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「『ヤベツの祈り』と私たち」

「『ヤベツの祈り』と私たち」
2007年9月23日
テキスト 歴代誌上 第4章9節~10節
「ヤベツは兄弟たちの中で最も尊敬されていた。
母は、『わたしは苦しんで産んだから」と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。またヤベツがイスラエルの神に、
『どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、
御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、
苦しみを遠ざけてください』 と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた。」

本日は、ローマの信徒への手紙の講解説教を中断し、一つのテキストからの主題説教を行います。実は、今朝、とりあげました御言葉は、先週の信徒研修会の閉会礼拝において取り上げられた聖句であります。

説教題は、不思議な題名となりました。「『ヤベツの祈り』とわたしたち」です。実は、今朝、取り上げました歴代誌上第4章の聖句は、ある書物によって一躍、注目を集めるようになりました。それは、「ヤベツの祈り」と言う書物です。アメリカの牧師が出版し、一躍、ベストセラーになり、今では1000万部が売られたそうです。日本でも、翻訳され、よく読まれたそうです。わたしは、このような流行には、まったく興味がありませんでしたし、今もそうです。しかし、あらためて、この説教を準備するために、この書物を読むことにしました。新品を購入するのはもったいないので、古本を買い求めました。とても薄い本です。何よりも、読んで見て、内容が薄いのです。一言で申しますと、まじめに読むことなど、できませんでした。著者は、こう言うのです。この祈りを毎日、祈れば、驚くべき奇跡、祝福がどんどん起こる。それが、ヤベツという人がした祈りの言葉、つまり「ヤベツの祈り」なのです。もう一度、読んでみます。『どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください』

既に、皆様も気づかれるかと思いますが、これは、一歩間違えば、もし解釈を間違えるなら、いわゆるこの世の宗教、しかも最も低次元な、ご利益宗教、ご利益信仰のように堕ちてしまうでしょう。言わば、危うい御言葉であるかと思います。

 実際、インターネットで、調べてみましたら、この書物によって、この祈りを祈っているという文章を見つけてしまいました。その方は、まったくキリスト者ではない方でした。その方は、「言霊」と言う言葉を記しておられました。つまり、この祈りの言葉には、何か言霊が宿る呪文の言葉のように考えておられるのでしょう。これを唱えれば、著者の言うように、唱え続ければ、きっと祝福を受けることができると信じて、「祝福してください」、「祝福してください」と唱えているのだそうです。このようなことからも、よく分かるかと思います。聖書の一句、一つの御言葉をもって、たとえば祈りの書物を著すことは危険です。もしも、これまで隠されていた真理、祈りの秘密が明らかにされたと言わんがばかりに主張するなら、それは、端的に申しまして、異端的なキリスト教のする、いつものパターンです。

さて、しかしまた、このヤベツという人が祈ったこの祈りを、旧約聖書、歴代誌は記し、そこではっきりと、「神は、それを聞き入れられた」と告げているのです。そうであれば、私どもは、この御言葉の意味、この人の信仰とその祈りの言葉を丁寧に学びたいと思います。これは、聖書の御言葉を神の言葉と信じる私どもにとってふさわしい態度であります。

そして今朝、改めて、私どもの祈りを聴き上げてくださる神を、正しく知り、そして何よりも、いよいよ正しく、熱心に祈りを祈る者と変えていただきたい、成長させていただきたいと願います。

そこでそもそも、祈りとは何かです。子どもカテキズムは、このように祈りを教えます。「お祈りとは何ですか。」「答 神さまにお話しすることです。そのためには、まず神さまからの御言葉に聴くことが必要です。信じることは祈ることです。」

私どもの信仰とその生活とは、祈りなしには始まりませんし、成り立ちません。それほど、信じることと祈ることとは、切り離せないことです。これは、私どもの信仰の基本であり土台です。そして、祈るためには、先ず、神さまの御言葉に正しく聴くことであると言うのです。これが、聖書の信仰であり、言わば改革派の信仰であるのです。御言葉を正しく聴かないところで、正しく祈ることもまた成り立ちません。そして、祈りのないところに、聖書を聴き取ることもできず、信仰を生きることもできません。

 さて、歴代誌上という書物は、聖書の通読を目指す者にとっては、難関の書です。私どもには、ほとんど何の興味も持てないようなイスラエルの人々の名が、何ページにも渡って記されているからです。その淡々と続くイスラエルの歴史の中に数えられる人々のなかで、突然、第4章9節に、ヤベツという人が挙げられます。しかも、このヤベツという人にだけ、小さなエピソードが添えられます。

「兄弟たちの中で最も尊敬されていた。」とあります。どういうところが尊敬されていたのか、詳しくは、分かりません。しかし、イスラエルの兄弟たちが尊敬するのですから、信仰から離れたことでないことは確かであると思います。尊敬されていた秘密を垣間見せる、解説するための言葉が、次に続くエピソードであり、祈りなのだと思います。

 エピソードの二番目は、彼の名前の由来です。ヤベツと言う名は、母によって「苦しんで産んだから」という理由で名付けられたというのです。苦しみや痛みのことを、ヘブライ語で「オーツェブ」と申します。ヤベツとは、語呂合わせのような音です。ヤベツという名そのものは、苦しみという名ではなかったにせよ、母親は、はっきりと、この赤ちゃんと苦しみとを結び合わせるために命名したというのです。およそ、我々では考え付かない命名の仕方です。我々日本人は、子どもの名前には、なお漢字の画数にこだわるということを申します。まるで、それでその子の運不運、将来が影響されるかのように思うわけです。いったい、自分の子に、苦しむ子、苦しみの男などという名前をつける親がいるでしょうか。たとえば、喜ぶ男と書いて、喜男さんというお名前がありますが、苦しむ男と言う人の名前は、聞いたことがありません。難産だったからでしょうか。何かその出生に秘密があり、激しい心の痛みのなかで、身ごもり、出産したからなのでしょうか。

そこで例えば、ローマの信徒への手紙の説教でもとりあげたホセア書を思います。そこでは、神ご自身が、預言者ホセアに向かって、自分の子にこのような名を付けなさいとい命令が下されました。「「その子を/ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。あなたたちはわたしの民ではなく/わたしはあなたたちの神ではないからだ。」この忌まわしいような命名の例は、神ご自身の深い御心を表すための、例外的なことです。特例中の特例です。 

ところが、このヤベツの場合には、神さまの御心や、神の御言葉によって、命名されたのではないのです。母親が、おそらく、勝手につけたのです。

いずれにしろ、このように始まる人生は、悲劇でなくてなんでしょう。彼は、自分のあずかり知らないところで決定的なハンディを背負わされて、生まれ、育ったのです。常識的な予想からすれば、子どものときからいじめが始まり、それは、思春期に入っていよいよ迫るものとなったのではないかと想像するのです。成人してもなお、この名前がどれほど大きな壁として自分の人生に立ちはだかって行ったのかと思います。彼の将来はどうなってしまうのでしょうか。

しかし、御言葉は、告げます。彼は、最も尊敬された人に育ったのです。そこで、第三のエピソードが紹介されます。それが、彼がどのような祈りを捧げたのかということです。それが「ヤベツの祈り」です。

『どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください』
この祈りを神がお聴きくださって、ヤベツは、イスラエルの神に祝福された人間となったのです。イスラエルの神、真の唯一の神に祝福された人間となったから、尊敬される、重んじられる人間となったというのです。それが、歴代誌の著者のメッセージなのです。
ここで、私どもが何よりも、学びたいことがあります。それは、ごく基本的、ごく単純なことです。しかし、決定的なことでもあります。それは、彼が、神に、イスラエルの神に祈った、祈り求めたという、その一点です。

生まれる前からヤベツ、苦しみの子と、名付けられたことにまつわる、決定的なマイナス、ハンディキャップは、あまりにも酷い現実です。しかし、ヤベツは、この現実を、どうすることもできない現実としては、受け入れなかったのです。彼は、それを、しかたがないことだと受け入れなかったのです。このような逆境の人生の出発を強いられた不条理のただ中にあって、彼は、祈るのです。それに抗うようにして、イスラエルの神、唯一の神、聖書の真の神に、祈り求めたのです。確かにその祈りは、実に素朴な祈りです。しかし、実に真剣で、誠実な祈りです。しかし、神に祈り求めたところに、既に彼の決定的な勝利があったのです。

いったい、ヤベツは、どこでこの祈りを教えられたのでしょうか。今週の週報の牧会通信で、契約の子を信仰へと育てるのは、第一に親の責任であり、そして教会の責任であって、それだけに、親の信仰の姿勢が問われるのだと記しました。先週の姉妹会で、一人の方がよい学びの発表をしてくださいました。ヤコブとヨハネの母サロメについてです。この母の信仰の教育が、彼らを育てたということを、確認しあうことができました。

ところが、どうでしょう。いったい、ヤベツの母は、よい母なのでしょうか。信仰的な母なのでしょうか。残念ながら、不信仰な、尊敬できないような母であったのではないでしょうか。ヤベツは、そのような母の不信仰に抵抗したのです。その結果、兄弟たちの中でもっとも尊敬されて行ったのです。
これは、もはやわたしの想像でしかありませんが、ヤベツは、母親からであるよりむしろ、イスラエルの民、ユダの民族のなかで、御言葉を幼いときから学んだのでしょう。それは、私どもでいう日曜学校なのかもしれません。それなら、神さまをどのように学んだのでしょうか。例えば、子どもカテキズムで申しますと、このような教理であったのかもしれません。「問11 私たちの神さまの全能、主権とは何ですか。 答 私たちの神さまが、すべてのものを神さまの栄光のために定め、造り、保ち、支配しておられることです。神さまの力の及ばないところは、宇宙のどこにもありません。」神は、全能者であって、主権者であって、創造者であることです。

また、「問13 神さまの摂理のお働きとは何ですか。  答 今、私たちに働く、神さまの善いお力のことです。神さまのお許しがなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、神さまは私たちの父として私たちを守っていてくださいます。ですから、健康も病気も、嬉しいことも悲しいことも、すべてのことが私たちの役に立つよう働くのです。」つまり、摂理の神です。
そして、何よりも、自分たちの物語を何度も何度も喜んで聴いたのではないでしょうか。自分たちの物語。それは、律法の書と呼ばれる創世記や出エジプト記に記された救いの出来事です。創世記第12章にこうあります。

「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」神は、アブラハムをご自身の民として選ばれ、彼の子孫を大いなる国民とし、彼自身を祝福する、祝福の源となると約束されました。そして、歴史的事実として、まさにそこから、イスラエルの12部族が生まれたのです。

ヤベツは、この律法の書の朗読を聴くことによって、「そうだ、この自分もまた、アブラハムの子なのだ」と深く悟り、認めたのです。アブラハムの物語を、いえ、それだけではなく、その後のモーセによるエジプト脱出の物語もすべて、自分自身の物語として受け入れたのです。そのようにして、自分じしんを神の民として深く、自覚したのです。信仰によって自覚したのです。

私どもの契約の子たち、教会員の子どもたちもまた、ヤベツのように、自分のことをこのように自覚できるようになることを心から祈り願います。日曜学校の働きは、そのためのものです。もとより、契約の子だけではありません。子どもたち皆が、自分は誰なのか。そのことについて、ちゃんと自覚を持つことを祈り求めるのです。もとより、子どもだけではありません。ここに集められている者たち全員が、自分は誰なのかを、きちんとわきまえることを祈り願うのです。それは、アブラハムの子です。アブラハムに約束された御言葉を受け継いでいる子です。一言で申しますと、「神さまの子ども」ということです。自分を、神の子、神の選びの民の一員、このように新しく発見すること。これが、信仰なのです。これが、救いなのです。

生ける全能者なる神、すべての主権を持ちたもう神を、自分の神と信じたヤベツであればこそ、丁寧に申しますと、そのような信仰が与えられた彼は、祈りました。信仰とは、祈りに耳を傾けて神を信じることです。ですから信じることは、祈ることなのです。生ける神を信じることは、今、ここで祈る祈りが聴かれているということを信じることなのです。幼い時からイスラエルの神を、自分の共同体によって、言わば、私どもで言えば教会を通して、聖書によって、律法によって教えられていたのです。自分を、他ならない、アブラハムに約束された祝福を受け継いでいる民と信じ、イスラエル民族であり、その12部族の中のユダ族の出身であることを心から誇りとしたのです。

さて、いよいよ、この祈りの言葉そのものから学びましょう。いったい、彼のこの祈りは、彼独自の祈り、彼の個性的な祈りと言えるものなのでしょうか。そうではありません。これは、イスラエルの民として、ごく当たり前の祈りであったのです。なぜそのようにこだわるのかと申しますと、冒頭で申しましたように、一歩間違えると、自己中心な祈り、ご利益宗教の祈りとして理解されるからです。聖書の言葉の一部分だけ取り出して、それを何か、これまで知られていなかった真理、隠されていた真理であるかのように主張するなら、異端のグループとなんら異ならない手法、やり方でしょう。とても危険なことです。私どもが講解説教を重んじるのも、一つは、そのような部分的な御言葉の解釈を封じるためです。

さて、この祈りが、自己中心な祈りではないのかと、考えられやすい点は、ここで「わたしを」と一人称単数、「自分だけを」祝福してくださいという祈りの言葉になっていると考えられるからだと思います。もとより、ヤベツの祈りは、自分の特殊なハンディキャップがあっての祈りですから、自分の為の祈りであることは間違いありません。しかし、だからと言って、この「わたし」を「わたしだけ」と限定して解釈する必要もないのです。

私は、礼拝式の最後に、いつも、アロンの祝福の祈りを唱えます。「願わくは、主があなた方を祝福し、あなたがたを守られるように。願わくは、主がみ顔をもってあなた方を照らし、あなたがたを恵まれるように。願わくは、主がみ顔をあなた方に向け、あなた方に平安を賜るように。」わたしは、常に、「あなたがた」と告げています。しかし、原文ではどうなっているかと申しますと、「あなた」なのです。それなら、わたしは、御言葉を間違って唱えているのでしょうか。決してそうではありません。この「あなた」とは、一つの民、唯一のイスラエルに告げるという意味です。あなたと言えば、イスラエル全軍を指す言葉なのです。そのように理解されるべきなのです。例えば、英語で、「ユー」と言えば、あなたも、あなた方も両方の意味があります。わたしどもの祝福では、わたしは、丁寧に、誤解されないように「あなたがた」と告げているのです。

そもそも、主イエスが、私どもにこのように祈りなさいとお命じになられたのは言うまでもなく、「ヤベツの祈り」ではありません。それは、私どもが「主の祈り」と呼び習わしている、今朝も皆様と捧げた祈りであります。そこでも、開口一番、「天にまします我らの父よ」との呼びかけがあります。「天にまします我が父よ」ではありません。私ども、私たち、我らの父なる神なのです。この主の祈りは、前半と後半とに分けられています。前半は、徹底して神にのみ向かい、神の栄光をひたすら追求する祈りです。そして、後半は、一転して、わたしたちの生活に毎日の必要なもの、なくてならないものを率直に求める祈りです。「日用の糧を今日も与えたまえ」です。そこでは、まったく素朴に、しかし、実に真剣な祈りが掲げられています。今日この日の命を守るために、神よ、どうぞ、食べ物、飲み物、着るものを与えてくださいと、そのことを第一に求めるべきこと、求めてよいことが、主イエスによって命じられてすらいるのです。それは、永遠の御子なる神が、一人の人間となられたとき、そのときこそ、この祈りがどれほど、人間に必要なものであるのかを、主イエス御自身がその全身で覚えられたことなのだと思います。ですから、私どもに祈ることを進め、いへ、お命じになられ、そのように大胆に、食べ物のことを、「神に」祈り求めるべきことをお命じになられたのです。

領土が広がるように。それも、また、イスラエルらしい祈りです。行く先を知らないで旅立ったアブラハム、そしてイスラエルにとって領土があることは、神からの賜物なのです。土地は、神からの授かり物なのです。ですから、領土を求め、その拡大を求めることは、まさにイスラエルにとっての確かな生命の保証であり、祝福の目じるしなのです。

主の祈りでもまた、御国が来ますように。御心が地にも、この領土にもなりますように、実現しますようにと祈ります。神の国の拡大を祈っているのです。
「御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」という祈りもまた、我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまへ」の祈りへと流れ込んでいるわけです。
その意味で、ヤベツの祈りだけを、特別扱いし、これこそ、今日の祈りのモデルであって、これをもって毎日、何十年と祈れば、神の祝福を驚くほど見るなどということはないのです。
そうであれば、私どもは、主の祈りをこそ毎日、祈るべきでありましょう。神が驚くべき祝福を与えてくださることを、私どもは、この祈りのなかで、知るのです。それこそ、大胆に祈るのです。主の祈りは、大胆な、これ以上ないほど大胆な祈りなのです。自分を父なる神の子どもと確信し、神を御父とお呼びするのです。

ヤベツは、「主の祈り」を知りません。しかし、神の民らしく、神から教えられた祈りを真剣に、真実に、毎日、徹底的に求めたのです。それを、神が聞き入れられたのです。とても当たり前のことです。神の栄光のために、神のために祈る祈りだからです。彼は、自分がイスラエルの一員であるなら、必ず、その約束にあずかる者であると信じて祈ったのです。

さて、最後に、私どももは、今、教会として実は、真剣な祈りの課題が与えられています。教会はいつでも真剣な祈りを祈らねばなりません。伝道は、急務だからです。今は、急ぐべきときだからです。しかし、そこでも特別の課題があります。すでに祈祷会で祈り始めていることです。しかし、そのときこそ、私どもが間違ってはならないことがあるでしょう。

それは、ヤベツの祈りや、主の祈りを祈っているとき、まだ、自分は、祝福されていないかのように祈ることです。まだ、領土を広げられていないから、まだ御手が共になく、守られていず、苦しみから解放されていないから、だから、祈るのかということです。

私どもの祈りは、大胆な祈りです。それは、神を、イスラエルの神として、聖書に記されたとおりの神として、約束を成就したもう神として信じるから、大胆なのです。そうであれば、まるで、まだ祝福されていない者のような顔で祈れるのでしょうか。

私どもの仲間の中でも、今、必死に一つの課題、いへ、重なって来る悩みや苦しみ不安と戦う仲間がいるのです。けれども、その仲間にいつも、申し上げることは、すでに、祈りは神に届き、聴かれているということです。そのことを信じて、祈るのです。それが、祈りです。

何年も、何年も、一つの祈りの課題を抱えて祈っている仲間がいます。しかし、もし、その祈りが成就するまでは、自分は神に祝福されていないとか、自分は、神に守られていないかなどと、決して考えておられないはずです。むしろ、自分のような者ですら、神に祈れる特権を与えられていることを、深く感謝しておられるでしょう。私どもは、神の祝福を、必死に祈り求めて良いし、祈り求めるべきです。そして、それを本当に追求すればするほど、すでに、自分がどれほど、祝福されているかを発見できるはずです。

それこそ、私ども新しい神の民、新しいイスラエルの特別の祝福です。つまり、私どもには、すでに救い主イエス・キリストが与えられているということです。この主イエス以上の祝福、神の祝福はありません。そのお方が、私どもの人生の主となっていてくださる、罪の贖いをなし遂げて、私どもに罪の赦しと永遠の命、復活の命を与えていてくださるのです。だから私どもは、ヤベツであって、もはやヤベツではないのです。神のイスラエルです。アブラハムの子です。神の子なのです。この確信を深めるために、そして、神のご栄光がほかならない、このわたしを通して、いよいよ現されることを大胆に祈り求めてまいりましょう。

祈祷
私どもに祈ることを教え、祈れるように聖霊をもってお導くださいます主イエス・キリストの父なる御神。今、私どもは、心を注ぎ、心を一つにして、あたなに祈り求めます。私どもを祝福し続けてくださいますように。あなたの領土であられる神の教会を拡大してくださいますように。あなたの御手がいつも私どもとともにあって、試みに遭わせず、その誘惑から、悪から、サタンから守ってください。そして、いよいよ、祈りのなかであなたを知り、あなたの御心を知り、御心に生きる私ども神の民として成長させてください。祈祷会を祝福してください。これを重んじ、盛んにしてください。一人で祈る日々の生活を豊かにしてください。祈ることから、離れさせるすべての誘惑から、守ってください。アーメン。