「和解と命」
2007年9月30日
テキスト ローマの信徒への手紙第第11章13節~16節
「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。」
今朝は、先回この箇所から、「失敗の恵み」ということを申しましたので、もう一度おさらいするところから始めたいと思います。「失敗は成功の母」ということわざがあります。その意味は、人間は、失敗の原因や理由をきちんと分析し、理解して次に進めば、同じ失敗を繰り返さないで、成功へと転換できるということであると思います。失敗に、へこたれる必要はない。そこから学べばよいのだという積極的で肯定的な生活の知恵を与える、よいことわざだと思うのです。しかし、わたしが「失敗の恵み」と申しましたことは、似ているようですが、まったく違いました。つまり、「失敗は成功の母」ということは、失敗を成功に転換する力と、秘訣はどこまでも人間の知恵や努力にあるということです。しかし、ここでの失敗とは、神との関係における失敗、罪のことなのです。失敗した人間の自己弁護は決して許されないのです。それは、どこまでも恐ろしい失敗であって、つくろうことができないものなのです。
ところがしかし、そこに神が介入してくださるとき、神がそこに関わってくださるときには、その人間の失敗は、つくろわれてしまうのです。それどころか、神ご自身の栄光へと変えられてしまうことが起こるのです。それこそが、私どもの信じ、仰ぐ神であられます。神の恵みの御業なのです。
ここでは、神の民イスラエルがその不従順、偶像礼拝の罪を犯し、信仰にとって決定的に失敗してしまったことが語られています。ところが今や、その恐るべき罪が、かえって異邦人の救いへとつながったのだと言うのです。考えられないような不思議な御業があるのです。彼らの罪が、異邦人の救い、世界の救いになってしまったのです。ですから、結論として大切なことは、何かと申しますと、この神を信じ続けることです。途中でやめないことです。罪と失敗の中で、信じ続けることです。
それは、イスラエルという神の民全体の大きな物語のなかだけに通用するのではありません。このわたし、あなたの生活のこととしても通用するのです。この信仰は、したたかに人生を生きる根拠となります。一人ひとりの人生は、日々の葛藤のなかにあります。それぞれの世代で、固有の戦いがあるのです。思春期にある子ども、青年だけが悩んでいるわけでもない。大人も高齢者も悩んでいるのです。罪との戦いがそこにはあるのです。それが、生きる現実です。しかし、私どもは、希望を持つ。御言葉に根ざした希望です。それは、わたしは自分の失敗で滅びることはない。自分の罪で滅びることはないという確信なのです。なぜなら、失敗を恵みに変え、ご自身の栄光と救いの御業へと変換する神が共にいてくださることを信じているからです。その神こそ、主イエス・キリストであり、主イエス・キリストの父なる神なのです。あのキリストの十字架によって、私どもの失敗、罪の人生もまた究極においては、恵みに変えられる、祝福に変えられる、それを信じるのが、聖書の信仰、教会の信仰、主イエス・キリストを信じる信仰なのです。使徒パウロが、イスラエルの救いについて一生懸命、語り、証することも、結局は、そこに尽きてしまうのです。
さて、今朝、第13節からのテキストで、使徒パウロは、語調を変えるかのようにして、話し始めます。どうして、語調を換えていると分かるのかと申しますと、ここで、読者を名指しするからです。「わたしは、あなたがた異邦人に言います。」あなたがたと、呼びます。17節以降は、さらに「あなた」と呼び続けます。「あなた」「あなた」と呼び続けるのです。説教中に、もしもわたしが「あなた」と指を指して、「これは、まさに○○兄弟、あなたのことを言っていますよ。」と言ったらどうでしょうか。日曜学校の説教では、家内がときどき子どもの名前を呼ぶこともありました。しかし、基本的には、そうしません。あなたと言わなくても、「私ども」は、「僕たち私たち」は、と言えば、説教している人を含めて、ここで共に礼拝している神の民全員のことを指しているからです。しかし、パウロは今、「あなた」と呼ぶのです。
あなたとは、異邦人です。これまで、使徒パウロは、一生懸命、イスラエルのこと、ユダヤ人のこと、自分の同胞、血肉の救いについて語ってきたのです。しかしもしかすると、そこで、読者であるローマの教会員、その多くがやはり異邦人キリスト者であったと思いますが、彼らは、何か、長い手紙を読み続け、第8章までの福音の真理の頂点を解き明かす言葉が終わってから、緊張感を欠いてしまっていたかもしれません。どこか自分たちとは直接関わらないお話のように考えるところもあったのかもしれません。もしそうであれば、ここで使徒パウロが、「あなたがた異邦人に言います」と言ったとき、一人の例外もなく、ドキッとしたと思うのです。例えば、授業中にこそこそ、他のことをしている子どもに先生が、「○○君、君に質問します」と言ったら、ドキッとするでしょう。
パウロは、何故、こういう仕方で言うのか。それは、イスラエルの問題、ユダヤ人たちの救いの問題は、まさに、あなた方の問題そのもの、直結しているのだということを深く悟らせるためです。
使徒パウロは、ここで改めて、自分の職務、自分が神に立てられた者としてどのような存在であるかを、際立たせます。それが、「異邦人のための使徒」です。そもそも、異邦人への伝道ということは、最初の教会にとって、実は、自明のことではありませんでした。最初の教会員は、言うまでもなく全員、イスラエル人、ユダヤ人です。彼らはその最初には、キリストの福音を異邦人にまで証することを考えていませんでした。たとえば使徒ペトロもまた、異邦人に伝道することへの抵抗感はぬぐえなかったのです。使徒言行録第10章には、使徒ペトロがどのようにして、それを克服していったのかが記されています。異邦人であって、熱心に聖書の神を信じている百人隊の長コルネリウスという人との出会ったことによって、克服させられたのです。ユダヤ人には、ユダヤ人意識が、心のひだにまでこびりついているのです。つまり、律法を与えられた神の民、選ばれた特別の民という意識です。そしてそれだけならとても大切で、ふさわしい自意識です。ところがそれが、異邦人を差別し、軽蔑する意識が伴っていたのです。
しかし実は、反対に言いますと、異邦人も同じ思いを持っていたのです。当時の特にギリシャ人は、ユダヤ人を軽蔑していました。それは、文化的に、文明的に田舎であるということです。自分たちの教養からして、ユダヤ人など、取るに足りない、彼らが特権意識を持てば持つほど、いよいよ、「何を言っている田舎者」という怒りもあったのだと思います。
さて、元に戻りますが、パウロは、正真正銘のユダヤ人であります。そして、言うまでもなく、どれほど深く、激しいまでに同胞を愛しているかが、この手紙を読めばわかります。「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」と書いたほどです。しかし、その彼は、異邦人使徒、異邦人の救いのために働く使徒であると、自覚しているのです。それは、自分で選んだ道ではなく、神が彼をそのように召しだしたのです。ダマスコに向かう道中に、復活のイエスさまにお会いして、彼は、異邦人の救いのために働く器とされたのです。そしてこれが大切なことですが、パウロは、この務めを光栄に思っているのです。そんなくじを引いてしまったと考えていません。むしろ、光栄に思っているのです。
そして、そこで最も大切なことがあるのです。どうして、彼が異邦人のための使徒となることを光栄に思うのかと申しますと、それは、イスラエルの人々にねたみを起させ、彼らのなかの幾人かでも救いたい、というものなのです。つまり、異邦人伝道のゴールを、同胞の救いにおいています。
そこで誤解してはならない。異邦人伝道は、「方便」ではないのです。「うそも方便」という言葉があります。ある高い目的、よい目的のためなら、うそを利用することもやむをえないという意味です。方便とは、便宜上の手段。仮の方法という意味です。もともと、仏教用語です。無知な人々を救うために、仏法の奥義、仏の教えの本当の部分をそのまま語るのではなく、分かりやすく垂れるということです。「前座」のようなものでしょうか。後から、大切なもの、本物が出てくるわけです。それまで、大勢の人々を繋ぎとめておくための手段です。しかしパウロにとって、異邦人伝道は、方便ではありません。異邦人の救いは、神の御心なのです。しかし、そこで終わるものではないのです。イスラエルが倒れてしまったままでは、決して済ましたまわないのです。神は、アブラハムを通して約束し、契約したイスラエルの、ユダヤ人の救いを実現しないではおかないお方なのです。
さて、パウロは、ここで「その幾人かでも救いたい」と言いました。教会の改革者のカルバンは、自分の注解書においてこの「救いたい」という言葉に着目します。カルバンこそは、人間の救いは、徹底して神の恵みによる、恵みのみによるというパウロの福音を鮮やかに教会に取り戻した偉大な牧師です。ところがその彼が、こう言うのです。「救うという言葉は、人間の権限に属させることもできる」文脈から切り離してこれを読めば、大変な間違いです。そう断定すべきです。しかし、カルバンは、誤解をおそれずにこう記したのです。それは、使徒パウロが、一生懸命、異邦人に伝道し、説教するとき、ユダヤ人が救われるための神の道具となれることを確信していたからです。だからその道具である説教を、御言葉を語ることを積極的に担おう、説教者はそのために精一杯励もうと訴えているわけです。
わたしは、カルバンのこの小さな解説はしかし、大きな意味があると思います。それは、一人説教者、伝道者だけの課題ではないのです。教会の課題であり、使命なのです。教会は、世界の和解の基礎として、神がこの世界に与えられた道具でもあるからです。教会が、一生懸命、与えられた神の言葉、主イエス・キリストの福音を世界に告げるとき、そこで何が起こるのか、起こるべきなのか、それは、和解です。隔ての壁がくずされるのです。ローマの信徒への手紙で和解と言う言葉が、用いられたのは、第5章10節以下でした。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」
和解とは、何よりも、神と人間との関係において用いられる言葉です。神の敵でしかなかった私ども罪人が、神ご自身がその御子なる神の十字架の贖いの死、私どもの罪を一方的に償うために、御子の命を差し出されて、私どもを救ってくださった御業のことです。それが、神の和解の恵みでした。そして、この和解の御業は、そこで終わらずに、さらに先へと伸びてゆくのです。それは、エフェソの信徒への手紙で集中的に語られたメッセージでした。
つまり、異邦人とユダヤ人の間にある決定的な壁の問題です。このようにパウロは言います。第2章14節以下、少々長いですが、読みます。「 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」
ユダヤ人と異邦人とが、主イエス・キリストの十字架の恵み、あの神と人間との和解の御業によって、実に、一つの民になってしまうというのです。両者を一つの体にまでしてしまうというのです。なんという過激なメッセージでしょうか。そうなれば、あの20世紀の世界戦争や、今のテロ、民族紛争など、一切の戦いの根拠となる、自分の民族を絶対化したり、優位なものとする思想は、排除されざるをえないでしょう。ユダヤ人と異邦人とが、一つの民となるという幻を、パウロは、あの十字架のキリストにおいて見ているのです。
今朝、エゼキエル書第37章全体を読みたいと思いました。長くなるので断念しました。前半は、枯れた骨が生き返る物語りです。後半は、北と南に分裂したイスラエルが一つの王国に回復する預言です。しかし、現実には、エゼキエルが語ったとき、すでに北イスラエルは、まったくの偶像礼拝の民族に転落していました。新約聖書に登場するサマリヤ人の先祖が、北イスラエルなのです。もはや、異邦人、いえそれ以下のように軽蔑されていました。しかし、その両者が、やがて一本の木となる。神の御手のなかで、一つとなると、エゼキエルは預言したのです。それは、歴史において言えば、実現しなかったということになるかもしれません。イスラエル12部族のなかで、北イスラエルの10部族は今、どうなっているのでしょうか。それは、歴史のなかで、消滅してしまったと言うことが、正しいと思います。
それなら、エゼキエルの預言は、あだ花なのでしょうか。間違いでしょうか。いいえ、そうではありません。あの預言こそ、主イエス・キリストという、ダビデの子孫として生まれられた正真正銘の一人のユダヤ人イエスさまによって成就したのです。成就しつつあるのです。それは、エゼキエルが見ていた幻よりももっと巨大なものだったのです。つまり、使徒パウロが語ったように、異邦人とユダヤ人とが一つになるからです。つまり全人類が、この一人のキリストによって、神の民となる、教会となるというのです。
そこにキリストの教会の使命と務めがあります。私どもは、なんとかして、異邦人にイエス・キリストの福音を証する、それが、私どもの直接はあずかり知らないところで、神が、イスラエルにねたみを起し、彼らの救いへと導いてくださるのです。
神は、実に、不思議なことをしてくださいました。選びの民が、その不信仰によって、神の裁きを受けて、主イエス・キリストの福音を拒絶しました。しかし、それによって、私どもが、パウロが言った「あなた」「あながたがた」が救われたのです。そのようにして、世界に和解が起こったのです。
さて、そこで、少し横道にそれます。ここで、日本人について、やはり触れたいのです。日本人についての神話です。まったく根拠のない作り話です。それは、つい先日の自民党総裁選挙で、麻生候補が、発言しているのを聞きました。彼はこういいました。誇れる日本をつくる。それに対して、福田候補は、これから誇れるような日本をつくると言いました。すぐ麻生候補は、今も誇れるし、過去も誇れる、自分は、自虐的な歴史観など持っていないと言いました。これまでの主流となった政治家の発言です。日本は、天皇をいただいた特別の国柄であって、日本人は、単一民族で優れている、江戸時代もこれこれこのような優れた政治と行政がなされたと言いました。しかしそこでは、アイヌ民族も沖縄の人々のことも、まったく無視しています。明治政府が急遽つくりあげた天皇絶対制のような、まだまだ新しい制度を、まるでそれが日本の原型であるかのように主張する。そこに、日本人の世界のなかでの危険性があり、アジアの人々からなお、信頼されない現実があるのです。
これは、単に日本人批判をして済ませるような問題ではありません。私どもじしんの中に、こびりついている自己中心性の罪の問題です。日本人神話に乗っていると、外国の人、特に、欧米諸国以外の外国人に対する優位な思いを持つのです。あるいは、都市と地方の問題でもかまいません。東京に近いと、様々な面で優位に立てる構造があります。東京は、中央です。つまり、我々、私どもの中に、中央とつながっていることが、自分の存在を高くさせる意識がある。教会でもそうです。中央とのつながり。あるいは大きな教会であるかどうか、そのようなことが、自分たちの中にもこびりついていることを認めざるを得ないのです。それを、忘れたところで、和解の使者として用いられることは困難でしょう。自分こそ、そのような差別する側の心を引きずっている人間、罪人であることを棚に上げたり、忘れてしまって、日本人批判や、差別構造の悪を指摘してみせても、それは、むしろ、偽善的にすらなるかもしれません。
そのような世界、日本、そのような古い考え、生き方のなかに、神は、教会を贖いとってくださいました。そのような中におかれている、新しい神の民である教会の使命がどれほど重いものかと思います。新しい人類の土台となるのは、国連ではなく、教会なのです。神の不思議な、まさに不思議な御計画によって、主イエス・キリストの流したもうた御血によって、教会は世界の和解の拠点とされています。
さて、最後に、古いイスラエルはどうなるのでしょうか。そこで、パウロは、言います。「彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。」彼らは、やがて必ず神に受け入れられるのです。それを、十字架の死による和解と対応させて、死者の中からの命、つまり復活になぞらえます。そして、キリストが復活されたことが事実であるように、最後には必ずイスラエルが救われることを強調するのです。
エゼキエル書第37章は読みませんでした。その前半には、有名な枯れた骨の幻が記されています。古戦場であった谷に、遺骨がごろごろ転がっていたのです。エゼキエルは、その場所に立って、エゼキエルは神に預言することを命じられます。説教です。御言葉を告げるのです。すると、その骨が生き返るのです。肉がつき、生き返るのです。しかし、それだけではまだ足らなかったのです。その肉がついて人間の肉体が復活した後に、彼らのなお御言葉を告げるのです。そのとき、彼らは、真実の人間として復活したという、幻です。人間では、決して想像することもできない奇跡の中の奇跡です。しかし、神は、そのような奇跡を起すことがおできになる。その方法は、神の言葉を告げること、イスラエルに、骨となってしまってもはやどうすることもできない者と見えてもなお、御言葉を告げるとき、死者の中からの命、復活が起こるのです。
このエゼキエルの幻も、先ほどの預言と同じように、成就するのです。すでに成就が始まったのです。それが、教会の存在です。そして教会は、枯れた骨から復活され、生き返った者たちの集いとなるのです。その教会がまた、枯れた骨に向かって神のことばを語る、そして、彼らが生き返るのです。
私どもは、今、伝道の秋を迎えます。それは、伝道新聞を発行し、それを配り、さまざまに人々を教会へ、神のみもとに導こうとする企てです。
教会は、罪人の集いです。問題があります。恥ずかしく、悲しいような課題もあります。しかし、麦の初穂は聖なるものです。教会の根、根源は聖なるものです。その初穂も、根源も、正真正銘のユダヤ人イエスさまがおられるのです。そのようにして古いイスラエルと、私どもとが結ばれて、一つの民とすでになっているし、これからいよいよなれるのです。そして、ついには、主イエス・キリストの再臨の日に、それは完成されます。
私どもは、あんな人、こんな人は救われるのか、こんなに信仰の弱い人間はどうなのか、あんなに信仰的にきちんと生きていない人間は、どうなるのかと考えてしまうこともないとは言えません。しかし、そこでしかし、神のご計画は貫かれることを信じていれば良いのです。異邦人である私どもは、謙虚に、神の救いの完成と勝利を信じるだけでよいのです。そして、信じることは、どういうことかと申しますと、何とかして、救いたいと励むことです。そしてそのような私どもの伝道を、神がお用いくださることを、それも信じるのです。使徒パウロは、異邦人のために全力を注いで伝道しました。そして異邦人が救われてゆきました。しかし、ユダヤ人の救いをどれほど見たでしょうか。おそらく、ほんのわずかであったと思います。むしろ、そこで、見たのは、彼らが徹底して、自分の伝道の邪魔をし、攻撃した姿でした。しかし、彼は、止めない。必ず、自分ではなく、神が、幾人かでも自分の存命中に救ってくださることを信じ、委ねたのです。そして、神のご計画と使命に基づいて、異邦人に福音を宣べ伝えたのです。私どもはいかがでしょうか。今、何をしているのでしょうか。わたしは、この箇所を読みながら、皆様お一人お一人の生活を思います。もしかすると今自分は、神さまとは、まったく関係ないと思えるような場所で生きていると葛藤の中にいる方もおられるかもしれません。しかし、そこで、神のご計画を信じるとき、なお、神の御業が進むことを信じてよいのです。勉強したり、仕事をしたり、子育てをしたり、家事をしたり、しかし、そこで私どもが、「幾人かでも救いたい」と祈り求めている限り、神のご計画を担うときを生きているとどうして信じないでいられるでしょうか。
私どもは、今週もまた、神のご計画のもとに導かれながら、進むのです。週報の牧会通信に後藤公子宣教師の文章を記しました。後藤先生は、インドネシア通信の最後の言葉として、こう記しておられます。「30年の海外奉仕を振り返り、まさに主はわたしの人生物語の著者である、と実感しています。」イスラエルの歴史、全人類の歴史、救いの物語はもとより、一人の人の歴史、その物語、つまり人生の著者もまた神なのです。神は、必ず、初めに選ばれたイスラエルを回復したもうのです。彼が罪を犯すことによって、異邦人が、あなたが救われることになったのです。なんという不思議な恵みでしょうか。そうであれば、あなたの人生もまた、神の救いの歴史をつくる、かけがえのないその一こまになるのは当然です。ですから、私どもは今、自分の持ち場で伝道すればよいのです。その場でキリスト者として、信仰によって生きればよいのです。そのときに、根が聖いので、その根につながっている働きは、実るのです。
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、異邦人の救いのために励むことが、イスラエルの救いにつながることを信じて、パウロが全力で異邦人伝道に励んだことを知っています。私どもは、目に見える成果に右往左往させられてしまいやすいのです。どうぞ、神の勝利を堅く信じ、私どもの人生もまた勝利することを信じて、歩み、励む者とならせてください。