恥な、神の民、罪深い、汚れた民をその胸に抱きしめられたのです。驚くべきことであります。

さて、本日は、第11章に入りました。私どもは第9章から、使徒パウロが熱誠を込めて語り続けた問題のいよいよピーク、結論へと進んでいるのです。第9章で、使徒パウロは、「肉による同胞」つまりユダヤ人の問題、イスラエルの問題を取り上げました。彼らが救われる「ためなら、自分がキリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」と言いました。使徒パウロにとってキリストとの交わりを失うことも、神から見捨てられることも恐るべき災いであります。その救いの恵みと特権とは、いかなるものによっても奪われてはならない価値でありますし、捨ててはならない宝の中の宝のはずです。誰よりも伝道者パウロにとって、大切なものなのです。その彼が、まさにそのような言い方をするところに、私どもは驚きを禁じえないのです。そして、あらためてキリスト者、キリストの教会にとって、古いイスラエルの救い、ユダヤ人の救いの問題が、その信仰にとって本質的な問題、重要な事柄であることが分かる、目が覚めさせられるのです。

第10章の冒頭では、パウロは、手紙のなかで祈りました。「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」まさに激しくパウロは、ユダヤ人の救いの問題にこだわるのです。

そして、本日は、第11章の冒頭です。パウロは、これまでも何回か、「決してそうではない。」という激しい否定的断定の言葉を記しました。福音の真理は、決してあやふやなものでも、あいまいなものでもないことが、このような言葉遣いの端はしにも現れています。本日の箇所で、パウロは、「神はご自分の民を退けてしまわれた、神は、ご自分の民をお捨てになってしまわれたのでは、決してないと主張しています。ここでは、イスラエルのことを改めてご自分の民、神の民と言いなおしています。しかも、1節につづく2節でも、「神は、前もって知っておられたご自分の民を退けたりなさいませんでした。」と言います。使徒パウロにとって、もしも、神がイスラエルを見捨てられたなら、神は神でなくなる。聖書の神は自己矛盾を起し、旧約聖書のすべての言葉が崩れてしまう、そのような認識があったのです。

先週の説教でも、私どもは何度も旧約聖書の御言葉を味わったのです。パウロにとって、説教すること、神の言葉を語ることは、自分の体験を語ることなどではなく、むしろ旧約聖書を解き明かすことなのです。もとより、パウロは、使徒パウロですから、主イエスとの直接の関係をもって、召しだされています。使徒言行録には、彼の召命の体験、復活の主イエスとの出会いの物語が三回も記されています。それくらい、パウロにとって、復活のイエスさまとの出会いは、決定的に重要なものでした。しかし、このローマの信徒への手紙をここまで読んでも、そのような自分の体験談は一言も語られません。むしろ、語るのは、福音の真理であって、しかもそれは、旧約聖書に前もって予告されていたものなのです。

どうしてそうなるのでしょうか。週報の牧会通信にも記しましたが、「教会学校教案誌」の最新号の前書きに、名古屋教会の木下牧師がこのように記されていました。「神がこのわたしの生活にどのようなことをしてくださったかということが、往々にしてわたしたちの関心になりがちなのではないでしょうか。けれども、聖書を読むと言うことはボンフェッファーが上で語るような、まさしく逆転ともいうべきことが起こるということではないかと思います。」
ボンフェッファーと言うのは、ナチスドイツの時代に、告白教会を組織してその先頭に立って戦った神学者、牧師です。そして殉教しました。戦後の日本のキリスト者は、わたしもそうでしたが、多くの教会がこのボンフェファーの書物を、読書会などで読んだのです。このドイツの神学者は、これも木下牧師の要約ですが、ボンフェッファーの主張を紹介します。「わたしたちはわたしたちの生涯の歴史の中に自分の救いを見出すのではなく、イエス・キリストの歴史のなかに、すなわちイエス・キリストの十字架と復活の御業のなかにこそ救いを見出す。わたしたちの救いはわたしたちの中にではなく、『我々自身の外側に』、すなわち聖書の中にある。それゆえ、わたしたちは自分を忘れ、自分の生活を捨てて聖書へと赴き、聖書の中に身をおかねばならない。私たちはイスラエルの民とともに紅海を渡り、荒れ野を越え、ヨルダン川を渡って約束の地に入る。イスラエルとともに疑いと不信仰に陥り、罰と悔い改めとを通して、再び神の助けと真実とを経験する。それらすべては夢ではなく、聖なる現実である。そのようにしてわたしたちは自分自身の実存から引き出されて、地上における神の聖なる歴史の只中に移し入れられる。」この言葉は、まさに至言です。まさに聖書の信仰とは何かを、私ども神の民の歴史とは何かを見事に言い表す言葉であると思います。

第9章、第10章、そして第11章まで、私どもは徹底的にイスラエルの問題を扱っているのです。ユダヤ人の問題です。しかし、ここには、ユダヤ人はおられないのです。全員、異邦人でしょう。しかも、2000年も、3000年も前のことを、今日も取り扱うのです。確かに、エリヤという預言者のことは、旧約聖書でよく知られています。もしかすると、このような問いが生じるかもしれません。「それは、すでに2500年もあまり昔のことではないか。確かに使徒パウロ本人は、自分がイスラエル人であることは重大なことでしょう。彼は、アブラハムの子、つまり神の救いの契約、神の子どもとしての約束を受けた者の子孫でしょう。イスラエル12部族のなかでもベニヤミン族の出身、最初の王サウルを輩出した部族であり、由緒正しい血統なのでしょう。しかしそれは、一人パウロの問題ではないですか。わざわざローマの信徒たちへの手紙のなかで、そこまで徹底してイスラエル人の問題を、しかも熱誠をふるって書き記す必要性があったのでしょうか。」

もしも、そのように思われるのであれば、まさに、ボンフェッファーの言葉がそこで意味を持ちます。パウロは、旧約の民と自分とを一つに結び付けています。そしてもし、私どもキリスト者が、新しい神の民であると自覚するのであれば、まさに旧約聖書の歴史、そこでなされた神の約束は、私どもの歴史そのものなのです。それはただパウロが血統上の、血肉においてのイスラエルだからこだわるのではないのです。神の民であれば、全員が旧約聖書に記されている御言葉、その約束にこだわらなければならないのです。自分のこと。自分の歴史、自分の物語だからです。

私どもは、先週のウエストミンスター信仰告白第七章でもまさにそのことを学びました。つまり、旧約の契約も新約の契約も、恵みの契約として共通のものであって、同じ恵みの契約によって旧約の民も、そして私どもも信じて救われていると学びました。新約では、恵みの契約の本体、恵みの契約の実体、そのものが与えられたのです。それが救い主イエスさまでした。キリスト・イエスなのです。ですから、もしも、神が御子キリスト・イエスによって、旧約の民、イスラエルを救うことをなさらないというのなら、それは、神ご自身のこれまでの歴史も律法、御言葉もむなしくなるのです。自己矛盾です。

我々の国は今、「愛国心」などという恐ろしい言葉に翻弄され始めています。昨年、改定、改悪された教育基本法では、国を愛する心ばかりか、国を愛する態度まで涵養することが法律で定められてしまいました。先週は、義務教育において体育の時間において、武道と踊りが必修科目とされる方向であるとニュースがありました。この悪法の悪い力がさっそく、現れていると思います。武道を男の子も女の子も、必ず習うのです。それが、日本と言う国の伝統、文化を重んじることだと言い張るのでしょう。しかし、それは、徴兵制への前触れと受け止めることは過剰な反応なのでしょうか。

そこで、あらためて考えたいのです。使徒パウロは、ここで徹底的に、ユダヤ人にこだわる、同胞の救いにこだわります。それは、我々の政府が強制しようとする愛国心なのでしょうか。同国人、同胞への愛なのでしょうか。イスラエル人は、イスラエル人のために、命を投げ出すようにすべきであると言うのでしょうか。パウロは、そのような民族主義者、民族への愛をここで語っているのでしょうか。「決してそうではありません。」

彼は、ただ神のために、ただ神の栄光のために、イスラエルの救い、ユダヤ人の救いを祈り求めるのです。なぜなら、神がイスラエルの救い、アブラハムの救いを約束され、望んでおられるからです。

確かに、パウロは、正真正銘のユダヤ人です。そして、まさに神に熱心なユダヤ人の典型でした。それゆえに、キリスト者、キリストの教会を迫害して、恥じることがなかったのです。その先頭に立って、キリスト教会撲滅のために励んでいたのです。しかし、パウロは、第10章でそのような自分の熱心は、正しい認識に基づくものではない、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったというのです。これは、自己批判の書でもあるのです。他人事ではなく、自分こそ、まさに熱心な信仰者ではあっても、正しい知識によらない信仰者として、恐るべき罪を神に犯したのです。

ところが、他ならないこの罪人の中に罪人、罪人の頭である自分が、今、神の憐れみを受けて、キリスト者になることができたのです。そればかりか、伝道者、使徒にまで召されたのです。そうであれば、どうして、イスラエルが、ユダヤ人が救われないはずがあろうか、イスラエルがその恐ろしい偶像崇拝の罪の故に、滅ぼされ、見捨てられ、退けられて終わってしまうかと、自分の全存在を通しても語れるのです。

しかし、パウロは、ここで自分の体験談は一切語りません。むしろ、あの預言者エリヤを例話として紹介するのです。そこでもエリヤの出来事を、先ほどのボンフェッファー自分たちの、自分自身の出来事として神の御業の中に自分を置くのです。日曜学校の先生方は、先月、子どもたちに教えたばかりの物語です。子どもたちは、エリヤの物語を二回、学びました。

預言者エリヤが活躍するのは、北イスラエルの王となったアハブの時代です。彼は、それ以前のどの王よりも主の前に悪を行った王でした。異邦人の王の娘イゼベルを王妃としました。このイゼベルは、イスラエルにバアルの宗教を持ち込んで、サマリアにある神殿の傍らにバアルの神殿をつくりました。神は、このエリヤを通して、イスラエルの民が、王の偶像礼拝の政策に翻弄されていることを止めさせ、悔い改めさせようとなさいました。エリヤは、イスラエルの民にこのように告げました。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」

イスラエルにとってバアルが神であるはずがないのです。主こそ、主だけが唯一の神なのは、当然のことなのです。ところが、その当然のことを忘れ、悪い王アハブの権力、その妃のイゼベルの宗教政策に擦り寄っているのです。神は、はっきりと態度を表明しないこと、そのあいまいさ、妥協的態度を嫌われます。そこで、エリヤは、バアルの預言者、宗教家と対決します。はっきりさせます。その方法が、天から火を下すことができるかどうかにしようと言うのです。そして、神は、エリヤの祈りにこたえて、天から火を下して、準備してあった祭壇にほふった雄牛を燃やされたのです。

この物語は、預言者エリヤの勇敢さ、その偉大さ、その信仰の強さや確かさを明らかにすることができる典型的な例と言えるかと思います。ところが、聖書は、驚くようなことをなお続けて記します。その後、この勇者は、王妃イゼベルの怒りを買い、彼女ひとりに「あなたの命をとる」と言われたとき、恐れて直ちに荒れ野に逃げたのです。バアルの預言者たちとのまさに命がけの死闘に勝利したほどのエリヤなのに、イゼベル一人を恐れる。そして、彼は、こう祈ります。「主よ。もう十分です。わたしの命をとってください。わたしは先祖にまさるものではありません。」本当に、そこには弱い男の姿しか見えません。このようなエリヤであっても神は、彼をお捨てになりません。神は答えて、仰せになりました。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」そのとき答えた言葉をパウロは引用しました。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」

主なる神は、エリヤに語られます。それは、激しい風のなかでも、地震の中でも、火の中でもなく、火の後に静かにささやく声が聞こえたのです。それをパウロは記しました。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」神は、神を信じる者をエリヤの他に7000人も残しておかれているというのです。エリヤは知らないけれども、神は、ご存知なのです。

さて、使徒パウロは、この出来事を根拠に、今も、イスラエルの中に7000人が残されていると言うのです。もとより、この7000人は、ちょうど7000人ということではないと思います。7と言う数字が特別の意味を持つわけで、要するに多くの人という意味でしょう。自分一人ではなく、7000人ということは、7000倍という意味かもしれません。それは、エリヤには分からないのです。また、パウロにとってもどこにそのような7000人がいるのかも分からないのです。しかし、パウロは、確信しています。この出来事は、自分たちの歴史のなかで起こったのだ。イスラエルの歴史なのだ。しかもです。パウロは、それを自分個人の歴史のなかでも、体験しているのです。先ほど申しましたように、自分のような熱心ではあっても、正しい知識がなく、神に反抗して、結局、真の神ではなく、自分で考え出した神を拝んでいたにすぎなかった罪人である自分すら、救われたということです。まさに、ただ恵みによってのみ救われたのが、他ならない自分自身。パウロなのです。パウロ自身も、自分があの十字架で殺された人間イエスを、キリストと信じる信仰が与えられたのは、ただ神の恵みのみ、恵みにあずかったからであると信じています。そして、それは、同時に、こういうことも意味します。今なお、イスラエルが神を、イエス・キリストの父なる神として信じられないのは、そこに神の御業があるからなのだということです。神がそれを止めておられるのです。髪が、彼らの心を鈍くし、目を暗くし、耳を閉ざされたからなのです。それもまた、旧約聖書に記されています。パウロは、引用しました。

多くの人は、混乱します。そして言い募ります。「それなら、神さまが自分勝手にしているんだから、しょうがないではないか。信じる人も信じない人も神さまの働きだったら、わたしが信じないのも、信じれないのも、神さまがそうされているからで、自分の責任ではないではないか。」これこそ、これまでパウロが断罪した罪人の罪人らしい開き直りなのです。私どもは、もともと、信じることができたはず、信じるべきであったのです。それが、バアルを拝み始めたのです。本当であれば、もはやそれまでです。神がそのような者に手を差し出されたら、殴る。ぶん殴られることを待つ以外に、本来ないのです。それにもかかわらずなお、神は、一日中手を差し伸べ、わたしはここにいると招いておられるのです。

パウロは、ここでこそ、伝道の拠点を見ています。この世界のなかでなお、希望を持って生きれるのは、この世界の中に希望があるからでは決してありません。人類のなかに望みはありません。希望は、ただ選び主なる神にのみあるのです。

私どもが生きているこの日本は、今まさに、危機的な状況にあります。憲法を覆させられる一歩手前まで、来ているのです。日本は、明治維新以来、徹底的に戦争する国として、戦争によって、国をまとめる方向へと進み続けました。あの敗戦によってついにその方向性は終わるかに見えました。ところが、事実は、戦後、8年ほどで、今度は、自主憲法制定を言い始め、アメリカの言いなりになる形で、もう一度、アメリカの後方支援をすることのできる自衛隊、今では、はっきりと自衛軍を設け、防衛省を組織しています。先週、ある月刊誌を読んで、この国は、自分が生きている間には、自分が望むような自由な国にはならないだろう、なぜなら、戦争できる国家装置としての天皇制、ヤスクニ、日の丸、君が代が敗戦によってもなにも清算されなかったから。確かにそうでしょう。しかし、私どもは、そのような国で伝道しています。この国は、いへ、権力者と言った方が正確です。権力は、徹底してキリスト教を拒絶し続けているのです。しかし、それなら、私どもには望みはないのでしょうか。「決してそうではない。」

どこにその根拠があるのでしょうか。日本人の精神性でしょうか。かつて、キリシタンが日本中にあふれるように広まった実績に基づいてのことでしょうか。日本人の中にも、宗教的な天才のような優れた宗教家が起こり、信仰のために命をかけて戦った宗教人、庶民がいたからでしょうか。そこに、希望があるのではないのです。あるいは、中国はどうでしょう。あるいは、北朝鮮はどうでしょう。何よりも、イスラムの世界はどうでしょう。イスラムの人々にどうやって主イエスの恵みが届くのでしょうか。どこにその可能性があるのでしょうか。

私どもは、ただ、使徒パウロと共に、こう言うしかないし、こう言うべきなのです。「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。」ただ恵みによってです。神の恵みの選びによってです。これが私どもの日本伝道の根拠なのです。これだけが、伝道の根拠なのです。私どもが選ばれた人を作り出すことなどは決してできません。しかし、このわたし。この鈍い心、見えなかった目、聞こえなかった耳が、今では開かれているのです。この事実こそ、ただ恵みのみの事実なのです。だから、私どもは、心の底から、謙虚にならざるを得ません。私どもは、かたくなにされて当然の者でしかなかったはずだからです。私どもは自分の罪と傲慢によって退けられて当然の人間、異邦人でしかなかったはずです。どうしてそのような者が、選ばれたのでしょうか。ただ神ご自身の栄光のためなのです。そうであれば、先週、聴いたあの御言葉です。神に差し出された両手、抱かれた胸のなかで、悔い改めることです。悔い改めを深めることです。私どものような者をも、その愛のみ胸に包み、抱きしめてくださる神を、私どもは信じるのです。そこでこそ、真実に悔い改めることができます。そして、神が、神の栄光のために残された選びの民がおられることを信じて、歩むのです。私ども日本キリスト改革派教会には、現住陪餐会員だけでもすでに5000人を越えています。

今、「日本の青空」という映画、憲法を改悪されることを阻止しようとするための映画ですが、これを、緑区の多くの人たちに見てもらおうという企てが、市民の手で進められています。会報のなかで、こんな文章がありました。「岩の上教会は、ポスターを張ってくれた。秋から宣伝に力を入れるとのこと」複雑な思いが致しました。私ども以上に、この国を憂い、この国に住む人々を愛し、何とかして平和を守り、憲法9条を守ろうと励んでいる市民がおられるのではないでしょうか。私どもはキリスト者として、神の栄光の選びを信じる者として、祈るのです。祈り、伝道するのです。それが、私どもの責任なのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもは、生まれながらのイスラエル人ではありません。アブラハムの子孫ではありません。しかし、ユダヤ人の中のユダヤ人であられ、イスラエルの救い主イエスさまのおかげで、ただ主イエスの信仰のおかげで、今や、神の民の一員、イスラエルとされています。あなたの永遠の選び、あなたの御名の栄光のために選ばれ、信仰が与えられ、悔い改めることができました。そうであれば、天のお父さま、ここに来ていない家族を思います。友人たちを思います。彼らが救われることを私どもは信じることができます。それだけに、福音を証しなければなりません。どうぞ、日本と日本人を、世界中で福音を拒絶し続ける国と民とを顧みてください。異邦人の教会が、いよいよ熱心に、福音を証し、世界中に福音を宣教させてください。