過去の投稿2007年9月30日

9月30日

★  先週、後藤公子宣教師から、帰国とメールアドレス変更の電子メールを頂きました。まことに恥ずかしいことですが、すっかりご帰国の日程のことを忘れていました。いろいろてんてこ舞いの状況であったわけですが、情けない状況です。先生は、既に9月4日に、インドネシア、アレセイア神学校での尊いご奉仕を全うされ、ご実家の中津川に戻られました。今後のご奉仕については、未定とのことです。何よりも、しばらくはゆっくりしていただきたいと願う者です。そして、その後は、いよいよこれまでのご経験を生かして宣教の前線でご奉仕いただけるようにと願う者です。私どもの教会にも、いつか、できる限り早く、ご奉仕をいただければと考えます。

☆  先週から始まった講義で、「金城」の創設者として用いられた一人の女性教師(=宣教師、アニー・ランドルフ)のことを、言及しました。彼女は、医師であったご主人を黄熱病で失いました。結婚後三年ですから、まだ新婚です。自分も黄熱病に冒され、二人とも意識不明でしたが、彼女だけ、助かったのです。意識を取り戻して夫の死を告げられたとき、「半狂乱になった」と言われます。当たり前のことでしょう・・・。どれほど、愛しておられたか、です。しかし彼女は、立ち直ってから教師として生き始めます。そして、45歳のとき、 米国南長老教会伝道部から中国における女学校校長となるべく旅立ちます。今から140年も前の中国です。彼女は、15年間、働きます。しかし、60歳のとき、病を得、帰国を余儀なくされます。静養と療養のためにただ立ち寄るためだけに日本にやってきます。しかし、そこから、まるで、神の奇しき「企み」のように、 名古屋の地で、私塾を開くのです。8歳、12歳というたったの3名の女の子たちです。しかし、彼女は、  特に、この8歳の女の子のなかに、生涯をキリストに向かって奉仕する可能性を認め、この子のためにと、 教育を施すのです。わたしは、この一点だけでも、本当にすばらしいと思います。当時の、小さな女の子に教育を、キリスト教教育を施したい。そして、彼女を、主キリストに捧げたいという熱意、彼女がそうなるとの信仰の可能性を見たわけです。私どもの日曜学校もまた、まさに、彼女の「まなざし」や「志」を移植されたいと思います。日本滞在は、わずか3年。しかし、それを引き継ぐ女性宣教師たちが現れ、やがて、宣教団の経営する学校(ミッションスクール)となって行ったのです。

★  あわせて、セディー・リー・ワイドナー女性宣教師のことも覚えます。彼女は、アメリカ・ドイツ改革派教会から派遣され、宮城女学校(今日の宮城学院大学〔仙台〕)の校長になります。彼女の、学校行政の手腕によって、この学校の運営は、当時の厳しい文部省の監督にも関わらず、順調に進展しました。しかし、信仰の純粋を守ることが困難になり、校長を辞し、帰米します。しかし、この後は、私どもは、すでによく学んでいる通り、ミッションから独立し、個人で、新たにミッションを設立し、大垣に伝道を開始したのです。美濃ミッションです。あの戦前にキリストの主権を守る戦いに勝利できた教会は、このワイドナー女性宣教師に指導された小さな教会だけと言っても言いすぎではないほどでした。彼女は、戦争前夜、帰米の船上で、病死されました。

☆   「30年の海外奉仕を振り返り、まさに主はわたしの人生物語の著者である、と実感しています。著者は最初から結論を設定して物語を書いていきます。たとえ途中で読者をはらはらさせるような展開になったとしてもちゃんと結論に向けて物語を展開する術を心得ています。著者の頭のなかに混乱や混迷はありません。私自身は物語の主人公ですが、著者の考えや計画に従って、物語のなかで与えられた役割を果たした器に過ぎません。そのことを思い、最後に、ここまで導き、支え、祈り、守り、必要を満たし、祝福を備え、  励まし、奉仕を可能にし、用いてくださった私の主に一切の栄光を帰したいと思います。旅路を今日まで導いてくださった主はほむべきかな。」(最後の「インドネシアだより」より)

★   このような女性の働きを知れば知るほど、神は、小さな、弱い者、女性(と、記すことも逆に差別的な発言となるかもしれませんが・・・)を通して、大きな、力あるご自身の御業をあらわされることを思います。  期せずして、先週、配布された「大会議案書」のなかで、憲法第一委員会からの女性役員への答申を読みました。「女性役員を認めることは、我が教会の信仰規準の教理体系に抵触しない。」女性役員への道のりは、なお、険しいでしょう。先週も記しましたが、献身者を生み出せる教会の霊性こそが問われるからです。

☆   先週も、本当に暑かったですね。今夏の暑さは、異常でした。しかし、もう、何年も異常と言い続けています・・・。しかし、秋です。いよいよ、祈りを束にして、教会のディアコニア、伝道に仕えてまいりましょう。